EGG/MAMA

尾八原ジュージ

ゾフィー

 ゾフィーの体重はずいぶん軽くなった。ハンドルを握りながら、おれは彼女を車に乗せたときの感覚を思い出していた。

 ゾフィーの手足も胴体も、縮まって頭蓋骨の中にぎちぎちに収納されているはずだ。それらの重量は一体どこへ行ってしまったのだろう。もっとも胃袋が小さくなった彼女は、もう何ヶ月もまともに食事をしていない。軽くなるのも道理なのかもしれない。それにしてはさしてやつれたように見えず、発症前の彼女と変わらない顔をしているのはなぜだろう。

 ゾフィーのことを考えれば考えるほど、頭の中に暗い影が広がっていくような気がした。おれは前方を睨み、運転に集中しようとしたが、あまり上手くいかなかった。

 エッグマン病。首から下が徐々に縮んで頭蓋骨の中に吸い込まれ、やがて生首だけになって死ぬ奇病中の奇病。ニュースの中でしかお目にかかったことのない病を発症したゾフィーは、今や胴体の粗方が見えなくなり、顎の下からは肘から下の両腕と、両足首だけが露出している。グロテスクな姿を、しかし彼女自身はあまり気にしていない様子だった。今も後部座席のチャイルドシートに収まったまま、機嫌よく窓の外を見ている。

 エッグマン病を発症すると、症状が進むにつれてほかの臓器が脳みそを圧迫するので、患者は知能が著しく低下する。特にゾフィーは、その傾向が著しかった。突然の一時退院にも疑問を抱かず、ただおれと出かけることを無邪気に喜んでいるらしい。

 夕日が空を赤く染める頃、おれたちはようやく目的地に到着した。おれは車を停めると、後部座席のチャイルドシートからゾフィーを下ろし、赤ん坊用の抱っこ紐を使って胸に抱いた。クマのぬいぐるみを一緒に入れてやると、彼女は幸せそうな顔をした。病気が発覚したときの不安げな表情は、すでに跡形もなかった。

「行こうか」

 ゾフィーは「うん」と応えた。どこへ? とも尋ねなかった。以前の彼女であれば、行き先がわからないドライブなど、決して乗り気にならなかっただろう。そう思うと胸が痛んだ。

「くらぁいね」

「ああ、暗いな」

 おれたちは山道を奥へ奥へと進んでいった。カミラによれば、この道は一本道のはずだ。あいにく目的地の近くまでしか行けないが、先回りした彼女が奥でライトを照らして合図する手はずになっているから、それを目印に道を逸れればいい。

 季節外れの登山道に人の姿はなかった。おれはゾフィーの姿を上着で隠していたが、その必要もなさそうに思えた。進むにつれて辺りは暗く、おれはヘッドランプを点けて前を照らした。

「もりだねぇ。森のにおい」

「ああ、そうだ」

 ゾフィーはまた「森」と呟き、ぬいぐるみに頬をくっつけて瞳を閉じた。ややあって、穏やかな寝息が聞こえ始めた。


 ゾフィーと出会ったのは、故郷の村を逃げるように飛び出した先でのことだった。おれは大学生で、彼女はふたつ年上のカフェの店員だった。

 ゾフィーは灰色の髪をうなじの上でひとつに束ね、白と黒のひらひらした制服に身を包み、ほかのウエイトレスほどにこにこしていなかった。その無愛想なところが、かえっておれを惹きつけたのだ。

 臆病なおれが彼女に声をかけるまでには、二ヶ月ほどその店に通う必要があった。彼女の左の手の甲には芋虫の入墨があって、手を動かすたびにそいつがうねうねと動いているように見えた。それを「素敵ですね」と褒めるまで、丸々二ヶ月かかった。

 彼女は驚いたようにおれを見つめて、「そんなこと初めて言われました」と言った。それからおれたちは急に仲良くなったのだ。抱っこ紐からはみ出した彼女の左手には、今もなおその芋虫が這っている。

 自分の生まれた、因習に満ちた旧家のことが、おれは大嫌いだった。歴史の教科書の中の出来事になったはずの貴族制が未だに権威を持っている、そういう土地と価値観に、おれは嫌気が差していた。ゾフィーを好きになったのは、彼女がそこからもっとも遠い女のように思えたからだ。

