Act.4 知ルバーバ劣等
○先輩の見聞 十五
「今日という日に君が瞳に写した彼は、君子にあらず。見るがいいさ」
俺は右手でポケットから数枚の写真を取り出すとスチャリと指を構え、着物を着た女の目の前に差し向けた。
俺のことを警戒し切っていた彼女の目が、今度は俺ではない別の男を、虫を見る様な目で見る。その変わり切った表情に、その男は俄然、余裕を失った。
「お前、何を見せたんだ!」俺の手から写真をひったくった男の眼に映ったのは、己がコンビニで桃色雑誌を読みふける姿や、自販機の下に手を伸ばして小銭を漁る浅ましい姿である。それを君子呼ばわりとは言語道断。
「裁判官、このクンシならぬクソシに判決を下されよ」俺がくくくと笑って、着物の女を見た。
「待ってくれ」男はそう手の平を前にして腕を伸ばした。
しかし、その男の嘆きさえ、虫の羽音をはらうかのように、彼女は平手で彼の手を薙いだ。そして、着物の裾を抑えて駆け出し、一度も振り向かないまま我々の視界から消えたのだった。
「何してくれてんだ」男が目玉をかっぴらいて俺を見た。今にも殴り出しそうな形相である。
「案ずるな」
俺は今にも拳を構えかねない男の眼を見据える。「あの着物の女、しばらくはろくな恋をしないさ。奴はお前と同じクラスになってから親しい中となり、ついには連絡先を好感した関係だった。二週間ほど前からは毎日連絡を取り合い、初めて共に出かけようと心開いたはずなのだ。しかし、心開いたはずのお前よりも、初めて出会った俺の言葉を丸のみにする女なのだよ。俺は当然言いやしないが、お前の良いところも知っている。後輩の面倒見は良いし、時には先生の手伝いだってこなす。それなのにあの女は、お前の一片でしかない、桃色と下賤な思考を見ただけで、お前の価値を決したのだ。判断が緩い。奴は嫌だ嫌だと言い続け、いずれ己が一人になっていることに気が付くのだ。愚かだろう。な? 愚かだろう?」
わははは。
そして二人は押し黙る。急にセミが鳴き出したかのように、あたりはジジジジッという音に包まれた。
「お前、そんな喋る奴だったんだな」あと、笑い方気持ち悪い。
男は怒りがピークを通り過ぎ力が抜けたのか、俯瞰したような口ぶりでそう言った。「去年のクラスメイトにも、こういうことすんのな」男が俺を一瞥して言った。
「ふはは、別に恨みはないがな。お前にも、あの着物の女にも。あるのは、妬みと僻み。それが俺を突き動かす衝動。恋に盲目した瞳から、鱗を落してやるのさ。『半ケツを出してでも判決を下す』全国恋愛検察連盟の教訓さ。顔見知りだからって容赦などない」
「元クラスメイトを顔見知り呼ばわりするなよな」男は呆れたように笑った。「というか最初、お前だとは思わなかったよ」男は俺の頭を指差した。
「全然似合わないんだけど、その金髪のロン毛」
そんなこと、お前に言われる前から百も承知だ。しかし、この一年半、恋愛検察官として活動を続けたせいで、俺は割と顔を知られている。顔を見られてすぐに逃げられちゃ、商売あがったりである。特に今日、夏祭りという場では、学校内のように告白に呼び出す特定の場所を検討しにくい上、モグラたたきの如く突発的な告白が飛び出すものだから、悠長に一カ所に構えていられない。移動は多く、多数いるターゲットを鷹の眼を使って監視し、必要に応じて現場へ飛ぶのだ。ここで言う鷹の眼とは、仲睦の悪魔野郎のことである。今回の夏祭り、仲睦は俺の趣味に付き合わされる形となる。
「私だって暇じゃないのですからね」今の男と着物の女の動向を教えてもらった時、電話口でそう無駄口を叩いていた。「煩究煩コンテストのために、あなたが高瀬アザミの写真を約束通り手に入れたから、わざわざ貴重な時間を割いてやっているのです。たとえ親愛なるあなたであろうとも、これは稀なことですよ。」
「親愛される覚えはないし、少しは昔の風習を見習いきちんと御恩と奉公の関係を結べ」
俺はそう言って電話を切ったのだった。そもそも、本来は三黒さんの写真が報酬だったはずが、仲睦の悪魔が不要なデータと一緒に削除し、印刷して俺に見せたものはとっくに捨てたと言うのだ。俺をからかうつもりだったのかもしれないが、大変遺憾である。「それならば写真部のパソコンからデータの一切を削除するという暴挙に出てやろうか」と、気兼ねなくのたうち回ったところ、「何でもしますから、それだけは勘弁してくださいよ。ね?」と気色の悪い口調で言うので、仕方なく今回の件を手伝ってもらう形で手を打ったしだいだ。
そんなこんなで八月四日の土曜日夏祭り、俺は金髪ロン毛のカツラをかぶり、黒いシャツに黒いワイドパンツと、女装にも似た装いで出歩いている。日は暮れたが、日中の陽光を溜め込んで膨らんだかのような提灯が、神社の境内及びその前方に広がる半径百メートルくらいの大きさでミステリーサークルのような林道の如き遊歩道と、その脇に連なる矢倉の建てられた広場内部まで、いたるところに吊り下げられている。黒い衣服は姿を隠すのに便利かと思ったが、この提灯のぼんやりとした間抜けな明るさのため、いくら黒かろうが姿が闇に紛れることはなかった。そして、黒い衣服が闇に紛れようと、金髪が月明りで幽霊の如くゆれゆれすることは想像に容易い。
「いいのさ、むしろ堂々と歩くことが怪しまれない秘訣なのだ」
そう構える俺を、人々はやや訝しげに見ていたのだが、気にはしない。
○君野木実の見聞 四
あいつには、普通の祭りの楽しみ方が出来ないのか。
私は中央に矢倉の建つ広場の縁沿い、屋台の並びから少し離れた所から、あいつが女と男の間に割って入っていくのを眺めていた。
「ねえ。次はチョコバナナという物を食べたい。その次は杏子飴。あれは一度食べたことがあって美味しかったから、今日は二本食べたいの」
隣から、透き通るような声で自らの食欲を晒す声がする。
「いいよ、ひかりに付いて行く。」
私はそう言って立ち上がり、先を行く彼女の背を追った。ひかりは本名を加賀谷ひかりと言い、一学年の時のクラスメイトにあたる。彼女は、他の女子のように私のことを敬遠した眼で見ることをしない数少ない存在だ。むしろ、「あなた、加賀谷ひかりという絵を飾る額縁になってよ」と言い出しかねないほど、自信家な娘のように見える。その性格の現れは、母親の溺愛によるものだと私は推察しているが、しかし、不思議と嫌な奴には思えない。
「文化祭が近いわね」ひかりが私の顔を斜め下から覗き込む。「木実は、後夜祭で踊る相手は見つかったの?」
「まさか」踊るつもりもなかった。
「一昨年から、何人もの男子があなたに迫って、その全てを切り捨てた。あの死体の山は、アスファルトニガム高校にとっては遺恨そのものよ」ひかりは再び前を向いて歩き続けたが、視線の先には少し昔の光景が映っているようだった。「そんな切り裂きジャック木実の身込んだ男を、生きている内に見てみたいのになあ」
まるで、生きている間には出会えないと言いたげなひかりの口ぶりに、私は笑った。
「去年だって、歴代最高峰とオバサン教師たちの間でも話題だった池照先輩と後夜祭で踊ったっていうのにね」ひかりは、はあと溜め息をこぼすように言った。「一週間後には死体の山に、他の男同様に積み重ねられていたんだから驚きよ」
あの時のあなた、先生たちからもヘイトを買っていたんだからね。
昨年の秋である当時と同じようなひかりの呆れ顔がそこにあった。
その時、目の前で五歳くらいの男の子が転んだ。手に持っていた水風船のヨーヨーがポムンポムンと私の足元に転がってきたので、私はゴム紐をつまんで拾おうとした。すると、私は身体の力が一気に抜ける感覚に陥った。地面から指先の神経を辿って私の脳内に通知が届いた。泡のようにシナプスが弾けると同時に「一時間後、藤堂京弥より告白」と勝手に大脳にインプットされる。
また、知らない間に、顔も浮かんでこない男から「付き合って」と言われるんだ。
転んだ男の子が、怯えたような眼で私の顔を見ながら奪うようにヨーヨーを取ると、走って逃げた。
「恋殺したいねえ。連鎖恋殺できたらもっといい」
私の呟きに、ひかりは肩をすくめた。
○三黒紗伊子の見聞 十一
「そっか、銀子先輩、見つかったんだ。ちゃんと生きているんだね」
百恵が、胸を撫で下ろすように言いました。しかし、心の底の方では、不安が残っているようです。笑顔が少し、ぎこちないのです。仕方ないでしょう、見つかったとはいえ、大怪我を覚悟の上で修行していると聞いて完全に安心し切るほど、百恵はとんちんかんな心の持ち主ではありません。
「でも、そうなったらもう、その人のこと信じるしかないよ」
そう口を開いたのは私の弟です。百恵と行く約束していた夏祭りについて来たので、三人で大通りを歩いて、屋台を見回っているところです。
「その人に余計なことしちゃだめだよ?」
幼く可愛らしい声ですが、明らかに私に釘をさすように言っていました。「この前、十分に理解しましたよ」そう言って、私は小さい弟の頭を撫でました。
「あった、やっと見つけた」百恵が指さした先に、ベビーカステラの文字が横並びになった屋台が立っています。「祭りと言えば、ベビーカステラよね」と、百恵は言いますが、私は彼女がマイナー思考な人なのだと思っています。
ベビーカステラを二人で百円ずつ出し合って買いました。茶色の紙袋を開くと、中から温かな甘い香りがふわっと噴き出し、百恵と私の鼻先をぴくりとさせます。一つ取って弟にやると、弟はベビーカステラの中央に入った焼き目の線に沿って、綺麗に半分だけかじって美味しそうにもぐもぐほっぺたを揺らしました。私も百恵も、それを真似して食べました。
弟は、夏祭りに来た時から辺りをキョロキョロと物珍しそうに見ていましたが、今は一ヶ所をじっと見つめています。そして、「大きい、小っちゃい」ふふ、「大きい、小っちゃい」くふふふ、と笑うのです。弟が突然笑い出したので何の話かと思えば、通路の反対側にある金魚すくいの屋台の前を見ているようです。金魚すくいの屋台の前には、同じクラスのクルミ君と、たしか女子サッカー部の二年生の女の人が一緒にいるのが見えました。
「たしかに身長差がすごいわね」
百恵が感心するように言いました。「あの人、女子サッカー部のキーパーだよね。いやあ、意外」クルミちゃんが、あの小さくて可愛いクルミちゃんが、まさか、大人の階段上り中とはねえ、と百恵は少しテンションが高まりました。私はデニムショートパンツに取りつけたホルスターから銀の拳銃を取り出すと、百恵に見られないよう斜め後ろからクルミ君を目がけて銃を構えました。しかし、弟がぺちんと私の手を叩いたせいで、銀の拳銃は消えてしまいました。弟の睨んだ視線を無視しながら、私は口をとがらせたのでした。
「クルミちゃんが、まさかねえ」と百恵はまだ一人でぺちゃくちゃ言っています。
「大人の階段、登っているかどうかは定かではないね」
私達の背後から、急に金髪ロングヘアーの男性に声をかけられ、私はビックリしました。しかし振り向いてよく見れば、先輩だったのですぐに心が落ち着きました。
「かれこれ二時間ほど、若樹クルミの様子を探り探り見ているが」と先輩は話を続けます。「彼の恋愛感覚は中学一年生くらいのようだな。今はただ、目の前の女体にウキウキしているだけだ」
はあ。と私と百恵は顔を見合わせました。
「ところで、なんで今日はそのような姿なのです?」せっかくのアイデンティティであるボサボサヘアを、金髪で隠してしまうのは何ゆえ?
