Act.2 煩悩を究めて煩うまぬけ

○先輩の見聞 四


 まず、世のレディ諸君に一言詫びておきたいと思う。

 男とはド阿呆な生き物なのだ、申し訳ない。

 どんな男でもそうだ。野を駆け、山を越え、時に川をさかのぼるような筋肉馬鹿は言わずもがな、いかにスマシタ顔をして頭脳明晰・冷酷無慈悲を演じているような男でも、その脳内は単純明快、ハレンチでヨコシマな桃色一色なのだ。しかし、心が海のように広い世のレディ諸君には多少の桃色思考くらい、許して欲しいと俺は願う。マンションに干してある洗濯物に目が止まったり、電車で向かいに座った女性のミニスカートに目が行ったり、海辺でぽわんぽわん膨らむ小麦色のチチの谷間に目が釘付けになったりと、それくらいの行為には目を瞑っていただきたいものだ。せめてパンチ一発で許して欲しい。警察には言わないでくれ。

「我々男たちはね、日々の生活に疲れてしまっているんだよ。ちょっとくらいさ、癒してもらっても良いだろう?だって僕たちは、おっぱいが好きなんだもん。」

かの有名な英国の弁護士マーケナイ・サイバン氏の言葉である。

この言葉が裁判長及び裁判に参加した全ての者の胸をうち、痴漢で捕まった男が無罪放免となる珍裁判が起きたことがある。その捕まっていた男は普通のサラリーマンであり、毎日のように残業に追われ、休みの日でも嫁には相手にされず、全ての家事を押し付けられる。当然、趣味の釣りに勤しむ暇もなかったという。

「つまり我々男子はね、みんな頑張っているわけですよ。だからこそ、女性は男のロマンや阿呆な思考に、少しは付き合ってやらなくちゃいけないんです。例えばね、空を飛び窮地に駆けつけ、ばったばったと敵を倒して世界を救うスーパーヒーローがいたとしましてね、そんな頑張っているヒーローが空を飛んでいる時に、ふと上空から露天風呂を覗いて若いレディのすっぽんぽんを見るくらい、許してやっても良いじゃないですか。」校舎西棟の三階、写真部の部室にて仲睦はこう豪語した。

「賛成」「賛成」「ド賛成」「ビバです」「ビバです」「ビバらしいです!」「この世に二度とない大演説」「おっぱい万歳!」

 部室に集められた幾人かの男たちが手を叩いて仲睦の言葉に歓声をあげた。ここに集められた男は皆、仲睦という悪魔人間の知り合いであり、仲睦主宰の『煩究煩コンテスト』、その実行委員会に選出されたエロエロカッパどもである。何故、真っ当な紳士である俺までこの場に呼ばれたのか、解せない。

『煩究煩コンテスト』とは、学園一のナイスバディ・ガールを決めるコンテストのことである。アスガム高校文化祭の裏で行われ、教師と女生徒に隠された教室で阿呆な男どもが己の目に映る最良のボン・キュッ・ボンへ一票を投じていく。見事上位にランクインした女生徒は学園内での地位が秘密裏に上昇し、不可解な権力の向上、はた迷惑な応援部隊設立などといった校内オプションを得られる。多くの大学で行われるミスコンとは違う。求めるのは顔ではない。

「私の企画するこの煩究煩コンテストには、集まってもらった皆さんの協力が不可欠なのです。」仲睦が力の入った声で言う。「皆さんには文化祭が行われるまでの一カ月半の間に、本校が誇るナイスバディな女生徒の、そのボン・キュッ・ボンを写真に収めてもらわなくちゃなりません。明日から期末テストで、それが終わったら夏休みだからって、そんなの関係なく写真を撮って撮りまくるのです。そうでもしなければ煩究煩コンテストは開くことができなくなってしまう。女生徒の中には大胆にナイスバディを見せつける子もいれば、隠れナイスバディを持つ子だっています。全ては皆さんの千里眼にかかっている!そのどこまでも欲深い桃色眼で、世にある全てのエロスをこの場に晒すのです!」

 わあああ!と部室内が男どもの卑猥な歓声で沸いた。

「と、いうわけで、これが企画の詳細です。」そう言って仲睦が配った書類には、写真部のパソコンのパスワードや、写真を保存するファイル名などが書かれていた。さらに重要なことがもう一つ書かれており、それはSUKEBE写真の売買に関する事柄だった。SUKEBE写真の売買。これは、煩究煩コンテストの裏の顔である。自分の撮ったSUKEBE写真を客に売ることができ、その売り上げは一〇〇%撮影者の手元に入って来るという。

「これ、価格はいくらでもいいの?」と誰かが仲睦に聞いた。

「ええ。価格は各々が自由に設定してください。でもクオリティに則した値段にしないと売れませんのでご注意を。」

 他に何もなければ本日は解散という事で、と仲睦は言い残して写真部の部室を出た。俺も席を立つと仲睦の後を追った。

「なあ」と俺が声をかけると「ああ、あなたですか」と仲睦が振り向いた。

「どうして俺が呼ばれたんだ?」俺は率直な疑問を仲睦にぶつけた。

「だってあなた、エロくて阿呆じゃないですか。」

エロい且つ阿呆な人が集まらなければこの企画は破滅しますよ、と仲睦は言った。

「いや、そういう事じゃなくてだな、俺は映画部だぞ?」バレー部や陸上部のように揺れる乳を見る機会も無ければ、水泳部のようにセクシーな姿を見ることもないのだ。それでいて皆の納得するボン・キュッ・ボンを撮れようものか。

「他部活の大会へ応援に行けばよいのです。」

「それは面倒だな。」

「では、あなたが映画を作ればいいじゃないですか。衣装はとびきりセクシー、演技は妖艶でいて大胆、そんな映画を撮れば完璧ですよ」

「俺はそんなハレンチ監督ではない」

「では三黒さんに被写体をお願いしたらどうですか?彼女、あなたと仲が良いじゃないですか。」仲睦がニヤニヤと笑みをこぼし、尖った八重歯を光らした。

「阿呆、こんなフシダラな企画に三黒さんを巻き込めるか!」

「とか言って、本当は見たいのではないですか?彼女のあられもないハレンチな姿を。」ずむむむ、と凄みのある表情で仲睦が俺の目を覗き込む。やはりこいつは人間界に潜みこんだ悪魔なのだと改めて思った。

「ま、彼女の胸は関東平野よりも起伏が乏しいので、あまり期待はしませんが」

 仲睦はそう言って窓の外を見た。

「阿呆。」

だから何だっていうのだ。俺は呆れはて、この場を去ろうとした。しかし、仲睦が後ろから声を投げかける。

「映画部の部室に顔を出すんですか。あなた、僕には冷たいくせに部長さんには良い顔しますねえ。」

「部活の部長に呼ばれたんだ、暇なら行って当然だろう。」

「妬けちゃますね。僕の呼びかけには気が向いた時だけのくせに、部長から声かかれば授業中でさえ行くらしいじゃないですか。」

 そう言えば、あの人に授業中のシーンを撮ってくれと頼まれたこともあったな、と思い返す。

「あなた、人に付き従うようなタマでしたっけ?

