第3話 恋に落ちるのは、重力のせいじゃない

「好きな人がいる」


 もう春なのに未だにしまわれない炬燵の台に、顔をべちゃりとつけて弘が呟いた。硝子が顔の上で斜めに曲がる。


「あら、それは大変。ということで私は餅米を買って来るわね」


 まるでいつぞやの中森明菜のようなオカッパヘアの従姉妹の勢いに……「ウェイト、ウェイト」

と言って止まらせた。


「そのすぐ餅米を炊きたがる癖は治らないの、しかも赤い奴を」

「善処するね」


 そう言って従姉妹の香坂こうさか遥華はるかは「よっこいせー」と炬燵に戻って来た。庭には菜の花が咲き乱れて、モンシロチョウが飛び交っている。甘ったるい昼下がりであった。


 遥華は一人っ子で、叔父叔母が年取ってからやっとできた娘だった。弘たちの家系の本家であり、広い日本庭園がある古い日本家屋に住んでいる。


「で、どうなの」

「遥華さんが期待するような状況ではないです」

「そうなの……」


 『つまらない』と額に書いてある。


「えー……もぅ、えー……」

「なんですかそれ」

「非難の態度ですぅ、男でしょう、ガツガツ行きなよ~」

「男とか女とか関係ないでしょう、そういうの。そうもいかない……」

「どうして」

「だって相手が、敏子だから」


 じょぼじょぼじょぼじょぼ。湯のみから的が外れた緑茶が、机の上を浸して行くのを弘はぼんやりと見つめていた。遥華は敏子と和佐のことをきっと知っているのだ。「貴女の望む通り、面白い展開になったでしょ」とも言えず、弘は首を外側にガクリと垂れた。


 あーあ。



* * *



「弘さ、遥華に変なこと吹き込まないでよ」


 そよそよと風が吹くマンションのベランダ。数日後顔を出してやったら、脱衣所がお洒落着の山となっていたので朝から強行洗濯日和だ(人の家だけれども)。ランニングにホットパンツだけの姿になった敏子は、恨めしそうに呟いた。剥き出しの脚はある意味目に毒だった。


「……何て言ってた」

「『弘君に優しくしないと駄目だよ。あ。そうそう、今度の休みには二人揃って私の家に来なさいね』」


 丁寧に遥華の物真似をしながら伝えてくれる。その間に、「ふこふこだー」と敏子は聞いちゃいないのか、干したての布団にダイブしている。ぶかぶかのランニングにムラッと狼が顔を出しかけたが、目を逸らすことでどうにかこうにか凌いだ。


 日差しが暑くてクラクラする。それは日差しのせいだけかは、弘にとっては怪しいところだけれど。敏子はわきわきと布団を室内の日陰に置くと、そこで昼寝することに決め込んだのか、うつ伏せで埋まった。


 弘は、客人に洗濯させてほったらかしての態度に、些か不満に思って近寄る。


「敏子」

「んー」

「寝るの」


 ギシリと、布団に押し付けられたフローリングが軋んだ。


「うん」

「そう」


 有無を言わさぬ断言を真上から見下ろした。自分の影がより深く日向のような彼女の上にのしかかってしまって、慌てて退けようと思ったが思いとどまった。ギシリとそのまま上から覆い被さる。両腕の肘を彼女の脇についた。


「……寝るの」


 今度は自分でも熱がこもったような低い声が出た。みっともないけれど切羽詰まっていたのは確かだ。敏子の首筋が少しだけ震えた。


「寝るよ……お前邪魔」


 途端にさっきまでの上機嫌な声とは別の不機嫌な声が出た。恐らくこちらの気配が『幼なじみ』から『自分に恋する存在』に変わったのが分かったのだろう。こういうところは中々鋭いなぁ、口惜しい。とは思ったが声に出さず、首のうしろを眺めた。


 徐々に恥じて赤くなるそこには、前確認したような痕は見当たらない。二人はどうやら正式につきあっているわけではないのだ。知りうる限り、あれから二人きりでは会っていないようであった。ほっと胸を撫で下ろす。きっと、この子は傷ついたりなんかしていないはずだ。


 わざとぞんざいな動作で首を上から押さえた。


「ぐえっ」


と敏子が呻く。


「痕、消えたな」


 指で伝うと身震いされた。風が吹いて内側のレースのカーテンを巻き上げる。敏子は「うん」とまた少し頷く。


「それは……」


 敏子が横を向いて、剥き出しの首が黒髪と布団の合間に隠れた。琥珀色の瞳はまだこちらを見ない(彼女の母親はイギリス人のハーフだった)。


「和佐に文句言ったら、次はもう噛まないって」


 瞬間見上げられて、その瞳が媚びるように潤んで見えてしまった。てっきり終わったと思っていた関係への嫉妬と、その瞳にやられた。しまったと思ったけれどもう遅くって、顔は……唇は重力のように彼女に落ちた。


「あ……」


 離れて、謝ろうと咄嗟に思った。だけど間を繋ぐ透明な糸を見つめて思わず唇を自分の手で覆った。自分の方が経験の浅い生娘のような態度をとってしまう。敏子はそれをぱちくりと純粋に見上げて、ゆっくりと体を仰向けに起こした。


「ねぇ弘」

「……なに」

「弘は、私のことが好きなの」


 怒鳴られると思った、泣かれるかとも思った。けれどもそれのどれでもなかった。まるで今日の夕飯の内容を聞く気軽さで、その言葉は投げかけられた。ドクドクと鼓動が耳を侵略して返事ができない弘を、敏子は右腕を伸ばしてぐっと引き寄せた。それはまるで焦れたような動作だった。


 だからもうそのままにして重力に身を任せた。

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