気が付けば我々は、二日ほど前から滞在している薄汚い宿に帰巣本能を示していたらしく、翌朝目覚めた場所は運よく路傍ではなくベッドの上であった。

 それにして奇遇である。これほどに潰れかけた宿屋にも朝は来る。ウェールズ街みたく鳥のさえずり一つもないが、結露で黴付いた窓ガラスからは陽光の一路がうす暗い部屋中をなでるように煌めいている。私は朝が好きである。朝が来る奇跡を軍人病院で知ったからでもあるが、いずれにせよ朝には神聖な力が込められていると疑ってやまない。とりわけ凍り付くような寒さとともに迎えるロシアの朝は、一日の始まりに生へのリアリズムを与えてくれる。

 しかし、こんな素晴らしい朝にもかかわらずアランは大きな闘争にうなされていたようである。埃舞う宿の廊下の奥には協同の便所があり、扉の淵には小汚いロシア語で「汚すな」と示されている。毎朝のごとく私が便所に行こうとしたら、その御触れに一尺ほど間合いを置いてうなだれている人が在った。「シランスの馬鹿め、いくらアイツでも消毒液を飲み干したようなものだ」と腹の中でよじれそうにもなったが、現実は台本通りには進まぬもので、頓死体のようにうなだれていたのはアランであった。聞くに、アランは昨日の酒の始末として吐くか吐かぬか、ちょうど丑三つ時から闘争しているそうである。

「ケトニールさん、お医者ですよね。いかように、まったくいかようにすれば良いですか」

 蒼白とした顔面で訴えかける彼に対して、私は食道の粘膜が云々とお医者らしい理屈を並べ吐かぬが吉と助言すべきである。尤も、吐いてしまえば楽になるという経験則も自身にあるものだから彼に返す言葉はせいぜい「水を汲んできてやる」としか言えぬのであった。それに私の知るに水の一杯でも飲めば吐き気は確信に変わるものであるから、紅顔むなしく変じた彼には末期の水ほかならぬコップ一杯の水を処方することが妥当と考えたのである。

 水を汲みに部屋に戻るとベッドで大の字に横たわるシランスが目に入った。彼は未だ夢見心地のようで、モルヒネでも打たれているかのように安らかである。そんな安らかさを裏腹に廊下からは嗚咽が聞こえる。アランは臨終したようで、これが二度三度と続いたのちに「ケトニールさん、ましになったですよ」と満足する声が宿中に響き渡っていた。アランの嗚咽は一件落着の号砲であったらしく、私は覚えずして苦笑せざるえなかったが近隣様からすれば大いにご迷惑なものであろう。

 さて、シランスはきっと間違いなく今晩も酒を飲むだろうに、そうしてアランも今朝のことは忘れて明日には酒をのむのだろう。私はふと、後悔を感じても反省せぬアランと、後悔さえ感ぜられないシランスのいずれが悪党気質であるか考えていた。つまりは罪に対する意識は両者決定的な違いがあるものの、最終的にはまた酒を飲み反省に至らぬ点は両者同一なのである。過程という、所詮は過去に過ぎぬ記憶の違いがあるだけであり、いずれも酒を飲むという現在か未来の罪に帰結する。これらの悪党気質、あるいは酒を飲むことを罪とせずとも、そのウマシカ具合を比較できるものだろうか。アランもシランスも実は見えるものに隠された見えない愚かさが共通しているとも言えるし、それでいて見えるものはアランとシランスを雲泥の差と認知せしめるのである。さて、いずれに傾倒すべきなのか、私は長旅の友を時折よそ者のように考えて俯瞰することがよくあるが、この点についての良い解答は見つからぬままである。

「聞いてるですが、マシになったですよ」

心なしか上気したアランは廊下から顔をのぞかせて、健気にも闘争の義勇を自慢している。

「アラン、君にとって酒は罪なものか? いや、そんなことはどうでもよい。そもそも罪とはなんであろうか? 覚えているかね、北支那で警官らしき男が若い女を銃殺しているのを見た時、僕らはその女の罪状を憶測した末に、罪と罰について道中延々と議論したはずだ。そのとき確か、罪は観念であり罰は概念であるという帰結に至ったと思うが、では、なぜ罰は罪の対象としてあり得るのだろうか。本当は罰さえも観念に過ぎぬ、すなわち人間の精神の揺れ動きの産物にすぎぬのでなかろうか。さすれば揺れ動く精神を細分するものが罰を定めた法律だなんておかしな話じゃないかい。」

「酒は罪ですよ。しかし、今は頭が痛いので長い話はできぬです。」

 先方は私の疑問に惹かれないようである。話の最中、板間の溝をなぞるように動乱していた目線はそれを忠実に物語っており、私は気の乗らない家臣に煮え切らない苛立ちを覚えたのであった。

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