恋に落ちるのは、重力のせいじゃない

森林公園

第1話 ただ、沈黙した

 何となくまだ帰らないでいるだろうか、という淡い気持ちが。香坂こうさかひろの足を急かす。知らず競歩のようになりながら、汗ばんだころにようやく実家の前に辿り着いた。真夜中、東京を出発したが、もう朝である(鳥が鳴いている)。


 実家は、葉の多い果樹に潰されそうになりながら立っている。門の内側、無花果の生い茂る枝の間に、古びた硝子の玄関がわずかに見えた。はぁ、は……と息を整えると、横開きの玄関の戸に手をかけると、カラカラとそれを開けた。


 バスに乗る何時間か前に、兄からLINEで敏子としこが家に来ているというのを聞いた。『敏子』というのは『柴崎しばさき敏子としこ』という弘と幼なじみの少女だ。弘とその兄と、まるで兄妹のようにして育った。昔は真向かいの家に住んでいた。


 彼女が自立すると同時期ぐらいに生家は取り壊され、敏子の両親はマンションに移り住んだ。敏子は県外の大学に進んだ。農業に興味があるとかで、滅多にこの街に戻って来ることはない。東京の美大に進んだ弘もまた同じで、今日帰るのも半年ぶりぐらいである。


 帰って来ると敏子は必ず弘の生家に顔を出した。『何の連絡もなしにいきなり来て、アイツ居座ってんだけど』弘の兄である和佐かずさからのメッセージは簡素であった。兄はあまり敏子に興味がない。敏子と弘は同い年だが、和佐だけ二つばかり年上だった。


 そのそのあと、移動中だった弘に配慮してなのか、兄からのLINEはピタリと止んでいた。敏子が実家の方へ帰ってしまったのなら、何かしらアクションがあっても良いはずだ。彼女は幼馴染の家に泊まったのでかも知れない。


 バタバタと砂っぽい道から逃げるように、ようやく実家の門の中へ入る。時刻は十時過ぎ。今日は休日だが、もしかしたら兄は仕事に出掛けているかもしれない。兄の和佐は小さな硝子の工房で見習いをしている。先輩職人の腕を間近で盗みながら仕事をこなしているそうだ。


 幼いころからプラモデルなどを夢中で作っていた兄にとって、硝子職人という職業はとても性に合っているように思える。東京で気まぐれに買った硝子の箸置きが、兄の師匠のものだったのは運命なのかもしれない。弟の方は今、美大に通っている。


 和佐と弘の両親は、兄がまだ大学生のころに事故で亡くなった。二人は親戚の支援を受けて何とか成人し、弘は今奨学金で大学に通っている。春休みの間、実家に帰って来たのだった。


 古い生家に鍵は掛かっていなかった。廊下を進んでキッチンを覗く。そこに人はいなかったけれど、何とも言えないようなわずかな匂いと空気が充満していた。


 男ならそれなりに覚えがある気配がする。外は何だか薄暗くて、青白い光がわずかに室内に届くだけだった。そうでなくてもこの家は、葉の多い果樹のせいでいつも電気が必要だった。若干手探りでキッチンを出た。


 すると耳に水音が届く。兄か敏子が湯を浴びているようである。いつも団欒しているリビングのソファを覗き込む。敏子は客室を使わず、ここで丸まって猫みたいに眠ることが多かった。


 やはりソファの脇には、女物の淡いミントグリーンのパーカーがくしゃりと適当に畳まれており、側には派手な橙色のスーツケースがあって、敏子がまだこの家に残っていることを弘に教えてくれる。


 シャツの襟元を緩めながら、気配はすれど、当の本人に出逢えないことを何となくもどかしく思った。手に持っていた上着を乱暴にそのソファに引っ掛けると、そのまま廊下に再び出て自室に向かった。


 だがそこにも敏子はいなかった。バッグと売店で買った菓子類をベッドの上に放り投げると、勢い良く廊下に戻る。そこでばったりと髪を結っていない兄と出会した(和佐は顎につくくらいのワンレンを一つに結んでいた)。


「おぅ、どうしたよ」


と和佐は高い声を出して、人好きのする顔で笑い掛けてきた。黒く濡れた髪を、タオルでゴシゴシと拭いていた。和佐と弘はあまり似ていない兄弟だった。


 和佐は母親に似て、どこか女性的で端正な顔立ちをしている。弘は父親に似て、小柄で目が大きい童顔の青年だった(髪も漆黒ではない)。どうやら湯を浴びていたのは兄のようで、近くに寄るとまだ湯の温かさが彼そのものから匂い立つようだ。


「和佐、敏子は……」

「おめぇ、帰って来て『ただいま』もなくそれかよ」


 兄は些か呆れたように脇をすり抜ける。それで思い出したように「明け方に帰った」と答えてくれるた。片手で持っていたセルロイドの眼鏡を掛けると、兄の目元がぶわっと白く曇った。彼は普段、コンタクトをしている。


「でもアイツ、スーツケース忘れてったみたいだぜ」


 兄と敏子はまた喧嘩でもしたのだろうか。弘はスーツケースは自分が持って行ってあげようと思った。明け方に帰ったということは、珍しく昔両親の部屋だった客間を使ったのだろうか。


「珍しいね、客間を使うだなんて」

「はぁ」


 和佐がキッチンの窓を開けた。籠った匂いが外へと吹き出して、新鮮な空気が入って来た。外はもうビカビカに明るくて、振り向いた和佐の表情は逆光で良く見えなかった。出す声は思い詰めたように低い。


「……客間、使ってない。俺のところで寝た」

「え」

「俺と昨夜一緒に寝た、そんだけ」


 黒髪の中性的な顔立ちの兄が、急に酷く男臭く見えた。泣いた敏子の顔を想像して、旅の疲れがどっと弘を襲って来るようだ。キッチンの白い壁に背を預けて、ズルズルとその場に座り込むと、弘はそのまま何も言い返さず、ただ沈黙した。

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