Act.3 とても君には見せられない駄作
○先輩の見聞 十
蛇の皮を見たのは、プールに出かけた翌日のことだった。その日は文化祭運営委員に知られないよう秘密裏に進めている映画作品の撮影日であり、アスガム高校近くの公園にまで足を運んでいた。その映画の内容について、今は多くを語らないでおく。三黒さんにも伝えていないほどひっそりと企画を進行しているのだ。
撮影場所の公園の藪の中から、その蛇の抜け殻を見つけた。脱皮したあとの、鱗だけを写したその斑点模様が妙に綺麗だった。普通、蛇の抜け殻は白色だと聞いていたが、その脱皮後の皮は僅かに黄色味を帯び、太陽の光に通すと黄金色に輝くようで、より神秘的な印象を受けた。
「オークションで高く売れたりしませんかね」
蛇の抜け殻を見つけた当の本人、映画部一年生である後輩の植草君がそう言った。
「僕、こういうの詳しくないですけど、一部のマニアには受けるんじゃないですか」
「君はまだ十六にもなっていないのに、口を開けばカネ、カネ、カネ。青春をなんと心得るか」
没収だ、と俺は植草君の手からその蛇の皮を剝ぎ取った。植草君は呆気に取られて答える。
「その言葉、先輩だけには言われたくない一言の五本の指に入りますよ」
ふん、と俺は鼻を鳴らした。「他に何と言われたくないのだ」と聞いてみる。
「うーん、『水虫にやられろ!』とかですかね?」
「それは誰に言われたって嫌だろう」
そう言いながら再度蛇の皮を太陽の光に当てたときだった。俺はその蛇の皮に奇妙なものが付いていることに気が付いた。それは蛇の体にひらひらと金魚の尾びれのように張り付いていた。
「これ、手足ではないか?」俺は植草君に突き返すようにして見せた。
当然、皮だけになっているが、見れば見るほどそれは手と足だった。しかも、トカゲのような手足ではなく、むしろ人間の赤子に近いような形をしている。
「何言ってるんですか、さっき僕が見たときにはまっさらで細く長いだけの抜け殻でしたよ。」
いつも先輩にどやされる僕でも、流石に蛇に足がついていたら気付きますって。植草君はそう軽く流して、映画撮影の準備に戻ろうとしている。
「いや待て、見てみろよ」
「はいはい、じゃあ、蛇ではなくてトカゲだったんですかね」
もうこちらに構うつもりはないと言った様子で、植草君はカメラの調整に入ってしまった。
俺は手に余したその蛇のような生き物の抜け殻を、捨てるのも縁起が悪い気がして自分のカバンに入れた。植草君のカバンに入れてやればよかったと家に着いてから気付いた。
変な夢を見るようになったのは、その蛇のような生き物の皮を拾ってからだったと思う。その変な夢は、思い出すように時々見るのだった。そして内容が少しずつ進展していくのである。まるで少年誌の週刊連載のようだった。夢を見始めた最初の頃は起きると内容を忘れていたが、いつの日だったか、俺がその連続する夢の話を傍観していることを自覚した。その時、この夢の物語を脚本に起こしてみようと考えたのだった。ふと数年前の、まだ中学生だった頃の話も思い出した。
「人が人じゃなくなる瞬間って、いつだと思う?」
中学生の時の担任の先生がそんな質問した。頭の足りない俺たちは頭上にクエスチョンマークを浮かべ、キョロキョロと周りをうかがったわけだ。そんなとき、一人の女の子が言った。
「夢を見ている時です」
ふむ、面白い考えだね、と先生が言って、話は終わった。手を挙げた少女は、次の春頃から姿を見なくなった。クラスの中でもほとんど関わったことがなく、俺の脳内メモリには今現在、その子の声が思い出されていない。彼女を見なくなってからしばらくして、俺はその子が本当に実在していたのか、怪しむようになった。俺がただ、学校に通っている夢を見ていて、その夢の中の学校にだけ現れた、想像の女の子なんじゃないかって思ったのだ。初めてそう考えた時、ぶるっと肩が震えたのを今でも覚えている。ただ、彼女の言葉の文字列だけはどうしてか頭の片隅にあり、つい、考えてしまう。夢を見るとどうして、人が人じゃなくなるだろうかと。
そんなわけで、夢に見て、夢を見た話をしよう。他人の見た夢の話ほどつまらないものはない、とはよく言われるが、全くその通りだと思う。しかし、見てしまって、覚えてしまっている夢というのは、どうも誰かに話したくなるものである。普段から人との交流を断っている一匹狼のような奴も、この衝動には勝てず、珍しく人の輪に入ってしまう。
「それは、阿呆らしいラブロマンスさ」
俺は語り出す。これは荒唐無稽なホラ話でもあり、猿芝居の舞台袖に立つ阿呆の妄想でもある。しかし、見る人が見れば、偉大で、壮大な、真実の愛を求めた物語でもある。
唐突に新作映画の制作企画が始まったのだった。
題名『黄色い春』 脚本:辰野正一門
「あんたってさ、告白したこととかあるの?」
駅前のファミリーレストランの一角で、彼女はテーブルに頬杖を突きながら僕を見て聞いた。
「……結婚の申し出なら、したことがあるよ。」
「それ、保育園の時に私に言ってきたやつのこと? たしか、ほっぺを叩いたっけ」
うん、と僕は肯く。
「あんなの告白に含めないでよ」と、彼女は呆れた。
お待たせいたしました、と若い女性の店員が僕らの間に二つのかき氷を置いた。僕はかき氷をまじまじと見つめて、口を開いた。
「この、水が凝固た物質を削ったものが、四七〇円する。世の中、不思議だ。」
「いや、シロップもあるから。シロップこそかき氷の本質なのよ?」
彼女が別皿に注がれたマンゴー味のシロップを指さす。「今みたいな、わけのわからない発言をするから、誰とも付き合えないんだよ」彼女はそう言って、クヒヒヒと笑った。だから僕はムッとして言い返す。
「君もまだ、誰とも付き合ってないよね?」
「あー」
まあ、そうよ。文句ある?