当然の疑問に先輩は、恋愛検察官として顔を知られて云々かんぬん、という話を一から詳しく語りました。その様子を百恵が怪訝な目で見て、「この人が告白を邪魔するって噂の、あの変人なの?」と耳打ちします。耳うちと言っても、先輩本人の目の前でのことなので、先輩にも百恵の言った事は何となく伝わります。
「恋愛とは何たるか、教えようかい?」
ふわりと正面から風が吹いて、百恵と私の間をすり抜けていきます。
「ずばりなんでしょう?」
百恵は怪しみながらも、楽しんで聞きます。百恵は人見知りするより一目見るスタンスなのです。
ふはっ。百恵の思いがけない返答に先輩が笑いますと「恋愛、それすなわち脳細胞半壊の儀、だね。」と言って皮肉めいた笑みを浮かべます。
「いみふー」と百恵は言いました。
ブブッと音がして、先輩のスマホにメッセージが届いたことがわかりました。先輩はメッセージを読むと、よしよしと悪い顔で微笑みました。
「すまんが、話はまた今度」
そう言うとすぐに身をひるがえし、人ごみの中を颯爽と抜けていきます。妙にウキウキした足取りが見て取れました。きっとまた、恋愛裁判をするのでしょう。やがて黒いシャツの襟と金髪のロングヘアーが、数十メートル先で横道に消えるのを見届けると、先輩の姿は完全にわからなくなりました。
「あの人、いつもああなの?」「あの金ピカロングヘアの人、女のひと?」「紗伊子って、けっこう変な人と関わりもっているよね」「男!? へんじんだ!」「映画部の部長とも、全くの部外者なのに旅行に行くし」「変な人について行っちゃダメ! ママがいつも言ってる!」
百恵と弟が口々に言うので、耳が許容オーバーでした。
○赤出ミーコの見聞 一
恋愛映画の中盤に夏祭りのシーンはきまりが良い。アクシデントを起こすことも容易だし、恋心を深めることにもまた有用なのだ。
「ぼくは、君のことを全然理解していないのだね。そうなのだね」
ヒロインを演じる私がぎこちなく手を振って、去っていく。その姿を見送って、恋のお相手である男が、小さく呟いた。彼は外国の血を受け継いだエメラルドグリーンの瞳を儚げに揺らし、線の薄い輪郭に僅かな影を落とすのだった。
そこで、今日の撮影するシーンは全て終了した。あとは、時間の許す限り、夏祭りを楽しむのだ。神社の出口近くを陣取っていた機材を担ぎ、そのまま祭りへ赴く。私は、映画内での恋愛相手である男を連れ立って、他の部員と共に境内の中を歩き出した。
この男、アスファルトニガム高校三年生の小津野というが、彼は実は映画部ではなく、助っ人なのだ。本来は野球部の元エースだ。最後の夏の大会に敗れ引退した今も、部活に顔を出して練習に励んでいるらしい。というのも、どこぞのプロ野球団からすでに声がかかっているとかいないとか。しかし、そんな小津野はどうも、人間関係を作ることに億劫なようだった。ふと気が付けば五メートル後ろを歩いていて、そのまま人ごみに紛れようとする。しかし、彼と同じクラスの私は、彼が普段から自信がないということは知っていたので、少しでも親近感が沸くよう気配りをしている。だから今も、彼の服の裾を掴んで彼が離れて行かないようにし、映画部員との人間関係構築の場を設けているのだ。
「いや、あなたのそれはもう、拘束のたぐいですよ」と、例の後輩君は言っていたが、そうではない。
木々に囲まれた神社の境内では、くじ引きや射的、輪投げなど、遊戯の出店が多い。私は試しに射的をしてみたが、てんで話にならなかった。五発あった弾は、五発とも空中遊泳を楽しんだのち、屋台の後ろの紅白幕にぶつかって地面に落ちた。こんな人生にはなるまい、思わずそう心でつぶやいた。皮肉にもその時だけ、小津野がクスリと笑ったので、私は何とも言えない気持ちになった。
その時、不意に目に留まった影があった。境内の向かいにある亀すくいの屋台がある。距離にして三十メートルほどだ。その亀すくいの屋台の前で、中腰になって亀を眺める黒い服を着た金髪の輩に目が留まったのだ。私は不思議と笑いが込み上げて来た。初めはそれが何故なのかわからなかったが、その輩を眺めるうちに、その笑みの理由に気が付いた。
私がそちらへ向かって歩き出すと、部員の友達が不思議そうに後ろからその様子を見ていた。
「後輩君、夏祭りに来るタイプの人間だったんだ」
私が、しゃがみ込んで水桶内の亀を眺める金髪黒衣装の後輩君の背中に呼びかけると、彼はすでに私が近づいて来ていたのを承知していたようで、特に驚くこともなくこくりと肯いた。
「おそらく、一般人のそれとは目的が違いますがね」彼は無表情のまま、ふはっと笑った。
「どうよ。映画の方は順調なの?」
「この姿を見ればわかるのでは?」後輩君はくるりとその場で回った。さしずめ、行き詰って鬱憤を晴らしていると言った所だろうか。
「それにしてもミーコ先輩は勘がイイ」
後輩君はそう言って腕を組む。「この完璧な変装を境内の向こうから気が付くとは恐れ入ります」
「伊達に君の先輩をやっているわけではないのだ」
私は、どんなもんだい、と誇らしげにふんぞり返った。すると後輩君が私の後ろを覗く様に頭を左にずらして言った。「逃げますよ、小津野碧」
後輩君の口から出た小津野のフルネームによって意識が射的の屋台へと戻された。私が振り返ると、小津野が映画部の輪の中から徐々に遠ざかり、境内の鳥居をくぐって通りに繋がる階段を降りようとしていた。
「むう。なかなか手のかかる奴だ。そう思わないか?」
後輩君に聞くと、「そうですね、たしかに厄介だ」と言った。
「じゃあ、また部活でな。自分の映画のことばかりで、君の映画に関われないのが残念だが期待しているよ」駆け出しながら、後ろを向いてグットラックと親指を立てると、「どうも」と言うように、彼は片手を上げた。
「あれ誰だったの?」射的の屋台の所に戻ってすぐ、そう映画部の同期の女友達に聞かれた。後輩君だと答えると、彼女は目を丸くした。ほげー、と変な吐息が漏れている。
「彼、夏祭りとか来るんだね」
みんな似たような見識なのだなと思った。
○先輩の見聞 十六
碧の眼をした小津野碧を追ってミーコ先輩が境内の階段を降り、その姿が完全に見えなくなったと同時に、仲睦の奴が藪の中からひょっこり顔を出した。そのこの世の物とは思えぬ珍妙な顔つきに、私は思わず妖怪ぬらりひょんに出会ったのかと錯覚した。
「そんなに嫌そうな顔します?ぼくはあなたの協力者。言うなれば、コンビ、またの名をバディ、有刺鉄線で結ばれた生粋のパートナーですよ?」
「そんな痛々しいもので結ばれてたまるか」
我が脳裏に互いに身を引っ張り合い、棘が刺さって血みどろになってもまだ地面でもがく阿呆な二人の男の図が浮かんだ。
「それにしてもオマヌケですね。ダサい変装を施したくせにターゲットに正体がばれるなんて」
仲睦が嘲笑うようにして言った。しかし、別にミーコ先輩とはもとより知った仲だ。出会えば声を掛け合うくらい、むしろ普通である。
「ですが確かに彼女は黒のようですね。彼女自身は気が付いていないようですが、あなたの言う通り赤出ミーコは小津野碧に恋心をお持ちなようだ」くひゃひゃ、これは裁判にも熱が入りましょうね。
仲睦が悪魔のように目を吊り上げて私に下賤な微笑みを向けた。
「ま、それはまた今度の話だ」今日中にミーコ先輩が告白することはあり得ない。
「ですが、あまり悠長に過ごしていると、小津野碧が彼女に興味を示すのでは?」赤出ミーコだってアスガム高校じゃ有名人です。君野木実のような目に見張る美貌はなく、加賀谷ひかりのような輝きも無く、荒井環のような絶対王政的権力もないですが、彼女のセンスは底知れないと男子界隈では人気の筆頭です。
「よく知らない奴の名を出すな。話がややこしくなる」
それにしても、底知れないセンス、か。
一年前の赤出ミーコの笑顔が浮かんだ。かかかっ、そう火打石を打つような、質素で、儚げで、それでいて熱い、そんな笑顔だったことを久方ぶりに思い出した。
「仲睦、君は若樹クルミや他のターゲットの方に目を向けておいてくれ。俺はもう少し、ミーコ先輩を追う」
もう、人使いがあらいんだから、とまるで伴侶のような言い方をしたので、気色の悪さに俺のメガネがずり落ちた。
○若樹クルミの見聞 四
ぼくは別にアザミ先輩と二人きりで夏祭りに来たとか、そういうわけではないよ。たしかに、アザミ先輩と話しながらいろんなところを見て回ったけど、それは男子サッカー部と女子サッカー部合わせて十人くらいが一緒になって動いている中での話だよ。それでも十分に、ぼくは楽しんでいるけどさ。
アザミ先輩は意外と甘いものが好きなことがわかった。焼きそばや焼きトウモロコシにはほとんど目もくれず、綿あめやかき氷の店に次々と入った。だから、ぼくもそれに付き添って、他のサッカー部員の列から少し遅れて、二人で甘いものを買っては列の最後尾に戻るのだ。ついでに、みんなが素通りした金魚すくいとかも見て回っていたから、確かに二人きりと誤解されたのかもしれない。
「金魚好きなの?」「はい」「私もよ」「ぼくは尻尾が大きくてひらひらしたのが特に好きです」「どうしてかしら」「優雅だからですかね」「私は小さい金魚がぴろぴろ尾を振って泳いでいるのを見るのが好きかな。かわいいもの」
そんなどうでもいい会話の内容だったのに、夏祭りが終わったあともすぐに思い出すことができた。後日、同じクラスの福島百恵さんに密かに問い詰められたのは、この光景だけを見られたからなのだと思う。
「夏祭りくらいだからね、こんなに甘いもの食べるの」
綿あめを口に含みながら、アザミ先輩が言い訳するようにそう言ったのが可笑しかった。
「甘いものも、歩きながら食べるとカロリーオフなの」
そういう冗談を言ったりもするんだ。ぼくはアザミ先輩の新しい一面を見て嬉しくなった。
するとその時、どこからともなく男の声がした。
あらあら、見た目通りのお坊ちゃんですね。その程度の会話だけでこの夏祭りを終わらせてもよいのです?
