ドアを殴りつけるような音がして女が身をすくめた。ベランダの向こう側から荒い足音が響く。


 ガタついた窓を苛立ったように低く衝撃音が聞こえて、女の姿が消えた。

 悲鳴とともに女の髪が風に煽られるように揺れる。女の脚ほどありそうな腕が髪を掴んで部屋に押し戻そうとしていた。


「あの、ちょっと」

 身を乗り出すと、女をベランダの手すりに押し付けるスポーツ刈りの男と目が合った。女の煙草が脚元に落ち、サンダル履きの白い足の甲で跳ねる。女は悲鳴すらあげない。


 私は間が抜けたように煙草を片手で持ったまま、言葉を探していた。男は無表情に私を見て、女を話す。男が身を屈めて視界から消えた。次の瞬間、矢のような何かが飛んできて私は反射的に顔を手で庇う。

 火の消えた吸い殻が手のひらで弾けてベランダに落ちた。


「そのひとは関係ないんよ、ねえ」

 女の声は窓が閉まる音に遮られ、何も聞こえなくなった。

 手のひらを見下ろすと金魚のような赤い痕が微熱を持ってくすぶっていた。


 私は窓を開け放ったまま、ベランダから自分の部屋に戻った。ヤニと水垢で汚れたシンクの下の扉を開く。入居したての頃近くのスーパーで買った、子どもの玩具のようなピンクの柄の包丁を手に取る。

 女の家と同じアパートとは思えない真っ暗な廊下を進み、ドアの鍵を開ける。


 サンダルを履くのすら忘れた足の裏を冷えた床の感触が刺す。大股二歩でワイン色のドアの前に辿り着く。

 私はチャイムを鳴らす。答えはない。包丁は逆手に持ち、アゴの部分が手に刺さらないよう刃を上に向ける。

 私はドアが開かれて怒りに燃えた男の胸に刃を突き立てるまでチャイムを鳴らし続ける。



「男の死体はどうしたんだっけ……」

 蛇口が噴き出す水の音に掻き消されるような声で私は呟いた。

「私は男を殺せたのかな……」

 水の飛沫が散弾のように頬を叩く。

「あなたのことも殺してはいないよね……」

 人魚は私を見て哀れみに満ちた微笑みを浮かべた。

「何にも覚えとらんのやねえ」

 飼っていた金魚が死にかけているとき、私はこんな顔をしたのだろうか。何を取り繕おうと本能の一番冷静な部分がこれはもう駄目だと告げているときの顔だ。


「全部私の妄想かな」

「どこからどこまで……」

「隣の家の夫婦も」

 現実であるはずのない人魚が頬杖をつく。その手には指輪も痣もない。

 人魚は浴槽の縁に手を突っ張って身を翻した。半分まで溜まった水の中から何かを救い出し、私に差し出す。受け取ったそれはガラスのように薄く透けていて、ゴムのように柔らかい。ささくれ立った人魚のヒレだ。


 私は目を見開いて人魚を見る。

「もう駄目だって言ったやろ」

 人魚は目を伏せて笑う。

「どうすればいいの……」

「食べたらええ」

 人魚は初めてベランダで会ったときのような微笑みを浮かべた。

「そうすれば現実か夢かわかるやろ」

 罠を仕掛けるときの顔だ。



 私は浴室を出た。手には赤茶けた汁が滴る肉を持ったまま。

 水が垂れて廊下に私の足跡を辿る軌道を作る。キッチンには油や黒いしみで汚れ、シンクに積み重なったカップ麺の容器やビニールに小さな羽虫が集っていた。

 ゴミ山の中から私はフライパンと包丁を取り出して水ですすぐ。包丁は乱杭歯のように欠けていた。

 フライパンをコンロにかけ、まな板も出さずにその上に乗せた人魚のヒレを切る。

 骨はない。イカか何かを裂くように刃に倣って短冊のような肉が解ける。

 上からサラダ油をかけて火をつけた。ガスが止められていなかったことを知って苦笑が漏れた。


 野放図にかけた油は歓声のような音を立てて燃える。

 冷蔵庫を開くと、いくつものゴミ袋がひしめき合って針でつけば一斉に溢れ出しそうな黒い水をたたえていた。

 私はラップに包んだ腐臭を放つ物たちを避けて、いつ買ったかわからないネギを取り出す。

 冷蔵庫を閉めると手がべたついた。包丁を使わず手でちぎって、油はねが手を刺すのに構わずフライパンに放り込む。

 収拾のつかない白い湯気を巻き上げるキッチンを見る。

 窓は締め切って熱がこもっている。どこかの家でゴミが腐って強烈な匂いを立てていても私は気づけないだろう。



 浴室のドアを開けると女が目を丸くした。

 百円均一のシールが付いたままの皿に盛った炒め物を置き、私は水浸しのタイルの上に座った。

 箸を突き立てて人魚の前に差し出す。


「何を作ったん?」

「わからない……」

 私は煙草に火をつける。女のえくぼも、不安定な手すりに似た浴槽の縁も、煙草の煙もあのベランダと変わらない。違うのは食事を作るのが私の方というだけだ。


 人魚は初めて箸を使うようにいろいろな色の物が絡まった塊を摘み、口に運ぶ。

「どう……」

 人魚は眉をひそめた。

「結婚しなくて正解。旦那と子どもが可哀想や」

「そんなに不味いの」

 私は突き出された皿から箸をとって、ひと口食べてみる。煙と同じ味が舌の上に広がる。人肉だろうと魚の肉だろうとこれでは何もわからない。


 遠くでサイレンの音がする。

 殺人を犯した私を捕まえに来たのか。私は誰も殺していなくて、隣室の問題に気づいた大家が通報したか。どちらもあり得そうにない。

 さっきの調理で火災報知器が鳴って消防車が駆けつけた方がまだあり得る。



「どこまで本当かって話だけど……」

 煙が解けて私は口を開いた。

「私が殺したのは旦那だけで、女は逃げてて、私は浴室でばらした男の死体と暮らして妄想してる、とか」

「それ、ええね」

 人魚はバスタブから水を零して身を取り出し、皿を手に取った。私たちは死人の遺骨を骨壷に納めるように順番に箸を取る。

 私が笑うと人魚も笑う。

 サイレンの音は近づいて、深海のように青白い浴室の中で反響した。

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ベランダの人魚 木古おうみ @kipplemaker

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