ベランダの人魚
木古おうみ
上
浴槽の中に人魚がいる。
タイルとタイルと隙間にカビが染みついて、安い花柄の図まで焦げたように黒ずんだ浴室だ。
ハイターを使うと人魚は噎せる。
前に使ったとき、彼女の尾が真っ白くささくれて、私は子どもの頃縁日で買った金魚が死ぬ直前を思い出した。金魚が死んだ後、母親は冷凍庫で一日冷やしてから生ゴミに捨てた。生物がものになる瞬間だった。
「今日もお仕事行かなかったの?」
浴槽の縁に腕をかけて人魚が言う。粉を吹いたような痕が残る尾びれが水面を叩く。
「そろそろ怪しく思う頃やろね。仕事にも行ってへんし、異臭がする部屋の人間なんてね」
人魚が零す水は地下食品街の生鮮食品売り場の匂いがする。私は浴室にペットシーツとその隙間を埋める新聞紙を敷き詰めている。
「匂いも何も、幻覚だからいいの……」
「仕事に行ってへんのは本当やろ」
私の声に人魚が笑う。笑い方にすら訛りがあると思う。
「本当に幻覚だと思うなら、窓の外出てみたら?」
私は浴室のドアを閉めて、廊下に出る。重い窓を引いて潮風で萎びた枯葉が散らばるベランダに踏み出す。
アパートの隣の部屋の腐りかけのよしずがかかったベランダで、レースのついた赤い女物の下着が揺れている。もう一週間も干したままだ。
私は手すりに体重をかけて煙草に火をつける。
水垢で白くなった金属の支えを見ながら、金魚の病名は尾腐れ病だったと思い出す。
煙が流れていく。
「火事などの際は蹴破ってください」と書かれた隣のベランダとの衝立は既にひび割れて穴が空き、境の意味をなさない。
初めてあの女と会ったのもこのベランダだった。
私は失業中で、日にふた箱を吸っていた。部屋の火災報知器が鳴って大家が駆けつけてからは、私はベランダに出て煙草を吸うことにしていた。
灰色の煙を吐き出すと、咳き込む声が聞こえた。視線だけ動かして声の方を見ると、隣家の手すりに枯れた蔦のような茶色いものがそよいでいた。
風が吹いて、脱色した長い髪の間から真っ白な女の顔が現れた。
「ああ、ごめんね。嫌味で咳したんじゃないんよ。ただ噎せただけ……」
脳の芯を甘く揺さぶるような高い声だった。初対面のはずの女はよく知った友人にやるように微笑んだ。
「ベランダまで禁煙になるんだって、知ってた? 私は法律詳しくないけど」
暗に火を消せと言っているのだと思ったが、女は小さく伸びをして笑った。
「意地の悪い法律やね、自分の家ぐらい好きにさせたげたらいいのに……」
「煙は、流れますからね」
私は答えた。煙草なんか吸ったことがないという人間の口調だと思った。
「私は煙好きよ。懐かしい、縁日みたい匂いがするから」
「あぁ、テキ屋がよく吸ってる……」
女はそのまま落ちそうなほど手すりに身を乗り出して私を見た。
女がこのまま柵を越えて私の部屋に乗り込んでくるような気がした。
女は空に手を突き出してちぎれそうなほど降った。気が狂ったのかと思う。
その方向を見下ろすと、マンションの下の枯れたハマナスが散ったアスファルトにひと影があった。
スポーツ刈りで白いTシャツを着た、海水浴にでも行ってきたような男は、女を認めて呆れたのか喜んだのか、小さく肩をすくめたのが見えた。
女は身を翻して日よけのよしずの奥に消えた。重いアルミサッシの窓の閉める音がした。
取り残されたような気分になった自分に苛立つ。
視線を下ろすと、ベランダに置いたままの退職するときに同僚がくれたアンスリウムの鉢に何かがかかっていた。
一目で自分のものではないとわかる、爪が引っかかっただけで裂けそうな黒と紫の下着だった。
罠を仕掛けられたような気持ちになる。
浴槽の人魚は下着をつけない。
童話の挿絵のような貝殻の水着もなく、乾燥した蔦のような長い髪が胸に垂れている。毛先はいつも水に浸かって茶色の濃度がそこだけ一段低い。
「どう? 隣のひとには会えたの」
「会えなかった」
人魚はバスタブの縁に手をかけて笑う。ベランダから身を乗り出す仕草だ。
「出かけてるだけでしょう。主婦も四六時中家いるほど暇じゃない……」
人魚は笑う。隣部屋の女と同じ顔で。タイルに張り付いたシャンプーの薄い赤色の染みが湯垢と混ざって夕日のようだと思う。
私はアンスリウムにかかった下着を摘んだ。剥き出しで持っていく気にならず、いつ何のために買ったか覚えていない英字新聞柄の小袋に突っ込む。
指先に柔軟剤の匂いが染みついたのを服の裾で拭って、私は部屋を出た。
アパートの空気は死人の肌に似た温度の空気が滞留していた。サンダルを二度鳴らして進むと、ワイン色の塗装の堅牢な扉があった。ネームプレートには男が書いたとわかる字で「須崎」と記されていた。
袋を郵便受けに突っ込むか迷ってから呼び鈴を鳴らした。
くぐもったチャイムの音とスリッパの忙しない足音が響いて、鼻先でドアが開いた。
半分に切ったレモンの柄のワンピースの女は待ち合わせでもしていたかのように私を見て目を輝かせた。