それは悪魔のような声であり、たしかに耳をかすめた気がしたけれど、アザミ先輩の話を聞いている内にすぐに忘れた。
杏子飴の屋台を見つけた時は、サッカー部のみんなで並んだ。サッカー部らしく、ボールに見立てた丸い物を持ってみんなで写真を撮るのが慣わしなのだそうだ。
すると、前の男子たちが何かに気が付いて騒ぎ出した。
「お」「おお」「なんてこったい」「眼福」「万福」「胸もぷくぷく」「ぷくの反復横跳びだね」
ぼくはみんなの背が邪魔をして見えなかった。
「何かあったの?」
「お子様のクルミちゃんにはまだ早いと思うが教えてやろう」ぼくを茶化すことを忘れない同学年の友達が言った。
「君野木実先輩が前に並んでいるんだ」
周りの男の人達の視線が、前方からやがて左に逸れ、後方へ向いた。終始、君野木実という人の姿を目に写そうとしているのだ。男の子っていうのは、スケベなことに反応を示す全自動センサーが常備されているから困る。ぼくも、ちらりと横目で見た。たしかに、そのお乳はすごかったし、おしりも小ぶりなスイカのように丸くてぱくりと食べたくなった。
でも、アザミ先輩の方がカッコイイもん。
「夏祭りも楽しんだし、今度はプールに行きたいわね。」君野木実という人の隣の女の人がそう言った。
「あー、プールはもう行ったんだよね」と君野木実が答えた。ぼくの頭の中に、アザミ先輩と一緒に滑ったウォータースライダーのことが浮かんできて、急に頬が赤まる気がした。
「一人で?」
君野木実の隣の女の人が、口をとがらせていた。
「まあね」君野木実は恥ずかしげもなく言った。「でも、面白い奴と会ったし、つまらなくはなかったよ。」
「何それ、ナンパされたってこと?」
「全然違うから」
「え、それいつのことなの?」
「夏休みの初めよ」
そんな二人の会話なんか、アザミ先輩で胸いっぱいのぼくの耳になんか入らない。
三黒紗伊子の見聞 十二
「おー、B級映画ヒロイン三黒ちゃんじゃないか!」
夏祭りの喧騒の中でも一際目立つ声が前方の方から聞こえてきたので、私はそちらを向きました。すると、先日共に旅をした赤出ミーコ先輩が、外国人の男性や他にも数人の高校生の男女を引き連れてこちらに向かって来るではないですか。
「外国人じゃないね、あの人はきっとハーフだよ。あのエメラルドの瞳は外国の血だろうけど、鼻筋がジパング」弟がそう分析しました。弟が言うのならそうなのでしょう。他の方々は映画部の人と思われました。
「さっき後輩君にあったよ。三黒ちゃんは会った?」赤出ミーコ先輩はニコニコとした明るい表情で聞きました。
「ええ。とてもヘンテコな格好でした」
「おうおう、あれはヘンテコだったな」そう言って今度はけらけらと笑います。
空っぽになったベビーカステラの茶袋をふりふりしながら、百恵が横目で私と赤出ミーコ先輩を見比べました。
「二人って何か、通ずる点、みたいなものがあるんですか?」
「通ずる点?」と赤出ミーコ先輩が小首を傾げました。「特にないんじゃない?」
「先輩が映画部だったから、たまたま知り合ったのですものね。」と私も言いました。
すると辺り男性方の視線が突如、私の後方、とある一点に釘付けとなりました。
「あら、ミーコも来ていたの。あなたって映画のことばかり考えているから、こういったイベントには興味ないと思っていたけれど」
透き通るような美しい声の女生徒がそう言って赤出ミーコ先輩に話しかけます。手にはかじりかけの杏子飴を持っています。しかし私の視線は、その隣を歩く、君野木実先輩の方を無意識に向いているのです。そのマーベラスな体つきにはまことに惚れ惚れし、同時に見上げるほど高い壁を目の前に創造します。あの壁、高跳びの要領で越えられるかしら。壁に突撃して終わりかしら。そう無謀な想像に陥ります。そしてふと、フラッシュバックするように、七月に弟と行ったプールの日のことが思い出されました。お互い、その場から動いていないはずなのに、私を置いて遠退いて行く先輩と君野木実先輩の二人の姿が脳内フィルムに焼き付けられていました。
「何だか不服ね。私だって夏祭りくらい普通に楽しむから」
そう言った赤出ミーコ先輩の背後にいる映画部員や、その肩にかけるカメラバックや三脚に目を向けながら、君野木実先輩が、くくくと笑いました。「どこかの誰かさんとは違うって言いたいわけね」
先輩のことだと、私はすぐにわかりました。
「はあ、まさか、私があの子と同じような目で見られるなんてね」赤出ミーコ先輩は力が抜けたように言います。
「ねえ、それ誰のこと?」君野木実先輩の隣の人がそう聞きましたが、二人は答えません。
「三黒ちゃん、この人のこと知ってる?」赤出ミーコ先輩がこちらを向いて、君野木実先輩を紹介するように話し出しました。
「可愛いくせに闇が根深いのよ」
君野木実先輩の一学年の頃のまだあどけなかった様子から、荒れた二学年時代に起きた百人切り事件のことまで、赤出ミーコ先輩は私に教えてくれます。けらけらと笑いながら話すのでまるで笑い話みたいですが、周囲で地獄耳を澄まして会話を盗み聞いていた男子生徒たちの背筋が凍っていくのを感じます。
「百人切り事件、ですか」
私は思わずそう口にしました。
「さっきも少し、その話をしたわね」と君野木実先輩の隣の女生徒も会話に入り、二学年時代の百人切り事件の詳細が語られます。
「木実は告白され続けた結果、いろいろと思考が変わり続ける期間があったのよ」
その中でも特に目立ったのが、声をかけて来た男性と片っ端からお茶をしに行くようになった白亜紀期ならぬ博愛期。それがちょうど昨年の夏休みから文化祭の終わりにかけてだったそうです。
「博愛期なんて命名しているけれど、ちゃらちゃらしたものでも、ロマンチックなものでもなかったけどね。もちろん、白亜紀みたいにダイナミックなものでもない。ただ、野蛮ではあった。行われていたその所業の真相は、面倒な輩を木実の方からおびき出して切り捨てる。ひたすらこの行為繰り返しよ。己に好意を抱く人間がいなくなるまで、こいつは恋殺を続けた。慈悲も無かったわ」
赤出ミーコ先輩が検事になりきった物言いで君野木実先輩の犯行を述べました。切り捨てられたのは、同学年よりもむしろ、先輩たちの方が多かったそうです。
「俺が射止めて魅せるんだっていう男の不細工な誉れの現れよね」と君野木実先輩の隣の女生徒が呆れた顔をしました。そのような心境の元、当時の三年の男子生徒たちは後輩に圧をかけ、我先にと君野木実先輩へ突撃したと言います。歴代最高峰の池照という方を墓標に添え、君野木実先輩はついに誰とも付き合わず、お茶をすることもしなくなったそうです。
「『誰も彼もイマイチなのよ』とか木実は言ってたけれど」と木実先輩の隣の女生徒が言い、
「ただ単に、男への我慢に限界がきて、火山が噴火したのよ」と赤出ミーコ先輩が続けました。「博愛期は終わり、恐竜は絶滅した。自分から始めておいて世話ないわ」
「いいえ。恐竜がいたなら、博愛期は別の終わり方をしたはずよ。フラれた彼らは木実にとって、周囲を飛び交う羽虫に過ぎなかったの」
君野木実先輩の隣にいる女生徒が軽やかな表情で言ってのけました。透き通る美しい声でそう言ってのけました。男子生徒を「羽虫」と評したその不条理な言葉が、ダイヤモンドのように輝くのでした。
男など、飛んで火に入る夏の蟲
by蚊不可・フランツ
いつだったか先輩がフチなし眼鏡を光らせながら、君野木実先輩に群がる男性方をそう適当に称したことを思い出しました。「奴らは蚊だ、虫けらだ」と、突撃して散って行った殿方を先輩は笑い者にしていた卑屈な笑みが脳裏に浮かびます。
恋に敗れた三年生たちは、そのショックから立ち直れず、そのまま受験に失敗し、アスガム高校の大学進学率を例年の五割まで落とすこととなったのです。それが百人切り事件の結末でした。
「好き勝手にべらべら話すなよ」
君野木実が隣の女生徒と赤出ミーコ先輩を睨みます。そして大きく溜め息をつきました。
「せっかくの夏祭りなのに、機嫌が悪そうだね」
赤出ミーコ先輩が隣の女生徒の方を見ると、「また感じ取っちゃったみたいよ」と透き通った声で応えました。
「何を感じ取ったのですか?」私がその透き通る声をもつ女生徒に聞きました。
「告白の気配を感じ取ったのよ。木実には、四カ月以内にその男が告白して来るかどうか知る力があるの。」
「ひかり、なんで勝手に話す」君野木実先輩は手に負えない、と言った様子で彼女の名を言いました。
「その力、後輩君にも使ったわけ?」
赤出ミーコ先輩が聞くと、君野木実先輩が一呼吸ためるようにしてから「ああ」と言いました。
「あいつは、いいね」
そこで初めて、君野木実先輩は表情を明るくして答えました。
「あいつには、全く反応しなかった」
うん、あいつは、いいねえ。
そう言った君野木実先輩の笑顔が、他の人にどう映ったのかわかりません。ですが、私には彼女の笑みが、野苺を口にふくむ可憐な乙女の笑みのように見えたのです。
「もしかして、先輩への反応がなかったのは、君野木実先輩が自分から告白するからなのではありませんか?」
私は自分でそう口にして、何故だか気落ちした感覚になりました。
しかし、周りでは花が満開に咲いたかの如く笑いが起きたのです。
「そんなわけないでしょうに」と、ひかり先輩が笑いを止められないまま言います。「本当、面白いことを言うのね。」
「しかたないじゃないか、三黒ちゃんは木実のことなんてよく知らないのだから」と言いながら、赤出ミーコ先輩も笑いが止まりません。
私は自分の発言が恥ずかしくなって頬が火照る想いでした。
「はあーあ、久しぶりにこんな笑ったわ」
ひかり先輩が綺麗な声で満足そうに言うと、何だか場が和んだ様に思われました。
「じゃあ、私は帰るわね。母がまだまだ厳しくて、門限二十時なのよ。」
そう言ったひかり先輩に、君野木実先輩がうなずきます。
「あ!」と今度は赤出ミーコ先輩が声を上げました。「小津野、またいなくなってやがる」
じゃあ、と片手を挙げると、赤出ミーコ先輩は颯爽とその場から消えました。
「まだ、射的してないよ」
弟がそう口を開いたのをきっかけに、私たちも、その場を後にしました。
去り際、君野木実先輩と目が合いました。と言うよりも、君野木実先輩が私の方をじっと見ていたのだと思います。さっと視線を下げ、小さく会釈すると私は弟の手を引いて神社の境内の方へ身体を向けました。
先輩への反応がなかったのは、君野木実先輩が、自分から先輩に告白するからなのではありませんか?