とぅるるるー、と、彼女はマンゴーシロップをかき氷にかけた。フワフワな白い氷が、黄色く染まっていく。それは、いつかの日か遠い昔に見た光景に似ている。
「まるで、捕まえたテントウムシにオシッコされて、手が黄色くなるみたいだね」
「いや、きたねえよっ!!」
彼女は時々そうやって、言葉を少し荒げる。原因は、ほぼ僕にあるのだろう。
彼女は黄色が好きだ。だからかき氷はたいていマンゴーかレモン味を選び、飲み物はリアルゴールドを選ぶ。好きな花は? と聞けばタンポポと答え、好きな景色は? と聞くとイチョウ並木と答える。
高校一年の秋、校外学習にて、僕らは進学する意味も気力も見出さぬままに、とある国立大学に足を踏み入れたことがある。各々の生徒は、とりあえず好きな学部の校舎に散らばり、いろんな授業を見て回った。その中で彼女は一人、一本の歩道をひたすらに往復していた。教育学部棟を出て体育館に向かった所でぶつかるそのT字路には、数十本のイチョウの木が連なっている。左右をイチョウで仕切られたその歩道は、まるで別世界のように黄色く、そして、ギンナン臭い。その臭さゆえに行き交う人は足早に過ぎ去っていくのだが、彼女だけは違った。ひらひらと舞い落ちる葉に目を奪われ、悶えるほどの異臭に鼻を奪われているのだ。歩道を歩く彼女が立ち止まり、ほうきで集められたのであろう落ち葉の山を両わきから抱えるようにして持ち上げた。そして、めいイッパイに空へ投げる。パタパタとイチョウの葉が小鳥のように宙を自在に飛んだ。彼女はとても楽しそうである。
そんな阿呆な姿を世間に晒し回る彼女のことを、どうして僕はこんなに愛おしく思ってしまうのか。世の中、不思議だ。
きっと、たった今、彼女の進学先はこの国立大学に決まったことだろう。彼女はすでにイチョウ並木のとりこである。そうなると僕は、割と計画的に勉学に励む必要がある。数学の先生が発する日本語ではない何かを解読し、古典の先生が話す、それこそ日本語ではないお話に熱心に耳を傾け、その上、お家で復習せねばなるまい。
しかし、僕の予想をはるかに超える出来事が起きた。三年生に上がる前、三月の初めに、彼女は忽然と姿を消したのである。「さよなら」も聞かなかった。そして、言えもしなかった。
彼女が消えてから一カ月が経って、僕は高校三年生になった。彼女が消えたことは、学校ではさほど話題に上がらなかった。僕はそれが不思議でならない。ホレておいてなんだが、あんな変な女をさっぱり忘れられる神経がおかしいと思う。しかし、クラスメイトの脳内には、受験戦争の開戦を告げるファンファーレしか響かないようだ。
今年の春は例年よりやけに寒いらしく、夕方にもなると手袋が欲しくなるほどだ。帰り道、最寄り駅から降りて家へ向かう前に、本屋によることにした。改札を出てエレベーターを降りると、遅咲きの桜が出向かえた。電灯の明かりが薄桃色の花びらを白く光らせる。率直に、綺麗な夜桜だと思う。春である。正真正銘の春である。
しかし、どうしてか、僕は春を感じられないのだ。彼女がいないからだろうか。それもある。だけれど、それだけではない気がした。
「な、ないのか」
目的の漫画の最新刊が、その本屋には売られていなかった。ショベルカーやクレーンなどといった、工事に使う重機を武器化して戦うという稀有な世界観のバトル漫画なのだが、どうやら小さな本屋にも置かれるほど人気のある漫画ではないらしい。表紙に描かれるショベルは、それは素晴らしい黄色っぷりであり、彼女も楽しげに読んでいたのに残念だ。仕方なく家に帰ると、皿に盛られたチキンライスがテーブルに並んでいた。ケチャップを炒めた香ばしい匂いが鼻をフンフンさせるのである。漫画を買えなかった憂いが、いささか晴れた。でも何か足りない気がした。
何だろう、何かがおかしい気がする。しかし、何がおかしいのかがわからなかった。考えても一向にわからないので、消えた彼女を想いながら、僕は寝た。
その夜、僕は夢を見た。真夜中の草原で、一匹の獣が駆けていく姿を遠くに見た。姿はあまりよく見えないが、金色に輝く黄色い毛並をしているのはわかった。ふとその獣は立ち止まると、やや細長い顔を草原に埋める。三角に尖った耳がピクッと動いていた。その姿は何かを食べているようにも見える。再び顔を上げた獣の口元から、何かがぼとりと落ちた。一瞬しか目に映らなかったが、僕にはそれが人の腕のように見えたのである。
翌日の帰りも、何か違和感を抱えたまま帰路に着いた。
桜は今日も綺麗に咲いている。風に吹かれて、花びらがちらちらと舞う。彼女はどんな花が好きだっただろうか。ふとそんなことを考えて、いやいや、とかぶりをふった。
「タンポポの他に無いだろう、ずっと前から知っているじゃないか」
何を間抜けたことを考えたんだ。彼女の好きな花を忘れるなんて言語道断である。そう思った直後、唐突に今まで気になっていた違和感の正体を掴んだ気がした。視線を桜から移し、道路わきの草むらへと落とす。
・・・・・ない。
次に、人の家の庭をちらりと覗き込む。
・・・・・ない。
近くの公園を細部までくまなく見渡す。
けれど、・・・・・・ない。
「タンポポが、一つも咲いていない」
この時期に、そんなことってあり得るのか?
不意に昨日の晩御飯が思いうかんだ。オムライスではなく、ただのチキンライスだった。普段なら溶いて平たく焼かれた卵がのっているはずなのだ。オムライスは、母の大好物である。チキンライスに卵をのせないはずがない!タンポポだけじゃない。卵も無くなっているのである!
確かめるべく、来た道を引き返して駅近くのスーパーに駆け込んだ。
いつも卵を売っている場所に辿り着く前に、僕は異変に気が付いた。一見、何の変哲もないスーパーに見えるが、やはりおかしいのである。店の果物コーナーにバナナがない。レモンやグレープフルーツ、ゴールデンキウイもない。飲料水売り場の方を見ると、リアルゴールドも無ければ、レモンティーもない。
言いようのない不安がじりじりと僕に詰め寄って来るようだった。それでも、他の客は何も感じるところなく、買い物をしているのである。僕は怖くなって早々にスーパーを出た。
スーパーを出た先で、信号が点滅していたので足を止めた。歩道側ではなく、車道に設置された信号が点滅していたので、足を止めてしまったのだった。その信号は二色で出来ていた。
「世界から、黄色が消えている。」
つぶやいた瞬間、そいつは姿を現した。ぬらりとした白い生物がマンションの階段から這い出して来たのだ。全長一メートルほどのそいつは、トカゲのような頭を持ち、首筋にはエラがある。その脇にヒレのようなものがついているのだが、そのヒレはやけに歪で、人の手の形に似ていた。ずう体はずんぐりと丸みをおびており、尾は金魚のように大きくひらりひらりとしていて、何故かじっとりと水に濡れている。前足はなく、腹を地面に擦り付けたまま、後足だけで這うように地面をゆっくりと進んでいた。明らかにこの世の生き物ではない。
ゾクゾクゾクと、虫が背筋を登って来るような感覚に襲われ、心が激しい動揺に震え悶える。しかし、身体は微塵も動かない。硬直したまま、その一点だけを見つめ続ける。白いずう体のそいつは、マンションの敷地から這い出すと、ぬらり、ぬらりと、暗い路地を奥へ進み、遠ざかっていく。その時、僕のすぐ横で「カアッ」とカラスが鳴いた。すると白いずう体のそいつが、ぴたりと動きを止め、その場にたたずむ。そして、ゆっくり、ゆっくりと、徐々に白い顔をこちらへ向け始める。じとりとぬるい空気が頬をかすめる。カラスは羽ばたいて、夜の闇に消えた。冷たい嫌な汗が眉間を流れていく。ざわ・・・・・・、ざわ・・・・・・、ざわ・・・・・・と、空気がかすかに震える。白いずう体は動かさず、白い頭だけが、ぐにりとねじれ、こちらを向いた。喉元で息が詰まり、脳がしんしんと冷えていく。こちらをむいた白い顔には、眼が無かった。楕円型の白い顔の中に、大きく横に割けた口がわずかに開かれている。しかし眼がなくとも、じっとりと、こちらを伺うような感覚だけは、感じる。目で見られるような視覚的なものとはまた違う。むわっと湿る空気で身体を包み込まれ、空間ごと何かに囚われているような、そんな不気味な感覚だった。
