永遠は後ろに置いて

真花

永遠は後ろに置いて

 一度離したその手を、再び掴むことは出来るのだろうか。

 中秋の名月を二人切りで見ようと、俺と蓮美はすみは村の端まで来ていた。この先には神社がある。小高いそこならきっと綺麗に見える筈だと俺は彼女の手を引く。

「いいの? 狸神りしん様に怒られない?」

「大丈夫だよ」

 人気のない境内、虫の声だけが響く、俺達は賽銭箱の前で手を合わせてから、もっと月が見えるだろう神社の裏手に回った。そこは広場になっていて、大小の石が転がっている。整備されてないのか、そう言う趣向なのか、神様の住まう場所にはそぐわない気がする。だけど月は見事に見えた。彼女も空を見上げて、俺達はここに来た瞬間に捉えていた違和感、不気味さ、を忘れて名月を愛でる。

 でも俺が本当に愛でたいのは彼女だから、蓮美、と呼びかける。

雪太郎ゆきたろう君」

 俺達はギュッと体を寄せ合い、唇を重ねる、二人の体が柔らかくなる。気持ちも大体が柔らかくなり、一部だけが固くなる。それは彼女を大切にしようと言う決意。何があっても離さない、覚悟よりも自覚に近いもの。

 不意に彼女が強張る。

「雪太郎君、あれ」

 彼女の視線の先に、狸の大きいのが、立っている。

「何だ?」

「逃げようよ」

 そのとき、『待て』と声が、狸からしたと分かるのだけど、そこから音波が飛んで来ていないとも分かる、そう言う響きで襲い掛かって来た。狸が一歩ずつ近づいて来る。虫の声が止んでいる。

「蓮美、逃げろ。俺が食い止める」

「でも」

「さっさと行け!」

『待てと言っている』

「お前の相手は俺だ」

 俺は子供の頭ほどある石を掴み、一気に狸の側まで駆け寄り、そのまま狸の頭を殴る、狸は吹っ飛び、横向きに倒れる。俺の位置から狸の顎が上向いているのが見える、俺は狸のところ――それはほんの二歩の距離――に移動し、頭を中心に石を何度も打ち付ける。最初は蠢いていた狸が次第に動かなくなり、殴打の衝撃だけをその体が反映する。

「死んだか」

 隙を見せないように後退りして狸から離れて行く、後ろから声。

「雪太郎君」

 振り返ると蓮美が男性を連れている。

「やっつけたよ」

「本当!?」

「そっちの人は?」

「神主さん。怒られるとは思ったけど、何か知ってるんじゃないかって」

 その顔に見覚えがあった。神主は口を縫い付けられたみたいに何も言わず、むっつりした顔のまま俺達の横をすり抜けて、狸のところに行く。入念に狸の死骸を検分してから、「ちょっとこっちに来なさい」と俺達を呼ぶ。

「どうしましたか?」

「君、殺したの?」

「そのようです」

「この方はこの神社の神様、狸神様だよ。やっちゃったね」

 背中に怖気が走る。咄嗟に見た蓮美も真っ青な顔をしている。でも、もう殺してしまった。

「どうなるんですか、俺」

「狸神様自体はすぐに復活するからそこは心配しなくていい。でも、君は祟られる。これまでも何人も同じことをして来た人間が歴史上にはいてね、祟られた人間の周囲で不幸が起きるんだ」

「俺自身ではなくて、周囲ですか」

「そう。いやらしい祟り方だけど、それが狸神様のやり方なんだ。今は神域にいるから何も起きないけど、ここを一歩出れば祟りが実行される。彼女なんだろ? 別々に帰ることを強くお勧めするよ」

 蓮美が半歩身を乗り出す。

「それって、どれくらいの期間続くのですか?」

「五年とも十年とも。伝承によればそれくらいのようだよ」

 俺は鼻をふん、と鳴らす。

「神主さんには悪いけど、そんな話、信用出来ないですよ。俺は明日も今日の続きを生きますよ」

「本当にヤバいんだよ。とにかく、今日は彼女は私が送って行くから、十五分以上待ってからここを出ること」

 肩を竦めて見せようかと思ったけど、彼の目が真剣だったからそれを引っ込めて、保険をかけるつもりで蓮美を彼が送ることを承諾した。

 狸神様の死骸がいつの間にかなくなっている。出発しようとする二人、俺は急に神主さんの話が本当のことのように思えて、置いていかないでくれ、背中を汗が流れる、でも、本当だとしたら俺はここで耐えなくちゃならない。賽銭箱の前に座って、時折気配に振り向きながら、そこには何もいなくて、長い十五分間を過ぎたら真っ直ぐに家に向かった。出発したときに初めて、虫達が再び鳴いていることに気付いた。

