6・2 わたしには、

 私には、二人のきょうだいがいた。


 上に一人。下に一人。私はちょうど真ん中だ。


 時々考える。今も二人が私の隣にいたとしたら、どんな話をしたのだろう。どんなきょうだいに、どんな家族になっていただろう。


 ずっとずっと遠くにいて絶対に会うことはできないのに、たまに想像してしまう。大人になった二人の姿を。私たち三人が笑い合う平凡な日常を。


 不意に二人が恋しくなって、泣きそうになる。何も知らなかったあの頃に戻れたら、どんなに幸せだろう。





「高倉さんって、一人っ子でしたよね?」


 社員食堂で日替わり定食を食べていると、目の前に座っている大屋さんが思い出したように言った。


「……どうしたの、急に」

「ちょっと聞いてくださいよ。妹と今ルームシェアしてるんですけどね、全然家事してくれないんですよ。どう思います?」

「それはよくないね」

「ですよね? 貸したお金返してくれないし。昔っから面倒な子で、困ってるんです。あーあ、一人っ子がよかったあ」


 大屋さんは手作りのお弁当を乱暴に頬張った。


 社会に出て数年。私にもいわゆる後輩というものができた。


 職業柄なのか、単なる私の人間性なのか、職場の雰囲気のせいなのかは分からないけれど、年齢関係なしに、こうして気兼ねなく相談や愚痴を吐き合える後輩ができた。とても喜ばしい。


 ただ、まだ知られていないこと、話していないことが多すぎる。


「実はね、私、一人っ子じゃないんだ」

「え、そうなんですか?」

「うん。確かに一人っ子ではあるんだけど……でも、きょうだいがいたの」


 弁当を食べる大屋さんの眼が困惑色に染まる。言葉に含みを持たせたせいだろうか。言い方が悪かっただろうか。箸を持つ手なんて、空中で停止したままだ。


「ごめんごめん。兄と弟みたいな、そんな存在がいたってだけ」


 安堵に変わる彼女の顔。反対に、私は絵に描いたような作り笑顔を浮かべていた。


「毎日のように一緒にいたんだ。ゲームしたり、虫取りしたり、水遊びしたり」

「へー。幼馴染ってやつですか。めちゃくちゃ羨ましいんですけど!」

「まあ、幼いなりにちょっと苦い思い出もあるんだけどね」

「そうなんですか?」

「私だけ別の家だし、女だったから。なんだか私だけ仲間外れみたいな感じがして嫌だったの。だから頑張って二人の中に飛び込もうって必死になってた。興味もない仮面ライダーを早起きして一緒に見たり、プレステやったり。意地張って、シルバニアとかぬいぐるみで遊ばないようしたり。本当のきょうだいじゃないことがコンプレックスで、どうにか同じになろうと、本当の家族になろうと必死だったんだと思う。みんなで出かけたとき、私も男風呂に入ろうとして両親を困らせたこともある。バカだよね、ほんと」


 まだ私たちの背丈が同じだった頃。同じような声のトーンで、同じような目線で、同じ世界を見ていた頃。


 どうしようもなく、私は意地になっていた。夕方まで隣にいた二人が、別の家に帰っていくのが許せなかった。毎日同じ家に帰って、同じ布団で寝られないのが嫌だった。男女でなにかと別行動を強いられるのが受け入れられなかった。


「それだけ、そのお二人が大好きだったんですね」


 大屋さんが噛み締めるように呟く。


 大好き。


 単純明快なその言葉で、飲み込みかけたご飯が喉に詰まったのを感じた。


「……そうだね。大好きだった。二人がいなかったらどんな人生になっていたのか想像できないぐらい、私のすべてだった」


 すべてだったのに。今は二人と連絡すらとっていない。


 最後に三人で会ったのはいつだっけ。三人で遊んだのは? 三人でゲームしたのは? また明日ねって約束し合ったのは?


 子どもの頃、簡単できていたことを、今はなに一つできない。

 私が壊してしまったから。誰にも邪魔されなかった聖域を、私が終わらせてしまった。


「そのお二人は、今どこにいるんですか」


 純粋な目が問いかける。私が出せる答えなど、ありはしなかった。










 私の子どもの頃の夢は、きょうだいを持つことだった。


 毎日おはようってあいさつして、同じご飯を食べて、喧嘩して仲直りして、同じ部屋で眠りにつく、そんな日々に憧れていた。


「ねえ、どうしてわたしにはきょうだいがいないの?」


 ずっとずっと小さかった私。ある日、何気なく尋ねた言葉。


 困ったように笑っていたお母さんやお父さんの胸の内を、幼すぎた私は全く理解できていなかった。


「わたしもきょうだいがほしい。どうしていないの? わたしも、みんなみたいに弟とか妹がほしいよ」


 子どもは見るもの、耳にするものすべてを吸収し知識を得ていく。それは私も同様で。公園に来る近所の子どもたちやテレビや絵本から「きょうだい」というものを知ってから、私は残酷にも、ペットやぬいぐるみのようにねだってしまった。毎日、毎日。両親に。