しばらく、息も出来ない無言の時間が続いたが、やがて、白い顔は再び前を向いた。ぬらり、ぬらりと、這いつくばって進んでいく。すると、白いずう体がよじれるようにして震えはじめた。そして、そいつの身体を覆っていた白色がじわりと別の色に滲んでいくのが見えたかと思うと、白いずう体は目にうつらなくなった。
保護色だ。
そう心でつぶやいた。自分の体の色をまわりの風景と同じ色にする、カメレオンなどが持つ能力だ。生き物が自然の中に潜むために、長い年月と進化を重ねながら身につけた、生き延びるための技である。白いずう体だったこいつは、より精密に、まるでデジタルの映像のように体の色を変えたのだ。
変色して風景に溶け込んだそいつだが、まだ路地の奥を歩いているのがわかった。静かに息をひそめて目の前を見つめていると、視界の風景の一部が時おり、光を屈折させるように歪んでいた。
仲睦にまずこの物語を聞かせたとき、「あなた、何か悩んでらっしゃいます?」と真面目に聞かれた。「わたくしが解決してあげましてよ」と伴侶のように気持ち悪くも言われた。
「寄るな阿呆」
もう、照れ屋なんですから。悪魔的な笑みを浮かべて仲睦が俺の腕を離した。
「人の努力とかけまして」
「急になんだ」仲睦が真摯にこちらを向いて謎かけを始めたのだ。仲睦と目を合わせるのが嫌で俺はそっぽを向いたが、仲睦は意に介さず続けた。
「妄想と説きます」
「…そのこころは?」
しばらく黙りこくっていた仲睦が気になり、ちらりと視線だけ前に向けると目の前で仲睦が渾身の変顔をしていたので躊躇なくその顔面に鉄拳をめり込ませた。
○先輩の見聞 十一
「なに、この話。全然ラブロマンスじゃないじゃん。」
映画部部長の赤出ミーコ先輩がそう言って脚本を机に置いて、椅子の背もたれに寄りかかった。
「ミーコ先輩、だからやめましょうって言ったんですよ!」
がちゃがちゃムキー!と騒がしく怒りを訴えるのは、俺と同じく二年生の脇屋空太郎という男である。
「こいつの考えるストーリーはハチャメチャで実現不可能なものばっかりなんです!」
空太郎が俺をジロリとにらんで言った。だが、ミーコ先輩は空太郎の言葉に耳を傾けはしない。
「でもホラーか。悪くない、というか、楽しみだ。」とミーコ先輩は少し考えるようにしながらつぶやいた。
「いや、ホラーじゃなくて、ラブロマンスです。」と俺はすかさず答える。
「え、この企画、通るんですか?」
空太郎のあいた口が塞がらないので、ミーコ先輩がガッチンと力ずくで閉じた。
「しかし、この白いずう体のモンスターはどうするよ、後輩君。我が映画部に優秀なCGクリエイターはいないぞ?」
俺はちらりと空太郎を見て言った。
「それはもう、枕をこいつの腹に包帯で巻き付けて、地べたを這いずり回ってもらうしかないかなと思っています。」
「私も、それくらいしか思い浮かばなかったが」とミーコ先輩が言うと、空太郎の口が再び開いた。ミーコ先輩は空太郎には目もくれず、指先で頬をかいている。
「しかし、そうなると後輩君よ、・・・・・」
ミーコ先輩はその先の言葉を濁した。だが、俺にも言いたいことはわかっているのである。
「そうなると、人には見せられない駄作が生まれます。」
はあ、と自然に溜め息が漏れて、俺とミーコ先輩の視線が空太郎にうつる。開いたまま塞がらない空太郎の口をミーコ先輩がガッチンと閉じた。空太郎はあいた口が戻るやすぐに、再び口を開いて言った。
「俺のせいで失敗するみたいな雰囲気、それ違くない?」
まあ、そこらへんは置いておくとして、とミーコ先輩が話題を進めた。
「この話、ラストはどうなるんだ?」
「また夢を見るまで、俺にもわかりません」と俺は堂々と答えた。
来年やってくれ、とミーコ先輩が脚本を宙に投げた。ペラペラな紙たちが俺をあざ笑うかのようにゆらゆらと揺れていた。
○若樹クルミの見聞 三
「けもみみ!」
「萌え!」
「おめめ!」
「くりくり!」
「しっぽ!」
「ふさふさ!」
「「「かっわいー!」」」
きゃあきゃあと、夏休みに黒ギャル化した女子たちが騒ぐ中で、ぼくは必死に訴えた。もう止めてくれ、と訴えた。
「んーーー!!んっんっんっーーーーーー!!」
しかし、今は声にならない声しか出せないので、誰もぼくのピンチには気が付かない。
若樹クルミは、人生で初めてクルミを二〇個、同時に食べた。そのせいで、ほっぺたはパンパンに膨らむ。鼻からはクルミの欠片が出てきそうだし、目には涙の粒が浮かんできている。それなのに周りの黒ギャル化女子ときたら、「まんまるほっぺた超カワイイ」「つぶらな瞳に乾杯」「リスだわ、リスがここにいるわ!」「おーけい、写真とろ!一〇〇万枚はとろ!!」などと言いだして、ぼくに口の中のクルミを飲み込むことを許してくれない。
八月も第三週に突入し、アスファルトニガム高校では今、文化祭の準備が盛んに行われている。ぼくらのクラスも擬人化動物園を開園するために、いろいろな準備を進めていた。教室をサバンナエリア、森林エリア、家畜エリアの三つに分け、それぞれのエリアで木々や草花などの装飾を施し始めている。動物役になった人たちは、なりきる動物の歩き方やエサの食べ方などを研究し、アピール方法を考えなければならない。ぼくもその一人であり、今はクルミをたくさん口の中に蓄える真似をしていた所だったのだけれど、女子に見つかってしまって写真撮影会になってしまった。
そんな騒がしいクラスのなかで、ぼくには目もくれない女の子がいた。三黒紗伊子さんだ。三黒さんは真夏の暑い教室の中で、全身をもこもこの茶色い服で覆わせ、ひたすらシャドウボクシングをしている。三黒さんは、カンガルー役に立候補しており、ぼくたちと同様、動物のものまねの練習中だ。汗をぽたぽたと垂らしながら、彼女はジャブと右ストレートを繰り返していた。彼女はすごい、一生懸命だ。何が彼女をそうさせるのかわからないが、カンガルーよりも力を込めてパンチを繰り出すのだ。でもぼくは知っている、カンガルーが得意なのは、パンチよりもキックなのだ。
「またボクサーが減量してるよ」
廊下を通る隣のクラスの男子たちが立ち止まり、一人がそう言った。
「あれ以上脂肪を無くしてどうするんだ、おっぱいが無くなっちゃうよ」と言ってゲラゲラ笑うのが聞こえて来る。するとぼくの写真を撮っていた黒ギャル化女子の一人が扉に近づき、あっかんべえをする。そして思いっきり扉を閉めた。
そういった小さなトラブルに、三黒さんは気がつかない。ただ、ひたすらに、集中して、カンガルーを演じるための練習に励むのだ。それを見て、クラスの皆は小さく微笑む。
「確かに変な子だけどさ、馬鹿にされると腹立つのよね」
扉を閉めた女子がそう言って戻ってきた。
「んんん、んんんんん。」
ぼくも、そう思う、と言ったつもり。扉を閉めた女子にはどうやら伝わったらしく、「クルミちゃんはえらい子だねえ」と言って髪をワシャワシャとされた。
「クルミちゃん、ちょっと相談があるのだけど、いいかな?」
