第6章 あれから、おかわりは
6・1 新時代へ
――2017年8月――
昼休憩が終わりデスクに戻ると、田中さんはすでに書類作成をしていた。綺麗に描かれた眉が険しく寄っている。朝は鮮やかだった唇も、昼食後のせいか色を失っていた。
しかし食べ終わったらすぐにデスクに戻るなんて、どんだけ飼い慣らされているんだか。
俺がゆっくりと自分の席に座ると、田中さんが嫌味っぽく「ぎりぎりだなあ」と言った。俺が「遅刻ではないでしょ」と言い返すと、「何事も余裕を持つことが大事だよ」とパソコンを睨みながら、殴るような勢いでキーボードを叩いた。
「そういえば、夕方から雨降るらしいよ」
「え、マジで?」
「うん。こっちまで降るかわからんけど、博多降るらしいから多分こっちもでしょ」
「最悪だ。傘持ってきてないのに」
「杉山くん車じゃないの?」
「営業の関係で今日はバスなんだよ。あー、またビニール傘が増えてしまう……」
時刻が休憩の終了を告げる。背伸びをすると、俺も午前中に部長から頼まれた資料作成を始めることにした。
福岡に来てもう二年半。営業の仕事も板についてきた。
いつまで福岡にいるのか、もしかしたら一生福岡のままなのかもしれないという不安を抱いたまま。
人生初の一人暮らしはまさにサバイバル。
自分で自分の飯を作り、ごみ出しの曜日を覚え、カビだらけの浴室やシンクを休日に洗う。
毎月の光熱費に頭を抱える。
学生時代簡単にできた貯金が、社会人になってから不思議とできない。
今まで散々家事をサボり、親の
定年までまだまだ長いのに、もう疲れ切っている。朝、家を出る瞬間から帰りたいと願っている。部長の顔を思い出すだけで胃が痛む。営業先からのメールを開くのが億劫になる。
こんな日々があと四十年近く続くなんて絶望でしかない。しかも俺と同じような人生を歩んでいる人が日本国民の大半を占めているだなんて、これが当たり前の人生なんて、地底に沈んでいくような気分になる。
「杉山くんさあ」
「ん?」
頼むから「今日定時に帰るからあとはよろしく」とか言わないでくれよ。田中さんが投げてきたのは、そんな俺の願いとは大きく外れた言葉だった。
「彼女っていないよね?」
急すぎて手が止まった。田中さんは俺の動揺と裏腹に、至って普通の質問をしています、とでも言いたげなとぼけた顔をしていた。
どういう意味だ? てか仕事中にする話か?
田中さんは同期入社であるものの、異性ということもあってか、そういった話をあまりしてこなかった。いい感じにお互い無関心で、業務連絡以外特に情報交換することがなかった。そのはずだったのに。
「な、なんで?」
思わず身構える。俺があまりにも怯えていたせいだろうか。田中さんは笑いながら「怖い顔しないでよ」と言った。
「経理の宮本さんに頼まれたの。杉山くんに恋人いるのか聞いといてーって」
「は? どういうこと?」
拍子抜けしていると、田中さんは面倒臭そうに溜息を吐いた。
「杉山くん、自覚してるのかしてないのか知らないけど、結構女性社員の中で人気あんのよ。こっちはいろんな子から仲を取り持ってくれって頼まれてんの」
「え、ええ?」
「でも私も人ですから? 嫌いな子とか、あんまりいい評判を聞かない子から頼まれても協力なんかしたいと思わないわけよ。今までその子たちを適当に無視してたの」
「は、はぁ」
「でもさ、この子なら杉山くんに紹介したいなって思える子がようやく一人できたんだよね」
「へ?」
「この前、久々に大学時代の親友と会ってね。話の流れで会社の飲み会の写真を見せたら、杉山くんのことが気になるって言いだしたの。ぜひ紹介してって。その子、長いことフリーだし、めちゃくちゃいい子ではあるから紹介してもいいなーって。てゆうか二人お似合いだと思う。すんごい優しくて明るくて気配りもできるいい子よ。実家が割烹やってるみたいで料理上手なの。どう? 彼女いないなら一回会ってみない?」
目を輝かせている田中さんを、久々に見た気がする。まるで俺がイエスとしか言わないと決め込んでいるようだ。
迷ったのは一瞬。結論は出ていた。ただ、言葉に出すのが遅れただけ。
「おい杉山ぁ! 資料まだかあ!」
遠くのデスクから、部長が俺を睨んでいた。田中さんがさっと俺から離れる。
「は、はい、只今!」
大急ぎで資料をまとめ、部長に提出した。ひと段落着きたいものだが、仕事は次から次に舞い込む。素早くデスクに戻らなければ。『仕事をしています感』を上司にアピールするのも重要項目の一つだ。
先ほどまでパソコンと対話していた田中さんは、いつの間にか電話をしていた。必死にメモを取っている。
