人◯しの貼り紙

栗尾音色

第1話 人◯しの貼り紙


うだつの上がらないサラリーマンの和樹は今日も特に面白くもない仕事を終え、いつもと同じ帰路についていた。


30歳、中肉中背、既婚。

どこにでもいる、平々凡々な男。

そんな和樹の最近の不満といえば、妻からお小遣いを減らされたことで大喧嘩に発展して以来、まったく口をきいていないことだ。


「ふん、ひと月たった一万円ぽっちの小遣いで社会人の男にどうやってリフレッシュしろっていうんだよ…まったく」


そんな現状への、そして妻への不満は自宅への帰り道を歩く足を遅らせ、無意識に独り言となって出ていく。


「はあ…結婚する前にもっと早く気づくべきだったな」


お互いに強く惹かれ合い、燃え上がり、焦がれるままに結婚した女性。

そんな女性も日々生活を共にしているうちに、ただの口うるさくてケチな鬼嫁へと変貌してしまった。

その証拠に、最近少しばかり帰りが遅くなりがちだっただけの夫に対してこの仕打ちなのだから。


「……ん?」


まるで覇気のないその目が、脇を通り過ぎようとした一本の電柱に止まった。


「なんだこれ……人捜ひとさがしの貼り紙?昨日までこんなのあったかな?」


近づいてよく見てみると、電柱に両面テープで貼られた真新しそうな貼り紙に女性の写真と共に詳細情報が綴られていた。


『この女性を捜しています。名前は高森圭子さん、28歳。』


和樹は目を見開きながらさらに文字列を追った。


『特徴・・・肩にかかるぐらいの長さのセミロングヘア、身長162cmぐらい、色白で右目の横にホクロあり。』

『半年前からこの近辺の街に住み始めたことまで調べ済みですが、いくら捜しても本人の姿が見つかりません。』

『お心当たりのある方は、下記の電話番号までご連絡下さい。その際には、必ずご本人様個人の携帯電話からお掛け下さい。尚、そちらのプライバシーは厳守致します。』


全文を読み終えた和樹は、しばらくしてからまるで馬鹿にするように鼻から息を大きく吐いた。


「ふーん…。『見つけてくれた方には100万円差し上げます』なんて書いてあったら、ちょっとは協力してあげてもよかったんだけどなぁ!」


万年ヒラ社員の冴えない自分が必死にあくせく働いても、月に手取り28万円しか稼げない。

そのうちのほとんどは生活費や支払いに当然のように吸い取られてしまい、自由に使える金などほんの僅かだ。

年二回の少ないボーナスなんて、家や車のローンの支払いにほとんど消えてまったくボーナスの意味を成さない。


単純に馬鹿らしくてやってられない現状は、貼り紙を見つめる目とその口元に嘲笑を与えた。


「ま、本人の顔も名前も知っているならともかく、こんな少ない情報だけで特定するのは至難の業だろうな。お気の毒なこった。」


すべての鬱憤を貼り紙の貼り主にぶつけるかのごとく、和樹は笑い飛ばして素通りするのだった。



──そして翌日の同時刻。


昨日と同じ帰り道、同じ歩道、同じ電柱に貼り紙はまだ貼られていた。

昨日と違う点は、真っ白だった貼り紙の色が濃い黄色に変わっており、そこに書かれている内容も少し変えられていることだ。

わざわざ貼り主がこの場所で、新しいものに貼り替えた…ということだろうか。


「昨日とは何か違うみたいだな…」


電柱の前で足を止め、確認し始める。


『この女性を捜しています。名前は高森圭子さん、28歳。』

『特徴・・・美人だが性格に難あり。恋愛体質で嫉妬深く、異常なほどに執念深い。』

『お心当たりのある方は、下記の電話番号までご連絡下さい。その際には、ご本人様個人の携帯電話からお掛け下さい。尚、そちらのプライバシーは厳守致します。』


最後まで読み終えた和樹は、今度は首をひねるのだった。

その理由は当然『高森圭子』の見た目の情報ではなく、個人的な性格の特徴だけが記されていたからだ。

同時に、この貼り紙の貼り主が『高森圭子』をよく知る人物だということがうかがえた。

しかし、そもそも和樹にとってはどうすることもできない問題なのだ。


「こんなパッと見ただけじゃわからないような特徴なんて書いて、一体なんの意味があるんだ?」

「……バカな貼り主だな」


とても人捜しの効果がありそうだとは思えない1枚の貼り紙。