そう話を持ちかけてきたのは、垂れ幕担当の男女二人組だ。アスファルトニガム高校の文化祭では、クラスごとに出し物の宣伝を織り込んだ垂れ幕を作ることになっている。各クラス、技巧を凝らした彩り豊かな絵や、熟考された謳い文句をぶら下げるので、文化祭当日に全ての垂れ幕が校舎の屋上からかけられている光景は、なかなかに目を見張るものがある、らしい。僕も見るのは今年が初めてだ。
「うちのクラスの垂れ幕なんだけど、メインにさ、クルミちゃんの絵を描きたいんだよね。いい?」
垂れ幕担当の女の子はそう言って目を輝かせた。反対に、ぼくの目はうっすらと淀む。
「ぼくの絵?」
何か、恥ずかしいことになる予感がする。垂れ幕担当の女の子の瞳からキラキラ光るビームが放たれ、ぼくのほっぺたを焼き焦がしそうである。
「そう、リスになったクルミちゃんが、餌付けされているところを描くのよ。クルミちゃんが頬を赤くしてもじもじ恥じらいながらも、あ~んしてもらって、木の実を食べさせてもらう場面をね、それはもう鮮明に、華やかで愛らしく、天使の画法をもってして描くのよ」
きっと傑作が出来上がるに違いないよ! 女の子はそう凄んでいる。ぼくは恥ずかしいを通り越して圧倒されていた。
「ま、そういう事だから、よろしくな」と男の方の垂れ幕担当に言われると、何だかもう、ぼくが了承したよう雰囲気になっていた。
「え、せめて、キリッとした眼にしてもらっても良い?」
女の子は首を傾げ、何も言わずに去っていった。すると隣で黒ギャル化女子たちがニカニカと笑う。
「やったねクルミちゃん、メインだってよ!」
「すごいよ、マンガで言ったらヒロインね!」
どんよりしたぼくをよそに、三黒紗伊子の拳がどんどん鋭くなっていく。
○三黒紗伊子の見聞 八
私とて一介の乙女であり、色恋沙汰に興味がないと言えば嘘になり、白馬の王子と乗馬したいというデレデレな感情が少なからず心の奥底に、溶け残ったインスタントココアの粉のように凝り固まっていることは確かです。しかし、今はそれどころではなく、インスタントココアよりも、どちらかと言うと御汁粉の方が問題視されるのです。
「あんこ、いえ、銀子先輩が、全然姿を見せないのです。そこで先輩、ちょっとばかし私に力を貸してください!」
映画部の部室の扉を壊さん限りの勢いで開け放つと、私は殴り込むようにそう言ったのです。すると目前にはひらひらと白い紙が暴落した株券のように舞い落ちています。私を取り巻いた紙の嵐に、両手を宙に放り出すように掲げてソファにふんぞり返る赤出ミーコ先輩が「わお、今のB級映画のヒロインみたいだったわね!」と呟くのでした。同時に、私の頭に白い紙がぺたりとのりました。手に取ってみるとそこには「黄色い春」と書かれています。ふむふむ、なんだなんだ? と読もうとする私でしたが、シュピッとあっさり、手元から紙を抜き取られてしまいます。
「宇佐銀子がなんだって?」
相変わらずボサボサ髪でメガネな先輩が、没収した紙を折り畳みながら私にそう聞きました。
「先輩、もしやそれは新しい映画の台本ですか?」
「宇佐銀子ならきっと、叔母の家にいるだろう」
「ついに新作を作る気になったのですね。私、応援します!」
「彼女の叔母の家の場所なら調査済みだ。しかし、かなり遠いようだよ」
「どんなに遠き道だろうと、先輩ならやれますよ!」
「え、いや、君がやるのだろう?」
「え、そんな、私がやるのですか?」
しばしの沈黙の後、赤出ミーコ先輩が言った。
「どっちも二人でやれば?」
よかろう。ただし、映画の方は保留でいいかい? と先輩が肩を落として言いました。床にはまだ、投げ捨てられた十数枚の台本が散らばったままでした。
「まだ、夢の途中でね」
先輩がそう、玄人の皮を被ります。その言葉と裏腹な先輩の私生活を察すると悲しみも募りますが、それ以上に可笑しくありました。
先輩に話しかけた二日後、私と先輩は某県内の山奥にあるという銀子先輩の叔母の家を訪れていたのでした。私たちは今、木々に囲まれた木造建ての屋敷に通され、ゴウゴウと音を立てて流れる川水を横目に、銀子先輩の叔母と向かい合っています。服装はというと一応礼儀を示すといった面を考え、制服を着ています。
「三黒さんたっての願いだから、よかろう! なんて景気よく応えてしまったが、この状況は流石に予想しなかった。」
そう言った先輩は、普段一つ外している夏服のボタンをきっちりと上まで閉めています。そこへ銀子先輩の叔母さんが苺のショートケーキの乗ったお皿を置きました。その隣に正座する私の前にもケーキがおかれます。そしてさらにその隣にいる赤出ミーコ先輩にも、同じくケーキが出されます。「何でいるの?」と聞きたい気持ちは今しばらく抑えていただき、今はケーキに集中しましょう。銀子先輩の叔母さんがわざわざ出してくださったのです。
「和室で洋菓子というのも乙ですね」と先輩が適当なことを言いました。
「お食べなすって」とおばさんが言うや否や、私の手がなめらかにフォークを握り、軽やかにクリームののったスポンジケーキを切り取り口へ運びます。その時間わずか0.52秒。その後もパクパクとケーキを頬張ります。
「景気よく食べるねえ」と先輩は面白いものを見るような目をしています。
「すみません、朝に新幹線に乗って以降何も食べていなかったので」と私は少し恥ずかしがりながらも、てっぺんの苺をフォークでお皿の脇に移動させます。私、苺は最後に食べる派です。そんな私を見て銀子先輩の叔母さんは微笑んで言いました。
「なんなら私の分もあげましょうか」
「何とお優しきお心遣い! 後光がお見えします! ですが、これでも細身であることを心掛ける乙女でありますので、一つで十分でございます!」
「でも、食べないと膨らまないぞ?」と先輩が私のスタイルをまじまじと見ていました。時折り先輩はハレンチです。
「膨らまないとは、私の胸についてのことですか? 純朴で純粋で潤滑な少女の面影を存分に残すこの胸についての戯言なのでしょうか?」私は頬を真っ赤にして先輩に詰め寄ります。
「いや、腹が膨らまないぞって話さ」
先輩はそう言って、くくくのくーと笑うのでした。そして、潤滑な少女って何だ? と心の中で悩んでいるようです。
「胸がなく、するすると滑るような体つき、ゆえに潤滑。面白いことを言う少女だね、ぎんの子が気に入るわけだ。」そう言って襖を開けて出て来たのは、銀子先輩の叔父です。
「胸はあります。平らなだけです!」と私は反論しました。
「ふむ? 平らな胸など、有って無いようなものではないか」銀子先輩の叔父が、至極真っ当な道理を述べるかのような口ぶりそう言ったのでした。
「もてなされているとはいえ、何て仕打ちですか!」
私は驚きで後ろへひっくり返り、そのまま座布団の上で背筋倒立をしたのでした。ご心配はいりません、スパッツをはいているのでパンツは見られません。
「そろそろ真剣に話をしよう」
銀子先輩の叔父さんが切り出しました。
「そもそも、どうしてここがわかったのだ?」叔父さんは怪しむような眼つきでそう問いかけていました。
「それは、勝手ながら、仲睦の力を借りて調べました」と先輩が答えます。すると叔父さんは「なるほど」と頷いて、打って変わってにこやかな表情になります。
「どうやら、怪しい者の使いではないようだな」
「いや、俺には全然わからないのですけど!」と割って入ったのは、誰でしょう。私も名前を存じません。
「脇役は黙っていてもらえないか」と叔父さんが少し怒ります。
「いや、脇役じゃなくて、脇屋くんですよ」と赤出ミーコ先輩が笑います。脇屋くんと呼ばれるその人は酷く不服そうな顔をしたまま、叔父さんに問います。
「仲睦ってそんなにすごい人なのですか?」
「やつを人と認識している時点で、君には何を言っても理解できまいよ。」
カポン、と中庭のししおどしの音が私たちの間を通り抜けるように響きました。