 まるで忠犬じゃないですか。いや、タマなら猫ですか。何にせよ、まことに妬ましい。」

 ふははは、と俺は軽く笑った。

「噛みつく手はずは整えているさ。」



○三黒紗伊子の見聞 四


 期末テストが終わり、いよいよ待ちに待った夏休みが始まらんとしています。窓には陽光を浴びて気持ちよさそうに枝を伸ばした木々の緑が写り込みます。教室では今か今かと夏を待ちわびるクラスメイトの皆さんの首が、キリンの如く上へ上へと伸びていくようです。そんな、どこか浮ついたような雰囲気を纏いながら、私達のクラスはホームルームの時間に話し合いをしています。議題は秋のアスファルトニガム国際高校文化祭におけるクラスの出し物についてです。

お化け屋敷、カフェ、演劇などと、様々な意見が飛び交いますが、どの企画もクラス全員を納得させるにはワクワクさが足りませんでした。

 私の隣に座る男の子も企画に悩んでいるのか、ぽけ~とした顔で天井に架かる蛍光灯を眺めているのでした。彼の名前は若樹クルミと言います。男の子ですがクルミという可愛らしい名前を両親から授かり、本人は少々ご不満のようです。しかし、クルミ君の容姿はその名に恥じないほど可愛らしいのでした。ご両親のネーミングセンスには「あっ晴れ」と言わざるを得ないでしょう。クルミ君は身長一四〇cmほどと男の子の中でも特に小さく、女の子を含めたクラスの誰よりも小さいのです。そして赤ちゃんのようにムニムニな白い肌とつぶらな瞳からは、愛くるしさがムンムンと溢れ出します。クラスの人達からも、ふとした瞬間に頭を撫でられたり、頬をつつかれたりと、まるでクラス全員の弟のように扱われているのです。

 そのクルミ君がふいに、フフフと楽しそうに一人で笑いました。私は何か妙案が浮かんだのかと思い、「何か思いついたのですか?」と尋ねました。するとクルミ君は笑っていたことを恥じるように口元を手で押さえて「あ、ごめん、今のは、違うんだ。」と言いました。しかし、私達のやり取りを見ていた学級委員の人がクルミ君に言いました。

「クルミちゃん、何かアイデア浮かんだの?」

 ちゃん付けで呼ぶな!とクルミ君は怒りましたが、その訴えは誰の耳にも届きません。

「え、なになに?」「どんなアイデアなの?」「言ってみてよ!」とクラスの隅の方からも声が飛んで来ます。

「いや、アイデアって言われても」とクルミ君はオドオドしましたが、クラスメイトの期待に満ちた瞳、詳しく言いますと、可愛い弟が何やら可愛らしいことをするんじゃないかと期待してウキウキした瞳の輝きに負けたようです。たった今浮かんできたアイデアを適当に口にしたような感覚で、クルミ君は言いました。

「ど、動物園なんてどうかな?」

「「「かわいい~」」」

クラスの女子数人がそう言って笑いました。カワイイって言うな!とクルミ君が頬を膨らせました。

「動物園か、俺は好きだぜ」と男の子たちからも声が上がりました。

「いやー、でもな」「小動物限定にしたって、教室でやるには限界があるな」「うーむ」「だいたい、動物を集める費用ってどのくらいかかるんだ?」「高校生にどうにかできる値段じゃないだろう」「飼育だって面倒だぞ」「文化祭後も育てる余裕はないよなあ」「無理か」「駄目か」「却下だな」「ドンマイ、クルミちゃん」「ドンマイマインド」

しかしそこで「待って!」と女の子の張り切った声が飛び込みます。

「なんだなんだ」「まだこれ以上議論する余地があるか?」「ないと思うが?」

「待って、待って」「まずは、話を聞いて」「聞いて驚くことなかれ」「動物なんて必要ない!」

「?」

「?」「?」

「?」「?」「?」

「クルミちゃんが動物の衣装を着て檻に入るのよ!」

 むむむむ?とクラスの雰囲気が一変しました。

「クルミちゃんがコスプレするわけか」「例えばウサギとか」「檻の中でぴょんぴょん跳ねるのね!」「そして、客から与えられた生野菜をボリボリ食うわけだ」「それは面白そう!」「決まりだな」

 満場一致でした。クルミ君が小動物となって教室内をちょこまかと動き回る姿を想像すると、失礼ながら大変可愛らしいに違いないのでした。

「待ってよ!」と悲劇のヒロインのような声で、クルミ君が叫びました。「その企画、俺だけ辛すぎないか!?」そしてやるならライオンがいい!

「でも、多数決で通るぜ、この良企画は。」と学級委員が言いました。そこで私は高く手を上げ言ったのです。

「私も、カンガルーになりたいです!」



○若樹クルミの見聞 一


「やっぱりウサギじゃなくてリスにしようよ」というある女子の発言により、ぼくは文化祭でリスになることになった。柔らかいほっぺたが決め手らしい。

 放課後、グランドに出るとぼくのクラスのベランダに二人の女の子が見えた。教室に居残っておしゃべりしていたんだろうか、今はどうやら、風に当たって涼んでいるみたい。その二人の女の子がぼくに気が付いて、こちらを見て手を振って来た。そして一言二言、言葉を交わして笑っていた。きっと、「クルミちゃんがサッカーって似合わないよね」とか、そんな感じの会話なのだと思う。

 あ~、またムカムカしてきた。

 みんな、ぼくを年端もいかない小さい子として扱う。男なのに「ちゃん」を付けて呼ぶし、よく頭をなでなでする。背が低いからって、精神年齢も低いとは思わないでほしい。ぼくは夜中に一人でトイレに行けるし、立派に箸だって使える。だいだい両親からして、どうしてクルミなんて女の子みたいな名前を付けた。クルミと名付けられるくらいなら、ダイズと名付けてくれた方がまだ男らしくていい。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。でもね、別に誰がどんなスポーツやったって良いじゃないか。似合わないとか、余計なことを言うな!そんな思いを込めてボールを蹴飛ばした。

 しかし実際、サッカーをやっていく上で身体が小さいというのは不利に働く。低い背ではヘディングで空中戦に参戦することができないし、華奢な身体では簡単にボールを奪われてしまう。良い位置でボールをもらって前を向いても、相手のディフェンダーが一人いるだけで、巨大な壁にゴールへの道を閉ざされている様だった。したがってぼくは、いつも満足できるプレーを出来ないでいた。

「試合中さ、どうしてかクルミちゃんの姿を見失うんだよね。やっぱり小さいからかな?」

そう同級生の友達にからかわれた。

「ぼくはそんなアリンコみたいな奴じゃないよ!」

「まあまあ、カッカするなよ」と友達は笑う。「小さくて可愛いのだって時には得だろ?クラスの女子どもみんな、クルミにきゅんきゅんじゃんか」

「ぼくはカッコよくありたいんだ!」そう、それはRPGの主人公のように。

「無理無理、たとえ勇者の剣を持ったって、クルミは敵に捕らわれるお姫様にしかなれないさ」

 なんだと!? ムキ~ッ!! とぼくは怒りを露わにしながらサッカーボールを片付けて、部活を終える。それがいつものくだりだ。体育倉庫で女子テニス部の同級生から「怒っていても可愛い」と言われ、同級生の先輩が「あ、この子が例の小っちゃい子か!」と言うので、ぼくの顔が赤くなる。もう嫌だ、帰って早く牛乳を飲もう。


「でも、弱いことを身長のせいにはしたくないのでしょう?」

 それは数週間前、女子サッカー部に所属する二年生の先輩、高瀬アザミ先輩が帰りのバスでぼくに言った言葉だ。

「はい」とぼくは答えた気がする。「じゃあ頑張るしかないよ、クルミ」とアザミ先輩は言っていた気がする。

 アザミ先輩は最初から、ぼくのことをちゃん付けしなかった。だからなのか、ぼくはアザミ先輩のことが好きだ。



○先輩の見聞 五


 ついに夏休みが始まった七月某日、アスファルトニガム国際高校から十キロ離れたここ、エンセキデジコル学園の校庭では喧しい蝉の声をBGMにして高校女子サッカーの試合が行われている。校庭の端に立っているだけで熱い日差しがじうじうと俺の体細胞を焦がすのが実感できる。たぶんあと五分後には骨と皮だけになって、他の成分は蒸発して空気中に放出されていることだろう。コートの中をボールの行方に応じてクルクルと駆け回る女子達が、溶けるどころか、けして走ることをやめないのが驚きだった。やはり、三年生にとっては最後の大会となる夏のトーナメント戦だけに、力が入っているようだ。

「しかし、少し桃色からは遠くないか、高瀬アザミ」

 数日前、仲睦が俺に写真を撮るよう薦めた女子が彼女、高瀬アザミである。


 それは終業式の日のことだった。

「あなた、どうせまだ一枚もSUKEBE写真を撮ってないんでしょ。そもそもこのまま一人も撮らないつもりでしょう?」と仲睦が言った。「ぎく」なんでわかった、と俺は内心動揺する。

「あなたの考えることなんて全てお見通しなんですからね」

仲睦はニタッと笑うと、ぐぐぐと顔を近づけて来た。「どうせろくでもない正義感でも芽生えたのでしょう?」

違うと言えば、嘘となる。

後輩である三黒さんをヨコシマな目で見ないためにも写真を撮らないと心に決めたのが昨日であった。「三黒さんを悪魔の手から守れ!ハレンチな男どもを蹴散らせ!しかるのちお前も去れ!」と天からのお告げがあり、俺はそれを忠実に守ることにしたのだ、最後以外。そして三黒さんを撮らない時点で、煩究煩コンテストの企画に参加する気力はゼロに等しい。