そんなわけないでしょうに。
先ほどの会話が、再び私の頭の中で流れてきました。そんなわけないと言っておりましたが、もし、そんなわけあったなら、私は、どうしたら良いのでしょう。
「敵わないよ」「え、何に?」「あの人は敵なの」「どういうこと?」「あの人は敵であり、無敵なのよ」「つまり?」「私に出る幕はない」
出る弾幕はあれどね。
境内へ繋がる、ぐるぐるとしたミステリーサークルのような傾斜の林道を、私は思考までぐるぐるさせながら歩くのでした。
しばらく歩いていると突然、横の茂みの中から、ぞろぞろと数人男子生徒の集団が出てきました。木々の葉っぱを髪の毛や服に着けているのはもちろんのこと、息は切れ切れで、汗の量もすごいです。
「僕らにはきついぜ」「休みたい、体力皆無」「気力も皆無」「おバカ、ここからが大事なのだ」「奴は逃げられない」「そういう手はず」「我々も捕まえに行かなきゃ」「それにしてもだ」「あの人はすごいな」「あのなりでよくあそこまで身軽になれるもんだ。」「場数を踏んでいるんだよ」「僕らの一七年間は無益だったね」「そんな悲しいこと言うなよ」「どうであれ」「彼には尊敬の意を表すね」
口々にそんなことを言いました。なるほど、鬼ごっこでもしているのでしょう。確かに広いこの地での鬼ごっこは、さぞ楽しいのだろうなと思います。その後、なにやら小声で話し合うと、何故か再び茂みの中へ戻っていきました。今度は四方に散らばったみたいです。
ぱしゃ、と音がした方向を見ますと、小さな女の子が、今にも泣き出しそうに目を潤ませていました。異様な男たちの姿に気を取られ、手に持っていたかき氷を落としてしまったみたいです。私はその女の子の眉間にねらいを定め、銀色の拳銃の引き金を引きました。放たれた銀の弾丸が女の子の眉間を貫いた時、彼女はとうとう泣き出しました。
時々、嫌になっちゃいますよ。
泣き出した女の子を見た弟が、私のくるぶし辺りを蹴飛ばしてきましたが、私は構いませんでした。
○先輩の見聞 十七
ミーコ先輩を陰で追っていると、三黒さんが現れ、君野先輩も現れ、なにやら大層なメンツになった。三黒さんの友人が気圧される中、三黒さんは堂々としたものである。大抵の女生徒は、君野先輩を見れば自ずとその場から遠ざかるものだ。それは、嫌悪の現れである場合もあれば、畏れによる逃避の可能性もある。中には掟だと言う者もいる。成人したライオンの雄が群れに一頭しかいない事と同様に、その一帯に君野木実がいれば他の女は排他されると言うのだ。人間社会ゆえ、実際にはそれほどまでではないが、少なからずそう感じる人間もいるというわけだ。
しばらくすると、小津野碧がミーコ先輩から離れた。ミーコ先輩が話し込む隙に、今日はそのまま帰るのだろう。この場ではこれ以上関係が進むことはなさそうである。
脇屋空太郎、まだチャンスはある。早く当たって砕け散る用意をするがいい。わはは。とっておきの裁判ネタを用意してやろう。
そこでポケットから震動を感じる。仲睦からの連絡だった。
「高瀬アザミ狙いの若樹くん、あれ、動きますよ」
「何?」
想定より随分と早いではないか。かき氷のように膨れ上がった恋情にシロップと練乳をかけるような、甘味極まり感極まる夏祭り独自の高揚はわかる。だが今日動くとは想定の数倍速いタイミングであった。
「あの子も、心まではお子ちゃまじゃないってことですよ」と仲睦がニヒヒと笑い声を上げて言った。
「すぐ向かう。どこだ?」
「広場です。矢倉近くで盆踊りを二人きりで眺めています」
「二人きりだと?」
「どうやら周りの人が察したみたいですよ。焼きそばの屋台裏の木陰が登場にうってつけですので、そこに来てくださいな。おっと、そんなこと言っている間にも、若樹くんはその瞳に決意の煌めきを宿し、そのくちびるは恋の唄を今、もう、それはそれは可憐に奏でようと、ああ、あと五分もあれば接吻しますよあれ。いいですねえ、夏祭りで初めての接吻。やだなあ。やけちゃうなあ」
余計な話が長い。私はすぐさま電話を切ると、その場を後にして駆け出した。
俺は言われた通り焼きそばの屋台裏の木陰に滑り込むようにして走り着くと、息を整えながら広場の様子をうかがった。
もう夜もいい時間であり、空は真っ暗だ。中央の矢倉の上から周りの木々へ提灯がぶらさげられ、橙色をしたひかりの道が幾本もあった。矢倉の上では、やたらとリズミカルに太鼓を鳴らす女が法被姿でバチを乱舞させる。
しかし、高校生くらいの二人組の男女の姿などない。そう思ったところで、焼きそば屋台の向かい側に十人ほど集まりを見つけ、その中に若樹クルミと高瀬アザミの姿を見た。
おい、二人きりではない。情報が違うぞ。
俺が内心で仲睦に悪態をついた時だった。
ドカリと背を蹴られ、勢いよくうつ伏せに倒れたところを男に上から体を抑えられた。なに奴かと思えば、一人ではない。俺を抑えつける腕が、四本、六本とますます増えていく。しかも、さらに後ろにも男たちが幾人も控えていた。その男ども全てが、煩究煩コンテストの主催者説明会で見た顔ぶれだった。
「てく、てく、てく」
自ら歩く擬音をたてるが、足音それ自体は無音である。その擬音と無音は背後から徐々に近づいて来た。それが雑草と落ち葉にまみれた茂みの中であるということが、考えれば考えるほど恐ろしい。
やがて、悪魔のような顔をした人間が俺の目の前にしゃがみ込むようにして現れた。いや違う、人間のような顔をした悪魔が現れたのだ。
「あれれ、あなた、そんな無様な恰好でどうしたのですか?」げひひひ、と不気味に笑う顔が何とも腹を立たせる。「冗談です。これは私の差し金でして、こりゃどうも、すみませんね」
口裂け女のように悪魔人間の口角が吊り上がった。
「仲睦、これは、どういうわけだ」
俺は正面に顔を近づける仲睦を、怒り盛り盛りの眼で睨んだ。
「何をそんな睨むのです。怒りたいのはむしろ私たちですよ」
「なぜだ」怒りを向けられる理由など、皆目見当もつかん。
「あなた、私らに隠していることがあるでしょう」
じろりとした視線が俺の眼を射抜くようだった。
「夏休みの初めのことです」仲睦は一拍ずつ置くようにして話す。
「あの暑い日、プールに行った時のことですよ。
あの日、あなたもプールへ行った。
我々とは別の、しょぼっちい市民プールへ行ったでしょう。
私はあの時、嘲笑ってあなたを馬鹿にしてしまいましたが、どうやら、あなたの方こそ我々を嘲笑っていたようですねえ」
俺は言い知れぬ緊張感で、喉が詰まっていく感覚を覚えた。しかし、未だ仲睦が何を言いたいのか分からない。
「ふん、白を切ってもむだです。出会ったのでしょう? 君野木実に」
そこでようやく、こやつらの言わんとすることがわかった。
「先ほど偶然、君野木実から『プールへ行った』という言葉が飛び出ましてね」それはもう驚きでしたよ、と仲睦は大げさに手を振り上げた。「ちょいとあなたの指令に背き、その後も彼女らをつけて聞き耳立ててみれば、なんと日付も合致するではありませんか」
ぐわっと目をひん剥いて、仲睦は再び俺に顔を寄せ問い詰める。
「ハレンチなあなたのことだ、水着姿の一つくらい、写真に収めたのでしょう?」
俺の頭の中で、赤い水着姿の君野先輩が、はにかんで笑う様子が浮かんだ。たゆたう乳の谷間を水滴がぬっていく、そのワンカットのシーンが永遠と大脳スクリーンに映し出される。確かに私は撮った。あの、目の眩むような光景を写真に収めていた。
「大人しく差し出せば、すぐにでも解放しましょう」仲睦が契約を勧める悪魔のように言った。
「そんな写真、撮ってないね」
俺はしょうもない嘘をついた。しかし、見せるわけにはいかない。この脳みそが桃色エキスに漬け込まれたような男共に、君野先輩の水着姿など晒してたまるものか。悪いようにしかなるまい。俺はそう確信した。俺でなかろうが、誰だって確信する他ない。
「往生際の悪い人ですね、全く。では、そのポケットの中にあるスマートフォンを取り上げれば解決しますか?」
仲睦が背後の男に目配せをすると、男の一人が俺の腰元にしゃがみ、ポケットの中を漁ろうとする。
おいおい、人のスマホを奪うなど情報社会にあるまじき行為、言語道断である。情報リテラシーを忘れたか。
俺は腹の底に力をため、一気に吐き出すように叫んだ。
「窃盗だ! 茂みに中でやられている!」
驚いて男が俺のズボンを漁る手を止めた次の瞬間、焼きそばの屋台に立っていたおっさんが、何ごとかと駆け寄って来た。彼は二の腕にぽこぽこと筋肉を溜め込み、見るからに屈強そうである。次いで、焼きトウモロコシ屋の、今度は高身長で足の長い大学生くらい若者が現れた。
ぐぬぬ、と仲睦が唇を噛んだ。
「ぬかりましたね、口を塞いでおくべきだった。流石の私も、警察とは仲良くなれそうにない」
言うが早いが、仲睦の悪魔野郎は木々に覆われた茂みの中へ逃げ出して姿を隠した。それを見た男共も、次々とその場から逃げだして行く。俺を抑え付けていた幾本もの腕が、ようやく外れていく。
「大丈夫かい、君」
焼きそば屋のおっさんに声をかけられ、俺は肯いて礼をした。そしてすぐ様、広場を横切るようにし、帰路に向かった。まだ未消化な恋愛裁判案件はあれど、もう、これ以上夏祭りに居座れない。身の危険を防ぐのが最優先だ。俺は、無意識に走り出した。しかし、簡単に帰してくれるほど、仲睦の悪魔野郎は甘くなかった。
俺が真っ先に向かった林道の出口には、すでに仲睦の部下が先回りし待ち伏せていた。幸い、先に男の存在に気が付いたおかげで捕まることはなかったが、これでは帰ることが出来ない。おそらく他の出入り口にも同じように男が待ち伏せているだろう。林道の脇から逃げ出そうにも同じことだ、頭の良く回る仲睦が俺の行動を想定しないはずがない。焼きそば屋とトウモロコシ屋に男共を取り押さえてもらいたいが、屋台を放っておけばそれこそ売り上げが誰ぞや悪い輩に窃盗されかねない。しかし、自らの力で押し倒していくには、あまりにも筋肉不足。この状況、みるからに容易ではない。抜け出す方法はおそらく一つ。奴らより先に、ここから最も離れた、神社の境内の出口から逃げ帰る他ないと考える。しかし、俺にそれほどの走力はない。如何せん!