 道中、車が俺の横で止まり、開いた窓からよく見知った顔が出て来た。

「おう、雪太郎、こんなところで何やってるんだよ?」

「散歩です。原田はらださんは?」

「会合の帰りだよ」

 あはは、と笑った彼が「あ!」と胸を押さえる。

「どうしました?」

「ヤバい。痛い。救急車……」

 そのまま意識を失った。俺は震える手で救急車を呼んだ。でも、車が到着するずっと前に、原田さんは真っ黒な顔になってしまった。車に隊員が乗せるのを見送って、その間、祟りのことばかりが頭を巡る。家に帰れば家族も同じになるのだろうか。それは避けなくちゃならない。でも偶然の可能性もある。祟りなんて馬鹿げている。

 だから俺は街に出ることにした。家に戻ったらすぐに原付に跨り、出発する。

 街への道の間、擦れ違うだけでは誰も倒れることはなかった。駐車して、人通りの多い道に出る。でも誰も死なない。その方がいいのだけど、じゃあ原田さんはなんだったのだろう。穏やかな光が包む大通りに立ちんぼのように佇んで人の流れを見る。

「お兄さん、遊んでいかない?」

 水っぽい、酒の匂いの強い女性。髪が豊か、と言うよりもアフロヘアーに近い。

「いや、僕は」

「そう、つれないのね。……あれ? 何これ?」

 女性は急に腹を押さえて苦しみ出す。その場でへたり込んで、「痛い! 何よ! 何なのよ!」と叫んで、そのまま昏倒した。女性が連れていたもう一人の女が悲鳴を上げる、人が集まって来る、その女が俺に詰め寄る。

「あんた、何かしたの!?」

「してないです。見てたでしょう?」

「それはそうだけど……あれ? 私も? 痛い!」

 女も蹲ってから横倒れになる。最初の女性はもう死んでいるようだ。人垣が出来る、でもその人々は死なない。その差は……俺と会話をしたかどうかだ。救急隊員とも会話をしたけど、事務的なやり取りだったから大丈夫だったのか、確率の問題なのかは分からない。でも、少なくとも会話をすることは危険だ。人垣から男が出て来て、二人目の女の脈を取る。

「ご臨終だね」

 誰が呼んだのか救急車が来て、二人の女性は運ばれて行った。残った人々に俺は何かを言われるんじゃないかと身構えたけど、脈を取った男以外はすぐに散っていった。

「あんたが何かしたのかい?」

 俺は首を振る。これ以上犠牲者を出したくない。

「あんた、喋れないのかい?」

 俺はもう一度首を振る。男が怪訝な顔をして、ポケットから手帳と鉛筆を俺に渡す。俺は彼のためでなく自分のために、筆談でも死ぬのかを試すべきだと決めて、それらを受け取り「俺と会話をすると死にます」と書いた。

 男はふぅん、とそれを読んで頷く。

「じゃあさっきの二人はあんたが殺したんだね」

 俺は首を振る。手帳に「祟りです」と書く、彼はそれを見てまたふぅん、と頷いたら、ま、そんな話は信じられないよ、と俺の肩をポン、と叩いて、手帳と鉛筆を回収してどこかに行ってしまった。俺は彼をじっと目で追ったけれども死ななかった。……筆談はいける。

 俺は家に帰り、家族と会話をせずに自室に戻ったら、両親と蓮美とに宛てた手紙を書いた。葛藤はあったが、彼女を大切に思うならやることは一つだった。荷造りをして、両親への手紙を家のポストに入れたら、蓮美の家のポストにも手紙を投函して、駅に向かった。


「蓮美へ

 祟りは本物のようだ。

 このままだと君を殺すことになってしまう。

 だから、村を離れる。

 今回の件の原因は俺にある。だから俺を待つ必要はない。君は君の人生を生きてくれ。

 愛してる。

 愛しているから、離れるんだ。

 だから俺のことは振り返らないでくれ。

 雪太郎」


 俺は彼女を捨てることに決めた。いや、彼女に捨てられることに決めた、か。電車を乗り継いで、次の日も乗って、俺はこの国の中心、東京に出た。右も左も分からなくったって言葉が通じるのだから不安になる必要はない。……喋ってはいけない。俺はこれから喋らずに生活をするんだ。仕事もそうだ。いつまでそれが続くのかは分からない。永遠に村に帰れないかも知れない。もしかしたらこっちでいい人を見つけて安住するかも知れない。いや、蓮美を裏切ることなんてあり得ない。いつか祟りが消えたら、必ず戻る。

 俺は喋れない人間として職を得て、東京での生活を始めた。上手く行くようになると信じて、毎日を送る。少しずつだけど着実に慣れた部分と、手に入れた力で、困ることは多くあれど、窮することはなくなった。一年が経ち、あの日と同じ中秋の名月の日、俺は繁華街に出る。祟りが消えているのかを試さなくてはならない。見知らぬ男性に声を掛ける。