パソコンで打ち込まれたそのテキスト文章の無機質な文字に、和樹は少なからず違和感を覚えるのだった。



──さらに、その翌日の同時刻。


仕事を終えて電車に乗り、下車し、駅から20分ほどの距離の自宅へ向かって歩く足取りは重かった。

例の電柱への距離が縮まれば縮まるほどに、得体の知れない不安が押し寄せてくるのだ。

そもそも、あの貼り紙が単純に人を捜すために貼られたものだとは考えにくい。

一体なぜこの場所、あの電柱だけに貼られているのか。

こんな、人通りの少ない歩道に立つ一本の電柱にこだわる理由とは何なのだろうか。

たった一日で新しいものに貼り替える必要性もわからない。

しかし、さすがにまた新しい貼り紙に変わっているなんてことはないだろう。

きっと、誰かのイタズラに違いない…そう言い聞かせて和樹は一気に電柱の横をすり抜けるために足を速めた。

ところが、視界に飛び込んできたそれは素通りすることを禁じたのだ。


「な、なんだこりゃあ…?!」


電柱に貼られていたのは、最も目立つ真っ赤な貼り紙だった。

それも一枚どころではなく、電柱の至る所に無造作にベタベタと何枚も貼られており、電柱そのものが赤く染まっているようだ。


「なんなんだ…一体…!!」


その異様な光景に思わず腰がひけながらも、おそるおそる近づいて手近な貼り紙に目を通した。

白でも黄色でもない赤く不気味な貼り紙には、相変わらず女性の写真と共に白い文字でテキスト文章が綴られている。


『この女性を捜しています。名前は高森圭子さん、28歳。』


何度も目にした定型文の下に続くのは、目を疑うような情報だった。


『高森圭子さんの身柄を引き渡していただいた方には、謝礼金として一千万円お支払い致します。』


ここまで読んだ和樹はヒュッと息を飲んだ。


「い、一千万…?!嘘だろ、100万どころとはケタが違うぞ…!!」

「ただの人捜しになぜここまで金をかけるんだ?!」


狼狽えた拍子に手に持っていたビジネスバッグを落としてしまい、バッグの口からブランド品の革製の名刺入れが飛び出して地面にその中身をばら撒いた。


「あ……!」


自分の会社名、連絡先、そして…


『高森和樹』と中央に大きく名前が書かれた名刺を一枚、また一枚と拾い上げては慌てて名刺入れに仕舞っていく。


焦りと不安に襲われ、再びその目は貼り紙の続きの文章へと移る。


『お心当たりのある方は、下記の電話番号までご連絡下さい。その際には、必ずご本人様個人の携帯電話からお掛け下さい。尚、そちらのプライバシーは厳守致します。』


だがやはり、にわかには信じがたい。

1枚目からこの3枚目まで通して貼り主の氏名や素性などの情報がまったく記載されていないこの貼り紙自体が、そもそも怪しいのだから。

しかし、そんな疑念はその続きの文章でついに振り払われ、頭の中が真っ白になるのだ。


『匿っていても無駄ですよ。』

『※身柄につきましては、でも構いません。』



──ようやく気がついてしまった。


人通りの少ない、毎日必ず通る歩道に立つ電柱に貼られた一枚の貼り紙。

それは他の誰でもない、自分にだけ向けられたものだということに。

謂れのない恐怖が全身を鳥肌で包み込んだその時、ポケットの中のスマホが警鐘のような呼び出し音を轟かせた。


「ひいっ!!」


たかが電話の呼び出し音に対してこんなに情けない声を上げてしまったのは生まれて初めてのことだ。


「……も、もしもし」


液晶に表示された名前を確認してから電話に出ると、心地良い女性の声が返ってくる。


「あ、和樹さん?そろそろ仕事が終わった頃だと思って……帰る前に、少し会えない?」


「あ、いや…その…っ今夜は…ちょっと」


「…どうしたの?なんだか様子が変だけど」


「い、いや…何でもないんだ、何でも…」


「本当に?何かあったんじゃないの?」


そのいつもの優しく包み込むような声に、ついついこの動揺しきった胸の内を吐露してしまいそうになる。


「は、貼り紙っ……変な貼り紙を3日連続で見ちゃって…ちょっと気が動転しちゃってて…!」


「……変な貼り紙?」


「あ…っ、誰かが妻を捜してるらしいんだけど、どう見ても怪しいから…警察に通報しようとしてたとこなんだ」


「なんなの、その貼り紙…どこで見つけたの?」