 手に芋虫の入墨を持ち、天涯孤独で後ろ盾もなく、滅多に笑わない女。それでも一緒に暮らすうちには、ひけらかさない賢さや優しさに触れることもあった。

 おれはゾフィーのことが好きだったはずだ。彼女自身を愛していたつもりだ。駆け落ちなどしたのは、決して生家を憎んでいたためだけではない。そのはずだった。


 山は暗く、いよいよ光源がヘッドランプの光のみになってきた。おれは先を急いだが、それでも時々立ち止まって耳を澄ませるのを忘れなかった。山に入ってからどれくらいの時間が経ったのか、感覚がぼんやりしてよくわからない。ゾフィーはまだおれの胸で眠っている。

 駆け落ちしたおれたちの逃避行は、結局一年も保たずに終わりを迎えた。その頃になると、手持ちの金はすでに尽きかけていた。おれは度々身分証の必要ない日雇いに出たが、何をやっても身につかなかった。ゾフィーは無感動な目をしたまま、夜勤の多いバーに勤め始めた。ふたりの間につまらない諍いが増えた頃、まるで見計らったように、両親がおれたちの結婚を認めると言った。

 おれは勝ち誇り、喜び勇んで彼女に報告した。ゾフィーはどこか寂しそうに笑った。「もうあたしたち無責任な同棲カップルじゃなくなるのよ」と呟いた声は思いがけず暗く、おれに不満を抱かせた。

 休学していた大学を卒業した後、おれはゾフィーを連れて郷里に帰った。その地で籍を入れ、おれたちは正式な夫婦になった。

 おれは得意になってゾフィーを連れ回した。彼女は、おれが憎んでいた因習への勝利の証だった。いけ好かない親族が集まる機会があれば、夫婦揃ってそこに出かけていき、手に芋虫を飼う女を嬉々として見せびらかした。ゾフィーは案外そつなく振る舞い、時には親戚連中を感心させることもあった。が、つまらなそうな顔をしていることが増えた。

 そんな生活は一年ほどしか続かなかった。ゾフィーがエッグマン病を発症したのは、今から二年前のことだ。それからなにもかもがひっくり返ってしまった。


「ゾフィー」

 山道を歩きながら、おれは抱っこ紐の中に向かって呼びかけた。彼女がよく眠っているかどうか確認したかった。ゾフィーは目を閉じていたが、「うん」と寝ぼけたような小さな声をあげておれの胸元の服を掴んだ。手の甲の芋虫が動いた。

 途端に後ろめたさが心に兆した。一瞬、山道を駆け下りたくなる。その気持ちを振り払うため、おれはカミラの顔を思い出そうとした。

 大きな瞳、白い肌、まっすぐな黒髪、首筋から漂う花のような香り。

(かわいそう。いつまでそんなひとの面倒を看てなきゃならないのかわからないなんて)

 臆面もなくそう言い放った女は、天使のように美しい顔をしていた。


 エッグマン病を発症した患者は、通常一年以内に死亡するという。まだ症例が少なく、わからないことの多い奇病だが、ゾフィーもまた、医師に一年という余命を告げられていた。

「早く生首みたいになって、何も考えないようになりたい。怖いのは嫌なの」

 ゾフィーはそう訴えた。

 父はおれに、ゾフィーを表に出さないよう言いつけた。田舎のことだ、どんな噂をたてられるかわかったものではない。最悪、家名にも関わる。おれはその提案に憤ることはなく、そのことに我ながら嫌悪を覚えたが、父の言うことに大人しく従った。

 おれたちは村を出て、都会にある総合病院にかかった。そのための金なら父がいくらでも出してくれた。幸い、ゾフィーは病棟の個室から出てくることは滅多になかった(そう、おれはそれを幸いと思ったのだ)。

 半年も経つと、ゾフィーの胴体はほぼ完全に頭部に収まり、現在のように手足のみが生首からぶらさがっているような状態になった。

 そうなったのちも、彼女は不気味な蜘蛛のように床の上を這って、自力でトイレに行くことができた。用が出せたことをおれが褒めてやると、ゾフィーは無邪気に喜んだ。その頃にはすでに脳がかなり圧迫され、彼女は幼い子供のようになっていた。おれには子供を育てた経験などないが、もしも三つか四つの子供がいたならこんな感じだろうか、と思った。

 ゾフィーはおれを無心に慕った。胃袋がかなり縮んでいたので、おれはたまにマカロンをひとつとか、ハートの形のマシュマロなんかを差し入れてやった。可愛らしいお菓子を前にすると、ゾフィーは目を輝かせて喜んだ。

 クマのぬいぐるみを買ってやったこともある。ゾフィーはそいつにママと名前をつけ、ベッドの中に入れて一緒に眠った。ゾフィーの母親は彼女を赤ん坊の頃に捨てて行方知れずになっている。これが遠からず死ぬ女のやることかと思うと、なにもかもがいじらしかった。