「それで、今、銀子先輩はどこにいるのでしょうか」と私が話を進めます。
「ぎんの子ならおそらく、二言の滝にいるであろう。」
「にごん、ですか。」
「そうだ。漢数字の『二』と言葉の『言』で『二言』。男に二言はない、という言葉の『二言』だな。
その昔、この村にはある厳しい殿様がおった。「男に二言はない」という言葉の通り、その村の男は有言実行が義務付けられ、出来なければ投獄された。しかし、例外があり、二言の滝を水流に逆らって登り切った者は、前言撤回ができたのだ」
叔父さんは、そうゆっくりと語りました。なるほど、昔の人々は理解に苦しむような掟さえも平然と作っていたのですね。現代に生まれて良かったとやんわり思います。
「されど何故、宇佐銀子はその二言の滝へ向かったのでしょう」
先輩がそう問いました。
「どうしても、撤回したい言葉があったのですよ、きっと」
年頃の女の子は難しいものでしてね、と銀子先輩の叔母が笑って答えられました。
「有言実行できない多くの者がその滝へ挑んだが、結果は芳しくない。むしろ、大人しく投獄された方がマシという事態になった者の方が多いと聞いた」
銀子先輩の叔父は、目を伏せながらそうおっしゃいました。
「宇佐銀子は、漢だな」
先輩は感心してそう言いました。ですが私は、心配な気持ちで一杯でした。投獄された方がマシな事態っていうのはつまり、命に関わるってことではないですか。
○先輩の見聞 十二
我々は宇佐銀子の親戚の家を出ると、市営バスに乗り二言の滝へと向かうことにした。「バスを降りて、そこから一時間は歩かなければ辿り着けぬ」と宇佐銀子の叔父は言った。その道中には、舗装された道どころか、歩道も無ければ誘導看板も無いときた。
「だって、そこ、厳しかった殿様の子孫が持つ、私有地の中にあるんだもの」と叔父は笑った。「先祖が先祖なら、子孫も子孫。一度会ったことがあるが、どうにも堅物そうな男だったし、他人が家へ上がるのをひどく嫌い、ここ十数年は客も通していないらしい。したがって二言の滝へ行くには、忍び込んで行くしかない。ぎんの子も悪い女よ、自らの欲にかられ罪を犯すとはな。しかも、大きな危険を伴う」
そんな黒々とした話でしたっけ? と三黒さんが目くばせしてきた。それがちょうど上目遣いをしたみたいな構図になり、俺はつい目を逸らしてしまった。
しかし、『二言の滝』なんぞ聞いたことが無いとは思ったが、まさか地図にも乗らない場所にあるとは驚きである。しかも、どこかの名家の敷地内だと言うではないか。宇佐銀子の叔父の冗談も、間違いではない。二言の滝に立ち入っただけで、一応犯罪者の仲間入りである。
「それでも、銀子先輩が心配でなりません」
三黒さんは真剣な面持ちをしている。
我々がそのように先を憂いているバスの座席後方で、突然「駄目だ!」と声が上がる。誰かと思えば赤出ミーコ先輩の声である。彼女は頭を抱えている。
「湧き出るインスピレーションが止まらない!」
赤出ミーコ先輩がすかさず停車ボタンを押した。「悪いけど、そのウサギちゃんについては君らに任せるわ。この森林に囲まれた空間、そして行方知らずの少女を追うっていうこの状況、まさにシンナーだわ! 中学二年の冬の、家出したあの日の衝動に似たものが今、私の中で騒ぎ出した」
「シンナーでなく、シナジーの間違いです」と脇屋空太郎が口を挟む。
「シナジーでもシンナーでもどっちだっていいよ。相乗効果でも幻覚でもいいから、効果が切れる前に、早く何かしら形にしないとだめになる。ようやく崩壊した私の心理世界がもったいない!」
そこでどこからともなくスポットライトの光が差し込み、赤出ミーコ先輩を黄緑や橙色に照らす。ディズニーのお姫様が映画でよく起こす、プリンセスタイムである。プリンセスはこういう時、決まって歌を歌うのだ。
常識の牢屋
私はいつも座っている
体育座りで座っている
だけれど今、扉が開く
誰が鍵を壊したの
それは知らなくたっていい話
耳栓していても良い話
シ・シ・シナジー 世界を創れ
シ・シ・シンナー 常識を壊せ
シ・シ・シンフォニー 物語を彩って
私は行くわ
一人でも
新たなる国へ
バスの運転手の驚きに構いもせず、歌い終わった赤出ミーコ先輩はバスを飛び降りた。おそらくカフェにでも駆けていくのだろう。「心を動かすなら、心が動いた時にっ、てね。私はそういう感じで物語を創る人だからさ。」と、出会った頃から言っていた。己の中の普通な感覚、それが失われた時にこそ、面白い話が出来上がるのだと彼女は言っていた。カフェにては、おそらく台本を書くつもりだ。そもそも赤出ミーコ先輩が我々について来た理由は、映画のネタ探しである。元より、面白そうなことに首を突っ込み、己が物語へ転換するつもりであったのだ。
「次回のテーマは、緑の自然に関連付けた何かになるよ。というわけで後輩君、心の準備しておいて!」
赤出ミーコ先輩はそう言って颯爽と街並みの中へ消えた。
「ミーコさん、俺を置いてかないで」と空太郎がドアに挟まりそうになりながらバスを降りた。
バスの乗客は、俺と三黒さんの二人だけとなった。
「いずれ、あの脇屋さんという方も、恋愛裁判にかけられるのですか?」三黒さんがそう聞いた。
「どうだろうね」
「彼の恋愛には興味がないのですか?」
「そうじゃないよ。興味があるし、失恋した姿を見て飯を食いたいさ。でも、いつもの空太郎の様子を見ていると、彼は裁判沙汰をおこせないかもしれないと、俺は思うわけだ」
「なるほど、つまり、脇屋さんは告白できないのではないか、ということですか」
「うむ」
「何故わかるのです?」
そう問うた彼女の瞳の奥底に、わずかだが羨望の光があった。
すると俺は、少しばかり申し訳ない気持ちになる。この時の三黒さんには、俺のことが人間観察のプロ、こと恋愛に関しては右に出る者がいないような、エキスパートジェントルマンに見えたのかもしれない。しかし、よくよく目を凝らすと、そこにいるのは紛れもないポンコツ落ちこぼれ男子である。当然、告白された経験も無ければ、告白した経験も無い。自ら恋愛検察官と名のりはするが、検察官というにはいささか役不足なのが正直な所である。したがって空太郎が告白するか否かなんていうのは、ただの予想なのだ。
「しかも、ミーコ先輩には今、ご執心の美男子がいてな」
「では、私はどう見えますか。先輩の目には、私が告白できる人に見えるでしょうか?」
三黒さんは少し恥じらいながらも、興味津々な面持ちでそう聞いて来る、そんな場面を仮定して、その先を想像してみるが、俺は彼女の質問の解答を持ち合わせていない。三黒さんが誰かに告白をする、そういった場面を想像することさえ、出来そうになかった。
窓の外で猫が塀の上で寝転んでいる。きっと明日も明後日も同じように寝ころんでいるのだろうな。それは幸せなようで、退屈なようである。
それから二〇分ほどバスに乗っていると、我々の目的の停留所に着く。
俺はそれまでの短い時間で眠ってしまったらしい。
目の前に夜の団地の風景が浮かんだ。白いずう体の化け物が消えて静まり返った景色の中で蛍光灯がちらついた。翌日、青年が学校へ向かう時その団地の前を通った。白いずう体の化け物が通ったあたりの道に薄っすらと砂金をまぶしたかのような痕跡が見えた。アスファルトの上で太陽の光を浴びて煌めいているのだが、もう美しいとは思えなかった。相変わらず信号に黄色は無く、蒲公英は咲いていない。学校に着けば、親しかった彼女の姿も当然ない。俺の肌は、潤いを失ったようにかさかさとしていた。
その時の俺はしきりに一つの想いに縛られていた。
ヒーローになりたい。ヒーローになれば、化け物を恐れることもなく、親しかった彼女が消えることも無かった。