「しかし、そうはいきませんよ」と仲睦が人間になりすました悪魔のような顔をして言った。

「これは、私が撮った写真です」

 仲睦に差し出された封筒を開けると、三黒さんが走り高跳びのバーを越える瞬間を切り取った写真が入っていた。

「オイ、これは」まさかすでに悪魔の手が及んでいるとは計算違いだった。しかし、「安心してください」と仲睦は言う。「その写真は流出させませんよ。だって彼女、全然スケベさが足りないんですもの」

確かに、背面飛びでバーを跳び越す三黒さんを捉えたこの写真は、彼女の頭から胸にかける上半身を大々的に撮り収めているにもかかわらず、ハレンチな桃色の雰囲気を纏っていない。

「これではただ、走り高跳びの練習を頑張っている女の子の写真ですよ。」関東平野、恐るべし、と仲睦がため息をついた。

「阿呆、普通だからこそ良い写真なのではないか」俺は写真を封筒にしまうと、ありがたく頂戴してカバンに入れようとした。しかし、仲睦が封筒を俺の手から剥ぎ取った。

「これはあなたがきちんと仕事をしたら差し上げますよ」

「せこい奴め」

 そう言った俺の言葉を無視して、仲睦は「あの子とかどうです?」とSUKEBE写真の被写体候補の女の子の話をはじめた。


 仲睦が推しただけはあり、高瀬アザミには阿呆な男子の心を躍らすにこと足りるポテンシャルがあった。端正な顔立ちと長く伸びた黒髪も良いが、それより何よりスタイルが抜群に良いのだ。スタイルだけで言うのならば君野木実に勝るかもしれない。180cmを超える高身長というだけで他の女子を圧倒するが、ぽよんと膨らんだ乳を持ちながらもスッとたたずむ綺麗な背中、キュッとしまった腰回り、ポン! と弾けるような可愛いお尻、それからすらっと長く伸びつつ、むちりと引き締まったふともも。彼女の素足を見たならばその美しさに魂が抜けること必須であろう。一緒にスケートリンクに出かけたい、そんな感じの美脚乙女である。

 ただ、サッカーの試合に臨む彼女の姿からは桃色の雰囲気があまり感じられなかった。高瀬アザミのポジションはキーパーであり、キーパーというのはサッカーで唯一長袖を着るポジションなのある。いくら高いポテンシャルを持っていても、それが隠されては桃色効力も半減してしまう。そして、これは全ポジションの選手に言えるわけだが、スポーツに魂を打ち込んでいるために、男を惑わそうとする妖艶さが欠けていた。

 まあ、それでいいのだ。選手なのだから。桃色なんて見せないで、ボール捌きとチームプレーで魅せてくれ。

 その時、敵チームの一人が右サイドから中央の空いたスペースに駆けこんでボールをもらった。ワアアア! と敵チームのベンチが沸く。ボールを受けた彼女は足が速く、そのままボールを持ってゴール前へ駆けていく。急いでかけつけたディフェンダーのスライディングをかわすと、スパンッと素早く足を振り、ゴールの右隅をめがけてボールを蹴り放った。鋭いボールが右のネットを突き刺す寸前、高瀬アザミの長い脚が跳ね、腕が伸び、その指先がボールを弾いた。

 ふわああ! と味方ベンチから安堵の声が漏れる寸前、俺は反射的にシャッターを切っていた。カメラの画面に目をやるとそこには、スポーツに魅せられ、スポーツで魅せた、一人の美しい女性がいた。

「SUKEBE写真とはほど遠いが、これはこれで」ありだな、と思ったところへ小学生くらいの童顔の男の子が少し恥ずかし気に声をかけて来た。

「あの、その写真、あとでもらうこと出来ませんか?」

 ん?と疑念が沸いて男の子の背負っているカバンに目をやると「アスファルトニガム」と書かれていた。

「何だ君、うちの学校なのか」ならば話は早い。「君、名前は?」

「若樹クルミです」

「若樹ね、了解。文化祭の時、西校舎三階の写真部の部室に来てくれ。怪しげな表札のかかった扉が、男にしか見えぬ桃色の妖光を放って構えられているはずだ。訪ねてくれれば、いい値で売ろう。」

「お金がいるんですか?」

「ああ、写真部の部費に回すんだ」ときまりの良い嘘をついておく。

 すると若樹少年は「お金いるのかあ」とため息をつきながら去っていった。しかし、その顔には「買いに行きます」と書いてあった。

 わははは、これはラッキーである。お金を稼げる上に新たな恋愛裁判のターゲットも発見できたのだ。

 すると、わあああ!とグランドに歓声が沸いた。どうやら、味方チームが点を決めたらしかった。



○君野木実の見聞 一


 後輩君が呑気に女子サッカーを見ていたその日、私、君野木実はテニスコートの上にいた。三年生の私にとって高校最後の大会だ。相手から少し気の緩んだような球が来たから、思い切り打ち返してやる。すると、相手のラケットが追い付く間もなく、球がコートの内を跳ねて敵側フェンスに突き刺さった。

途端に味方の応援席から「グラマラス!」「ビューティフォー!」「エキセントリック!」と声が上がる。勝手に作られていた私のファンクラブの団員からの声だ。お前ら普通にナイスショットとは言えんのか、と腹が立つ。そしてあちこちからパシャパシャとシャッター音が聞こえて来た。どこからともなく桃色の気配を感じた。

 他のテニス部員は?と観客席をチラ見すると、スマホをいじっている女子部員たちが目に映った。

「そんなもんだよね、私のテニスなんて」

 その時、バキューンと銃声が聞こえたような気がした。音があった方を振り向くと、少し癖の付いた黒髪ショートカットの女の子が、私に向かってピストルを持つようなポーズをしていた。彼女は私と目が合うと、あたふたとしながらお辞儀をして、スタコラサッサとその場を去った。

その試合を、私は危なげなく勝った。


今大会で私は三位になった。インターハイにギリギリ、届かなかった。

「惜しかったね、試合内容は今までにないくらい良かったよ」顧問の若い男性教師がそう言って私の肩に手を置こうとしたから、平手打ちでその手を弾いた。



○三黒紗伊子の見聞 五


 じりじりと照り付ける日差し、無限に青い空、みんみんと鳴く蝉、観客席からの声援、陸上競技場の赤い地面と、伝わって来るたくさんの足音、そして高鳴る私の鼓動。それら全てをぎゅっと抱きしめて、私はムキムキとパワーを生み出すのです。さて、いざゆかん、ポールにかかるバーの上!

 息を吸って、吐いて、また吸って、そして駆け出すのです。

 タッタッタッと、走り始めはウサギが小さく跳ねるイメージ。次いで、タンタンタンッとバンビが軽快に跳んで行くイメージ。そしてバーとマットの手前、グワッと水鳥が羽ばたくイメージ!

 ヒュッと宙に浮いた私の身体が弧を描きます。お腹に宇宙を感じると同時に、背中を冷たい空気がなぞります。まだここで気を抜いてはいけません。最後、子ガメが甲羅に隠れるイメージでお尻をキュッと引っ込めるのです。頑張れ、私の小さな小さなプリケツちゃん!普段は殿方の目を惹くことも出来ないほど色気に欠けるプリケツですが、今こそ、その真価を発揮する時なのです。

 いっけー!!

 ぼふんっと背中に柔らかい衝撃を受け、そのままぐるりと一回転しました。パッと上げた視線の先、バーはしっかりとスタンドの上に留まっているのです。

「イエス・エクスクラメーション!」

私はマットの上で飛び跳ねました。自己記録更新、165cm! ついに私は自らの身長を跳び越すことが出来たのです。これは銀子先輩にすぐさま報告しなければ!