 そうして九ヶ月が経った。一年が経った。春が終わって夏がきた。

 両肘から下と両足首のみを頭部から生やしたまま、なぜかゾフィーの病状は進行を止めていた。

 グロテスクな姿となったゾフィーは、そのままで生き永らえていた。何も考えず、悲しみも苦しみもなく、やはり幼子のようにただただ無邪気だった。

 ゾフィーの顔をつけた化け物を見るたび、おれは彼女を疎ましく思う気持ちを抑えられなくなっていった。病室に顔を出す頻度が毎日から週に一度ほどになり、滞在時間も減っていった。

 女を求めて通っていたダンスホールでカミラに出会ったのは、そんな折だった。


 山道を歩くおれの耳に、ようやく水の流れる音が届いた。この近くに崖があり、その下を大きな川が流れているのだ。カミラに教えられた通りだった。

 ゾフィーはまだおれの胸で眠っている。クマちゃんを抱っこして、幸せそうな顔をしている。

 この女を捨てることができるだろうか。暗い道をなおも進みながら、おれは自問自答した。確かにおれはそう決めたはずだ。だが、ともすれば決意は萎えそうになった。

 おれの人生のピークはおそらく、ゾフィーとの結婚を親に認めさせたあの瞬間に訪れ、そしてすでに去っているのだ。それでもまだ、エッグマン病の症状が定説通りに進んでゾフィーが命を落としていたら、おれは幸せなまま彼女と死に別れることができていただろう。カミラにも出会うことはなかったし、彼女の提案に乗ることもなかったはずだ。

 ゾフィーさえいなければ、カミラと堂々と交際することができるなどという、恐ろしい甘言に心を動かされることもなかったはずなのだ。

 木々の間に光が見えた。明らかに人工の光だった。途端に心細さは安堵に変わった。おれは道から外れ、藪の中をこいで明かりの方に向かった。

 懐中電灯を揺らしていたのは、やはりカミラだった。

「やっぱり来たんだ。来ると思ってた」

 光の輪の中で、カミラは白い花のように微笑んだ。

「気をつけて。その先がすぐ崖だから」

 そう言われて、おれはすぐに後ずさった。川の流れる音が耳を打った。

 カミラは優雅な足取りで近づいてくると、抱っこ紐の中を覗き込んだ。いつの間にかゾフィーは目を覚ましていた。大きく目を開き、初めて見る女の顔を不安げに見つめている。カミラは小さな子どもに接するように、優しく笑いかけた。

「こんにちはゾフィー。わたし、あなたのお友達よ。素敵なクマちゃんを持ってるのね」

 ぬいぐるみを褒められて、ゾフィーは警戒を解いたようだった。

「ママっていうの」

「そうなの。いい子ね」

 カミラはゾフィーの髪を撫でた。

 おれはゾフィーから目をそむけた。どうして眠ったままでいてくれなかったのか。その体温も身動きする感触も、なにもかもがおれを責め立てているように思えた。

「カミラ、そんなことはどうでもいい。早くやっちまおう」

「へぇ、冷たいんだ」

 カミラは口の端をにっと吊り上げた。ゾフィーを崖から捨てようと言い始めたのはこの女なのに、土壇場になってなぜこうも焦らすのだろう。おれはいらいらして心臓が焼き切れそうだった。

「ここで間違いないんだな」

「そう。ここから落ちた死体は滅多に浮かんでこない」

「なら早く」おれは早口で言った。いくらゾフィーの頭が幼稚園児並でも、不穏な会話をしていることくらいいずれ察しがつくだろう。カミラの指先にじゃれながら嬉しそうに笑っているうちに、とっとと手放してしまいたい。ゾフィーの悲しそうな顔を見るのが、おれは恐ろしかった。

「じゃあ、そのベビーキャリアを外さなきゃ」

 カミラはそう言って、おれの背後に回った。その直後、プシュッという音がして、背中に衝撃が走った。

「なに……」

 振り向こうとすると、痛みと共に目眩がおれを襲った。視界に映ったカミラは懐中電灯を左手に持ち、右手に消音器のついた拳銃を持っていた。

「ごめんなさい。いなくなってほしいという人がいたの」

 撃たれたのだ、と思う間もなく、カミラがおれをどんと押しやった。気づいたときには足元の地面がなかった。

 数十メートル下の激流に向かって、おれとゾフィーは落下していった。遠ざかっていく夜空に星が瞬いていた。ゾフィーがおれの胸元に顔を埋め、「ママ、だいすき」と囁いたのが、最後に辛うじて聞こえた。

 冷たい水が、一瞬のうちにおれたちを飲み込んだ。

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