第4話 もしかして、可哀想

 敏子の家の布団は綿が入っているから、厚く重たいのであるが。その膨らみをめくると家の主があられもない姿で寝こけている。


 その体に散らばった痕は、漂白剤で消せないか、いや除光液ならどうだ、皮膚に悪いか。ということでそこらに転がっていた黒いペンで塗ってはみたはいいが、肌色の中で異様に目立つ。ああ、どうしよう朝日が眩しい。



* * *



「……酷い目に逢った」


 恨めしそうに見上げて来るのは敏子だ。今度はキチンとパジャマを着て、ダイニングテーブルの椅子の上で膝を抱えている。弘は表情も変えずに、「ごめん」とだけ言って新聞に再び目を落とす。


 自分は楽なTシャツとハーフパンツ姿だ。敏子のを借りたのだが少しばかり大きくて凹んだ。椅子の上にだらしなくあぐらを組む。


 時刻は間もなく昼に近づいていた。結局、どうにか隠蔽することを断念して寝こけた結果、今に至る。


「悪かったって」

「お風呂でめっちゃ擦らないと落ちなかった」

「しつこいな」

「弘の馬鹿」

「敏子の阿呆」

「ちょ。私、何にも悪くないんですけどー」

「あほ」


 カーっと敏子が沸騰する音が聞こえるようだ。バラリと新聞を震わせてページをめくる。


「大体にして誘ったのはお前だし」

「そうだけど……」

「本命じゃないくせに」

「ごめんなさい」


 なんだよ……。そこをはっきりと謝罪されては、こちらも切ないのだけれど。先程の勢いはどこへやら、敏子は蚊の鳴くような声で俯いた。


 弘はヤケクソのように新聞を折り畳んだ。先程から逃げている事情と向き合わなければなるまいて。


「敏子はさ、和佐が好きなの」

「好き」


 前よりもはっきりとしてきている意思に、ため息をつく。度重なる失恋に、弘の心は折れそうだったが、何とか言葉を繋いだ。


「じゃぁ、何で俺とあんナコトすんだよ」


 抵抗らしいていこうだってなかった。


「弘は嫌だったの」


 いやそういうことじゃなくって。むしろそういう観点で言ったら自分は得ばっかりだ。好きな子を良いようにして、何て負担のない。加えてのこの恋情。


「俺のこと哀れんでる?」


 思い切ってそう言うと(自分でも些か傷ついた)、敏子がぐっと詰まった。そしてふるりと俯いた。


「あの人は、私を見てくれない」


 やっと出て来た言葉も、自分とのことではなくて、和佐とのことだ。……何だそれ。


「お前だって、俺のこと見てくれてないだろ」


 言ったあとで「しまった」、と心の中で舌打ちした。これでは単なるみっともない焼き餅やきの間男ではないか。言葉は震えた、今度こそは自分からはっきりと言わなくては。敏子は少し驚いたようにこちらを見ている。


「俺はな、お前が……」


 その刹那。妙に間が悪く『ピンポーン』っとチャイムが鳴った。


「……」


 敏子が席を急いで立って、弘の言葉から逃げるように玄関へと向かう。弘はそれを追うこともできなかった。「わ」と短い驚きの声と一緒に、パタパタと細かい足音が戻って来る。


「あ」


 弘にも、足音には聞き覚えがあったのだ。弘も思わず少し腰を浮かした。開けると同時にズカズカと上がり込んで来たようだ。


「弘、いい子にしてたか」


 ああ、頭が痛過ぎる。


「……和佐、どうしたの」


 迎え入れた敏子より先に、声を発したのは弘だった。


「ん、遥華の所へ顔出しに行ったら、弘がここに来てるって聞いた」

「それで」

「迎えに来たよ」


 こともなげにそう言って、弘の目の前にドサドサと食材の入った荷物を降ろした。「どっちを?」って思ってしまって、平静を装ったつもりができていなかったのか、和佐が首を捻った。


「……あー、はーは、お前ら」

「な、なんだよ」

「成る程、なるほどね」

「……何」

「なんでもない」


 そう言うと、兄はじっとりと美しく笑んだ。今日は眼鏡をしていない。美しい顔が剥き出しで、そこにゴムに留めきれなかった前髪が一房落ちて、兄は甘ったるく笑った。


「もうひるだから、昼食だけ作って食ってく。敏子」


 そして振り返って、追って入って来た敏子の顔を見つめて呼んだ。こちらからは和佐の顔は見えない。しかし敏子の表情は良く見えた。和佐の呼びかけは至極優しかったのに、敏子の目はうるりと緩んだ。眉を下げて、怒られた子供みたいな声で返事した。


「うん、和佐」


 それは大昔、二人がまだ小さかったころに。和佐に怒られて涙目になっていた彼女の姿を思い起こさせた。そういうとき己はどうしていたか、弘は思い出せなかった。そんな敏子の様子とは正反対に、和佐は至って普通の調子で言葉を続けた。


「俺は買い出しで疲れた、飯は作ってやるから茶くらい出せや」


 その言葉に思わず敏子と弘は、ハッとしたように目を合わせた。


「し、仕方ないな」


 文句を言いながらも、この場を離れられることに安堵して早足に敏子はキッチンへと駆けて行った。兄弟二人が残される。弘はガッシャンごっしゃんと激しい音がするキッチンの入口へ、目線を逃がしていた。すると、兄がこちらへ視線を注ぐ気配がする。


「……気づかないとでも思ったか。舐められたもんだな」

「もー……何でこういうことするかなぁ」

「お前の気がひきたくてやってる、って言ったらどうする」

「嘘だって分かってるから軽蔑する」

「ま、大嘘だわな」


 呟くようにして聞こえた言葉に、思わず先程の敏子に呆れてしまった。何が『あの人は私を見てくれない』だ。見事に両想いではないか……。


「俺『これ』もしかして、可哀想じゃないですか」

「何言ってんだよ」


 確かに今更だ。和佐は少しだけ笑うと、聞いてはいられないほど騒音を出しているキッチンへゆるりと向かった。残された弘は、勝てる気がしないことに低く呻いた。和佐は一人ダイニングテーブルに腰を掛けて、弟をじっくり眺めているようだった。



<了>

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恋に落ちるのは、重力のせいじゃない 森林公園 @kimizono_moribayashi

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