pray/祈る
平 遊
pray/祈る
散歩コースにあるその教会は、住宅街にある小さくて目立たない教会だ。
日中は解放されていて、誰でも自由に出入りができる。
僕はクリスチャンという訳では無かったが、散歩の時にはたまに、フラリと訪れることがあった。
ステンドグラスから差し込む、清らかで美しく、柔らかくて温かな光は、見ているだけでも心が和む。
教会の中を満たす清浄な空気に、蓄積された自分自身の穢れが、浄化されるような気さえした。
その日も僕は、ほんの気まぐれで、散歩途中に教会に寄っただけだった。
平日の昼間には、教会に人がいることなど殆どない。
のんびりと、厳かな教会の雰囲気を一人きりで満喫する予定が、真っ黒なワンピース姿の女性が、最前列で熱心に祈りを捧げている光景に出くわした。
ステンドグラスから差し込む光を全身に浴び、頭を垂れてしっかりと両手を組んで、祈り続けるその女性の姿はまるで一枚の絵画のようで、僕は思わず息を詰めてその姿を見つめ続けた。
結構な長い時間だったと思う。
ようやく祈りを終えたのだろう。
女性は音もなく立ち上がると、僕に気づいた様子もなく、教会の出口へと歩いて行き、扉の向こうへ姿を消した。
どこかに鈴でも付けているのだろうか。
歩く度に微かに、チリリと済んだ音が僕の耳まで届いてきた。
女性の事が気になったから。
という訳ではないとは思うものの。
それからというもの、気が向いた時にたまにしている程度だった散歩は、その頻度がグッと上がり。
たまにフラリと寄る程度だった教会は、必ず寄る場所となった。
いつもの時間に。
いつもの場所で。
その女性は、一心に祈りを捧げていた。
真っ黒なワンピースに身を包んで。
こんなにも長い時間、毎日熱心に、彼女は一体何を祈り続けているのだろうか。
最後列の椅子に腰掛け、彼女の姿を眺めながら思いを巡らせる時間は、いつしか僕の日課となっていた。
半年ほど過ぎた頃だろうか。
いつものように教会を訪れた僕は、ハッと息を飲んだ。
あの女性が、一心に祈りを捧げていたのだ。
真っ白なワンピースに、身を包んで。
その姿はまるで、神より受胎告知を受けている聖母のようでもあり。
神の寵愛を一身に受けた美の女神のようでもあり。
入り口近くで言葉もなく立ち尽くしていると、女性は祈りを終えて立ち上がり、振り返って僕を見た。
女性の口元には、微かに笑みが浮かんでいるように見えた。
女性はゆっくりと出口に向かってー僕に向かって歩いてきた。
女性が歩を進める毎に、チリリと小さく澄んだ鈴の音が僕の耳に届く。
やがて、出口の扉に手を掛けた女性に、僕は思わず声をかけていた。
「何を祈っていらしたのですか?」
考えてみれば、話をしたこともない、一方的に眺めていただけの初対面の人に尋ねるには、失礼な問いだったかもしれない。
それでも、今を逃せばもう、永遠に聞くことができないのではないか。
そんな気がしたのだ。
だが、女性は気にした様子もなく、フワリと微笑んでこう答えた。
穏やかで落ち着いた、優しい声で。
「ただ、どうかお見届けください、と」
女性はもう一度僕に笑顔を見せ、軽く頭を下げると、そのまま教会から出て行った。
それが、その女性と交わした、最初で最後の言葉だった。
翌日。
教会に女性の姿は無かった。
その翌日も。
そのまた、翌日も。
やがて、ほぼ日課となっていた散歩も徐々に回数が減り始め、教会からも足が遠退きつつあったある日。
僕は、予想外の形で女性の姿を目にすることとなった。
僕が女性の姿を見たのは、ニュースの緊急速報の映像の中だった。
数人を殺害した後に自死したという、容疑者の写真。
名前すら知っている訳ではなかったが、それは間違いなく、教会で祈りを捧げ続けていたあの女性だった。
それからしばらくの間、世の中には、女性に関する様々な報道や憶測が飛び交った。
大切な人の命を不当に奪われ、復讐に走った哀れな女。
酷い暴行を受けて人生に絶望し、自棄になってしまった可哀想な女。
薬物にハマり、自我を失って凶行に走ったバカな女。
どれが本当でどれが嘘なのか。
全てが本当なのか全てが嘘なのか。
僕には分からなかった。
でも、僕は知っている。
あの、小さな教会で。
彼女がどれだけ熱心に、祈りを捧げていたかを。
どれだけ、救いを求めていたかを。
久しぶりに散歩に出かけ、久しぶりに教会へと足を踏み入れてみた。
ステンドグラスから差し込む光は、変わらずに美しく、包み込むように柔らかくて温かい。
教会を満たす空気は、清らかに澄んでいるように思える。
最前列。
彼女が祈りを捧げていた場所で足を止め、目の前の像を見上げた。
『どうかお見届けください』
と、彼女が必死に祈りを捧げていた神様の姿を。
彼女の祈りは、届いていたのだろうか。
届いていたのならばなぜ、彼女を止めてやらなかったのか。
なぜ、救ってやらなかったのか。
ふと、最後に彼女が見せた柔らかな微笑が脳裏に蘇り、やりきれない思いが胸の奥から沸き起こる。
せめて、しっかり見届けてはもらえたのだと思いたい。
彼女の凶行を。
彼女の、最期を。
気づくと僕は両手を組んで、彼女がそうしていたように、祈りを捧げていた。
どうか、彼女の御霊が安らかに天に召されますようにと。
誰に?
それはおそらく、目の前に祀られている、神様に。
彼女が祈りを捧げ続けていた、神様に。
僕の祈りは、届くだろうか。
聞き届けて貰えるだろうか。
僕は、クリスチャンではないけれど。
遠くの方から微かに、チリリと澄んだ鈴の音が聞こえたような気がした。
【終】
pray/祈る 平 遊 @taira_yuu
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