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昼食の折、我々はボルシチなるものをロザーナで喰らうことにした。なんとも大層な瀬戸物によそわれたこの料理は、黒々とした菜物に加えほとんど溶けて無いようなジャガイモが浮かぶ殺風景この上ないものであり、それでいて塩味だけはきついものであるから舌がしびれそうになる味わいである。
「さて、シランス。君は覚えてはいなだろうがカルボーニについて今一度議論致そう。まずは、野も山も湖もあるというところから欧州の郊外ではないかと睨んでいる。いかがかね」
シランスはジャガイモのとぎ汁を髭にまとわせながら地図を広げた。この男は地理にだけは優れているようであるが、なんとも信用ならぬ
「さぁて、野も山も世界のどこにもありますぜ。それに湖、凍ってない水を形象するったってここは地球の上ですからなぁ。」
「しかしです。ある程度土が良くなければ村人を支えるだけの農業は確立されないと思うです。気候も安定している必要があるでないですか」
「アランの坊ちゃんの推理は正しいぜ、ただ、麦は大概の土地で植わる。それに安定した気候だけでは行く先の目途は絶ちませんな。ところでケトニールさんよ、こればかりは知恵が足りぬ。もう少し街へ出て書館を荒らす方がマシだと思いますぜ」
アランは名推理を蹴っ飛ばされて不服そうである。それにしてもシランスは得意げであるが、全く彼の言う通り学生時代に戻って書館の虫にでもならねば検討は付きそうはない。大方結論がでたように思えた私は、さっさとこのボルシチを片付けようと話をやめて料理を胃に流し込むことに専念した。
「シランス、これは面白い名前だな」
喫食の沈黙を破ったのはロザーナの店主であった。訛りを含んだフランス語であるが、その意味を承知するには足る響きで、私は俄かに椅子から転げ落ちそうになった。
「あなたはフランス語を話せるのかい。」
私は照らされた鹿のような顔でロザーナの店主に返した。むろんロシアで、しかもこれほど錆びれた田舎町で他所の国の言語を知る者がいるということについてでもあるが、実を言えばシランスという言葉は「黙れ」という意であり、あれはカナダで彼と一杯を交えた時、あまりにもやかましい男だからと私が彼に着けた名である。当然、シランスの馬鹿はこのことについて知らぬし、陰鬱なフランス語なぞ知っているはずもないが、どうも悪事がばれたような心持になり私は自然ではいられなかった。
「ああ、そんなことは良いじゃないか。シランス、シランスか、これは気に入ったシランス。実を言うとなー俺はカルボーニについて知っているんだ。6代も前の先達が残してくれた遺書によれば…」
彼はめっきりシランスが気に入ったようで、カウンターから上物とみられるウィスキーを引っ張り出して彼に進めた。むろん、シランスからすれば何が起きたという顛末であるが、幸い彼はロシア語もフランス語も知らぬ。上等なウィスキーにわけもわからずロザーナの店主と肩を抱き合っているだけである。
「すまない、彼はフランス語が話せなくてね、ええと、つまり私が彼に伝えようか。」
「おっとこれは失礼した、シランス!。ケトニールさんだっけ?。今にカルボーニについての書を持ってきてやる。」
ロザーナの店主はご機嫌で、ウィスキーの封を切ってシランスに差し出すと。店を上がりにして裏へすっこんでしまった。
「ケトニール。あいつなんだ? 全く暑苦しい」
彼は珍しく
私はシランスに事実を述べるべきか逡巡した。少しばかり仲間外れにしておいて馬鹿な立ち振る舞いをさせてやれば面白いだろうという訳もあったが、なによりカルボーニについての資料はできれば彼の煩い御高閲なしに精読したかったのである。ならば、アランだけには教えても良いかと思ったが、詐欺師のくせに尋問には素直な性分であるからどうも私一人で抱えていた方が得策に思われた。