とりあえず広場を離れ、境内へと繋がる屋台が横並ぶ林道に出て走った。この道のように、これだけ他の客が賑わっている中では襲ってこられないだろう。しかし、茂みの中を突っ切る方が早い。先にあの場を去った仲睦たちを追い抜けるか。
思い悩んだその時、屋台の並ぶ通りの先に、木実先輩が男に声をかけられる姿が見えた。男はわざわざ漕いでいた自転車を降りてまで、執拗に木実先輩に声をかけている。木実先輩も不幸な人だなと私は思った。
○君野木実の見聞 五
私がひかりたちと別れ、もう少しぶらぶらしたら帰ろうかと思った矢先、その男は声をかけて来た。どうやらアスガム高校の三学年らしいが、見知った覚えはなかった。
「俺の名前は藤堂京弥と言って、同学年だから知っているとは思うが、サイクリング部に所属しているんだ。」
ああ、こいつがそうか。私は肩を落とした。
男は親しげに話しをしてきたが、そんなこと知るはずない。けれど男は構わない様子で話し続ける。
「見てくれよこのクロスバイク。ギアは十八段階変速で、ボディはそこらの自転車の数倍軽く作られているから、風を切るように走ることが可能だ。それで、今日は部員と遠出して東京の方まで行っていたから、この夏祭りに来るつもりはなかったんだ。だけどさ、遠出した先の神社でおみくじを引けば、恋愛運が最高と来た。これはもう、今日のうちに君に想いを告げる他ないと踏んだのさ。きっと君のような華やかな女性は、夏祭りに行くのだろうと思い、帰ってすぐここに向かった。一時間ちょっと探し回っていたら、ほら、本当に木実さんに会えた。これって、運命だとは思わないかい?」
果てしなく長い、心の吐息。
うんざりした。これが楽しい楽しい夏祭りのシメなわけね。青春真っ盛りの、淡い恋模様がシャカシャカと自転車を漕いでやって来たのだ、ってさ、そう言えば聞こえがいい? それがお望みの恋の形ですか、ソーデスカ。
「俺はさ、一年の頃から君が好きだったんだ。本当さ。去年は先輩たちが邪魔して言い出せなかったけど、この気持ちは本物なんだ。俺と、付き合っておくれよ」
「悪いんだけど、無理」
即答した。
「そうすぐに結論出さないでさ、もう一回ゆっくり考えてよ」
溜め息をついて私が無視して行き過ぎようとしても、道を塞ぐようにして付き纏う。いい加減頭に来てその自慢げなクロスバイクとやらを蹴り倒そうかと思った時だ。
突然、斜め前に立っていた藤堂京弥が、真っ黒い格好の男にタックルされた。勢いはあまりなかったが、突然だったため、男たちは二人とも横に倒れ、それに次いでクロスバイクもバランスを崩してがしゃりと倒れた。
タックルした男の方が立ち上がったので見てみれば、後輩君だった。
「このクロスバイクいきり野郎め。ペダルに足つけるより、まずは地に足つけた物言いをしろってんだ。裁判以前の問題だ。訴訟からやり直せ!」
後輩君はそう言い放つと、金髪のかつらを藤堂京弥の顔に投げつける。そして倒れたクロスバイクを起こして乗っかると、颯爽と漕ぎ出して行ってしまった。さすが、風を切って走ると言っていただけのことはあり、数十秒でもうだいぶ離れた所まで漕いでいる。
呆気に取られていた藤堂京弥が、腰を抑えながら「待ってくれ」と叫びながらよろよろと彼の背を追っていた。金髪のかつらが路上にパサリと落とされた。私は、そのまま帰ろうと思った。
○先輩の見聞 十八
自転車を手に入れたのは非常に幸いだった。これなら、仲睦の悪魔野郎より早く境内に辿り着けるであろう。そう踏んでいたのだがしかし、想像以上に仲睦の手下共の足が早く、彼らはすでに境内のそばまで来ていた。自転車でぐるぐると廻るように林道をかけ抜ける俺の姿を見つけると、茂みの中から「あっちだ」「こっちだ」「そっちだ」「えっちだ」と声を掛け合って襲い掛かる。もう他の客がいようが見境なくなっていた。しかし、寸でのところで自転車をくねらせ身を交わしながら、俺は前へ前へと漕ぎ続けた。見よ。俺の俄然に飛び出す奴らの顔をとくとご覧になれ。煩悩に目が眩み、色欲に落ちた己の姿を注視できなくなった者の末路である。こんな腑抜け共に水着姿の君野先輩を見せてたまるか。君野先輩はこのような輩にもおめおめと胸の谷間を見せる安い女ではない。だから俺はけして捕まってはならない。
ところが、あと少しで境内という所まで来て、己の誤算に気が付いた。カーブする林道沿いを行った先に階段が出迎えたのである。境内入口の手前に二十段ほどはあり、傾斜も緩やかではない。しかも、側面の茂みから、まだまだ男どもが湧き上がって来た。その中に仲睦の姿もあった。追手の最前線に並んだと見える。仲睦の小さな黒目が怪しげに光った。
だが、ここを乗り切れば、俺は逃げ切ることが出来るであろう。この自転車の速度であれば、あの悪魔と、悪魔に心を売った男どもを振り切ることができる、あくまでも、階段がなければの話であるが。
要は、階段手前で自転車を降りてしまっては、俺の足の速さを鑑みても仲睦に捕まることは必須なのだ。仲睦はああ見えて、百メートルを十二秒で走る。
仲睦は、しめしめ、それ見たことか、と思っただろう。
だが、俺の脳裏に浮かぶは、諦めの境地に降り立つ悪魔の顔ではない。真っ赤な水着を身に着けた君野先輩の姿である、カラリとした夏の日差しを濡れた黒髪で受け止め、じっと無表情で彼女がこちらを見つめるビジョンが目前に広がるのだった。
美女ビジョンが開眼したのである。
ゆえに美女のため、俺は転んでなんかいられない。七転び八起きとか言っている奴らは、生ぬるいにもほどがあるぜ。
階段手前六.二四メートル、俺は自転車をくねらせ路上の端ぎりぎりまで車体を寄せた。そして階段に差し掛かる直前、ハンドルを握った両腕を力の限り振り上げ、前輪を高く持ち上げる。軋むバネのように膝を伸ばして後輪にも力を伝えると、わずかだが自転車が宙を浮く。するとタイヤは階段の脇のへり、唯一、段々ではなく平坦な傾斜になっている横幅一〇センチの階段の縁に着地する。石の道の上に乗り上げたまま、走り出す。
あとは、力の限り漕ぐのみである。通っていいのはこの幅一〇センチの石の道のみ。ふらついたら最後、階段か木の茂みかのどちらかに突っ込み、そこを仲睦に捕らえられて終わりだ。今度こそ、声を上げる間もなく処させるであろう。
階段の半分を過ぎたところに差し迫ると、足にかかる重みが何倍にも増した。しかし、山奥で水流に打たれる宇佐銀子を思えば、こんなものお茶の子さいさいだ。
弱音なんて言えないね。
ギアを下げるといいささかツラさも弱まった。重いギアでも難なく駆け上がる強靭な姿を世間の皆様に見せたいが、ここで倒れては元も子もない。
やがて大玉の汗が噴き出されると同時に、自転車が階段のてっぺんにまで上り詰めた。十数メートル先に出店で賑わう境内の中が見えた。橙色の提灯が俺を褒め称えるかの如く、風でゆらゆらと揺れながら光るのである。
わはは。逃げ切った。
桃色画像の流出を断固死守したのだ。生きるウイルスバスタークラウドとは俺のことである。ウイルス(仲睦)はとっとと消え去るがよい。興味ないね。
あとは程よく加速し、境内を駆け抜ければ一件落着だ。向こうの降り口は階段と坂道の二通りが造られていた。藤堂京弥には申し訳ないが、この自転車は今日まで拝借し、後日学校で返すとしよう。
俺は、ギアを戻してスピードを上げ始める。非常識極まるが、いよいよそのまま自転車で境内に入ろうかというときだった。突如、妖怪ぬりかべのような男が目の前に立ちふさがったのである。
「相撲部主将・壁之郷トシヤ、写真部と普遍的利便関係により馳せ参じつかまつる」
ナムサン!