 170cmに設定し直されたバーに見事なヒップアタックを決め、無様に落っこちた私は、嬉しいような悔しいような気持ちで観客席に戻り、銀子先輩の姿を探しました。

「あ、いた!」と観客席の隅に座る銀子先輩を見つけ、浮かれた様に笑って話しかける私は、恥ずかしいくらい愚かでした。

「銀子先輩、私、新記録が出せたんです!」

「……そっか、よかったね。」

銀子先輩はそれだけ言って黙ってしまいました。その時ようやく、私は銀子先輩の雰囲気が普段と違うことに気が付いたのです。それはまるで耳をたたんだウサギのように、元気のない姿だったのです。

「……銀子先輩?」

「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」

 そう言って銀子先輩は私の前から遠ざかってしまうのでした。

「紗伊子、やっぱり見てなかったか。あんた集中モードだと周り見ないもんね」と後ろから同級生の女の子、百恵の声がしました。「銀子先輩ね、160cmで失敗しちゃったのよ」

「え、本当?」私は驚きました。銀子先輩、練習では175cmくらい普通に跳んでいたのです。

「昔から本番に弱い人らしくて、去年も大会の成績が良くなかったみたい。」百恵が先ほど他の先輩から聞いた話を私に教えてくれました。

「あとで謝らないと」私は銀子先輩が歩いていた方へ目をやります。

「別に紗伊子は悪くないよ?」

「でも、何だかソワソワしてきちゃって」

「んー、でも、銀子先輩だって、紗伊子に来られても困るだけだよ」

だって、あんたはあの人に勝ったんだから、と百恵は静かに言いました。私は、何も言えませんでした。ジイジイ、みんみん、蝉の声がやけに大きく聞こえます。百恵が私の隣に座り、競技トラックの上を走る仲間を見つめていました。


しかし、しばらくたっても銀子先輩は戻って来ません。

「やっぱり心配だよ」と私は言い、「まあ、止めはしないよ?」百恵が言いました。

「探すのを手伝ってほしいな」

「言われると思った」

「百恵は一〇〇m走の選手だから」

「速く走り回って、早く見つけられるって?」

「そんな単純じゃないか」

「わかってんじゃん」

「でも、お願いしたら百恵は手伝ってくれる」

「……わかってんじゃん」

 私たち二人は陸上競技場の観客席を発つと、百恵は武道館のある方へ、私はテニスコートのある方へ、銀子先輩を探しに行きました。流石にスポーツ公園内から抜け出すことはないだろうという判断のもと、私達は辺り一帯を探し回ることにしました。ただ、いくら親しい銀子先輩といえども、地区内全域から陸上女子が集められた今日この場所で一人の女子高生を探すのは至難の業です。しかも陸上以外の大会も同時開催されているようで、難易度はかの絵本『ウォーリーを探せ』と同等、いえ、それ以上と考えらます。ああ、もっと人手があればなあ、なんて事を考えると、ふと先輩の顔が浮かんで来ました。先輩ならば持ち前のヘンテコな記憶力と推理力で、私の力になってくれる気がしたのです。

 とりあえずは、周りをよく見ながらぐるぐると歩くしかないですかね。


 そうして銀子先輩を探している時、私はテニスコートの中に見知った顔を見つけたのです。

「君野木実先輩、テニス部だったのですね」

今さらながらアスガム高校の絶対ヒロインである彼女の所属する部活を知った私は、なかなかに情報に疎いのでしょう。テニスコートを囲むフェンスの周りにはコノミファンクラブのメンバーがわらわらと集まって、君野木実先輩を応援します。しかし、「グラマラス!」とはおかしな応援ですね。

 ただ、試合に勝っているにもかかわらず、テニスラケットを握る君野木実先輩はどこかつらそうな顔をしていたのでした。

 あんな美人でナイスバディな人でも苦労することがあるのですね、そう思うとなんだか人間という生き物が道行くアリンコさんと何ら変わらないように思えたのです。私達がアリ一匹一匹を個別に認識せず、どのアリを見ても「働き者だなあ」と感心するのと同様に、神様からすればどの人間もみんな同じ顔に見えて、同じような苦労を抱えて生きているんだな、と思われるのではないでしょうか。そんなことを考えながら、私は銀色の拳銃を取り出して引き金を引いたのでした。目が合ってしまうとは思わず、少し驚いてしまいました。

 その時、少し離れた所から「さいこー、さいこー」と私を呼ぶ百恵の声がしました。私がテニスコートから離れ声のする方へ向かって行くと、百恵が息を切らしながら走って来て、ひどく取り乱した顔で言うのです。

「銀子先輩が地面に埋まってるんだけど!」

 足元から鳥が立ったかのような話でした。


 百恵に連れられて、人が行き交うスポーツ公園の中を走ります。すれ違う人達が「今からウォーミングアップ? 遅くない?」といった顔で私達の顔を見てきます。しかし、ワケを話す時間はありませんし、話したところで理解されないでしょう。私でさえまだ理解出来ていないのです。人が埋まっているなんて、とんだ大事件ですよ!

辿り着いた武道館の脇の木陰に、銀子先輩は体育座りをしていました。なんだ、無事ではないですか、百恵のとんちんかん!と思ったものです。しかし、私はハッと息を飲みました。銀子先輩の足首から先が、無いのです。スネまではしっかりとその場にあるのに、足首より先が消えています。

「消えてるんじゃなくて、埋まってるんだって」百恵が銀子先輩の足元の土を指でけずると、土で汚れたくるぶしが見えました。そこで私はおかしなことに気が付きました。銀子先輩の足元には百恵が削った箇所以外に、土を掘って埋めた形跡がないのです。埋まった足のすぐ脇で、小さな花が凛として咲いています。

「どうなっているのでしょうか、これは」

 私はつい、疑問を口に出してしまいました。

「……あはは、こうなっちゃったらもう話すしかないよね」

ずっと俯いて座っていた銀子先輩が重たそうな口を開きました。「これ、私の超能力なんだ。心の中が暗い感情に傾くとね、だんだん足が地面に沈んでいくのよ、静かに水に沈むように、音も無く、足先からヌ~って吸い込まれて行くんだ。馬鹿みたいにくだらない能力でしょ。自分の心の弱さが目に見えてわかっちゃうんだ。惨めったらありはしないよ。」

気づいている?今もまだ少しずつ沈んでいるのよ。

銀子先輩の耳にかかっていた髪がだらりと垂れて、目を隠すように額を覆いました。

 私はなんて言葉を返したら良いのかわからず、ただ俯く銀子先輩を見つめることしか出来ません。銀子先輩と一緒に練習に励んだ日々の風景が脳裏に浮かんできて、銀子先輩も私も、あれだけ練習したのに、こんなナヨナヨと弱々しくなってしまうのだなと思いました。すると、なんだか疲れた笑みがこぼれるのです。

私は太モモに忍ばせていた銀色の拳銃をバッと取り出し右手に構えます。そして左手で銀子先輩の頬を寄せ、顔をこちらに向かせるとその眉間に銃口を突きつけ、ズドンと銃弾を撃ち込んだのでした。

「え、なに?」と銀子先輩は戸惑い、「お前、何した!?」と百恵が聞きます。

「いえ、何でもないです。とにかく今は地面から抜け出すことを考えましょう!」

 二人に私の拳銃は見えていません。私は拳銃を再び太モモに忍ばせると、銀子先輩の足元の土を手で掘り始めました。百恵も私に続いて土を掘り始めました。私たちの姿を見ていた銀子先輩がやがて「普段はここまで沈んだりはしないんだけどね」と言って、自分でも土を掘り始めました。「沈んじゃう時もさ、歩いたり動かしていたりすれば問題はないんだ、一歩ごとに地表に戻れるから」

「でも、今日はボーっとしちゃったんですね」百恵がそう聞くと、銀子先輩はコクンと肯くのでした。

「土の上だけですか? 沈んでしまうのは」私が興味本位でそう聞きました。

「ううん、どこでも沈むよ。コンクリートの上でも、教室の床でも」

それは結構大変なことなのではないでしょうか。「でも、私と百恵の前ではもう沈んでいきませんよね? 能力のことを知っちゃいましたから」

「いや」と、そこで百恵が言いました。「能力が働かなくなるのは他人に対する超能力だけだよ。銀子先輩の超能力は自分に対して働く能力だから、私たちが傍にいようが関係なく沈んでいくと思う」

「そっか」

 ここまで厄介な超能力を目にしたのは初めてかもしれません。超能力は普通、あってもなくても大差がないと言われるくらい、無意味に近いものなのです。確かに、超能力者本人の日常にわずかな変化をもたらしはします。ですが、足が地中に埋まって身動きが取れなくなるなんて正直、銀子先輩の超能力は異常なほど強いものだと私は思うのです。足が抜けないまま、口元まで埋まってしまったらと思うと、背筋が凍る想いです。