 お願いだからきょうだいがほしい。連れてきてよ。会いたいよ。


 純粋無垢なこの言葉がどれだけ両親を傷つけてきただろう。この言葉がどんな重みを持っていたのか。両親の顔を曇らせてきたのか。今なら容易に想像できるのに。



「夏果には、本当はきょうだいがいたのよ。お兄ちゃんと、夏果の下にもう一人」


 いつだっただろう。重い口を開けて、お母さんが真実を話してくれたのは。


「じゃあどうしてここにいないの? お兄ちゃんたちはどこにいるの?」

「お兄ちゃんはね、お腹の中にいた時間がみんなより短くて、すっごくちっちゃく産まれてきたの。お兄ちゃんは頑張ってくれたんだけどね、身体が小さすぎて遠くに行ってしまったの」


 母の目は潤んでいた。


「夏が生まれてからすぐにね、もう一人このお腹の中に来てくれたの。嬉しかった。すくすく育っていくのを感じるのが幸せだった。でもね、お腹の中が気持ちよくて眠くなっちゃったのかな。起きてくれなかったの。お医者さんが起こそうとしてくれたんだけどね、ダメだった。ずっと寝たままになっちゃったの。もう起きないって言われた。男の子か女の子か分かる前に、その子も遠くに行っちゃった」


 私の夢は、きょうだいを持つことだった。


 私には、きょうだいがいた。お兄ちゃんと、弟か妹か分からない子。私は真ん中だった。


 幼いながら、母が何を言わんとしているのか、なんとなく察知できた。

 正確に理解できなくても、漠然と、ただ「二人はここにはいないんだ」ということは分かった。


「お兄ちゃんたちは、遠くにいるんでしょ」

「そうよ」

「じゃあ、どこに行けば会える?」


 この疑問は、母を大層困らせたことだろう。けれど、濁りのない幼い娘に、母は応えてくれたのだ。


「そうね。夏果がいい子にして待っていれば、いつか会えるかもしれないね」


 母は笑顔だった。


 私の夢は、きょうだいに会うことに変わった。


 いつ会えるかな。どこにいるのかな。ごはん残さず食べたら来てくれるかな。早く寝ればいいのかな。


 会えますように。会いたい。会えるかな。会えるよね。会いに来てよ。会えないのかな。会えるといいな。


 毎日心躍らせながら、時々不安になりながら、広い部屋で一人眠る夜が続いた。それから少し経ったころ。忘れもしない瞬間が訪れた。


 1996年の春。

 

 私の住んでいる家のすぐ隣。優しいおばあちゃんが一人で住んでいた大きな家に、男の子が引っ越してきた。しかも、二人。


 私より年上の男の子と、私より年下の男の子。兄弟だった。


 すぐに分かった。


 私のきょうだいが帰ってきたんだ。私のお兄ちゃんと、私の弟が、会いに来てくれたんだ。私がいい子にしてたから、祈りが届いたんだ。



「……ずっと、まってたんだよ!」


 




 会いたいと日々願っていたはずなのに。せっかく手に入れた存在だったのに。


 二人は、あの二人のように手の届かない遥か遠くに行ってしまって。


 でも子どもでなくなってしまった私は、もう何も祈ったりしない。探したいとも思わないし、会いに来てくれないかと期待することもない。


 それでも今でも二人のことを考える。眠るとき、不意に二人が恋しくなって、泣きそうになる。




 私の夢は、二人にもう一度会うことだ。


















――2007年8月26日 花火大会後日――


『もしもし夏果? 昨日は本当ごめんね』


「大丈夫よ。舞こそ、先輩とうまくいった?」


『おかげさまで。でも本当、悪かったなって思ってるよ。夏果も大変だったでしょ』


「大丈夫だってば。メールしたでしょ? 幼馴染と合流したって」


『そうだね。そうだったね。でもよく会えたよね。あんなに人いっぱいいたのに。すごいよね』


「まあね。なんかすごく走ったみたい。会った時、すっごく汗だくで息切らせてたし」


『……ねえ夏果。その、彼とはどうなの?』


「彼? なんのこと?」


『とぼけないでよ』


「だから何の話?」


『……え、夏果、もしかして自覚ないの?』


「だからなんの?」


『その、幼馴染の彼! わざわざ花火大会の時、走って来てくれたんでしょ! なんか進展ないの?』


「進展? どういうこと?」


『好きなんでしょ? 彼のこと』


「……はあ!? 何言ってんの? あいつらは幼馴染っていうか……家族というかきょうだいみたいなもんだし、ぜんっぜんそんなんじゃないから!」


『またまたあ。あんたいっつも彼の話してくるじゃん。ほんとは大好きなくせに』


「だから違うってば!……てかその幼馴染って、どっちのこと?」


『へ? どっちって?』


「だから私の幼馴染は二人でしょ? あんたさっきからどっちのこと言ってんの?」


『どっちって、そんなの決まってるでしょ! ほんとに自覚ないわけ!? 鈍すぎて引くんだけど』


「は、はあ!?」


『だって夏果、いつもその人のこと話してるじゃない。目をキラキラさせながら楽しそうに。いかにも恋する乙女って感じ』


「意味わかんないんだけど! あいつらとはぜっぜんそんなんじゃないから!」


『いやあ、絶対そうだって! 好きなんでしょー彼のこと!』


「好きじゃない! てか、どっちのことなの?」


『ええー、ここまで言って自覚なし? ほんとにヤバいねあんた』


「だ、か、ら! どっちのことよ!」


『……はあ、気付かないもんかね。そりゃあ……』

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僕らがそれに気付くのはいつもずっと先のことで 綺瀬圭 @and_kei

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