「〇〇駅から自宅への途中の歩道だよ……でも大丈夫さ。きっと誰かのイタズラに違いないから、心配いらないよ。じゃ、そういうことだからまた後で」


返事を待たずに電話を切り、和樹は110番に掛けることなくスマホをポケットに仕舞うのだった。

そして、電柱に敷き詰められた張り紙のうちの一枚だけ剥がし取ると、グシャリと音を立てながらもう一方のポケットへと突っ込んでその場を走り去った。




──帰宅した和樹はすぐに、自宅一階のうち一部屋だけ使っていない六畳ほどの洋室に足を踏み入れた。

そして一直線に向かったのは、部屋の奥にあるウォークインクローゼットだ。

そして、微かな機械の稼働音が聴こえてくる薄暗い中へと進み、入り口の壁にある照明スイッチを押した。

広々としたクローゼットの中は相変わらず埃っぽく、肝心な衣類などは一つも収納されていない。

そのせいで無駄に広く感じてしまうこのクローゼット内の奥に、異質な物だけがただ一つ、そこに存在していた。


──それは、業務用の大きな横型の冷凍庫。


ちょうど小柄な成人女性ならスッポリと収まってしまうぐらいの大きさの冷凍庫に近づき、和樹は蓋の上から掛けていたカバーを取り払った。


わざわざ分厚くて重そうな蓋を開けなくとも、その中身は蓋のガラス窓越しに外から確認できる。



──黒い雨ガッパを着せられ、まるでマネキン人形のように白く硬化したまま眠り続ける、若い女の死体。

大きく見開いた瞳まで白く濁った女の死体は、最期の瞬間の絶望をその顔に残したまま凍りついていた。


「まさか、バレちゃいないよな?ここに死体があること…」


恐怖と焦りで、膝がみっともなく震え始める。


「一体誰なんだ……圭子を捜しているのは」

「あの貼り紙……あの連絡先は探偵か何かなんじゃないのか…?!ちゃんと警察に失踪届も出して処理したのに、今さらなぜ…!!」


こちらの犯行と隠蔽を知っているのかもしれない者の存在が、ただただ恐ろしい。

そんな中、唯一の見返りであるものの影が頭にチラついた。


『※身柄につきましては、死体でも構いません。』


たとえ死体であっても、あの貼り紙の貼り主に連絡を取って引き渡せば、一千万もの大金が手に入るのかもしれない。

圭子を捜している理由も“死体でもいい”という理由もまったく見当もつかないが、貼り主の人物がこちら側の犯行を知っているうえでの提示ならば、取引として成立する可能性は否定できないのだ。

そんな甘い誘惑は、途端に膝の震えを止めてしまった。

そして、そうすることによって得られるは大金はもちろん、和樹にとってあまりにも多すぎるのだ。


「謝礼金一千万…か」

「とても信じられないが、もし本当だったら…!」


そのとは、直後に背後から流れてくる、鈴を転がすような美しい声によって明らかとなるのだ。



「その一千万円のためなら、あなたの妻であるこの私を引き渡すつもりだったのかしら?」



心臓が止まりそうになった瞬間だった。


「け…圭子っ?!」


背後に佇む女は、妻の圭子…そう、あの貼り紙によって何者かに捜されている高森圭子本人なのだ。


「あの貼り紙のことを知ってるのか?!」


ここ数日、帰宅して顔を合わせてもあの貼り紙のことがお互いの口から出ることは一度もなかっただけに、予想外だった。

なにせ、喧嘩して以来は一言も言葉を交わしてはいなかったのだから。

そして、何もかも理解が追いつかない和樹の顔を見て、圭子はフフと鼻を鳴らすのだ。



「知ってて当然よ。あの貼り紙の貼り主は他の誰でもない、この私なんだから」



ますます意味がわからない。

自分で自分の行方を捜すような貼り紙を外に掲示するような人間が、一体どこの世界にいるというのだろうか。


「なんだって…?!な、なぜそんなことを?!」


「…最後にあなたの愛を確かめたかったのよ」


「え…?」


和樹の背後で稼働音を響かせ続ける冷凍庫に視線を移した圭子は、淡々と過去に起きた事実を話し始める。


「その冷凍庫の中に隠している死体……そう、あなたの元妻を一年前に私たち二人の手で殺した、あの時……あなたは、愛人だった私への愛の証だと言って目の前で妻の首を絞め…私はあなたの愛を受け入れた証として、虫の息だった彼女を滅多刺しにした」