「抜けた」百恵がそう言って額に浮かんだ汗を手の甲で拭いました。指先は土で茶色になっています。

「……ありがとう」銀子先輩が地面から足を上げ、固まっていた足首をぐにぐにと回しました。

その時、「お前ら、やっぱりここにいたのか」という男性の声が私たちの背後から聞こえて来ました。振り返った先にいたのは、私達アスガム高校陸上部の部長さんでした。

「もうそろそろ集合だぞ。」部長さんはそう言ました。

「よくここにいるってわかりましたね。」百恵が驚いたようにそう言いました。

「いやあ。去年も似たような光景を見たからさ」部長さんがそう言って、銀子先輩の土で汚れた運動靴を見るのでした。銀子先輩の頬が少し赤まったように見えます。

「すいません、もう行きます。」銀子先輩がそそくさと陸上競技場の観客席を目指して歩き出しました。私はその後を追おうとして、木の根につまずいて転びました。


一七時を回る少し前、今大会全ての日程が終わりました。太陽がベンチに向かい橙色の尾を引く中、私たち陸上部は競技場の脇に集合していました。顧問の先生が今日の反省と、引退する三年生に向けた感謝と激励の言葉を口にしています。そして引退が決まった部長さんが後輩に向かって胸の熱くなるメッセージを送ってくれます。その部長さんの言葉を他の三年生はそれぞれ涙を浮かべたり、ただじっと言葉に耳を傾けたりと様々な形で聞いているのです。三年生の皆さんは今、部活動が終わったという事実に浸っているのでしょう。まだ、私にはわからない感情です。

「それで次期部長と副部長だが」と顧問の先生が話を変えました。「新部長は宇佐銀子、新副部長は黒部長介に任せたいと思う」

「えっ?」銀子先輩が声を上げました。

「三年生と話し合って決めたことだ。二人に頑張ってもらいたい。」

 パチパチパチパチと拍手が起こる中、銀子先輩の足がコンクリートに吸い込まれ、わずかに地面に沈んだのでした。


「やっぱり、私が部長では駄目ですよ」

 みんなが帰り支度を始めた頃、銀子先輩が顧問の先生にそう言ったのが聞こえて来ました。部員の皆の手が止まり、銀子先輩に注目しました。

「どうしてだい?」と顧問の先生が聞き返します。「三年生たちは宇佐の真面目さと優しさを買い、君を推した。そして俺も同意したよ。」

「真面目でも優しくても、私では駄目なんですよ。」

 顧問の先生は、真っ直ぐに銀子先輩を見て言った。

「十五年ほど前、ロックンロール業界で名を馳せたドラマー『ゲイル・ズィーカー』って奴が言ったんだ。ロックンロールに魅せられるのは簡単で、ちゃらんぽらんヤンキーだろうとボンバーヘッドおじさんだろうと、関係なく魅せられる。でも、ロックンロールで魅せる奴は、結局、真面目な奴にしか無理なんだ。魅せるために必要な技術をその身体に叩き込み、刷り込んで、沁み込ませ続けられる奴のみが、真のロックンロールを奏でるに至れる、と。」

 顧問の先生の言葉に対し、銀子先輩は俯いたまま、ぼそぼそと口だけを動かして、答えます。

「先生、私、その人、知っています。お父さんが好きで、よくその人のバンドの曲を聞いています。実はその言葉は、交際相手の親がロッカーであるゲイルを認めず、結婚できなかった悔しさから出た言葉なんですよね。俺は真面目だ。真面目に彼女を愛しているんだっていう、ゲイルの心の訴えが私の父にも聞こえたそうです。相手のお腹には子供がいたって噂でした。」

 真面目だからって、上手くいく保証なんてどこにもないじゃないですか。銀子先輩がそう言っているように、私たちの耳には聞こえました。それ以降、銀子先輩は一言も口にしませんでした。顧問の先生も、もう何も言いません。競技場からの帰りはとても静かなのでした。早く電車が来ないかな、なんて駅のホームで思ってしまった私を、どうか許してください。

 そして一日休みを挟んだ翌々日の練習に、銀子先輩は姿を見せなかったのでした。



○先輩の見聞 六


 夏休みもすでに三週間目に突入していた。各部活で大会が進められ、勝ち残っている部活と、負けて世代交代した部活が半々といった具合だ。

 そんな真夏の暑さの中、俺は写真部の部室に来ていた。エアコンが無い部室は蒸し暑くて仕方がない。まるで小籠包のように蒸され、今に謎の汁を噴き出して死ぬやもしれない。一つだけある小さな窓は開けているが、それでも気が休まらないのは想像に容易いだろう。さらに、今、俺が手元で動かしているパソコンのハードディスクがウンウンと唸って熱を発しているものだから、室内の熱量はさらに上昇する。俺以外にも部室に数人の男たちがいて、同じようにパソコンを起動させているためさらに余計に熱量が上昇する。しかも男たちがハードディスクに保存するのはモンモンと桃色のエネルギーを溢れさせるSUKEBE写真である。桃色のエネルギーにあてられた男たちが、その心に秘めたるハレンチシズムを熱くたぎらせている。したがって室内温度計は41.7℃と阿呆な数値を叩き出していた。

「プールに行きたいなあ」

 横の男がそう嘆いていた。とても同意である。

「しかし、なあ」

俺は己の癖毛をむしるように引っ張り、部分的直毛男子となって目の前の画像を見やる。パソコンの画面に映し出されているのは、百の男の意中に必中、君野先輩の姿である。

 それはテニスのユニフォームを着て、ボールを打ち返す君野先輩の姿を映した写真であった。俺が高瀬アザミの写真を撮っていた同じ日に撮られた写真である。仲睦は部活の情報に疎い俺を出しぬき、俺一人に高瀬アザミの写真を撮りに行かせ、自分は他の仲間と共に君野先輩のナイスバディを拝みに行っていたわけだ。いかにも業が深い。

後日、問い詰めに向かうと「私はあなたを信用しているのです。」と仲睦は言った。

「高瀬アザミの潜在的な桃色を引き出せるのはあなたしかいないと思ったからこそ、依頼したんですよ。」尊敬の「そ」の字も無い、したり顔であった。

「貴様、おだてれば許されると思うな! 俺だって君野先輩の姿をこの目に映したかった」

「あら、珍しく己が欲求を晒しましたね。このハレンチめ!」

「そう意味で言ったのではない。応援しに行きたかっただけだ。」

「うそつき。大会の日程すら知らなかったくせに。」

クヒヒヒと仲睦が笑った。言い返せなくなった図星男は、そこで仲睦と別れたわけである。

 ただ、やはり残念なことがあった。パソコンの共有フォルダーの中にある君野先輩の写真の質があまり良くないのだ。

「まともな写真はたったの一枚」

ブレたり、ピントがずれたりしている写真や、画面から顔半分が切れてやけ胸だけ強調された写真が多く、まともに君野先輩を撮れていないのだ。唯一惹かれた一枚は、給水ボトルをとろうと屈んだ瞬間に襟元から覗かせた綺麗な鎖骨と柔らかに描かれた胸のYの字をとらえ、かつ、君野先輩のスマートな顔立ち、額をつたう一雫の汗、風にあおられる前髪の一本一本をハッキリと写した、仲睦の写真だけである。


「まあ、及第点と言ったところです」

アスガム高校近くのコンビニの歓談スペースで、仲睦はその写真の出来をそう語った。パソコン室の熱さに耐えかねた俺がアイスクリームをなめている所へ偶然、仲睦が来たのだ。

「君野木実の桃色はあんなもんじゃないですよ。我々はあの人から怒濤の勢いで溢れ出す桃色ラッシュを、最高の形に具象化しなければならないのです。そうでなければ、あの人と出会った意味がない」

仲睦はアイスクリームが溶けるくらい熱く語った。概ね、ムネムネと言葉を並べて胸のことを語った。こんなにも熱く語るのだが、当の君野先輩がこの話を聞こうものなら氷点下待った無しという気概で体温が下がるだろう。背筋が凍る思いを通り越し、常温でコールドスリープしかねない。仲睦の桃色に対する向上心の高さは見習うべきかもしれないと思うが、見習って桃色を究めようがその先に待っているのは「変態ヤロウ」という汚名だけだと気が付く。

「それにしても、お前以外の写真は酷くないか?」

俺がそう言うと、仲睦はそれほど気にしていない様子で「仕方ないですよ」と言った。

「君野木実が躍動的に動く姿を直に見るとですね、みんなして我を忘れて魅入ってしまうわけです。気が付いた時にはシャッターチャンスは過ぎ去っている。ぐひ、滑稽なこと。あの桃色は高校生にはレベルが高すぎるんですよ。もっといろいろと経験を積んだ方でないと駄目です」

 お前は経験を積んでいるのか?

