エピローグ
今日は珍しく事務所に客が居た。
いや、客というほどでもないか、圭吾だし。
第一、依頼しているのはこちらだ。
「あのですね。
私、もう刑事事件を専門にしたいって申しませんでしたっけ?」
「なによー。
うちの顧問弁護士なんでしょー?
っていうか、浩太のところだって、結局、客に頼まれて、民事訴訟ばっかり受けてるそうじゃないの」
あんた、独立した意味あんの? と言ってやると、
「息子はいつか父親を越えたいと思うものなんですよ」
と呟く。
あ、やっぱり、そういうこだわりがあったわけね、と美弥は肩を竦めて見せた。
少しは珈琲の味もわかるようになってきた気がするので、前よりは恐らくまともになった珈琲を淹れ、圭吾に渡す。
味がわかるようになったのは、珈琲をよく淹れるようになったからで。
それは、胃が治った大輔が飲むようになったからだった。
あれから――
叶一さんが離婚しないとゴネたので、結局、裁判沙汰になり、こうして安達先生にお出まし願うことになったわけだ。
「株の問題とか絡んできますしねー。
ちょっとややこしいんですよ。
将来的には、叶一さんが跡継ぎと見越して配分されてたわけですから」
「あら、そんなものくれてやるわよ。
ねえ、叶一さん」
と横を見る。
自分のデスクに脚を上げ、手の爪を切っていた叶一が溜息をついて言った。
「ずるいよね~、美弥ちゃん。
僕が安達先生に頼む予定だったのに、先に押さえるなんてさ。
じゃあ、安達先生に頼もうかな」
「叶一さん……ややこしいので、私のことはJr.でいいです」
「だって、もうJr.じゃないじゃない」
ランクアップしてあげたのに、と叶一は顔をしかめる。
「ていうか、本人の目の前で、裁判の打ち合わせすんのもどうかと思うんですけどね」
「しょうがないじゃない。
この事務所狭いんだもの」
本人どころか、外にも丸聞こえだ。
暑くなってきたので、事務所の窓は全開だった。
クーラーなんて高尚なものをつける余裕は、此処にはない。
探偵事務所としてはどうだろう?
叶一は相変わらずだらしなくシャツを着て、ぐったりと自分のデスクで顔を扇いでいる。
「だれてますねえ」
と見るのも厭そうに、どんなに暑くても、いつもスーツを着崩さない圭吾が言う。
「暑いのよ。
アイス買って来て」
とやはり、少しだらけている美弥が言うと、なんで私が、と客のはずの圭吾は、もちろん、顔をしかめた。
「あんたが一番儲かってるから」
と美弥が言ったとき、いきなりドアが開いた。
「叶一てめ~!」
「あ……三溝さん」
大股に入ってきた三溝は、デスク越しに叶一の首を締め上げる。
「てめえのせいで、倫子さんにフラれたじゃねえか~っ」
「あ……フラれたんだ」
けしかけた手前、申し訳なく思って、美弥は苦笑いする。
「お気持ちは嬉しく思いますが、叶一さんがフリーになってしまったので。
ったあ、どういうことだあっ!」
「……それ、僕に言われてもねえ」
「右に同じ」
「そっちは左だ、美弥」
あのな~、と三溝が叶一の首を絞めたまま、こちらを見る。
「三溝さん、私、あずきか、ハーゲンダッツの抹茶」
と美弥は手を上げて言った。
「僕は、あのチョコいっぱいかかったコーンのやつ」
「……俺はソーダ」
「私はカキ氷系のなら、どれでもいいです」
好き勝手言う四人の顔をしばらく見ていた三溝だったが。
なんだかんだで、彼が一番いい人なので、手を離し、叶一を落とすと、財布を手に出て行った。
「……この事務所は腐っている!」
とわめきながら。
ははは、と笑った美弥は、所長席から、仰向けに窓の外を見る。
初夏の鮮やかな蒼空が広がっていた。
「大輔、日曜どっか行こうか」
「日曜、俺は大会なんで」
ああそうか、そうだった。
昔と変わらず、迷いなく矢を放つ大輔の横顔が頭に浮かんだ。
私も弓道始めよっかな~。
どんな雑念も雑事も。
耳に入らないような、あんな顔をしてみたい。
「美弥様、慰謝料の概算が出たんですけどー」
他人事のように言う圭吾の気の抜けた声に、ああ、ほんっとになんにも聞きたくない~、と美弥は思った。
完
蒼天の弓 ~図書室の怪談Ⅱ~ 櫻井彰斗(菱沼あゆ) @akito1
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