何故かそう、思い込み続けていた。
「先輩、先輩」と呼ぶ三黒さんの声で目が覚めた。「もうすぐ降りますよ」
俺が寝ぼけたまま目を開けると、辺りはまだバスの中で、夢に見た団地の風景など欠片も無い。バスの外にはびっしりと生えた竹藪と、ちらほら古民家が並んでいた。
スマホを取り出して時間を確認すると、もう一六時になろうとしている。
「いくら夏とは言え、急がないと暗くなってしまいますね。」三黒さんが少し心配そうにつぶやいた。
二言の滝の場所は、大方わかった。何故なら停留所を下りた目の前に、広大な屋敷が広がっていたからである。木造でできた門には「徳川原」とある。
「パチモンかよ」と言いたげな目線を三黒さんと送り合って、言いようのない徒労感に襲われた。
「本当にここでいいのですかね」
「わからんが、もうここしか当てはないと思う」
「ですね」
では、とインターホンを押そうとする彼女を、俺は慌てて止めた。
「待て待て、ここは悪い女を演じて、裏から忍び込むのではないか。」
すると、三黒さんは宇佐銀子の叔父の話を思い出し、ハッとした様子でこちらを向いた。
「そうでした。今宵、私は悪に染まるのでした。」三黒さんは制服のスカートをめくると、忍ばせていた銀の拳銃をとり出した。俺には見えないが、彼女が銃口を俺に合わせているのは見て取れた。とたん、バキュンと俺を撃った。さらに彼女は屋敷の方を向くと、門の上を超すように銃を構えると、バキュバキュと何発か屋敷内へと撃ち込んだようである。
「銀子先輩が死んでいませんように」と言って、三黒さんは銃口から出る煙をふっと吹いた。言葉と行動がちぐはぐだ。その言葉の真意を、俺は読み取ることができない。
屋敷の敷地の裏に回るだけで三〇分は軽く歩いていた。敷地はその広大さと緑の豊かさゆえ、屋敷内からでは外部からの侵入が確認できない箇所が多くある、と言うより、敷地を囲うおよそ半分の場所は、どこからでも侵入ができた。しかし、屋敷の正面にいたことが災いし、こうして長距離を歩くはめとなった。
「でも、三〇分歩き続けても、まだ敷地を四分の一周ほどしかできていないのですよね。」と三黒さんが感心したように言う。彼女はえらい。疲れを見せることなく、むしろますます力が湧いてくるようだ。
「徳川原と聞いた時は疑いましたが、やはり豪邸らしいですね」
ようやく屋敷の屋根も見えなくなった辺りまで来た時だった。
「水の音がする」
俺がそう言うと、三黒さんも耳を澄ました。
すると三黒さんの耳に、コココココと遠くで勢いよく水が流れるような音が流れてきた。
「本当ですね」
まず、俺が敷地を隔てる柵を超え、その林の先を覗いてみる。そこにはもう、人が住む場所とは思えないような茂みが広がっている。この先に宇佐銀子が本当にいるのだろうか。
「いると信じて、がんがんぐんぐん行くのみです!」
三黒さんはその言葉の通り、ものすごい勢いで敷地内の茂みをかき分けて行った。俺の前を先行しながら、ただひたすら真っ直ぐに、水音のする方向へ進んでいる。しかし、彼女はどうもあまり運が良くないらしく、敷地を隔てる柵を超えようとした時には、柵が折れて転び、木々をかき分けている時には、蛾がおでこに停まって仰天して尻もちをついた。彼女の制服はもう泥だらけであり、いくつか擦り傷や切り傷も負っている。宇佐銀子よりも三黒さんの身を案じた方が良いのではないか、そんな懸念があがる。しかし、三黒さんは、こんなのへっちゃらです!と言うように力強く足を進める。まこと立派な乙女である。
だんだんと水音が大きくなっていることを感じながら歩いていると、開けた岩場に出くわした。大岩が重なり合って、それが風化してなだらかになったかのような、岩の地面が半径5メートルほどの大きさで広がっていた。先ほどよりもさらに、水音が近くに感じられる。岩の上を歩いてみると、土の地面より硬いためか、滝と思われるゴゴゴオ、ゴゴゴオという震動が足に伝わって来た。
「滝はもうすぐかな」
行こう、と俺は三黒さんを先へ促した。しかし、三黒さんは動かない。
「待ってください」
三黒さんは、その場にしゃがみ込むと、土下座するような格好になった。そして右耳を冷たい岩に押し付ける。
「先輩もやってみてください」
言われるがまま、俺はその場に手をつき、耳を岩にあててみた。
「滝はもうすぐと言うより、もうそこですね」くすりと笑って、三黒さんがそう言った。
「ああ、もう、底だな」と俺は答えた。
○三黒紗伊子の見聞 九
岩場の辺りを先輩とあっちこち見て回っていますと、私たちが来た方角から見て東側にあたる大岩の陰に、人が一人、ギリギリ通れるくらいの穴を見付けました。小さな洞窟です。奥は先が曲がっており、どこへ繋がっているのか、そもそも行き止まりなのか、そこまではわかりません。
「しかし、行きます。行くか行かぬか問われれば、その答えは一択です」
「せめて懐中電灯くらいあった方が良い気がするのだがな、ヘッドライトがあると尚良い」と、先輩が今さら準備しようのない洞窟対策を練りながら、手ぶらでその穴の中へ入っていきました。私も先輩の後に続きます。入り口から続く岩の道は横幅がとても狭く、身体をIの字にして壁を這いつくばるように進まなければなりませんでした。洞窟の中は湿っており、岩がじめじめとして良い気分ではありません。ただ、少し涼しいのが救いでした。
「ところどころ岩場に隙間があるんだな、光が漏れてきている。それに僅かだが向かい側から風が吹いてきているようだ、きっとどこかに繋がっている証拠だろう。水音も絶えず聞こえてくる、道は間違っていないはずだ」
先輩がやや楽しそうに話しました。先輩は意外と冒険好きなのでしょうか。
「この先に、銀子先輩がいるのでしょうか」
「いる気がする。ここの他に滝があるとは考えにくい」
なるほど、と私は思って、心に力を入れて手足を前へ進めます。
「あ」
唐突に先輩が声をあげたかと思えば、目の前には誰もいなくなっていました。どうしたことかと思えば、目の前に続いていると思われていた道の途中に、すっぽりと大きな穴があったのです。
「先輩、無事ですか?」
そう呼びかけてみたものの、答えがありません。私は不安ですくみそうになる足をぺちぺちと叩き、我が体を鼓舞すると、先輩が落ちたと思われる穴の中へ足を踏み入れました。
そこは階段のようでした。岩の上に岩が重なり、大自然の中で偶然にできた隠し通路なのです。十メートルほど降りると、今までの水音よりも激しい、怪物の唸り声のような音が聞こえてきました。
「まるで龍のようだ」
足元から小さく、先輩の声がしました。
「無事でしたか!」と声を上げようとした私ですが、先輩の人差し指を口に当てる仕草を見て、のどまで出かけた声を引っ込めました。
こっちへ、と先輩が手招きし、私を隣へよこしました。先輩の顔をよく見るとおでこの真ん中がやたらと膨らんでいます。
「先輩、たんこぶが」私は少し焦りました。しかし、先輩は気にもしない様子です。
「それよりも、見て」と囁かれ、前方を見ますと、その光景に私は息を飲みました。
目の前に広がる岩の世界では、舞い飛ぶ水しぶきがわずかな光に照らされ、透明でいて色濃い藍色に染まっています。そして、その中心では、龍が轟然と突き進むように、滝が水を落しているのです。
頭上の壁から大量の水が溢れ出し、絶えることの無い水流が、洞窟の宙をうねりながら進んでいます。そして一つだけ地面から垂直に突き出されたように重なる一枚岩を、そのうねる水流がちょうど真上から叩きつけるのです。岩の天辺を打ち、分岐する二つの水流は龍が口を開く姿のようであり、まるで、龍が岩を喰らっているようです。
