クリスマス・イブと彼女と俺
地頭のいい咲子は、本当に一日で宿題を終わらせるつもりのようだった。実際に夏の宿題は半分を一日もかけず片づけたので、その四分の一もない量ではすぐ終わるだろう。
だがそれなら、わざわざこんな日を選ばなくてもいい筈だ。クリスマスを存分に楽しんでからゆっくり課題を終わらせればいい。
既に進学先を同じ場所にしようと決めて、俺がB判定、咲子はA判定だ。休み中にゆっくり復習した方が、年明けの試験にも有利な筈だ。
しかしそんな真っ当な意見は、結局一言も言いだせなかった。
コーヒーを飲み終えた咲子はすっ、と真面目な顔になると、一心不乱に宿題の冊子に向かい始めた。不覚にもその真剣な目が、俺の抗弁を完全に封じてしまった。
夏休みの課題の時もそうだったが、勉強に集中し始めると彼女は全く無駄口を叩かない。
友人たちと教室で教え合いをしている時は、余計なお喋りばかりで全く手元が進まない様子なのだが、いざ一人になると別人格でも現れたかのように静かになるのだ。
こうなると何を言っても無駄な抵抗なので、俺も咲子の前に自分の宿題を持って来た。
二人っきりの静かな部屋の中、仮にも婚約者と言われている女の子と向かい合ってコタツに座って過ごす、クリスマス・イブ。
それがこんな日になるとは思ってもみなかった。
涙がちょちょぎれそうになりながら、俺は咲子に後れを取らないよう、必死でシャーペンを動かし続けた。
そうしてどれくらいの時間が経ったのだろうか、気付くと空は夕焼けの色になっていた。
昼食はよりによってカロリーメイトとお茶だけ、という有様だった俺は、すっかり腹が減っていて、それ以上宿題を続ける気力もなくなっていた。
暖房とコタツのせいで分からなかったが、外はもうかなり気温が下がっている頃だろう。
真っ暗になる前に咲子を家に送っていかなければ、と立ち上がりかけたところで、咲子が両腕を天に突き上げ大きく伸びをした。
「やったー!! 終わったーー!! メリークリスマスっ!!」
「えっ、本当にもう全部終わったのか!?」
「ふっふーん。私を舐めないでほしいわね!こちとら
「自慢げに何言って……いやそれは確かに自慢してもいいかもな」
目を通してみると、咲子の冬休みの課題は本当に全て終わっていた。
朝一で我が家を訪ねてきた時は雪より白かったワーク類が、今や黒い回答と自己採点の赤ペンで埋め尽くされている。俺の方も咲子に引きずられる形でかなり頑張ったが、それでもまだ全体の7割というところだ。
ただひたすら冬休みを遊んで過ごしたい、という動機の不純ささえ除けば、恐るべき集中力だ。
「しかしまぁ、もう帰らないとじきに真っ暗になるな。送っていくから準備しな」
そう声を掛けて、据え付けのクローゼットからダッフルコートを取り出していると、足元から非常に間の抜けた「へ?」という声がした。
視線を落として見れば、咲子はまるで冬空に入道雲でも見たかのような顔で俺を見上げていた。その右手にはいつの間に取り出したのか、四角い花柄のエコバッグを握っている。
「健ってば、勉強のし過ぎで頭おかしくなっちゃった? 今日はクリスマス・イブだよ!」
そう言って袋を俺の胸元へ突き出すと、咲子は慌てたように立ち上がった。
「ほら見て、レトルトだけどご飯とドリアの素と唐揚げ買って来たし、あとうちの近所で焼き菓子も買って来たし!」
言いながら咲子は、手早く宿題の冊子をコタツの上からどかすと、袋の中身をその上に並べていった。おそらく夕飯の材料にするつもりで持って来たのであろうそれらを、俺は咄嗟に返事もできずにぼーっと見ていた。
そんな俺の反応をどう受け取ったのか、咲子は更に慌てたように、宿題を入れていた鞄の底に手を突っ込むと、緑の包装紙に黄色いリボンででラッピングされた細長い箱を取り出した。
「ほ、ほらこれ、一日早いけどクリスマスプレゼント!」
焦りながらもほんのり頬を赤くしながらそう言って、彼女は呆然としたままの俺の前にその箱を差し出してきた。
