第三の選択
はい? と美弥は訊き返した。
圭吾はそのまま言葉を繰り返す。
「私と結婚してください。
これが第三の選択です」
「え、え~と、ちょっと待って。
話の流れが掴めないんだけど……」
額に手をやる美弥に、圭吾は、知らないんですか? と言った。
「離婚して、女はすぐに結婚できないけど、男は出来るんですよ?」
「私っ、離婚してないからっ」
と叫ぶと、
「では仕方ありませんね、少し待ちましょう」
としゃあしゃあと言う。
圭吾は美弥を見据えて言った。
貴方にその二人は選べません。
私と結婚しましょう―― と。
「貴方がおっしゃるように私、野心満々なんですよ。
貴方が叶一さんの子供でも産んでくれたら、ほんと万々歳ですから」
「安達先生も大胆だねえ」
と少し他所を向いていた浩太が含み笑いをする。
では、返事お待ちしております、と圭吾出ていき、少し遅れて叶一が出て行くのが見えたが、美弥も大輔もその場に立ち尽くしていた。
事務所の外、叶一が追いつくのを待っていたように、圭吾は階段手前で足を止めていた。
「ちょっとひどいんじゃない?
大輔の前で言うなんてさ」
そう言う叶一に、
「大輔さんの前だから言ったんです」
と、しれっとして言う。
「いつからあいつの味方になったのさ」
「そういう訳じゃありませんが。
美弥さんがあれだけ大輔さんに拘るのは、志半ばで破れたからだと思うんです。
一度、大輔さんとも結婚してみればいいんですよ。
そしたら、男なんて、どれでもそう大差ないってわかりますから」
後は貴方の努力次第です、と圭吾は笑う。
「お前の気の長さには呆れるよ……」
「ありがとうございます」
微笑んで行きかけた圭吾に、もし、と呼びかける。
「はい?」
「もし、美弥ちゃんが今の話、オッケーしてたらどうするつもりだったわけ?」
と腰に手をやり、眉をひそめると、
「いやあ、それはそれで、棚ボタかな、と」
と圭吾は爽快に笑う。
あ、一応、棚ボタな訳ね、と叶一は小さく呟いた。
外の様子を窺っていた風な浩太が、
「あっ、じゃあ、僕もそろそろ帰ろうかな」
とわざとらしく言って出て行った。
事務所に二人だけが取り残され、なんだか間が持てない美弥は、全員が消えたドアを見ていた。
「正直言って――」
先に口を開いたのは、やはり美弥だった。
「私、よくわからない。
大輔が好きなの。
それはほんとなんだけど」
「別にいいじゃないか……」
え? と美弥は顔を上げる。
「別にいいじゃないか。
お前が俺のことを好きでも嫌いでも」
彼の口から出たとも思えないアバウトな答えに、目をしばたく。
七年、一緒に居てみよう―― と大輔は言った。
「俺は叶一に勝ってみせる」
そのとき、いきなりドアが開いた。
美弥はびくりと振り返る。
「ひどいじゃない。
僕なしで話を進めるなんてさ」
そこには、大輔以上に表情の読めない顔をした叶一が立っていた。
それでも、美弥は唾を飲み込み、覚悟を決めたように胸に当てた手で拳を作る。
「叶一さん――
離婚して欲しいの」
長い年月をかけて、ようやく吐き出したその言葉に、目を伏せて、叶一は言った。
「……やだね」
「やだねって。
あの、でも、離婚届だって、貴方が……
ああっ、ないっ!?」
駆け寄った自分のデスクの上の小物入れを美弥は逆さに振った。
ない~っ!
ずっと此処に入れといたのに~っ!
「何処にしまってたんだ、何処にっ」
と大輔が顔を覆う。
大輔、と向き直った叶一は、彼を指差し、言った。
「お前には慰謝料を要求するよ。
お前が一生かかっても払い切れないくらいの金額をね。
美弥ちゃんと別れたら、僕も近衛鉄鋼の大株主に納まってはいられないだろ?
それくらい要求するのが妥当じゃない?」
「叶一さん!」
またこの人、そんなことには興味ないくせに、と美弥は睨んでみせた。
今だって、彼の希望によって、大株主らしい扱いも跡継ぎとしての扱いもされていないのに。
そのとき、視線から外れていた大輔が、
「いい。
親父に借りる」
と言った。
二人は同時に息を呑み、振り返る。
「俺はずっと間違っていた。
一番大事にすべきことがなんなのか。
親父に頭を下げても慰謝料はお前に叩きつけてやる。
美弥とは別れろ」
「……初めてだねえ。
お前がそんなこと言うの」
そう呟く叶一はむしろ楽しそうに見えた。
もっとも、そう見えただけかもしれないが。
「嬉しい大誤算かな」
そう呟き、出て行こうとする。
ドアに手をかけ、振り返り言った。
「大輔――
親父じゃなくて、お前を刺しておくべきだったよ」
僕も甘いね、という言葉を残し、ぱたん、と叶一は扉を閉める。
その閉まった音に、気の抜けた美弥は座り込みそうになり、それを大輔が支えた。
なんとも言えない複雑な表情で見下ろす彼に、ごめんね、と美弥は言った。
「ごめん? なにが……」
「いや、なんだか、その。突然で。
私、ほんとにさっきまで。
前田さんが来るまで、もう叶一さんとやってくつもりだったの。
あの人の子供を産んで、家でも建てれば吹っ切れるかな、なんて思って」
美弥を支えたまま、大輔は目線を逸らす。
お前の例えはいつもリアル過ぎて心臓に悪い―― と。
ふと、此処を出て行った叶一の、こちらを見なかった横顔が頭を過ぎった。
内心、やはり言うのではなかったかと心が揺れていた美弥は、ようやく、長すぎる沈黙に気がついた。
大輔は自分を支えたまま、ただ困ったような微妙な顔をしている。
「………………」
しばらく待ってみたが、なんにも言わないので、つい、イラッと来て、いつものように喧嘩腰に訊いてしまう。
「なんなのよ?」
「思いつかないんだよ!
なんにも、いい台詞を!」
「あんたにそんなこと期待してないわよっ」
そう怒鳴り合った瞬間、本当に力が抜けた。
日常がようやく帰ってきた気がしたのだ。
大輔の手を擦り抜けるように、結局座り込む。
美弥……と困ったように呼びかけた大輔に、ああ、自分は泣いているのだと気がついた。
そういえば、初めて大輔の前で泣いたな、と思う。
側に誰かが居たり。
誰かの前で泣いていて、結果的に彼が現れることはあったけれど。
二人きりのときに泣いたのはこれが初めてかもしれない――。
美弥は冷たい床に手をつく。
七年分の何かが剥がれ落ちていくように、ただただ、涙が零れ落ちた。
目の前に膝をついた大輔が、美弥、と呼びかける。
そこでまた沈黙した彼を見上げて笑い、
「一生言えないんなら、言わなくていいわ」
と言ってやる。
怒るかと思ったが、大輔はちょっと笑って、身を乗り出し、軽く唇を合わせてきた。
圭吾は聞きたくないと言ったけれど――
叶一さんと居ても、いつも何か違う気がしていた。
だけど、そのずっと感じていた違和感が、今はない。
それが恋と情との違いなのだろう。
今、やっとわかった、と美弥は思う。
「大輔」
「なんだ」
「私、今、初めて貴方が好きになったかも」
大輔は微笑んだまま言った。
「ぶっ飛ばすぞ、お前」
外れ続け、もう二度と戻ることはないと思っていた人生のレールが戻った瞬間だった。
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