「はい、承知いたしました。では鈴木に申し伝えておきます」と、スムーズな電話対応。田中さんは俺が着席したのと同時に受話器を置くと、メモを書き始めた。忘れないうちに内容をまとめているのだろう。
田中さんの忙しない手が止まるのを確認してから、俺は隣に身を乗り出した。
「あの、さっきの話だけどさ」
「んー?」
「遠慮しとく」
メモを凝視していた田中さんが、パッと顔を上げた。多少なりとも驚いているようだ。
「……そう? まあ、もし気が変わったらいつでも言ってね」
「変わらないと思うけど」
「分かんないでしょ。急に恋愛がしたくなることだってあるかもしれないし」
「なんだそりゃ」
営業先へのメール送信作業。作成しておいたテンプレート内容を確認する。よし、誤字脱字はない。あとは日付の入力だけだ。打ち込む数字を目にした時、思わず声が出た。
「2017年、か……」
なあ、10年前の俺。聞こえるか。問いかけてしまいたくなる。
2007年っていったら、俺はまだ中学生か。確か、ケータイを持つのが夢だった。あいつらが持ってるのに、俺だけ持ってなくて、ちょっと羨ましかった。今じゃガラケーを持ってるやつなんて、ほとんどいないのに。
若いなりにほんの少しぐらいは、将来のことを考えてた。あの頃、大人なんて遠い未来のような気がしていたけど、意外とあっという間にやってきてしまったよ。
一ミリも想像してなかった未来に立っている。ずっとずっと変わらないものだと思っていたものは、いとも簡単に消え去った。きっと大人になっても存在すると思い込んでいたものは、今どこにも残っていない。もう俺たちが最強だった時代は終わった。
思えばあの伝説的番組、『笑っていいとも!』が終わってしまったその時から、カウントダウンは始まっていたのかもしれない。
2016年8月8日。
テレビは、どの局も同じ映像を流した。ネットニュースも大騒ぎで、日本中がその知らせに釘付けになっていた。まるで玉音放送でも聞いたかのように。
日本と平成の象徴であったその人が、カメラに向かって淡々と原稿を読み上げていた。それは、俺たちが生まれ、俺たちが生き、俺たちの人生のすべてが眠っていた歴史の終焉の知らせだった。
天皇の生前退位。
前代未聞の事態に日本中が困惑した。同時に、近い未来に訪れることが唐突に確定した新たな時代の幕開けに、心躍らせた。
それからたった6日後のことだった。14日午前1時。「SMAP解散」の文字が、大々的に報道されたのは。
平成を代表する国民的アイドルの解散。誰もが知る名曲の数々を生み出した彼らの知らせは、ファンでなくても全国民が衝撃を受けただろう。
天皇が平成という時代の終了を告げた直後に解散が知らされるなんて、どんな偶然だ。
次々と終了が知らされる、誰もが見てきただろうバラエティ番組たち。彼らがいかに日本のテレビを支えてきたのか、平成の最前線を走り続けていたのかを如実に表していた。
本当に俺たちの青春は終わるんだ。あの日々に、別れを告げなければならない。一つの時代の幕が閉じる。
知らせを聞いて俺の脳裏に過った、ただ一人の存在。
もうずっと会っていないというのに、嫌でも思い出す。俺の細胞に刻むように毎日見聞きしてきたあいつの顔、声。あいつのことなんて、脳内で簡単に映像化できる。
きっとあいつは、俺の脳内とまるで違った姿をしている。そのはずだ。
♢
誰もいない喫煙所。
時計の秒針を睨みながら、俺は指先へと迫りくる火の粉と奮闘していた。さすがにもうこれ以上は無理か。そう思った時、左手に持っていたスマートフォンが静かに震えた。
「え、もしもし、母さん? どうしたの? まだ仕事中なんだけど。米ならまだ足りてるから送らなくていいよ」
まだ定時の時間でもないのに、電話をしてくるだなんて珍しい。多少驚きながらも、俺はスマホを耳に当てていた。
『もしもし勇人? あの、仕事って今忙しい? お休み取れたりしない?』
「なに、どういうこと?」
チッ、チッ、チッ。
急ぐように進み続ける針。ふと見上げた一瞬だけ、その動きが鈍くなったように見えた。
『おばあちゃんが救急車で運ばれたの。詳しいことはまだ分かってないんだけど……こっちに帰ってこれたりする?』
思い出したのは、埃の匂いだった。
三人で死ぬほど遊び倒し、俺の幼少期の基礎を形成したあの空間。土と熱気の混ざった昼下がりの夏。iPodを聞いて歩いた田んぼ道。
こんなタイミングで、こんな時に急に引き戻されるとは思わなかった。
俺の身体は全て覚えていたのだ。
あの部屋の奥底に眠っているゲームたちのように埃が被っていた記憶たちが、息を吹き返すのを感じた。
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