「え……あ、ありがとう。ってちょっと待てよ、まさか最初っから宿題片付けて祝うつもりで来てたのか!?」
なんとなく流れでその箱を受け取ってから、ようやく事態が飲み込めた俺は目を剥いた。
「当たり前じゃん! イブの日に勉強会だけして終わりとか、どんなチャコールグレイの青春よ! 真っ黒一歩手前じゃないの!!」
「いやその例えはさすがに分かりにく過ぎるわ」
「健は灰色通り越して真っ黒な青春したいの!?」
「なわけねーだろ! こんな日ぐらいメリークリスマスしたいに決まってんだろ!!」
「まだイブだけど?」
「どっちでもいいだろもう! なんなんだよお前は!!」
叫ぶように言いながら、俺は思わず咲子に抱きついていた。
俺は今の今まで本当に、咲子は宿題を済ませるためだけにここへ来たのだと思っていた。
お喋りもせずに宿題に集中し、昼食すらろくに
俺が馬鹿だったのだ。
彼女の思考回路はいつだってぶっ飛んでいる。それを俺のような常識からはみ出さないように歩いてきた人間に、簡単に予想できるはずがなかったのだ。
彼女がこんなにも必死で宿題を片づけたのは、俺とイブのひと時を楽しむため、それだけだったのだ。
なにも今日の内に済ませる必要は無い、などというのは俺の浅はかな考えだ。咲子にとっては「楽しい時間」というものは、すべきことを済ませてから過ごすものだと、あの夏の夜にきっと考えたのだろう。
だから必死で、このクリスマス・イブを楽しむために宿題を片づけていたのだ。
そう、俺と過ごす時間を楽しむために。
「……なあ、咲子」
「うん? どうしたの」
「俺やっぱ、お前が好きだわ」
柔らかくて温かな体を思い切り抱き締めて、俺は初めて気が付いた想いを直球で伝えた。
咲子に変化球は通らない。かと言って直球に慣れているわけでも無いのは分かっていたが、それしか言いようが無かった。
言葉にした気持ちは咲子を直撃したのか、リンゴで言えばむつくらいの赤さだった頬が、いっぺんにジョナゴールドくらい赤くなった。
「何を今さら言ってんのよ! 私だって健が好きだよ」
「ほんとか?」
「ホントだって。じゃなきゃ男一人の部屋になんて遊びに来るわけないじゃない」
「そうか、お前にも一応常識ってあったんだな」
「失礼な!! だいたい常識じゃなくて、こんなの自己防衛でしょ」
「ははっ、それもそうか!」
笑いながらも、咲子を抱きしめる腕に力を込める。柔らかいその体をつぶさないように、怖がらせないように、でもこの気持ちがめいっぱい伝わるように。
どこか恥ずかしそうにもぞもぞしていた咲子も、やがて俺の背中に手を回して抱き返してくれた。温かい手が背中を撫でるその感覚は、忘れかけていたどこか懐かしいもので、俺は泣いてしまわないように深く息を吸った。
人生は自分次第でバラ色だ。そう言って俺を手伝うとまで言ってくれた女の子が、俺を好いてくれて、俺との時間を作るために必死で頑張ってくれた。それだけでもう、十分なクリスマスプレゼントだ。
「さて、と。そんじゃ晩飯作るか」
「うん!」
両手を緩めた俺の胸元で笑った咲子の顔は、今まで見たどんな笑顔より素直で、とても可愛く見えた。
用意した夕食の材料はドリアの材料にチキンに菓子と、これがまた丸被りで、そんな事さえ嬉しくて仕方ない俺は、もうどうしようもないんだろう。
咲子と一緒に台所に立ち、互いの用意していた材料を見せ合い、どんな料理にするかとわいわい話すクリスマス・イブは、たぶん初めて感じる幸せな時間だ。
だから心の中で一つだけ誓った。これからの咲子がどんなわけの分からない行動を起こしても、きっと彼女を大切にしようと。どんな無茶な理屈でも付き合ってやろう、と。
その誓いこそが、俺から密かに彼女へ贈るクリスマスプレゼントだ。
宿題とクリスマス・イブと俺 しらす @toki_t
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