その言葉を聞き終える前に、釣り鐘を叩く橦木が如き強烈なハリ手が飛んできて、自転車の頭を平手で真正面から打った。すると、加速し始めていた俺の体は、慣性の法則に従って前方に半回転しながら放り出され、宙を飛んで行った。一時、重力を感じない無の空間を泳いだ。なるほど、高跳びをする三黒さんは、毎度こんな気分なのだな、そう暢気なことを考えるうちに、俺は壁之郷トシヤの頭上を超えた。後方では、主を失った自転車が後方へ転がっていく。俺はそのまま尻を地面に向けた状態で、紅白幕の後ろから、屋台の一つに突っ込んでいった。ベニヤ板が割れる音が響くのに次いで、盛大にものが飛び散り、辺りは酷い有り様となるのであった。
○三黒紗伊子の見聞 十三
境内の中に着くと早速、弟がしきりにやりたがっていた射的の屋台を見つけました。かけていく弟の後ろを、私と百恵がゆっくりとついて行きます。
「今時の射的って、意外と品揃え豊富なのね」
百恵が感心したように言いました。見れば確かに、お菓子の箱や何かのキャラクターの玩具といった小さな物から、中くらいの大きさとなる、みかんボーイのぬいぐるみ、大きい物だと、ゲーム機、プラモデルもあります。
と、ここまでは子供向けのものです。ほかにも、イヤホンや加湿器に送風機、夏に嬉しい手持ちの小型扇風機など、大人が欲しいアイテムも三段ある棚のあちこちに並べてあるのでした。しかし、本当に射的の弾で落とせるのかどうか怪しい気もします。
「ま、やってみようじゃないの」
何を狙うか迷っていた弟より先に、百恵がそう言って店員にお金を渡しました。
「五発ね、お嬢さん」と店員さんが銃と弾を渡します。
百恵は、船員の服を着たカモメの絵が描かれた、可愛らしい水色の目覚まし時計に狙いを定めると、ほとんど間も置かずにバンと打ちました。弾が時計の脇をかすめます。ふむ、と百恵が頷き、構え直すと、もう一度目覚まし時計に向かって弾を放ちます。
当たりました! ど真ん中です!
でも、目覚まし時計は大して動いた様子もありません。
「はじっこの方に当てると、落ちやすいよ」
店員さんがそう教えてくれます。
三発目、百恵が言われた通りにはじを狙って打ちましたが、今度は外れてしまいます。
「はじを狙ったら外れちゃうじゃない、当然よね」
四発目、百恵はもう一度目覚まし時計の真ん中にねらいを定めて打ちます。それが偶然逸れて端の方に当たる、その算段が見事的中し、目覚まし時計の右下の端に弾が当たります。一センチほど、目覚まし時計が傾きました。
うう、と百恵が肩をすくめたのが分かりました。「気が遠くなりそー」と耳元で小さく漏らすと、平手でおでこをぺちんとたたき、私の笑いを誘います。
最後の一発、百恵は軽そうな小さいお菓子の箱を狙いましたが、今度は的が小さ過ぎて外しました。
「沼にはまった心地ね」とまた肩をすくめます。大きい物は落とせず、小さい物には当たらない。品物を落そうとすればするほど、その沼の水底は深くなっていくのでしょう。
そんなやり取りを見ていながらも、弟は全くやる気を無くす様子はなく、むしろ期待が高まったような顔をして店員さんにお金を渡しました。
「小学生以下は、七発やっていいからね」
先ほどよりも優しい声で、店員さんが弾を弟に手渡します。
弟は、プラモデルの箱を狙うと決めたらしく、その小さな手で重たそうに銃を抱えながらも、嬉々とした眼でねらいを定めます。しかし、百恵でさえ難しかったのですから、弟が容易に落とせるはずもありません。三、四、五発と弾が空を切り、かろうじてかすめた六発目の弾も、横に弾かれてしまいます。
「うーん」弟が悔しそうにして、最後の弾を放とうとねらいを定めます。でもきっと、プラモデルの箱に当たったとしても、弾が跳ね返ってくるに違いありません。私は、優しく弟の髪を撫でてやる準備をしました。
弟が引き金を引き、コルクで出来た弾丸が銃口から飛び出ます。最後の一発ゆえか、少しだけゆっくりと進んでいくような心地で見ていました。空気にうねりを持たせながら、コルクの弾がプラモデルの箱中央からやや逸れたところに、コツンと、軽い音をたてて当たります。
その時でした。
爆弾が投じられたような衝撃音が響き、射的の屋台が丸ごと、どっかんバリバキと崩れたではありませんか!
棚に並べてあった品物があっちにこっちに吹っ飛んでいき、辺り一帯にばら撒かれました。
その驚愕の出来事に弟は目を丸くしました。
「やった! これ全部、ぼくが落としたんだ!」
そう喜んだ弟は、満面の笑みです。そんなわけないでしょうに、冗談なのかわかりませんが、目の前のハプニングに本当に嬉しそうにしています。でも私は見逃しません。屋台が崩れ落ちる手前、コルクの弾はたしかにプラモデルの箱に弾き返され、今、私の足元に落ちています。
私は、いったい何が起きたのかと屋台の方をうかがってみます。すると、痛そうに腰を抑えながら紅白幕を払いのける先輩の姿があったのです。しばらく呆然と先輩の姿を眺めていると、やがてぱったり目が合いました。
「全く、阿呆ですね」
そう言いながら、私は笑みがこぼれました。
「はは、世話ないね」と先輩も笑います。
そこへ、どたどたと音を立てて、妖怪ぬりかべさんのような男の人が迫ってきます。
「すまない、またどこかできっと、この日の詳細を話す!」
先輩はそう言って向かい側にある階段の降り口の方へ走っていきます。
その背中を見送っていると、妖怪ぬりかべさんの後ろからも、わらわらどすどす、わらどすわらどすと男の人達が湧き出るように境内の中へ押し入ってきました。すると、不憫なことに、転がって行ってしまった射的の品物の一つ、みかんボーイの人形が、男の一人にボールのように蹴られ、宙を飛び、境内の石壁を越え、その奥へと消えて行ってしまいました。もし私が射的をするならば、狙うはあれにしよう、と思っていたものでしたのに。
そう考えだすと、そのまま放っておくのがますます可哀そうになってきます。
「ちょっと取ってくるから、弟を見ていてもらってもいい?」
百恵はうなずくと、「あんたもなかなか放っておけないけどね」と呆れ半分で笑うのでした。
○先輩の見聞 十九
紅白幕とベニヤ板のおかげで、軽傷で済んだ。石畳みの地面に打ち付けられるよかマシだろう。
射的屋台の男は目の前の出来事に頭が付いて来ず、口が開いたまま塞がらないようだ。俺は、追手が来たこともあり、早々とその場を去った。三黒さんの笑顔はもう少し見てもよかったが、そう悠長に構えてもいられない。
俺は降り口に向かって駆け出すと、来た方とは反対にある階段まで来た。しかし、階段のてっぺんから下を見下ろせば、横幅の太い男子生徒が二人、階段を上ってくる最中である。俺を見つけた時のその顔は、ねずみが罠にかかったところを見つけたのような卑しさがあった。
仕方なく引き返すと、境内の入口からぞろぞろと男どもが湧き出ている。一人でも全く可愛げがないのに、そんなに集まったら見るに堪えない。
男どもは俺の姿を見つけると、仲睦を先頭にしてわらわらと這い出でるように俺を目掛けて走り寄ってきた。たまらず俺は全力で走り、坂道の方から出口へ向かわんとする。しかし、ここに来てまた、横幅の太い男である。
「ふひひ、提供した品に見合う、良い働きですよ、相撲部一同」と、仲睦の悪魔のささやきが聞こえた。
「相撲部め、そのデカ腹は桃色じゃ埋められないだろうに」
本来ならば、ちゃんこ鍋に命を燃やすべきではないのか。
「残念ですが、わたくしの方が一枚上手なようだ」
前方からじりじりと巨体が詰め寄り、後方からは仲睦の悪魔野郎とその手下がぞろぞろとやってくる。八方ふさがりである。しかし、美女ビジョン。真夏の水着と青雲。赤い水着と桃色のシンドローム。
青雲ねえ、俺は感慨深げに頭上を覆う夜の空を見上げた。あるのは星雲だった。三十六計逃げるに如かず、下がだめなら上に行けってね。
俺は樹木の枝に手をかけると、幹を蹴って勢いよく登った。美女ビジョンを見たせいか普段以上の力が俺の体を支配し、樹木の枝の上に悠々と立たせた。
なにくそ! と男どもは後に続こうとするが、相撲部の輩は体が重すぎるし、写真部の連中は運動に関する神経がまるで通っていない。
「わはは。高みの見物だ」
俺は高らかに笑った。
「阿呆ですね、そのままそこに居座り続けるつもりですか」仲睦がやれやれといった顔で見上げる。「天狗にでもなるおつもりか」
「なったらお前らのせいだ」
「致し方ないですね。あまり高いところは好きじゃないですが」そう言うと仲睦は、男どもを組体操のように重ねだし、階段を上るように樹木の上に辿り着いた。二匹の阿呆猿が夏祭りの賑わいに紛れ、間抜けなケンカを始めようとしていた。
「隊長!」「やれいけ」「それいけ」「桃色秘密主義者は厳しく罰せよ!」
下では男どもがガヤとなって仲睦を焚きつける。
しかし、仲睦はともかく、俺は特段運動神経が優れているわけではない。筋肉は最低限しかないのだ。木の上とくれば、危なっかしくて取っ組み合いになどならない。だが、少しずつ少しずつ仲睦が距離を縮めだし、つられて俺も枝の先の方へ後退する。しかし、後退するにも限度がある。俺の体は枝の端まで来ており、下を見ればすでに境内を仕切る石塀を超え、道路の方まで体が飛び出ている。神社が坂の上に構えられているゆえに、俺のいる樹木の枝から道路までは十五メートルほどもある。五年前にこの状況に陥っていれば、小便を垂らしたかもしれぬ。
そもそも、境内の地面までも、この枝の高さからだと五メートルはあった。美女ビジョンなどとのたまり調子に乗っていた事が悔やまれる。阿呆なことに、焦って自らの退路を断ったのだ。