そう突っ込みたくなったが、はぐらかされるだけだろうと思い止めた。

「かといって、他の者に高瀬アザミの写真を撮らせても、あなたのように上手くはいかない」仲睦はニタニタとこっちを見て笑った。

「俺だって別にうまく撮れたわけじゃない」

「確かに、格別な桃色とは違いますがね」

 仲睦が話す高瀬アザミの写真は、俺が試合中に撮った写真ではない。試合が終わり、ユニフォームから着替えた高瀬アザミとその友達が、水道の蛇口からコポコポ溢れ出す水と戯れている写真である。高瀬アザミはTシャツにハーフパンツといった格好であり、Tシャツの袖を肩までまくり、まだ日に焼けていない白い肌と焼けた小麦色の肌、その境目が露わになっている。

「それだけじゃないです。むしろそっちは付属品と言っていい。あの写真の素晴らしさはやはり何といっても脚ですよ。水がかからないようハーフパンツをたくし上げる稀有な姿に、その下から現れる白い太モモ、そしてソックスを脱いで水に濡られた長く美しい素足!

やはりあなたを向かわせて正解でしたよ。彼女の最も美しい部分を的確な構図と明るさで包みこむことで、思わず男に目を向けさせる桃色の輝きを生み出している」

 やはりあなた、ド変態ですね? と仲睦が問う。

 阿呆、この俺が変態なわけあるか。しかもドが付くなんてあり得てなるものか。

「陸上部も同じ日に大会だったと聞いたのだが、そっちの写真は誰か撮りに行ったのか?」

俺は話題を変える。

「安心してください、桃色に取りつかれた阿呆はあなたの他にもいますから。彼はあなたのようなカメラ技術はないですが、時々ミラクルを起こしてくれるのですよ。根っからのラッキーボーイです」

 ほへえ、とぼやいて、俺はアイスクリームの最後の一かけらを口へ放り込む。



○君野木実の見聞 二


 テニス部を引退して以来、私はろくに身体を動かさずベッドで寝転んだり、気が向いたら勉強に手を付けたりといった生活をしていた。すると、今までそれなりに保っていた運動能力がみるみる失われていくような感覚になり、何となく外へ出たくなったわけだ。テレビでは、最近になって近所で相次ぐ発砲事件の謎に迫っている。死人は出ていないものの軽傷者はいるという話だ。未だ犯人は逃亡と犯行を繰り返しているようだった。「心配でしょ?」と問われれば「まあ、そうだ」と答えるくらいには興味を持つが、あまり明るい話題じゃないから、見ていてもつまらない。

 荷物を肩にひっさげて玄関から外へ出ると、向かいの家に住む中学生の男の子と目が合った。男の子は「こんにちは!」と少し上ずった声であいさつすると、急いで自転車に乗ってどこかへ消えた。私は何も言わずその姿を見送った後で、彼が歩いていたあたりの地面を撫でてみる。

「うわー」と思わず声が出た。どうやらその中学生は二週間後、私に告白するらしい。時々あいさつするだけの関係だろう、どこに勝算を見出したんだ、あいつ。

「・・・・・勝算、ですか」

そう口にして、後輩君が阿呆面で空を眺める風景が思い出された。いつかの、名前も知らなかったような男に告白された日、またも私の隣で恋愛裁判をやっていた後輩君が去り際に言っていた言葉だった。

「告白を試みる男の脳内に限って言えばですが、勝算なんて、最初から有って無いようなものなんですよ」

 何も達成してないくせにどこか達観したようなその後輩の口ぶりを思い出すと、フッと、笑いが込み上げて来た。



○三黒紗伊子の見聞 六


 若い男が真正面を向いて叫ぶ姿が、テレビの液晶画面に映し出されます。

「『なせば成る』なんて、そんなカッコイイこと言える奴なんてのはね、実は頭の中がお花畑なんだ。この世の中にはね、なにしても、なにしても、まったく成せない人がたくさんいるんだ。そしてその人たちにはもうこれ以上、成す術なんて無いわけだろう? そんな辛い心境の時に『なせば成る』って言われてみろ。残っていた力の全部が抜けきって、もう立ち上がることも出来ない!」

 初めて見た、先輩の作った映画のDVDを見ているのです。悪役の青年が主人公と対決する直前に放った言葉です。この言葉を聞いた時、私はズッキューンと胸を撃たれたのです。何度聞いても、胸がズンと重たくなります。

 そうなのです、この世に生きる人たちは、本当は、みんな頑張っているのです。でも、結果が伴わなくて「駄目なやつだ」と言われ「怠けるな」と言われるのです。一日一日を頑張って生きて、ちゃんと疲れているのに「人生を無駄にしている」みたいなことを言われるのです。それはとても辛いことです。

では、『成す』とは何なのでしょう。

 テレビの中で悪役の男は言いました。

「それでも『成せ』っていうから俺なりに考えて成してみたのさ! そしたらお前らは、寄ってたかって俺を悪と言う!」

 よく見れば先輩なのです、この悪役を演じている人は。分厚い化粧でやけに肌が青白く、髪型もカツラを被っているので長く、髭も濃いですし、声色も変えているので一見誰なの判断できないのです。しかし、一シーンだけ、髪が流れる瞬間を切り取ったそのシーンに映る瞳を見ると「あ、先輩だ」と気が付くのです。阿呆なことを全力でやってのける先輩の淀んで、淀んで、淀み切ってしまった瞳を見ると、いつも、胸がぎゅーっとなるのです。銀色の弾丸を撃ち込んでやりたくなるのです。

「殺したいならそうしろ」ざあざあと降り注ぐ雨の中、先輩がそう叫びます。「でもな、死してなお、俺は変わらないぞ。生まれ変わってもまた阿呆な子供として学校生活を送り、人には見せられない成績で卒業して、でもそんな俺にも何か出来ることはないかと社会を歩き回って、あ、やっぱり俺はダメな奴なんだと悟って、それでもただ死を待つなんてことは出来なくて、醜く足掻きながら日々を生き抜くのさ。そしてまた、お前らみたいな奴に抹殺されていく。存在ごと! 生きていた証ごと!」


 話は一八〇度変わりますが、私には小さな弟がいます。その弟が、朝から「プール! プール! お姉ちゃん、プール!!」と騒ぎます。お昼ご飯の焼きそばを食べても、眠くなる様子がなく「プール」を懲りなく連呼します。次第に「プール」が「フール(fool 英訳:馬鹿)」に聞こえて来まして、「お姉ちゃんフール」と弟に言われると、ムキー!! となるのですが、英語を知らぬ弟に文句のつけようはなく、このやりきれない怒りを消すにはプールに向かうしかないのか、と最終的に弟の思惑通りに事を運んでしまうのでした。

 しかし、行ってしまうとなんだかんだと楽しんでしまう性分な私は、ジリジリな日差しの下でワシャワシャと弟と水をかけあって遊ぶのでした。

「呑気なものね。」と私は水中に全身を沈めながら、そう思いました。プールの底、と言っても児童用プールですので水深五〇センチもないのですが、その水底からゴーグル越しに上を見ると、青と白の揺らぎが一面に広がって、やさしく私を包んでいるのです。水は音もまた遮断し、外の喧騒から私の耳を塞ぎ、穏やかな空間を作り出します。

まるでこの世じゃないみたい。

横を向くと無数の足が見え、それら全ての足が楽しそうにステップを踏んでいるのでした。

そこへブクブクブクと音を立てて弟の小さい顔が現れました。私を追って水中に顔を埋めたようです。キャッキャと笑っている表情が本当に愉快気でして、ずっとこんな顔をして笑える弟であって欲しいなあと、姉らしいことを思います。しかし、弟が私の上に乗っかって座るものだから、私は慌てました。待って! もう息が続かない!!

