なるほど、チャアダイがジョチを毛嫌いするのには理由があったのですね。
ジョチは自分の子だ、と断言し他の息子と同じように接するチンギスの姿勢は寛大で、奥さんや子供に対する思いやりを感じられ、素晴らしいなと感じました。
チャアダイもボルテは実の母親なのだし、父親を見習って…と言いたいところなのですが^^;
作者からの返信
コメントありがとうございます。
ここのチンギスの決断は、ボルテを慮ってでしょうね。また、メルキトに奪われたのも、己の力不足という認識がチンギスにあったのではないでしょうか。 そして、このジョチの系譜は、後のジョチ・ウルス(キプチャク・カン国)として、ユーラシア草原の西にて勢威を誇りますので、この決断の後世への影響は大きいですね。いわゆる『タタールのくびき』とは、ロシア人から見た、このジョチ・ウルスの支配を称したものです。
オゴデイは寛容であり、チャアダイは非寛容であったと、特にイスラーム史料は伝えますね。中央アジアの1部は、後にこのチャアダイ(いわゆるチャガタイ・カン国)の支配下に入りますので。
そんな確執と理由があったのですね。
事実はどうなのでしょうか。
チンギスは度量が広いのか、社会的にありがちなことで蓋をするのがスマートだったとかなのか、気になります。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
チンギスについては特に度量が広いとは史料は伝えていませんね。伝えられているのは、オゴデイですね。ただ、そのオゴデイが次のカンに選ばれることからも分かる通り、王族にしろ臣下にしろ、カンに求める資質として、度量の広さ――寛容である――というのは、重要だったのでしょうね。誰しも、その怒気に当てられ、殺されたくはありませんから。
そして、この件について言いますと、モンゴルでは高貴な血筋を求める略奪婚が行われていました。略奪して来た女性を正妻とし、その子に国を継がせるのですから、そうした伝統が無い日本からみると、随分、危ういことのように想えますが。
なので、ジョチのような状況はありがちだったと想います。また、チンギスのなした判断もありがちで、凡庸なものだったと想います。ただ、この凡庸さというのは重要で、他の者からすれば、理解できる行動ということになります。
他の者から理解できない場合、やはり織田信長のような末路が待ち受けるのかなと。最も信頼を置く武将の一人光秀から、まさにあのような仕打ちを受けることに。このとき嫡男の信忠も一緒にいるときを狙って襲撃したと想われ、それだけ恨みが深く、また、計画的だったのかなと想います。
ただ、チャアダイが騒いでいるというのは、そうではない判断をくだすこともありえたということでしょう。
このときのチンギスの状況について言いますと、オン・カンに仕える一武将程度の弱小勢力です。そうしたチンギスにとって、姻族たるボルテの実家は、連合相手として重要なものです。やはり、ボルテにとっては初めての子であり、ボルテの両親にとっては孫ですからね。その気持ちを重んじたのだと想います。場合によっては、(チンギスの)母ホエルンも交えて、両家で相談したのかもしれませんね。しばしば、チンギスに対する文句を史料が伝えるホエルンも、この件については何も言ってませんしね。