カルボーニの悪党

東 哲信

 その飲み屋の名はロザーナと言ったか、シベリア氷土の平野に佇む小汚い飲み屋である。我々は地球の隅々を放浪し、ある日は似顔絵を、ある日は歌などという具合でその日暮らしをしているが、ロシアという国はめっきりに似顔絵や歌などを受け付けるような国ではないらしい。むろん、彼らが芸術を知らぬわけではなく、我々がロシア語を知らぬというべきであるが、併しそれにしても酒を飲んでばかりの連中である。その様と言えば水で割らぬスピリッツをはちみつ酒のように豪快に、そうして鬱憤に飲み干すもので、みているこちらが鬱になりそうである。ロザーナの店主がいうにこの地はロシアの中でも特に沈鬱であるそうな。なにせ大地も川も凍り付きとても漁労や農村を営む術もない。そのうえ工業もなく、明日の稼ぎもない連中ばかりなのだと嘆いていた。なるほどな、私は所有が人々の心理に与える余裕というものをありありと感ぜざる得なかった。それは我々の姿にも当てはまっている。その日暮らしとは言うに安いが、我々もこれを望んでいるわけではない。各々が失敗を抱え、豊かな故郷を追われた顛末が我々であるのだから当然である。

「さてアラン、我々は大概の地を訪れた。むろん、東南アジアの一角で入国審査に弾かれたのには面食らったが、それにしても我々は実に多くの地を訪れたはずだ。次はどこに行くべきかな。」

「私は、もう寒いところはいやです。なにもこう寒くなくっても温いところがあるですよ。」

 アランという男は小賢しいサギ商売をしていた男である。確かタイの国で御用になって以来、足は洗っているそうであるが故郷に合わす顔はないそうな。

「では、いずれにしても我々はこの地からは離れよう。しかし、いつも通りとはいかないよ。君は故郷に帰りたまえ、いくら罪人と雖も、君は5年も塀の中に居て頭を冷やしたろうに。そうして大方3年も私たちと旅をして自分を見つめなおしたではないか。それにサギの一つや二つで勘当する身内があってたまるか。人間はみな嘘つきだよ。シランス。そうだよな!」

 私はウォッカに満たされたグラスをシランスに滑らして目くばせを一つやった。先方はすでにアバタ顔を真っ赤にしていることからも上機嫌である。

「まったくだぜ、人は嘘つきだ! いいや嘘なんて存在しない。嘘の方が真実だと思うぜ。俺はかなりの信者に人を殺めさしたとも。しかし、世間から見た嘘があの野郎どもからすれば真実だったのだからな。俺の好きだった女先生はとある根暗に言ったよ、在るものが事実。信じられるものが真実だって、」

 シランスはライムギパンをウォッカで流し込み上機嫌である。この世の中に彼の言うことを訝る術を持たぬ気弱者はアランしかおるまい。シランスはドイツ郊外の辺鄙へんぴなところで宗教家をやっていた人間であるが、その実態はまるでの領袖ともいうべきか、彼は多くの人間を間接的に殺しては金銭を稼いでいたが、信者の隠蔽や殉死功績によってついには10年の懲役で済んだという顛末である。

「アランそれにだ。俺はその女先生を…」

「もうよい、シランス。君の昔話はどうも進歩がない。それは昔話なら当然であるが、現在とのつながりがどうも感ぜられんものだ。どうだアラン、我々は今を生きるのであって、過去を生きる訳ではない。過去は過去であるが相対化する術がない過去は事実でも真実でもないぞ。」

「しかし、ケトニールさん、シランスさん。私だけが帰れと言われるのは納得できぬです。同じ罪人の気概でここまでやってきたですよ。我々は。」

 酒に弱いアランは不健康な顔色でやけくそのようである。もっとも、この男は酒を飲んでも自制心を失わぬ点において私は目を掛けざる得ないのだ。

「むろんだ。だがねアラン、私もシランスも人を殺めている。シランスはどうか知らぬが私は苟も医者であるからこそ易々と社会に還ることはできまい。サギが何だね、君はその賢さを正義に用いて稼いで稼いで、過去に騙した人に麻袋一杯のドル札を窓から投げ入れてやればよいじゃないか」

「しかしです。シランスさん、ケトニールさん。どうしても帰れんのです。あなたにも分かるでないですか?私はどこの地に行っても商売ができるかもしれませんが、もう社会には帰りたくありません。だって我々カネがあるせいでここまで落ちぶれたですよ。そうして共産主義の国に来てみればです、宿屋の婆め、開口一番にチップをせびる訳です。やってられません。わたすは金が憎いです。」

 彼の主張には了解せざる得なかった。私は欧州では名の知れた医者であったが、私の勤めたところでは患者は所詮金儲けの道具でしかなかった。そうしていささかの義憤のもとその悪事を世に知らしめた翌日、妻子は髪一本も残さずその場から、否この世から失せたのである。尤もそれさえも世に知らしめればよかったが、どうせならと理事を毒殺してやった始末である。私かて、畢竟金の亡者のせいでここまで落ちぶれ葉隠れ生活をせねばならぬのだから。アランの言い分はすこぶる了解できるものである。

 「さて、この地球のどこかにはカルボーニという村がある。どこの地図にも載らぬが蓋し存在するカルボーニは人口が100人にも満たぬ村だ。しかし驚くでない。この町では野もあれば山もあれば湖もある。もっと言えば人々はそれぞれに多くを所有せずともこれに慢心し安楽な生活を営んでいるそうな。」

 「ケトニールさんよ、いくら酒の席でもワシをだまそうたっていけませんな、元宗教家ですぜ。第一、あんた今日はおかしいぜ、アランに帰れと言ってみたり、次の旅先を夢見たり。寒くて半ばあの世に意識があるんじゃないか。」

 「シランスこれはなんと、私は無神論者だからね。あの世を見たらそれは妄言の一つ吐きたくなるかもしれんが、アランの言い分も理解できたからこそ次の旅先の話をしているわけだ。カルボーニも嘘ではないとも。第一、故郷へ帰るもカルボーニに着くもアランに決めさせれば良い。そうだな、どっちがアランにとって嘘か真か聞けばわかるさ。どうだいアラン」

「私の心は変わらないです。私はカルボーニに着くのが真です。」

「よかろう。では、シランスもそれでよいか」

「わしが安住すればこの地が荒野になるぜ。ところでそのカルボーニとはどの地方のことだい」

 シランスは白樺のテーブルに垢ばんだ世界地図を広げた。雨や泥でとても読めたものではないが地方を検討する分には差し支えない。カルボーニ..カルボーニとぶつくさという彼の口元には汚らしい捻じれ髭だけでは説明できぬほどの老いの汚さがある。それに彼は残念ながら頭が弱い、実際、地図には載らぬと宣言した地を地図で読もうとしているのだ。

「すまないな、シランス、カルボーニがどこか、さあ、それがわからんのだな」

 埃立ち込めるバーの一角では地図が舞い、シランスは50度もするウォッカのボトルを仰いでいた。医者として言わせるならば彼の知恵遅れは紛れもなく酒によるものだろう。

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