その時、何やらどよめきのようなものが下にいる男どもの方から聞こえてきた。見れば、いつの間にかに男たちが道を開けている。その道の真ん中に、黒髪がなびいたかと思うと、颯爽とした姿で君野先輩が現れた。
「事情は知らないけれど、来て! 助けるから!」
君野先輩が、両腕を大きく広げ、俺に向かってそう叫ぶのである。
まさか、と俺は呆気にとられた。枝の上からでは、石塀に隠れて上半身だけ見えるその女は、しかし、何度まばたきしてみても君野先輩であった。御都合主義のように石塀に隠れることなく、むしろ強調されるように見せられたその胸の桃色加減が、彼女が君野木実であることを裏付ける。
彼女の言った「来て! 助けるから!」とはつまり、その胸に飛び込めということか。その胸に付いた柔軟で大きい膨らみは確かにクッション性が高いだろう。だが、女一人が五メートル上から飛び降りてくる男を受け止められようか。しかし、君野先輩の瞳にからかいの色はなかった。提灯の明かりを受け橙色に光るそのいつになくキリリとした君野先輩の眼つきに思わず、心が高鳴った。
その広げられた腕の中に飛び込み、柔らかく受け止められたい。そしたらきっと、俺のようなアホンダラにも、『幸せ』ってのが何かって、少しくらい分かる気がするのだ。
そんな桃色な想いが頭を過り、足先が彼女の方を向いた時だった。
俺は足を滑らせ、道路の方へ落ちた。無様に腹這いになって落下したのである。
あらら、あなた、これは死にましたね。
そう確信して、仲睦の悪魔が動きを止める。同じく、その時点で俺も死を確信していた。
「あっ」と叫ぶ、君野先輩の声がした。初めて君野先輩が大声をあげたのを聞いた気がした。彼女は俺の元へ駆け寄って来てくれているようだったが、もう手遅れだった。
あっさり過ぎる己の死に際に、阿呆な走馬灯を見た。
黄色く、ただ酸っぱいだけの恋をした中学時代。
高校入学後、どうでもいい若い男女たちが、俺の裁判によって失恋して膝を折る姿。その姿が何度も何度も、人を替えネタを替えて脳内を流れては過ぎ去っていく。
くだらぬ、実にくだらぬ。
しかし、これが俺だった。阿呆にも俺は、これを繰り返すことで満たされたのだ。
「自分で幸福を掴めなくなり、他人が土を噛む姿を見て、自分の方がまだましだって思う。醜さの極まった行為ですね、本当に。あなたの方こそ実は、悪魔なのではないですか?」
そう言ったのは、お前か仲睦。走馬灯の中でさえ悪態をついてくれるとは、やはり奴は筋金入りの悪魔であったか。
たしかに、醜かったろう。だけれど俺はずっと探していた。いつか本当に己が想いを告げる時が来たとして、なんと言えば良いのか、その言葉を探していた。
恋愛裁判があってなお、上手くいった例だってあったのだ。俺は舌打ちして、その場から逃げたけどね。なるほど、ああ言えば良いのかって、思っていたよ。まあ、俺としてはどれもしっくりとこなかったが。
だってよ、みんなただ、「好き」って言ってるだけなんだぜ。それだけなんだぜ。そんな簡単な話、あってたまるかよ。
○三黒紗伊子の見聞 十四
蹴とばされて飛んで行ったみかんボーイは、だいぶ遠くまで転がったようで、道路を渡った先のガードレールの前で頭を伏せるようにして落ちていました。そのみかんボーイを回収し、ふと道路の向かいから境内の方を見上げると、樹木の枝が石塀から突き出るように生えているのですが、その上に、先輩がいるのです。もう驚きです。道路から見ると枝までは、高さ十五メートルほどはありそうです。
私は太ももから銀色の拳銃を取り出して構え、バキュンと一発、先輩の背中に銀色の弾丸を撃ち込みます。
ほお、と一呼吸を置いてから「先輩、危ないですよ!」そう声をかけようとしたとき、先輩が足を滑らせました。
私はハッとして駆け出します。
「まったく、落ちるならせめて恋にしといてくださいよ」
私はみかんボーイを手から離しますと、太ももから銀色の拳銃をもう一度取り出して構えました。引き金を引いて銀色の弾丸を放とうとしたときです。
「あっ」と叫ぶ君野木実先輩の声が聞こえたのです。
いつになく大きな声でした。
突如、目前に青い空と肌をジリジリと焼き付けるような日差しが差し込んできます。その日差しをいっぺんに受け止めて、赤い水着を着た君野木実先輩が立っています。その魅惑的な体の上に水の雫を走らせ、甘美な淡い光できらきらと輝くのです。
彼女の前には、すらりとした立ち姿の先輩がいるのでした。
○先輩の見聞 二十
走馬灯も最終局面を迎え、目前に青い空と、肌をジリジリと焼くような日差しが差し込んだ。その日差しの熱を受け止めて、正面にいる君野先輩の真っ赤な水着が、より淡い色合いになる。色鮮やかに脳裏に焼き付いたプールの光景。濡れた黒髪が美しくなめらかに肩を流れ、胸の前に垂れている。小さい三角の赤い布では覆い切れない肌色を隠しているようだった。待てよ、君野先輩、ここまで色気のある水着なんか着ていたかな。まあ、いい。こちらの方が目の保養になる。
死んだら、保養も何も意味はないが。
くくく、と皮肉めいた笑みを浮かべつつ、俺はうつむいた。我が人生に、何点もの曇りあり。一度は、「好き」という気持ちを届けてみたかったが、もう遅い。赤い水着の君野先輩の、じっと俺を見つめる瞳が、やがて俺を視界から外した。そして彼女は無表情のまま、静かに、俺に背を向けた。そしてプールサイドの反対側へとゆっくり遠ざかっていく。
すると、プールの水面が波紋を浮かべてふるえだす。ぽわんぽわんとふるえ出すと、鏡のように誰かを映し始めた。俺でも、君野先輩でもない。
三黒さんの姿だ。
三黒さんは、何やら険しい剣幕で頭上を見上げて走っている。そして、得意の銀色の拳銃を取り出した。
しかし、彼女はそれを撃たなかった。
○三黒紗伊子の見聞 十五
銀色の拳銃を構えたまま、私はあの市民プールの空間に包み込まれ、時が止まったように身動きが取れなくなりました。
目の前で、赤い水着を着た君野木実先輩と、先輩が、何やら真剣な表情で見つめ合っています。私は、体が形のない何かに引き戻されるような心地になり、銃口が定まらず、引き金も引けないのです。あの日の感情が、プールですのに、白波を立てて押し寄せてきました。波は私の背を容易く越して、丸のみにするように覆い被さります。私は成すすべなく、その波にのまれ、ぐるぐると水流の行くままに流されました。そしていつの間にか、深いプールの底に沈んでいたのです。
水底で私は、わずかな波の余韻に揺られながら、思います。
あの二人の間に、銀色の弾丸を撃ち込んでいいのでしょうか。
それは、やっちゃいけない事のような気がしました。
でも、その時、波紋が広がったのです。
プールの水面に、ぽわん、ぽわん、ぽわん、ぽわんと、幾つもの波紋が広がるのです。
見上げれば、先輩の眼から涙がこぼれ、ぽたりぽたりと水面に落ちているのです。
私は、手に持っていた銀色の拳銃を力いっぱい投げ捨てました。
そして、全身の力を使って、水底に沈んだ体を上へ、上へと持ち上げます。揺れる水面を仰ぎながら、両腕を藻掻くように広げ、足で水を蹴りました。下手くそでも、苦しくても、手足を動かすのを止めてはいけないのです。
一心不乱に泳ぎ、水上に浮上した私が手に取るは最終兵器、ロケットランチャーなるものです。
私は現実に意識を取り戻すように水面から飛び出すと、神社前に伸びる広い車道に駆け出していました。しかし、そんなこと関係ありません。銀色のロケットランチャーを肩に担ぐと、大きな銃口を七十五度傾け、落下する先輩に向かって銀色の砲弾を撃ち放ちました。
直後、道路に飛び出した私のもとに、黒いワゴン車が走り込んで来ることに気が付きましたが、体はもう動きませんでした。大きなクラクションが響き渡り、ライトで視界が真っ白に染まっていきます。
○先輩の見聞 二十一
波紋を次々に浮かばせながらふるえ出した水面の中で、三黒さんは、構えた銀色の拳銃を撃つことなく放り投げる。彼女は背に手を回し、背後のどこにしまってあったのか、銀色のロケットランチャーを引っ張り出すと、そのまま頭上に向かって砲弾を放った。
どうして水面がふるえていたのか、俺には最後までわからなかった。
直後、俺の腹部にドデカい銀色の砲弾がめり込んできたのである。
腹部に銀の衝撃を受けた俺は、霧が晴れたかのように走馬灯から目を覚ました。
すると目の前に、カーブして伸びる街灯のちょうど首の部分があった。
奇跡だと思った。
俺は吸い込まれるようにその街灯の首元に右手を伸ばし、それを掴んだ。
しかし、重力加速度の増した体の重みが勝り、掴んだ手が外れてしまう。一瞬止まりかけた身体は再び宙に放り投げだされ、今度は仰向けに、尻の方から道路に向かって落ちていく。
ボスコン、そんな音を立てて、俺は落下し終えた。
・・・・・ボスコン。
○三黒紗伊子の見聞 十六
走り込んできたワゴン車は幸いなことに、信号から発車したばかりだったようで、私の一メートル手前で止まりました。アスファルトに投げ出されたみかんボーイの顔が、安堵するようにこちらを見ていました。
ですが、そのワゴン車の運転手の顔を見て、私の顔は血の気が引くように、すわああっと青ざめます。そこにおわしましたのは、アスガム高校の法の番人、徹夜で怒る生徒指導主事、猪狩鉄矢先生でした。
いざ、猪狩鉄矢先生から怒鳴り声が飛んで来ようというときです。
「ボスコン!」
そんなやや激しめな音がワゴン車の上から響いてきました。おかげで先生の意識がそれ、開いたまま声を発することなく、口が止まりました。そしてそのまましばらく、塞がらないのでした。
○先輩の見聞 二十二
ボスコン、そう音を立てて落ちた俺は、生きた心地がしていなかった。しかし、その何かが凹むような音に、あれ? と疑問を抱く。想定した以上に地面が近かった。その上、柔らかいとは言えないが、アスファルトとは思えないような軽い衝撃だった。