そして、その天から襲いかかる龍の口の中へ、飛び込んでは、打ち落とされ、また飛び込んでは、打ち落されている一人の姿が、私と先輩の目に、はっきりと映るのでした。
「宇佐は、すごい奴だな」
先輩がただ、ただ、ただ、そう言いました。
「ええ。すごいのですよ」
私は、本当は、最初から知っていたはずのに、どこかで、宇佐先輩のことを信頼しきれていなかったのです。
何度も滝に打ち落とされ、額にはこぶができ、背を打ち、尻を打ち、腕にあざを作ろうとも、銀子先輩は必ず立ち上がり、沈みそうになる足を振り上げ、水龍が喰らう岩を飛び越そうとするのです。あぶないですよ、やめましょうよ、諦めてください、そんな言葉がぽつぽつと浮かぶのに私は、これ以上、足を前に出してはいけない、声を出してはいけないのだなと、そう感じたのです。この透明でいて色濃い藍色の世界へ踏み込んだ人に、私はかけるべき言葉が見つかりませんでした。ただ、その景色に圧倒されて、自分の存在をちっぽけに感じるだけなのです。
口を噤む私の隣で、先輩は、まじまじと銀子先輩の姿を見ながら言いました。
「そもそも、宇佐のやつは高跳びに向いていないんだよな。あの体質、負の感情で体が地面へ沈み込む超能力、それをもって生まれた人が、誰よりも上へ上へ、高く跳ぼうって、それって結構、阿呆だよな。道理に反している。でも、だからこその、高跳びなんだろうな」
銀子先輩は高く跳ぶことにこだわったのでしょう。沈む自分の身体ごと、持ち上げられる強い人に、なりたいと思って、ずっとずっと、戦っていたのです。
そんな銀子先輩に対し、私は不安な気持ちしか持てていなかったのでした。
「人を心配するなんて行為は、結局、ただのお節介なのですかね」
銀子先輩は私が及ばないほど、強い人でした。それを改めて知り、私は嬉しくなりました。ですが、少しだけ自分の行動を悔いる感情があることも確かなのです。
「自分で立ち上がれる人に手を差し出せば、それはお節介だろう。そして本来、人は自分で立ち上がって行くべきなのだ。他人を頼って生きる道に、大きな成長はない」
先輩が穏やかな低い声でそう言います。
「そうですよね」
私は少し、俯きました。地面は霧のように飛んで来る小さな水しぶきで濡れており、足の底を深々と冷え込ませてきます。
「でも、本当に立ち上がれるかどうかは、立ち上がってもらうまでわからないからな」と先輩が話を続けます。「ムズカシイよ。全く心配しないでいて、何かあったら死ぬほど後悔するだろうし。『もしかしたら』っていう気持ちが、誰かを救うこともあるだろう。だから、心配というより、見守っていれば良いと、俺は思うわけだ」
珍しく、先輩が真っ直ぐな良いことを言っているな、と私は思いました。
「でも、心配はせずに、見守るって、どうやってやるのだろうか」
先輩は自分の発言に疑問を抱き、「うむむ」と腕を組んだのでした。
○先輩の見聞 十三
「主人公はもと鹿で、山神様に人間に変えてもらったんだ。一目見た人間の女の子に惚れてしまって、どうしても会いたくなったのだな」赤出ミーコ先輩が、意気揚々に新作映画の設定を述べている。
「何だか人魚姫の山バージョンみたいですね」と俺は適当に言葉を返した。この人の書く話は変わった。今回の文化祭で披露する予定の映画も、華やかなキャスティングのもと、若者に受けそうな物語を用意している。前はもっと素朴な雰囲気で、それでいてラストで散らばっていた全ての因子を繋げ、見る人の盲点から脳の真髄を貫くような、そんな話を書いていた。普段から映画や小説を嗜む人にしか伝わらないが、胸に響くものもまた大きかった。
まあ、最近の流行りは海外でも日本でも、ダイナミックな設定と派手でカッコイイ役者の横行だからな、自分でも売れるような作品を作りたくなるよな、と思う帰り道の道中である。
俺たちは新幹線に乗り込み、地元への帰路に着いたところだ。一日中動き回って、俺の身体はもう鍋底に放置された白菜のようにくたくただった。だが金のない俺たちに新幹線の優先席など取れるはずも無く、自由席にも座れず、列車と列車の連絡路のところで立っている。もう足が棒のようなのだが、しかし、赤出ミーコ先輩は朝よりもハツラツとしている。
「人魚姫……、姫か。そういう設定もありだな。となると、あの子は王子役か。うん、はまっているな」そう言って自前のノートをペラペラとめくった。
以降、我々はろくにしゃべらず、到着までうとうとしながら過ごした。
改札を通るとき、ICカードの入った財布をカバンから取り出そうとして、はたと目に着いたものがあった。それはカバンの底でくしゃくしゃになった蛇の抜け殻だった。正確には蛇のような生き物の抜け殻だ。たしか人間の赤子のような手足が付いていた。
辺りが、急に暗さを増したように思えた。
駅を降りた帰り際、赤出ミーコ先輩は三黒さんに聞いた。
「B級映画ヒロイン三黒紗伊子よ、有意義な旅になったかい?」
「有意義でしたが、無意味でした」
「旅なんて、そんなもんさ!」
まるでいつも放浪しているかのような口調である。
「ええ」と、小さく笑った三黒さんの顔に陰はない。
「では、また今度な。後輩君は、ちゃんと部室に来いよ。仲睦の馬鹿とつるむのもほどほどにな。エロが移るぞ」
赤出ミーコ先輩がレッドカーペットを歩くようなしなやかで上品な足取りで別の路線に向かって帰って行った。
「言葉遣いと立ち振る舞いが真逆なんだよな、あの人」
でも、そこが魅力的。と、脇屋空太郎が思う。
私と三黒さんは、途中まで帰り道が同じなので、共に帰ることにした。出身中学校はどうやら隣の学区の学校だったらしい。俺は自分土産に買っていた牛乳をちるちるとすすりながら歩く。何故土産に牛乳何だろうという疑問が浮かんだ。乳製品にするにしろ、他にもっと土産らしい何ちゃら牛乳等々あるだろうに。見えない銀色の拳銃然り、三黒さんはやはりどこか不思議な人間であることに間違いはない。
我々が返る道は、右側にもともと畑であった現在は空き地、左側に小さな竹林という、つまるところ電灯の明かり以外は何もない道である。
「うーん、うーん」と隣から声がした。
「三黒さん?」
「はい?」
「何か悩み?」
そう問うたが、三黒さんは「いきなり何だろうこの人は、モシカシテ口説カレテイルノカシラ!?」とでも言いそうな、不思議そうな顔をする。
「うーん、うーん」
再びそう聴こえた時、彼女の口元は動いておらず、俺の口元も、もちろん動いたわけではない。
「うーん、うーん」
それは竹林の方から聞こえてきていた。
「うーん、うーん」
「ウーン、ウーン」
それは、
「ヴーン、ヴーン」
何かを悩む声というよりかは、
「ヴゥーンン、ヴゥヴゥ―ンン」
何かを欲して、のどを鳴らすような音だった。
竹と竹の隙間で、何かが動いたように見え、私は目を凝らした。三黒さんもつられて竹林を見た。その直後である。
「ヴゥーウ、ヴァアッ」
カバのように大きな口のようなものが竹林の暗闇に浮かび上がると、ずんずんずんずんと歩み寄って来る。茂みをかき分ける足音が近づくと同時に、ぬめりと湿ったような空気が我々を捉えた。
それは俺が夢で見た怪物だった。黄色がなくなった世界で地を這っていたあの怪物は、俺の想像の贋物ではなかったか。ちがう、これは夢の続きなのか。俺は新幹線で眠って、ずっと夢の中を現実と認識していたのだろうか。それなら合点だ。合点である。合点であってくれ。
「先輩、ぼーっとしてる場合ですか!」
珍しく荒々しい三黒さんの声と、私の手を引くやけ冷たい彼女の手に、意識を目の前の情景に戻される。
まさか、ここで三黒さんを救い、ヒーローとなれという神の御達しか。ただ、それはいささか実力に反している。ほんともう迷惑なこっちゃ!!
