中
チャイムが鳴る。私は浴室の壁にもたれたまま無視する。もう一度鳴る。
「出たら?」
人魚の声もチャイムも聞こえないふりをする。
「怖いの?」
私は眉をひそめて立ち上がる。浴室の扉を閉めて、廊下に出て、チェーンロックをかけたままドアを開ける。
長方形に切り取った光の中に愛想笑いを浮かべた大家の顔がある。
「何か、ありましたか」
大家は申し訳なさそうな表情を作って頭を下げた。
「いえ、私も住人の皆さんに言われて来てるだけなんですけどね。ここら辺で最近異臭がするって。何かね、心当たりないですかね」
私は心臓を冷たい手で掴まれたような気になる。
「知りません、何も」
「そうですやね。いやあ、ゴミ出しとかちゃんとしてくれないひともいますから、ねえ。足の悪いお爺ちゃんお婆ちゃんがいるんで、仕方ないとは思うんですけどね」
私が開いたドアの幅を細くすると、大家は反射的に部屋の中を覗き込んだ。電気をつけていない廊下は何も見えるはずがない。ここで人魚が叫んだらどうなるだろうと思う。狂人の妄想だ。
「ご協力ありがとうございました。また何かあったらよろしくお願いしますね」
私はドアを開いて身を乗り出した。
「隣の家のこと、誰か何か言ってませんでしたか」
帰ろうとした大家はドアチェーンが鳴る音に身をすくめる。
「隣……というと須崎さんでしたか。何か?」
隣人が生きているか。
そんな質問が喉を這い上がり、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「たまに夫婦喧嘩というか、物が割れる音だったり、怒鳴り声だったりがするんです」
大家は少しの間考えを巡らすように隣家を見つめた。
「何も聞いてないですねえ……家庭間の問題はあまり首を突っ込めませんから……」
私は頷いてドアを閉めた。
廊下が再び闇に包まれる。私は浴室に戻る。
大家との会話が聞こえていたのか、人魚は鼻先まで水に浸けて暗い目で私を見る。
「そろそろ水を変えないと」
私はバスタブの中に手を入れる。水は冷たい。体温のある人間が浸かっていたらこうはならない。
ゴム栓を抜く際に人魚のヒレが手首に触れる。ぬるりとした滑らかな感覚と、わずかに逆立った鱗の棘の感触。尾は白点が増えていて、歯の落ちた櫛のようにさささくれていた。
仕事をしているときは気づかなかったが、夜になると隣家から音がする。
物が倒れる音。皿が割れる音。男の怒鳴り声と女の悲鳴。安アパートの夜に似合った騒音が、あの女と話してからひどく耳につくようになった。鼓膜を炙られる熱が頭の奥に滲み出すような気がした。
私は一週間前の求人広告の上に吸い殻を乗せてベランダで煙草を吸う。
隣家の女の髪は手すりからはみ出して、窓際のプランターから咲き溢れる植物のようだと思った。殺されかけるような悲鳴をあげた翌日も、女は化粧をして男を待っていた。
「煙草一本くれる?」
女は身を乗り出して私を見た。女の腕には赤や青の痣があり、こういう染物も若者に売りつけたことがあったのを思い出す。
「吸うんですか?」
「そういう気分」
私は煙草の箱とライターを手すりに乗せて押す。落ちないように大事そうに箱を受け取り、女は煙草に火をつけた。
「結婚してから、吸わんかったけどね……」
深く吸い込んで噎せずに透明な煙を吐く。吸い慣れている。
「ちゃんと後で消臭剤を撒かんと。あのひと気づくから。私が吸うと嫌がるくせに自分は吸うんよ。女は子どもができたら悪影響だからって。言ってることは正しいんやけどね……」
女はこちらを見た。
「結婚したいとは思わんの? 子どもほしいとかは」
私は煙を振り払うように首を振った。
「ひとと暮らすのに向いてない」
女は「それ、賢いわ」と笑った。
「私は向いとらへんかもしらんけど、ひとがいないと駄目なんよ。下手の横好き」
私は笑おうと思ったが上手くいかなかった。
女は煙草とライターを私に押し付けた。
「ご馳走さま。そろそろ夕飯の買い物に行かんとね」
「殴られた日も夕飯を作るんですか」