それでも、意識がはっきりしてくると徐々に尻が痛み出した。その痛む尻を摩りながら辺りを見てみると、どうやらここは車の屋根らしい。下を見やると、車窓から首だけ出した生徒指導主事の猪狩鉄矢が、あんぐりと口を開けたまま固まる姿と、銀色のロケットランチャーを担いだまま、ほおっと息をつく三黒さんの姿があった。
どうやら、命だけは助かったらしい。
あの銀色の砲弾がなければ、俺は街灯を掴めなかっただろう。掴めなければ落下の勢いを殺せず、車の止まるタイミングとも嚙み合わず、路上に打ち付けられたか、ワゴン車にはねられたことだろう。
俺は、深い安堵で大きく息をつき、もう一度、凹んだ車の屋根の上に寝転がった。「おいコラ」と怒鳴る猪狩鉄矢の声が生きていることを実感させた。
○君野木実の見聞 六
石塀から身を乗り出して、私は境内から下の道路を見た。もしそこで、後輩君が血だるまになる瞬間を見たら、きっと、一生忘れられない。でも、彼の行く末を見届けなければ、そう思わずにもいられない。
しかし、見えた光景は、想像と一八〇度違っていた。
三黒紗伊子、彼女が道路に飛び込んで、身を挺してワゴン車を止めたその一部始終が見えた。
私は、ほっとするでもなく、ただ息をのんで彼女を見つめた。後輩君が助かったのがわかっても、意識を捕らわれたままだった。
こんなにも純粋な想いがあるのだと知った。自分の身をかえりみずに、ただ、後輩君のために行動に移す人がいると知った。そもそもどうして私が後輩君に助け船を出したかと言えば、彼と関われば私にしっぽを振る男が減るかもなと思ったからだ。後輩君の卑屈にまみれた噂は十分に広まっている。関わるだけで面倒くさいのに、自分から恋愛裁判の審判にかけられに行くのは誰だって嫌がるだろうから。私は、自分にとって都合の良い状況を作り出すために後輩君に歩み寄った。きっと、それ以外の感情は無いはずだ。彼と関わってこの身に災いが振りかかろうものなら、私はすぐに歩み寄る足を止めたはずだ。
しかし今、私の視界の中心にいる彼女は違った。歩みを止めるどころか駆け出していた。間違えば自分が命を落としたかもしれないのに、躊躇する様子も無かった。
こういうのを、愛って言うのかな。
私はただじっと三黒紗伊子を見つめていた。腰が抜けたようにワゴン車の前で身動きを取れない彼女の話題を校内で耳にすることはほとんどない。普通の、どこにでもいるような、何の変哲もない黒髪の乙女だった。そんな彼女が普通に、心に愛を抱えているみたい。一人の人間のために、躊躇なく路上に飛び出せるみたい。
私、そこまで誰かに、想いを寄せられるのかな。人を、心の底から愛せるのかな。
無理なんじゃないの。
自分に都合が良いからって、後輩君に近づくような人間だ。
気分屋で何人もの男を困らせた人間だ。
私は、人を好きって、口に出せない人間なんじゃないの?
確かに、逃げる後輩君の姿を見て、哀れだとは思った。だから助けてあげようと歩み寄った。でもそれは、愛がゆえの行動なんかじゃない。
私は、愛を持てる器なんかじゃない。
無意識に唇を噛んでいた。舌の上にわずかに鉄の味が広がった。辺りの喧騒も耳に届かない。誰の声も、私の心には届いていない。
後輩君との会話も、同じように届いていなかったのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられた。
安堵で大きく息を吐き、ワゴン車の上で寝転がる後輩君と、それを見つめる三黒紗伊子。夜空の下、月明りが照らす彼女の横顔は、無垢な優しさで溢れていた。彼女は愛を持っていた。私にはできない表情だった。
にぎやかで、蒸し熱い、そんな夏祭りの夜だった。
それなのに、風が冷たいのは何故だろう。
夜が寂しいのは何故だろう。
誰でもいいよ、教えてよ。
○仲睦正志の見聞 一
悪魔、悪魔と、毎度彼は私にひどい扱いをしなさる。悲しみは募りますが、いやはや死んでしまっても致し方ないでしょう。
そう踏んでいたところに、三黒紗伊子なる女が現れるではありませんか。
あの、阿呆で、傲慢で、趣味が悪く、己の醜さを隠しもせず、出来る事といえば桃色写真を撮ることのみ、そんな男の前に現れた三黒紗伊子なのです。私の方こそ、彼女は天界から阿呆な男を葬りに来なさった使いの一人なのでは、と冗談めかしつつ警戒していたのですがねえ。
だってそうでしょう?
手に持つ銀色の拳銃が、その証拠だと思いませんか。いつの時代も、悪を裁くのは銀色の意志だって、相場が決まっているのです。
しかし、どうしたことか、あの阿呆は何十発も銀色の弾丸を浴びながら、葬られることはなく、平然とこの世を生き、ましてや、九死に一生を得るような奇跡まで起こした。
「彼女の銀色の弾丸、これには、何か裏がありましょう」
私は、この言葉を、三黒弟へそのまま投げかけました。三黒弟は騒ぎを聞きつけ、石塀に駆け寄って来ていたのです。一人では背が足りず下を見られなかったようで、一緒にいた三黒紗伊子の友人である福島百恵に肩車され、ようやく何が起きたかその目で確認したところと言った様子。
その唇を噛むその表情は、幼子からかけ離れたものでした。
そこへ、わたくしめが声をかけたわけです。
三黒弟は、突然見知らぬ青年に声をかけられたのですから、そりゃあ驚いていました。しかし、姉、もしくは、あの阿呆と関係があることを察したのでしょう。小さく言いました。
「あなたは、お姉ちゃんの恩恵を受けられなくなるけど、いいですか」
「ひゃひゃ、普段から誰の恩恵も授かっちゃいませんよ」そう答えて、三黒弟の言葉を待ちました。
わずかな間を置き、三黒弟はまず、肩車をする三黒紗伊子の友人の耳を、両手で塞ぎました。彼女は以前にもこのような扱いを受けたことがあるようで、さほど驚くこともなく三黒弟の行動を受け止めました。そしてゆっくりとこちらを向きます。
「お姉ちゃんの銀の弾丸、あれはお姉ちゃんが自らの幸福を詰めて撃っているの。撃たれた人は、お姉ちゃんが弾に詰め込んだ幸福を、その身に得られるんだ。それはもちろん、そんなに大きな幸福ではない。十円ガムの当たりが出るくらいの、わずかな幸福だよ。その小さな幸福を、お姉ちゃんはよくばらまくんだ。撃てば撃つほど、幸福は自らの体から離れちゃうのに。だから、不運なことばかりがお姉ちゃんの身の回りに起きる」
三黒弟は、静かに目を閉じました。
「今日なんて、車に轢かれかけた。でも、きっとお姉ちゃんは、銀色の拳銃を手放さないよ。」
三黒弟はそう言って、うなだれるように息をつくのでした。
「いっそ、ありのまま全て、周りの人へ告白してしまえば良いのでは? 三黒紗伊子の銀色の弾丸の秘密を周りの人間が知ってしまえば、その超能力は働かないでしょう。」
私の提案に、三黒弟はうなずきました。
「それは、何度か考えたよ。でも、銀色の弾丸を撃つことは、今のお姉ちゃんの生き甲斐でもあるんだと思う。秘密裏にお姉ちゃんの超能力について周りに触れ回ったとして、もし、その事にお姉ちゃんが気が付いた時、自分がしていたことが全部無駄だったなんて、そんな悲しいこと思って欲しくない。でも、お姉ちゃんが不幸になるのも見たくない」
「おっしゃる通りだ、私も趣味を取り上げられては、生きることへの執着も無くなります。しかしならばこそ、私に話してしまって良かったのですか? それも無償で」
そう問いてみると、三黒弟は眼下で阿呆面の男がワゴン車の上に寝そべっているのを見ながら、小さく肯きました。
「きっとぼくも、お姉ちゃんの持つ苦悩を一人じゃ抱えられないんだ。だから、誰かに話したくなったのかもしれない。どうしてか、あなたなら信頼できそうだったから」
「お目が高い、将来が楽しみですな」わたくしが微笑みかけると、視線を外されました。そんな怖がらなくてもよいでしょうに。
「お姉ちゃんが危険な目に合うのは嫌だ。でも、お姉ちゃんが後悔しながら生きるのも嫌だ」
どうにかしてあげたい、三黒弟はそう呟きました。
「難しい話だ。よくもまあ、そんな小さい体に、それほどの悩みをおもちでらっしゃる。」
わたくしは、三黒弟にそう言うのです、口先だけですが。
本心としては、心底つまらない気持ちで一杯になりましたよ。
なんですか、あの阿呆め、ずいぶんとまあ、幸運に見舞われているじゃあないですか。
腹が立ってくるほどです。
わたくしは少し悩んだ末、三黒弟が話したこと全て、あの阿呆には言わないことにしました。
何故って、知ってしまったら、撃たれた銀の弾丸の数々に心を撥ねられ、頬を赤くして舞い上がる姿が容易に想像できてしまうじゃあないですか。
そんな幸運、あの阿呆には似合いませんもの、もっと、闇に沈んでもらいませんと。
あの阿呆とわたくしは、赤い有刺鉄線で結ばれた仲でして、決してあの阿呆一人に青春を謳歌させるなんて、天地がひっくり返ってもあってはならぬことなのです。しかし、彼女のミクロな超能力により、彼が延命したことも事実。有刺鉄線は千切れずに済んだわけです。ここは引き上げましょう。どうせ、あの阿呆のことだ。今日中に君野木実の写真は消すでしょう。
あーあ。
もったいない青春であらせますこと。
しかし、実にあなたらしい。
これからもあなたの未来が、どんよりとした雲を失わず、悩み、藻掻き、苦しみにまみれていることを祈りましょう。灰色に淀むあなたの行き先に果てはなく、時間がたつにつれ、より黒く染まるでしょう。その様子を細々と、あなたの人生の片隅で、わたくしはこれからも見守りましょうかね。くひひ。
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