あれこれ考えている内に、私の背後に怪物の口があった。
万事休す。
私の顔が怪物の喉元に差し掛かった時だ。金色に輝く荒野が一面に広がった。ああ。これはきっと、三途の川へとつながる川原なのだろう。遠くに小さく動く子供のような姿があった。あれは世に聞く三途の川の鬼だろうか。
○三黒紗伊子の見聞 十
先輩が飲み込まれそうになった時、私は無我夢中で銀の弾丸を撃ち放っていました。先輩の手を掴んだまま、これでもかと撃ったのです。しかし、何も起こりはしませんでした。先輩が手に持っていたレモン牛乳が、ぼしゃんと地面に落ちました。
その時です。鋭く唸るような風音がしたかと思いますと、黒いジャガーのような恰好をした人が目にも止まらない速さで目の前に飛び込みました。そして両足で跳び蹴りを繰り出し、怪物の横腹へ思いっ切り踵をねじ込むのです。怪物のずう体は横へ吹き飛び、どしゃんと音を立てて倒れます。そこへすかさず、黒いジャガーみたいな人が、飛びかかって、パンチやキックの連続技をかまします。先輩はというと、怪物の口からスポッと頭が抜けると、そのままゆらりと私の方へ倒れ込んできて、その唾液でぬめぬめな顔を私のお腹にジャストミートさせました。一瞬、ウゲッと思ってしまったことを心の内で詫びさせてください。
幸いなことに、唾液がついている以外に先輩に異常は見られませんでした。
「早く逃げろ。」
黒いジャガーみたいな人がそう言います。怪物は、先ほどまで透明だった身体が白くなっており、黒いジャガーみたいな人と一定の距離を取っています。そして威嚇するように姿勢を低くし、尾を振り上げているのでした。
「早くしろ!」
もう一度、今度は脅すように真に迫る物言いで言われると、私は呆然とする先輩を引き連れてその場から逃げました。
散々走って近所の街中に辿り着いた時、一軒の家の暖簾にぶら下がっているテルテル坊主が、不安そうな表情で虚空の彼方を見つめているのを見付けました。私はそこでようやく後ろを振り返り、今来た道の方を見返したのでした。
○先輩の見聞 十四
目覚めると、全身の水が全て噴き出したのではないかと思うほど、大量の汗をかいていた。しかし、目覚めた時も、ぼおっと天井を眺める今も、恐ろしさはなかった。昨夜、家に着いた途端、布団の上に突っ伏して寝たことが思い出され、次いで、夢の中で見た情景、昨晩の帰り道に似て非なる情景が想い浮かんだのだった。
夢に出て来た黒いジャガーの男は、もう一人の俺だった。三黒さんを陰で救うヒーローになりたいと願った、哀れな俺の寸劇さ。笑えない、くだらない、妄想を絵にしたような、『黄色い春』の夢の続き話だった。
その日の朝、早々に俺はあの蛇のような生き物の抜け殻を捨てた。捨てたとき、確かにあったはずの手足は無くなっていて、色も黄色帯びていたはずが真っ白なものへと変わっていた。少し気になったが、これ以上嫌なものを見せられてたるかという思いが勝った。蛇の抜け殻を生ごみと共に袋に入れ、固く縛って不燃ごみの日であるにもかかわらずごみ収集所に投げ入れてきた。
今わかった、『黄色い春』の全貌。それはダサいダサい失恋を、勝手に美化した俺の過去から成っている。中学校卒業と同時に、俺は思いを寄せていた女生徒と離ればなれになった。進んだ高校が違っただけの話だ。彼女はアスファルトニガム高校を受験すると言っていた。また、同じ高校に通える。あともう三年間もあり、しかも同じ中学校出身という肩書も得られれば、交際に発展するのも時間の問題だとふんぞり返っていた。その矢先、彼女はもっと偏差値の高い高校へ進学した。滑稽なことだ、俺の第一志望であるアスファルトニガム高校は、彼女にとってはただの滑り止めだった。それを知った時、確かに色を失ったような心地になったものだ。明るい色ほど、くすんで見えた。
そして今朝、夢の続きだ。情けない思いはもう嫌だと、ダサい黒い姿で奮い立つ俺。誰かを簡単に救えるような頼もしい人間になりたい。そんなヒーローみたいな俺であれば意中のあの子の見る目を変えられたかもしれない。違った青春を手に入れられたかもしれない。蒲公英のようにほがらかで優しい青春の中にいたかもしれない。そう心のどこかで思っている俺。それが黒いジャガー。人に信頼され、見た目とは裏腹に心の中は明るさでいっぱいのヒーロー。
かえって、現実問題、もし本当に化け物に襲われたら、人間誰しもこの窮地を脱することは出来ないと諦め半分で化け物に呑まれる俺。化け物出なくてもいい、社会の荒波にまんまとのまれ唯唯諾諾に生きる道を探す俺。計画性もなく、行き当たりばったり、それでいて恋愛に関しては他力本願、他力があってもこたつから出ないような腑抜けた青春。でもそんな青春も有りだよと、誰かに言って欲しい思いを持ったマヌケな俺。運命の人は天空の城から降ってこないのに。食パン齧って走ったって、曲がり角に女の子はいないのに。無い奇跡をだらんと待ちわびて、ありのままの自分の醜態を晒して運命を待つマヌケ。
ヒーローとマヌケ、その二人の俺が同時に三黒さんの前に出現した。
「見て、見捨てないでほしかったんだな。どっちの俺であっても。」そしてどちらも、恥ずかしくて決して見せられない姿だ。
こんなもん、映画になんかできようものか。駄作に決まっている。
「ですが、今さらまともな人間になるなんて、あなたには無理ですけど?」くひひ、という仲睦の悪魔のような笑みが浮かんだ。
何にせよ、人の努力と妄想は、どちらものぞかない方が良いってことさ。
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