煤
鳩芽すい
イントロ
今日も疲れた。
主に心が。死んでいた。
玄関のドアを押し開けて、なだれこむように家に入る。
その勢いのまま、学校の制服のままで、ベッドに潜り込んだ。今日も寒い。
外の空気と日光を浴びて、他人の品のない声を浴びて、自分の輪郭が薄れてしまったようだ。
これは毎日のこと。だから慣れている。
リセットのために、スマホを開く。テレビ顔のアイコンをタップして、画面の中はようやく我が家になった。
これも毎日のこと。だから落ち着く。
押したアイコンは、目的のチャンネルへのショートカットだった。
こうしておけば、いつでもすぐに聴ける。
私の大好きな、この人の曲だけ世界にあれば、私はそれでよかった。
黒い炎と、立ち上る灰の煙。一面モノトーンの世界。
あの人が描いた絵が載った、サムネイルを愛おしくタップ。
『【MV】燃えれば / 初音ミク』
家に転がっていて自分のものにした、コンビニで1000円くらいのイヤホンを耳にかけて、スマホに挿す。
これで、整った。
曲の世界に吸い込まれていく。聴き入るだけ。
闇。一面の闇。自分一人だけしか見えない。誰もいない。安心する。
誰も、ここには入ってこれない。だけど、少し寂しい。
闇の中に何もなかったら、私がいることなんて私は確かめられない。
あれ、一粒の火。マッチを擦ったか、それくらいの小さな明かり。
ぼんやり、照らされる。
怖い、ちょっぴり怖い。
この世界には誰もいなかったはずなのに、誰かいるかもしれない。私一人でいいのに。胸が、痛い。何か起こるかもしれない。
あ。
また安心する。確かに、私がいる。
真っ暗闇の中に何もなかったら、私がいることなんて確かめられない。
でも、明かりが僅かに足下を照らせば、私がいることがわかる。
そして、痛い。
不意に訪れる、外界からの刺激。悲しみ、苦しみ、恨み、悲鳴、痛切な願い。
この小さな命に救いを求める、願い。
痛みがわかれば、私が存在していることもはっきり理解できる。
一人は怖い、他人は怖い。でも、この痛みは怖くない。
この世界は誰だろうと絶対に侵せない。
閉じこもった部屋に、私と、この曲だけ。
この痛みは、決して私を傷つけることはなくて、私がいることを教えてくれるだけ。
何も、何も、怖くなんてない。
だから、安らぐ。疲れが、癒える。
心から、私と世界を感じる。私は、この曲を聴くだけ。後は、惰性で無駄に生きている。
あ。洗練された曇り無い世界に、ノイズが混じる。
片耳だけ、イヤホンを外す。
私の部屋のドアがノックされていた。
……うるさい。
「買ってきて」
なんの心もこもっていない声が私の部屋に入りこむ。
私を産んだ人で、私の扶養者でもある人間の声だ。ただ、それだけの人。
「はい」
ぼそりと呟いた自分の声が美しい曲に混じってしまい、嫌悪を覚えた。
曲の再生を止めて、急いで支度をする。
私がスーパーで買い物をしなくては、この家の食糧はすぐに尽きる。
そこで、なんの前触れもなく、私の手が止まる。
「あ、死にたい。」
よく、呟く。口癖のように。そんな自分に、苦笑して。
煤 鳩芽すい @wavemikam
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