 私はくるんと身体を回して弟を振り払うと、バッと顔を上げました。

「児童用プールで溺死は恥ずかしいですよ流石に。たとえ、あんぽんたんな私でも」

 ぜぇ、はぁ、と肩をゆらします。弟はと言えば私の動きにビックリして水を飲んだようで、ぎゃふっと咳き込んでいましたが、顔は笑っていました。小学生にもならないのに、弟にとって水は良きお友達でした。私が幼稚園生の頃なんて親に支えられていたとしても、半身が水に浸かろうものならギュウッと目を瞑って、辺り一帯にじたばたと、バシバシと、シャドウボクシングをしたものです。史上最年少の女子プロボクサーになれるとちまたで話題の女の子でした。ほわちゃー。



○先輩の見聞 七


「皆でプールに行くことになったみたいですよ」

仲睦がスマホの画面を見て言った。

「皆って、いつも写真部にいる阿呆な男どものことか?」

「それ以外に誰がいるっていうんです? あなたの周りに」

「自分には他にもいるみたいな言い方をするな」

「なんだか不機嫌そうですね、乗り気じゃないのですか? プール」

「男だけで行った所で何が生まれる」

「あなたの場合、女性と行っても何も生まれないでしょ」

「△○※◆□●🍃🍂🍁◎★ 💢 💢 💢!!」

「プール行きましょうよぉ、フール」

「おい、今、馬鹿って言ったろ」

「一四時に現地集合ですって」

 はいはい、一旦家に帰って水着をとって来ますとも。



○若樹クルミの見聞 二


 八月十日、お盆前の最後の練習日となるこの日は毎年、午後からサッカー部全員でプールに行くという恒例行事があるらしい。したがってぼくも同行するわけだ。

 ぷはっとぼくは水面に顔を上げた。ゴーグルを外すとお日様が森の木々を照らし、生い茂る緑の葉を艶やかに光らせる、なんてことはまるでないのだけれども、気分的にはそんな感じだった。ぼく、若樹クルミにはそんな、ちょっとした想像力がある。妄想とは言わないで欲しい。五〇メートルプールのはじっこにもたれかかって、ぼくはフーッと大きく息をはく。しばらく泳ぎっぱなしだったから、息が上がっている。少し深いこのプールのはじっこでもたれかかると、泳ぐ動作をしなくても足が水中に浮くので楽だし、楽しい。ただ、近くのプールサイドにいた子連れのママさんたちが「あの子の泳ぎ、見た?」「見てた見てた」「小学生なのにすごい速かったね」「しかも結構長く泳いでいたわね、小学生にしては。」と話していたのがムナシイ。

「遊びに来たのに練習?」

 突然、頭上から声がかかる。ビックリして顔を上げると、長く綺麗な素足が目の前で日差しを浴びて煌めいていた。

「アザミ先輩」

そう、かろうじて声が出て良かった。黙って女の人の足を見ていたら変態の極みだ。黙ってなくても見ているだけで変態だけれども。

 目の前に立つアザミ先輩はもちろん水着であり、それほど露出度の高い水着出なかったとはいえ、ぼくの心臓はのど元まで飛び出して、戻って来なくなった。しっとりと濡れた姿がなんだか色っぽくて見惚れてしまう。ぼくは、お餅をぷくんと膨らませてしまうくらい熱で頬が赤まる、稀代のシャイボーイなのだ。したがって、もったいないと自覚しながらもつい目を逸らしてしまった。でも、真っ赤っかな顔を見られるよりはいい。

 しかし、アザミ先輩はじっとぼくを見て来る。……んー? …なんで? ……ど、どうしてだろう、なんだかとても恥ずかしいよ。顔がどんどん赤まっていくよ。アザミ先輩、はやくどこかへ行ってくれないかな、でもこのまま一緒にいれたらいいな。うああ、顔が熱い。プールの中に沈んでしまいたい。でも今そんなことをしたら変な人だと思われる!

 アザミ先輩が肩にかかる濡れた黒髪を手で優しくはらう仕草をするのがわかった。

「遊びに来たのに練習?」とアザミ先輩が首をかしげた。

 あ、そうか、質問されていたんだった! 二回も同じことを聞かせちゃったよ!

「練習というか、プールに来た時の癖と言いますか。」

 ぼくは、小学校を卒業するまでサッカーに加えて水泳を習っていて、純粋に泳ぐことが好きになっていた。したがって友達とプールに来たりするときでも、皆が休憩している間に一人で五〇メートルプールを何往復か泳いだりしている。そういうような話をするとアザミ先輩が「変わってるね」と言った。

「でも、理由がわかったよ」

「理由ですか?」とぼくは思わず聞いた。

「クルミって一年生の中だと持久走いい方でしょ。身体小さくて軽いからなんだろうなと勝手に思っていたんだけど、ちゃんとした理由があったんだね。」

 何だか少し、照れくさい。しかしすでに頬は赤い。

「でも、水の中が好きだとは意外だった。クルミはてっきり、森の中が好きなんだと思っていたから」

「え? どうしてですか?」

「だって、リスになるんでしょ?」

あまり笑った顔を人に見せないアザミ先輩の目が少し細まり、口もとが緩んだように見えた。

「なりたくてリスになったわけじゃないですからね!」

 でも、文化祭では見に来てください、と、言え! それくらい言え! ぼく!!

「おーい、クルミ。一番デカいウォータースライダーやりに行こうぜ!」と男友達の声がかかって、ぼくはのど元まで出かかった言葉を引っ込めてしまった。ついでに飛び出したままだった心臓も戻した。

「うん、行く」とぼくは小さく肯いた。

「アザミ先輩も行きましょうよ!」と女子部員たちも集まって来た。「来てください」「行きますよね?」「レッツ・ゴー」「はやくはやく」「浮き輪に乗って滑るんですよ!」「絶対楽しいですから!」「カモンカモン」とあちこちから声が飛んで来た。「わかった、わかった」と応えるアザミ先輩

に「わーい」と歓声が上がる。


 男友達が雄叫びを上げながら穴の中へ落ち、勢いの強い水流にのまれていく。いよいよぼくの番だという次の瞬間、幸か不幸か、ウォータースライダーの係員は奇跡の言葉をぼくに言った。

「ごめんねー、小学生以下は一人じゃ滑れないんだ。浮き輪が大き過ぎるからね。」

 後ろの女の子たちが笑いを堪えて口を抑えるのがわかった。ぼくはもう恥ずかし過ぎて言葉が出てこないし、悔しいのもあってだんだん涙が溢れそうになって来た。そんな時、ぼくの肩にポンと手が置かれた。

「あの、すいません、私たち姉弟なんです。」

 突然、アザミ先輩が後ろからそう言ったんだ。

「あ、そうなのね、じゃあ一緒に乗って」

係員は疑うこともなくぼくとアザミ先輩を浮き輪へ誘導する。

 後ろにいる同級生の女の子たちがポカンと口を開けている。ぼくだってそうだ。ただ一言「まじかいな」と心でつぶやく。

 その後、ぼくがどのような心境で浮き輪に乗り、水に流され、身体を揺さぶられ、心を揺さぶられたのか、詳細を語ることはやめておきます。スライダーから飛び出してプールに着水する瞬間に、アザミ先輩の両足がぼくをぎゅっと締め付けたこととか、それをどこかで見たような男子高校生、カメラとかが好きそうな男子高校生達に羨ましそうに見られていたこととか、友達にも、親にも、誰にも、絶対に話すものか。話せるものか!

 ザッパァーンと、盛大に水しぶきが上がった。



○先輩の見聞 八

 ザッパァーンと、盛大に水しぶきが上がった。

 その光景に、俺は羨望の眼差しを向けざるを得なかった。

 何が悔しいかって、素直に見惚れてしまった。ただ、それに尽きた。


 そうかい、そうかい、阿呆なのは俺の方だってかい? 

