第2話 だいじょばない

 弘がガラガラと石畳を引きずるのは、派手過ぎる二つのスーツケースだ。オレンジ色の方は敏子の物で、青い色のは弘の物だ。それというのも、このオレンジの持ち主が購入する際に、カラーパタン三色を全て購入したからだ。和佐には赤、そして弘には青を押しつけた。


 青と言っても目が覚めるような艶やかな色合いのあお(スカイブルー)で、外で持ち歩くには些か抵抗があった。今日はこれに郵送した東京土産を詰め込んで来た。使用していることを、彼女に知らしめたかった。普段は派手過ぎて実家に置きっ放しである。


 和佐もそう思ったのであろう、兄がこれを持って外出しているのを見たことがない。敏子だけは、帰郷の時は意地のようにこのオレンジを引きずって現れた。今考えると、彼女はきっと同じ物を三人で持ちたかったのだ。まるで本当の兄妹のように。


 敏子の両親が住んでいるのは七階建てのタワーマンションだ。弘はマンションをエレベーターで登ると、呼び鈴を鳴らした。『ブー』という音のあと、暫くして慌てて玄関に向かう足音と、「あだっ」「イテッ」という短い叫び声とともに。けたたましい音を立てて扉が開いた。


「はいはい、だぁれ~……って弘か」

「『だぁれ~』じゃないし、ちゃんと誰か確認してから開けろし、危ない」

「『おかえり』、じゃなかった『イラッシャイ』。今ね、父さんたち旅行に出掛けてんの」

「マジか、お前帰ってんのに?」

「ネットで何か当たっちゃったんだって、勿体ないから」

「確かに」


 敏子は足を片方くの字に曲げて、腹をぼりぼり掻きながら疲れたように笑った。黒髪のボブカットで首がより長く見える。弘も持っている量販店のアメコミヒーローがプリントされたTシャツを着ている。


 それも確か県外で買ったものだったはずだ。そんな小さな一致に、正直運命などを感じていた自分に、弘はがっかりしていた。呆れたようにため息をついて、「取りあえず中に入れろ」と短めに言った。


 敏子は白いそのTシャツに、スウェットを膝下までぐしゅぐしゅとめくって(でも片方だけ)履くというラフな格好だった。頭は寝癖だらけで、大きな目の下には泣き腫らしたような隈がある。


「……てか、俺が帰って来るまで兄貴の所にいるのかと思った」

「私もそのつもりだったんだけど……」

「これ忘れ物だし」


 ずいっとオレンジのスーツケースを玄関に入れる。それと一緒にまだ暖かい紙包みを押し付けた。敏子は不思議そうに首を傾げながらも、弘が押しつけたので素直にそれを受け取った。揚げ物のような、腹を刺激する匂いが立ち上る。


「何なの、コレ」

「二段重ねのチーズバーガー」

「二段重ねのチーズバーガー、乙女にチーズバーガー」

「文句言うならあげない」

「わぁい、チーズバーガー大好きー」


 慌てて紙袋を奪い返して、あ、と声を漏らす。


「弘……スーツケース使ってくれてるの」


 青い色に気づいて、敏子ははにかんだ。弘もわずかに嬉しくなったが、敏子の憔悴した様子を見つめて、何とも言えない気持ちになった。


「冷めないうちに食べよう。俺、敏子が前煎れてくれたお茶が飲みたい」

「何言ってんの、チーズバーガーにはコーラっしょ」

「変なこだわり変わらないな、お前の分はちゃんとコーラだし」

「分かった、で何飲みたいの。スンニュンおこげ茶はできないよ。今ご飯炊いてないから」


 敏子は美容オタクで、韓国文化に嵌っている。前逢った時も、韓国のお茶をそれはもう色々な種類馳走になった。


「またマニアックな……あの柚子のやつでいいよ」

「結局甘いの飲むんじゃん」

「コーラ飲む奴に言われたくない」


 敏子は笑いながら、包みを持って奥に引っ込んでいく。弘も靴を脱いで彼女のあとに続いた。ここへも、何度も来たことがある。洗面所を勝手に拝借して手を洗った。台所へ顔を出すと、敏子は柚子と砂糖と蜂蜜を混ぜたペースト状の物に湯を注いでいた。


「いただきます」


 ソファに座って、もぐもぐと満足そうに二段重ねのチーズバーガーを頬張る敏子を横目に、「で、大丈夫なのか」とやっとのことで先日のことについて聞けた。


 敏子は答えずに、二口三口と、ぱくりぱくりバーガーにかぶりつく。ごっくりと飲み下すと、急に「うぅ~っ」と呻いて大粒の涙を流し始めた。ボロボロと雫を落としても、弘は特に何もせず見つめるしかできない。


「だ、だいじょうぶなわけない」


 わんわんと泣きながら、それでもバクバクと食べるのをやめない。遂に食べ尽くすと、後はただ泣くだけになった。


「もぅ……っ、か、和佐とは前みたいにもっもど……れないの、かな」


 弘は聞きながら、もくもくと自分も二段重ねのチーズバーガーを食べた。ちょっとしょっぱい気がした。


「……敏子は兄貴が好きなのか」

「わ、からっ……ない」

「じゃあ、嫌だったか」

「いやじゃなかった」


 不意にしゃっくりあげる動きを止めて、敏子はきっぱりと返事した。嫌に静かな声だった。瞬きすると、大粒の涙が静かに落ちる。グサリと弘の心が痛んだ。


 もし。手を出したのが弘だったら、これから手を出すのが弘ならば。君は嫌だったのかな、それとも。言葉にはできなかった。歯がゆい気持ちで、「大丈夫だよ」と告げると、また堰を切ったように泣き出す。


 よしよしと髪の毛を撫でつけていると、顔を下に向けているものだから後の首元がするりと全部見えた。そこに思いきりの良い兄の歯形を見つけてしまって、弘は血の気がざぁっと引いた。


「流石の俺にも許容範囲ってのがあってだな……」


 畜生、泣きたいのはこっちの方だ。

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