「すいません、伊勢丹ってどっちですか?」

「あ? 知らねーよ」

「すいませんでした」

「はいはい」

 男は俺から離れようとしたところで、ガクンと膝を折って呻き声を上げる。「ぐ、ぐ、う」その先は確認する必要はない、俺はその場を離れる、ごめんなさい、ごめんなさい、心の中で呟きながら電車に乗る。部屋に着いたら堪え切れずに言葉と、涙が溢れる。

「ごめんなさい!」

 掌に、体中に汗、呼吸が荒い。

 でも泣き止むしかない。俺は次の日からまたいつもの俺に戻らなくてはならない。

 一年に一回、中秋の名月の日に祟りがなくなっていないかを確認する。毎回、強烈な自己嫌悪、自分こそが死ぬべきではないのか、だけど、戻るためにはしなくてはならない。だから、俺は続けた。

 蓮美のことを想うのと同じだけ、この祟りが永遠に続く恐怖に襲われる。布団の中で震えるしか出来ない、それでも仕事に行く。生きていかなければならない。喋らなければ誰も殺さない。一度うっかり職場で会話をしてしまい、それは俺によくしてくれる先輩だった、彼は「お前、喋れるの?」と言った後に胸を押さえて絶命した。喋ってはならない。うっかり喋る可能性があるのなら、村に戻ることは出来ない。東京で大切な仲間になろうとしていた彼を殺したことで、俺はさらに口を固く閉ざした。その夜は涙が止まらず、次の日だけは仕事を休んだ。

 だからそれ以降は秋の満月の日にだけ一人を殺して、それ以外は失敗せずに過ごした。

 ずっとこの孤独が続くのか……。

 膝を抱えて、自らを責めて、それでも生きなくてはならない、いつか帰るために。蓮美と会うために。


 そして七年目の、犠牲者を一人選ぶ日。

「こんばんは、伊勢丹はどっちですか?」

 中年の男、二年目からは殺してもよさそうな相手を選んだ、だけど殺した後にその判断を支持出来たことはない、が脂いっぱいの顔を向ける。

「ああ、それなら靖国通りをですね……」

「ありがとうございます」

 一礼して、彼が崩れるのを待つ。ところが何の問題もないように歩いて行く。これは、祟りが抜けたのかも知れない。念の為もう一人に話し掛けたが、やはり死ななかった。

「抜けた」

 途端に緊張の糸が切れて、へたり込んでしまった。でもどこも痛くはない。何人かが助けようとしてくれたのを断って立ち上がり、走り出したい気持ちを抑えながら自室に帰る。

 戻ろう。

 いや、こっちでの生活も悪くない。だから、蓮美を呼び寄せよう。彼女のことを想わない日は一日もなかった。だけど、手紙には俺のことを忘れろくらいのことを書いたから、もう彼女も新しい生活を送っているかも知れない。……とにかく、村に一度行かなくてはならない。


 電車を乗り継いで村へ。着いてみると、蓮美が待っていることなど信じられない。俺からそうしろと言ったのだ。いや、それでも待っていてくれるかも知れない。どっちだ。

 俺は真っ直ぐに蓮美の家に向かう。でも勇気が出なくて、遠巻きに彼女の家を伺う。

「あ」

 開いたドアから見知らぬ男性と子供が二人、出て来た。そりゃそうだ。蓮美だって彼女の人生だ。でも、胸の中に巨大なパンチで穴を開けられたみたいで、まともに歩くことも出来ない。だけどこの場は離れたい。あんなものを見たくはない。

 ふらふらと実家の方に歩いていると、車から声を掛けられた。

「雪太郎、戻って来たのか?」

 それは原田さんの弟だった。お兄さんを殺した手前、何と話していいのか困窮する。

「すいません」

「ん? 何に謝ってるんだよ。どうした、そんなに弱々しい足取りで」

「蓮美の家に行ったら、家族がいたんです」

「蓮美? ああ、あそこには今彼女の妹一家が住んでるよ。彼女なら駅前の花屋で働いている――」

 俺は「ありがとうございます!」と叫びながら走り出していた。

 蓮美。

 花屋の前に着いたときには、倒れ込みそうなほど息が切れていた。それでも首を上げて店を見る。

 そこで花の世話をしている後ろ姿、後ろからでもそれが蓮美だって分かる。

「あ、あの……」

 振り向いた彼女は、間違いなく蓮美だった。俺の顔を認めて小さく驚いた。

「蓮美、俺は、……その」

 言いたいことはいくらでもある。積み重ねた想いもうずたかい。なのに、言葉が出ない。

 永遠のような一瞬を、それでも俺達は見詰めあっている。

 彼女は少しだけ微笑む、目尻から僅かに溢れる涙。

 その唇が二人の間にあった全てを破り、言葉を紡ぐ。


「おかえり」


(了)

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