 俺はブツクサと文句を垂れたい心持でプールを泳ぎ、すぐに疲れたのでプールサイドの端に座った。他の男友達はプールに来なかった。否、ここのプールには来ずに、別のプールに行っていた。電車で二〇分くらい行った街にある、ウォータースライダー付きのちょっと御高い私営プールに行っていたのだ。一方私が来たのは五〇円で入れる御近所の市民プールである。スライダーどころか流れるプールもない。水着をとりに一旦家に帰った俺は、十五分ほど遅刻した。入り口にはもう誰も待っておらず、すでに中に入ったのだろうと思い、すぐに五〇円を受付に支払って更衣室へと入った。そそくさと着替えをすましてプールへと駆け出した。

 そして、男どもがいないことに気が付いたわけだ。ブー、ブー、ブーと音を立てて、防水パックに入れたスマホが震えた。

「もしもし?」

「仲睦か」

「あなたまさか、市民プールの方へ行きましたね?」

「予想できたならもっと早く言ってくれ」

 まったく、わざわざ電車に乗って私営プールに行くとは、高校生のくせに御高く留まりやがって! そう喚いてみると「市民プールごときにナイスバディガールがいるもんですか。桃色思考を巡らせれば、普通に考えてこっちに来ますよフール」と言って切られた。


 プールサイドに座り込んでボケ~っとしながらプール一帯を見回すとたしかに、若い女なんてのはいないに等しい。ほとんどの客が親子連れであり、子供用プールはスクランブルエッグのようにわちゃわちゃだ。そして少数のご老人方が二五メートルプールで泳いでいる、のではなく、歩いている。

 たしかに、男子高校生には刺激の小さいプールであった。

 そんな時だ。ザッパァーンと盛大に水しぶきが上がった。ウォータースライダーなどない、ただの二五メートルプールで、そんな水しぶきが上がることなんて滅多にない。飛び跳ねた雫の球が透明に輝きながら、俺の頬を濡らした。しかし、まばたきなど出来なかった。飛び込んできた光景に、羨望の眼差しを向けていた。目の前のプールから人影が浮かび上がったかと思うと、白く大きく、それでいてマシュマロのように柔らかそうな物体が目に入ったのだ。その物体は両脇から赤い三角の布生地に包まれ、不可思議で神秘に満ちた谷間を作る。そして手を伸ばせば届きそうなくらいの所でぷるぷると揺れた。純粋に桃色に狩られた。それがどうにも悔しかった。

「どうした後輩君、お母さんとはぐれたのかい?」

 君野先輩がニッと笑った。

 おいおい、仲睦、話が違うぜ。

彼女は潜水までしてプールの底から忍び寄り、俺を驚かせようと水面に飛び出したらしい。意外だった。この人にも、他人と戯れたりすることがあるのだな。そう感慨深くなったのだ。

 君野先輩は水滴をはらうように一度、首を大きく振った。すると幽玄な青空を引き裂くように、君野先輩の長い黒髪がしなって宙を舞った。再び、一粒の水滴が俺の頬に当たる。わざと当てたようだった。君野先輩のくちびるにわずかな隙間が生まれていて、微笑していることが知れた。その瞳は、空の色を吸い込んで青く染まっている。その瞳の隅に俺が映っている。己の中にある嬉々とした感情に気付いたと同時に、馬鹿だなと思った。頬に付いた水滴が音も無く落ちていった。

 その時あたりからだ。青春の歯車がカラカラと回り始めたのである。



○君野木実の見聞 三


 少し驚いたような顔で、後輩君は私を見つめた。どこを見つめていたのかについて語る余地はない。何故なら彼は変態だから。

「あきらかに場違いですよ。」後輩はそう言った。

「どうして?」という私の質問に、彼は答えなかった。断固として答える意志を持たなかった。

「ところで後輩君、君こそどうして、一人ぼっちでここにいるの?」

「友達とプールに行くことになったのですが、行き先が違いまして」

「阿呆なの?」

「反論はしません」

 後輩の隣に人間二人分くらいの間隔をあけて座った。

「テニスの大会、三位だったそうですね。」後輩君が前を向いたまま言った。

「おめでとうございます。」

「どうも。」と私は簡単に応える。「インターハイには行けなかったけどね」

「十分すごいですよ。俺なんて、どこに行こうともしていませんから」

「映画は? 賞とか狙わないわけ?」

「あれは、ただの感情表現です。賞を取ろうとか、そんなことは考えていない」

なにそれ、意味わからない。

「じゃあ、水着写真の撮影は?」そう聞くと、後輩君は面白いくらい簡単に慌てた。

「阿呆なことを口にしますね、何の話ですか?」

「てっきりそういう目的でプールに来たのかと思って。」

「君野先輩は、俺を仲睦と同類の生物として考えているようですが、違いますからね。DNAからして、一つも同じものがありません。」

「それ、どちらかは完全に人間じゃないけど?」

「ええ、俺が人間で、奴は悪魔です。」

 ほんとこの人、馬鹿みたいに意味がわからない。

「でも、写真は撮るのでしょ? その首からかけているスマホとかで」

 ほら、やっぱりハレンチだ。そう言ったら彼は「友達との写真を撮ろうと思っただけですよ」とかぶりをふった。

「じゃあ、私を撮ってよ。」

「え?」と後輩君が声を漏らした。喉から出たとは思えない、素っ頓狂な響きだった。顔は驚きで固まっていた。彼だけじゃない。私は私で、困っていた。まるで、小学一年生みたいだ。元気いっぱいに手を挙げたが良いものの、先生に指されると急に黙り込んでしまい、結局「わかりません」と言って席に座る。本当に、謎の行為。

 ふたりはしばし、無言で互いの顔を見合っていた。やがて後輩君が手を動かし始め、スマホのカメラを私の前で掲げた。

 レンズに映る自分の顔が、見たことないくらい、ヘニャッと曲がっている。すごくブサイクだった。



○三黒紗伊子の見聞 七


 流石の夏休み、十六時を回っても日差しギラギラ! 水面はキラキラ! でもって喉はカラカラ! そんなわけで私は泳ぎ疲れてヘトヘトになった弟をつれて、自販機へ向かって歩きます。

 自販機の前に着くとちょっとした列が出来ていました。みんな考えることは同じかあ、と物思いに耽っていますと、向かいのプールサイドに座っている男の人が目に入りました。水に濡れているにも関わらず、なおもぼさっと伸びる髪の毛に「先輩ではないですか!?」と内心驚きます。ここで会ったが百年目、そのオマヌケな脳天に銀の弾丸を撃ってあげようと、内モモに携帯している拳銃をとって構えました。

 すると、銃口の先にもう一人、女の人の姿が見えるのです。本当にそれ、日本人のモノですか? と問いたくなるお胸を、鮮やかな赤い三角の水着がグラマラスに覆っています。その女の人が顔を横に向けて、私の視界にはっきりと顔を映した時でした。

 プツンと、ステージライトが切れるように私の視界が陰ったのです。見上げると空に一つだけある小さな雲が、ちょうど太陽を隠すように流れている所でした。

 手に持つ銀色の拳銃が、突然重たくなって、構え続けることが出来なくなります。だらんと手が下へと垂れて、拳銃を持っているのがやっとでした。

 だんだんと、目に映る先輩たちの姿が小さくなっていきます。

「お姉ちゃん、前」と弟が手を引っ張って私を列の先へ促します。

「ああ、ごめん」

私は自販機の方を向きました。向いてしまうとなおさら、背中越しの先輩たちが小さく感じるようでした。いや、違う。先輩が小さくなっているのではなく、私が遠ざかっているのだと気が付いた時にはもう、手元から拳銃は消えていました。

撃ちたいと思った時に撃てないなんて、初めてでした。

 太陽を隠していた雲が、いつの間にか遠くへ流れていました。それでも、どこか視界が暗いのでした。



○先輩の見聞 九


「君野先輩は、芸能人とかにはならないでください。」

スマホの中に保存された一枚の写真を見ながら、俺はそう言った。

「…………なんで?」と君野先輩が問う。

「きっとあなたは、立つ場所に立てば、たくさんの男の心を支配できてしまう。その掌握力はおそらく、あの邪馬台国の女王・卑弥呼にも勝るでしょう。そんなあなたが男を先導して反乱を起こそうものなら、この国は終わりです。」

「反乱って、何それ。突然すぎ」君野先輩はそう言って、ケラケラ笑ってしまった。

 ふと前を向くと自販機が目に入って、さっきまでそこに見知った誰かがいたかのような気がした。でも、それが誰なのか、そもそも、どうしてそんな気がしたのか、あんぽんたんな俺にはわからない。

 ただ、歯車は回りだした。風が吹いても吹かなくても。



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