「いらっしゃい、どうしたの?」
私は贈り物と間違われないように袋を突き出すと同時に短く言った。
「これ、こっちのベランダに落ちてました」
女は袋を受け取って中を確かめると、眉を寄せて「ごめんね」と苦笑した。
袋の口から溢れたレースに、マンションの下のスポーツ刈りの男の姿が浮かんで、夫婦の生活を垣間見た錯覚を覚え、私は後ずさっていた。
「じゃあ、これで」
逃げるように去ろうとした女が、待ってとドアを掴む。細い腕に似合わない力に私は足を止める。
「せっかくだから上がってって」
廊下は息が詰まりそうなラベンダーの香りがして、火事現場のような煙の匂いしかしない私の部屋と同じアパートとは思えない。
古風な玉すだれを跳ね除けてリビングに入ると、午後の光が部屋中を白く染め上げていた。
「陽当たりが良いんですね」
壁に貼られたポプリや手編みのコースターを見ながら、他に褒めるべきところがあったと思った。
「そう、そんなに変わらんと思うけど」
女はそう言って椅子にかかったエプロンを取り払い、私を座らせる。かすかに油と胡椒の匂いが充満していた。
「お昼まだ?」
私が曖昧に頷くと、女は取り外し式の取っ手をつけたフライパンを持ってきてテーブルに置いた。
「よかった。食べてって」
焦げついたフライパンの中に濃い色の野菜と卵を混ぜたチャーハンが盛られていた。
「そんな、いいですよ」
女は既に二枚の皿と二本のスプーンを並べている。
「旦那が昼帰ってくるはずだったけど遅くなるって。ふたり分作ってしまったんよ」
向かいの椅子にはもうひとりの来客のように私の持ってきた袋が置かれていた。やはり罠を仕掛けられたのだと思う。
子どもの頃から他人の家で食事をするのが嫌いだった。
その家を作るものに取り込まれるような錯覚を覚えて、侵食されている気分になる。
チャーハンの脇に煮詰まった味噌汁が置かれて、どうしようもなく家庭の二文字がつきまとう食事だ。
女が毒でも仕掛けたように私が食べるのをじっと見守っていて、仕方なくスプーンで掬い口をつけた。
「どう?」
「美味しいです」
女は屈託なく笑う。
「よかったあ。高菜嫌いなひとも多いでしょ。実家から送られてきたんやけどね。旦那は食べんのよ」
女は味噌汁を啜って息をついた。
「ご実家は関西の方なんですか?」
私の言葉に女が目を丸くする。訛りがあるのを馬鹿にしたようで失言だったと思った。
「ああ、わかる? そう、西の実家もあるにはあるの」
私が黙っていると女は苦笑した。
「転勤族やったからね、いろんなとこに住んでたんよ。訛りもいろんなとこのが混じってもうどこのかわからんわ。旦那はね、下品だからあんまりそうやって喋るなって言うんやけど……」
女が底にある何かを見つめるように器に視線を落としたのを見て、私は目を逸らした。
壁には他にも写真や絵があって、スパイ映画の地図や標的の写真を貼った会議室のようだと思う。
テレビの脇には女とスポーツ刈りの男の写真がコルクボードに縫いとめられていた。
嵐の前のような灰色の海と空を背にしながらも、ふたりはカメラに向かって明るい笑顔を浮かべていた。
新婚旅行か聞こうと思い、先ほどの女の表情を思い出してやめる。
その隣にはシルクスクリーンで写したような安い絵画が貼られていた。
「あの絵……」
「あぁ、あれ? 昔もらったんよ」
生活感のある部屋に不釣り合いな絵画だった。青色の光が差す仄暗い岩場に人魚が座っている。
茶色くごわついた髪をとかしながら、人魚は侵入者に見つかったような怯えた警戒心の強い表情でこちらを見ている。お伽話の人間に恋する明るい女ではない。生々しい鱗に覆われた下半身がギラついていた。
「あんまり人魚姫らしくないやろ。脚もなぁ、何か鯵とか鯖みたいに魚らしすぎて。でもね、それが割と気に入ってるんよ」
「ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスですね」
「すごい、よく知ってはるね」
学生にしか許されないような衒学をしたようで私は苦笑した。
「仕事で扱ってたんです」
都会の街頭で、東京への願望と意気込みだけを抱えて出てきたような若者に声をかけて、絵画を売りつける。詐欺のような仕事だ。辞めたのは良心が痛むからではなく、単にひとと話すのに嫌気がさしたからだった。
「ウォーターハウスって水の家? 何か、人魚を描くために生まれてきたような画家さんやね……」
女が頬杖をついて絵画を眺めた。細面の顔を支える手に結婚指輪と青痣があった。
女は私を見て目を細めた。
「お話できてよかったわ。ここあんまり近所付き合いがないやろ。知り合いもおらへんし……」
女が私の視線に気づいたように、左手を右手で隠した。
「私ね、女友だちが少ないんよ」
照れたように笑う。その分、男に好かれただろうとは言わないでおく。
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