「いや、ロザーナの親父がね、私にフランス書の翻訳を頼みたいそうだ。なにせ彼は話すことしか出来ないそうでな。而してちょうど金も尽きるころだから、良い仕事が来たものだ。そのウィスキーは前金らしい、昨晩のお前の飲みっぷりには惚れたとロザーナの親父がいっていたよ」
「さすがケトニールの親父」とシランスは大変満足である。ついにはアランに絡みはじめウィスキーを進めるものであるから、なおのこと都合が良かった。このことに限ってはどうも私一人で精読したかったのである。
日もようようと暮れはじめシランスはますます酩酊である。昨晩と全く変わらぬ風景が今宵も始まろうとしているが、私の心の内は踊り狂いたいほどに動乱していた。満足があふれる場所、カルボーニ、私はその名を聞いて以来にそれが地上の極楽であると夢見ていたのである。
ロザーナの親父が顔を出したのは、私が広大な白い大地に陽光が沈みゆく様に見惚れていた折であった。親父はカウンターに肘をつき私を手招きした。
「やあ、おじさん、すまないね、手間をかけて」
埃まみれになったロザーナの親父をねぎらう言葉以上に、小便でも漏らしそうなほどそわそわしている自分がみっともなく感ぜられたが、これを
「おじさんなどと言わず、俺のことはジーニと呼んでくれ。まぁ、まったく奇遇だな。こうして六代の時を経て、まさかカルボーニを訪ね
ジーニはグラスにウォッカを注ぎながら私に問いかけた。背中からはアランとシランスの
「ジーニ、実を言えばー私は昔医者をやっていてね。ある寒い日、私が勤めていた病院に身よりのわからぬ年寄りが運ばれてきたのだ。」
「ほう、それで、」
古びたカウンター越しにジーニはウォッカを差し出してきた。
「ああ、乾杯。まぁ、検査をしてみると肺炎で、これも治療しないとすぐに死ぬるだろう代物でな。私は治療費は気にするなと言ってその老人を入院させることにしたんだ。まぁ、医院長はこれに反対で、看護婦の連中まで老人に対しては手当をせんかったものであるから、病状は悪化してねー」
気づけば陰鬱な空気感が漂っていたものであるから、私は豪快にグラスのウォッカを飲み干してつづけた。
「もう一杯くれ。それで、その老人が末期に私の手を握りながら、「この世にはカルボーニという地がある。野山も湖もあり、人は100人もおらぬが、みんなが満足して生活しておる。来世はカルボーニに生まれるとするよ。先生、短い間であったがありがとう。」と、言ったわけだ。これがカルボーニを知った由であるが、まぁ、私も当初は病人によくあるせん妄かと思ったよ。ただ、それにしては彼が落ち着いて死んだものであるから、どうもカルボーニが実在するように思えて仕方がないんだ。」
ジーニは陰気な雰囲気に逃げられず、些か目を泳がせながらも私にもう一杯差し出した。
「ケトニールさん。そんな理由があっとはなぁ。ならば話は早い、この手帳はやるよ。まぁ、どのみち俺は読書をする性分じゃないしー」
「ありがとうジーニ。ならば私はこれで勘定とするよ、シランスとアランの分も含めておくれ」
私はジーニを陰気な雰囲気から解放してやるために勘定を済ませると、シランスとアランを置いて一人足早に帰路についた。尤も腹の中ではジーニがくれた書をいち早く読みたいという一心であった。宿に着くまで待ちきれなくなり、月明りで書を読もうともしたがどうも暗くて文字が見ない。もとよりロシア語なので意味がないことに気が付いたのは宿に着いた時であった。「しまった。辞書がない。ジーニに借りればよかった」と覚えずして口にしたが、ちょうど宿の婆が辞書を貸してくれていたことを思い出して、スキップするように我々の部屋に飛び込んだのである。
カルボーニの悪党 東 哲信 @haradatoshiki
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