女の驚きより私の自身の驚きの方が大きかった。自分の言葉が信じられず、私は視線を落とす。
「作るよ」
女はえくぼを作った。
「私の作ったものを食べさせてるとね。私の一部を身体に入れてるんやなと思っておかしくなるの。あんなに偉そうなひとが私の作ったもんを取り込んでそれでできてる。殴ってくる手も私が作ったもんだと思うとね。哀しいより面白くなってくるんよ」
女は世間話と変わらない声音で言った。女は指輪をした手を突き上げて空元気のように拳を作った。
「今日は焼肉」
女が去った後、私は手すりの上に乗った煙草の箱を押した。重力に負けて当然のように落下し、耳を澄ましても衝撃の音は聞こえない。何もないのと同じだ。
砕けたライターが見えないかと身を乗り出すと、遥か下のアスファルトの上に並んだひと影があり、私は息を飲む。
スポーツ刈りの男の隣に、女子高生のような少女がはち切れそうな太ももをむき出しにして歩いている。
それを狙って落とせばよかったと思った。
落下したライターがどちらかの頭蓋骨を抉って、もう片方が悲鳴を上げる。昨日の雨のようにアスファルトに血の染みが広がる。
想像を振り払うように私は目を逸らした。アンスリウムはもう枯れてミイラのようだった。
汚れた水が流れ出して、バスタブはわずかに脂の膜が張っただけで空になる。人魚の鱗が反射して、雨上がりのガソリンが垂れ流しになった虹色の水溜りを連想する。
私はゴム栓を閉めて蛇口をひねる。飛沫が勢いよく人魚のヒレを叩き、水に赤い糸が解けるように血が広がった。
「もう、腐り始めてるんよ」
私はゴム栓を確かめるふりをして顔を上げずに聞く。
「ハイターのせい?」
人魚は呆れたように首を振る。
「寿命よ。もうすぐ千切れるんやろね。鱗も剥がれとる」
「嘘」
「ほら」
人魚が指をさしたタイルの隙間を見ると小指の爪ほどの輝くものがシャンプーの液だれに混じって散らばっていた。
私は蛇口から流れる水を掬って何度もかける。鱗は流れていかない。
隣家の騒音は最近一層増した。
求人広告をもらわなくなったせいで私は携帯灰皿を買わなければいけなくなった。
女はカーディガンを羽織るようになった。
肌寒くなったからだけではないと想像がつく。薄い黄色の化学繊維の下はどのような色になっているのだろう。
「就職が決まって……」
私は煙に包んで言葉を吐き出した。女は疲れ果てたように手すりにもたれかかり、目だけ動かして私を見る。
「シティホテルの従業員。丸一日働いて夜勤もあるから、あんまりもう会えなくなるかも」
「そう、おめでとう」
女は笑わない。私は責められているような気になって煙草の灰を捨てた。
「殺されるかもしらんね、私」
女が呟いた。髪の色は黒さが増して最近染めていないのがわかる。風が掻き上げた前髪の下、こめかみに血が滲んでいた。
「ごめんね、こんなこと言われてもね」
私は無言で煙草とライターを手すりに乗せた。受け取った女の手がかすかに震えていた。
「逃げないの……」
ライターを擦る音が響いた。火がつかなかったのか何度も響く。私は女の手からライターを奪って火をつけた。触れた指先は氷のように冷たい。女の乾いた唇が小さく歪む。
「逃げてもいくとこなんかないんよ。脚がないのとおんなじ」
女は煙を吐いてやっと笑った。
私のところに来ればと言いかけてやめる。どこの世界に大股で二歩歩けば辿り着くところに逃げる女がいるのだろう。
沈黙の重みに押されるように煙が低く這った。
「殺すとか……」
女は雨垂れに汚れた向かいのアパートとの境が曖昧になる無彩色の空を見つめた。
「たまにそう思うけどねえ。そんなこと前は考えもしなかったんよ。前より恨んでるとかは違う……前より悪どくなったんやろかね」
女が私から煙草を受け取るようになって何月も経つ。
女の料理が夫を侵食するように、私の煙が女を侵食するのを想像する。
折れそうな細い身体に灰色の重い煙が流れ落ちるのを。
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