それはまるで、燃え上がるような愛の誓いの儀式。

当時は愛人だった圭子との関係が妻の知るところとなり、それでも離婚を認めずに法的に愛人を排除しようとする妻をこの手にかけた事実。

とっくに妻に対して冷めきっていた自分自身が圭子を選び、その三人による熾烈な修羅場の末に二人で共謀して妻を排除したのだ。

だが、犯罪を犯してまで愛を誓い合った目の前の女に対する感情は今となってはもう、燃え続けるどころかすでに小さな灯火ともしびさえくすぶろうとしていた。

その原因は、自分の口から言わずとも圭子の口から嘆きとなって語られるのだ。


「それなのに……あなたはそんな私のことを愛するどころか、また違う女と付き合い始めた!!」


「いつから気付いていたんだ…?!」


「なんとなくそんな気がしたのは2ヶ月ぐらい前……そして、その不倫相手の女の素性を突き止めたのが、あなたのお小遣いを減らして大喧嘩になってからすぐのことよ」


嫉妬による激しい憎悪が、一瞬にして圭子の美しい顔をいびつなものへと変えた。


「絶対に…許せないっ…!!」


「け、圭子…落ち着くんだ。な?落ち着いて、ゆっくり話し合おう…!」


後退りしようとする腰すら、頼りなく力が抜け落ちてしまいそうな重圧感。

あんなにも固く愛を誓い合って結婚し、すぐに不倫という裏切り行為をしたのだ、当然の結果だろう。

しかし、圭子のそんな嫉妬深くてヒステリックな性格に辟易していたのもまた事実だ。


静かに迫り来る圭子に押され、クローゼットの入り口までゆっくりと追い詰められる途中で耳元に圭子の声が響く。


「ふふ、我ながらあんな貼り紙を作って貼るのも大変だったのよ……あなたの退社時間に合わせて、あなたの帰り道を徹底的に調べ上げてあの電柱に貼ってはあなたの反応を確認して…」


ジリジリと追い詰められ、やがてクローゼットの外へと踵が出て行く。


「でもね、そこまでしておきながら私はやっぱり最後まであなたを信じてたの。元妻殺害の共犯者という重い足枷あしかせである私が何者かに捜されていても、絶対に私を売ったりしないって…」


圭子の後ろ手に隠されていた出刃包丁が姿を現すと同時に、その刃先が照明の光を反射した。


「ま、待て…圭子…!」


「ありもしない一千万っていう大金にだって、目が眩むはずなんかないって…信じてた。和樹さん…私、あなたのことを愛してるの。そう、まさに気が狂ってしまいそうなほどに…ね」


柄を握りしめられた包丁と圭子の虚ろな顔を交互に凝視する瞼の上を、冷ややかな汗が伝っていく。


──明らかな殺意を向けられている。


このままでは、その鈍色にびいろに光る包丁の刃を体に突き立てられ兼ねない。

今まさに生命の危機にさらされている和樹は、咄嗟にその場凌ぎの弁解に興じるのだ。


「わ、悪かったよ圭子…不倫をしていたことも認めるし、相手の女ともスッパリ別れてもう二度と繰り返さないと誓うよ!」

「それに、俺がそんなはした金のために愛する君を売ったりなんてするわけが──」


「さっき、ガレージの物置の中で買ってきたばかりのノコギリや金槌、そして大量の黒いポリ袋が入ったホームセンターの袋を見つけたわ。その意味を理解しちゃってつい、ガレージに全部ぶっちゃけてきちゃったけどね!」


そう言って狂ったようにけたたましい笑い声を上げる圭子。

聴いているだけで鼓膜が破れそうになり、それを伝達した先の脳内まで掻き回されている気分だ。

今すぐに口を塞いで黙らせてやりたいほどにおぞましいその笑い声は、突然ピタリと止んで冷静な声色へと変わるのだ。

そして、言い訳の言葉も逃げ場も失って震えているだけの体の背後へと回った圭子の囁き声だけが、水面に深く落ちる重い水滴のように鳴り響いた。


「……ねえ、あなた。私を殺して、死体を引き渡して一千万円を手に入れるつもりだったんでしょう?」

「まさかその貼り主の正体がこの私だとも知らないで、“死体でも構わない”っていう言葉を鵜呑みにして…」


まさに、その通りだ。

圭子の存在がある限り、元妻殺しという呪縛は消えないのだから。

圭子という邪魔な存在を排除し、その死体を引き取ってもらえるうえに大金を手にし、不倫相手と一緒になれるのならばもはや利点しかなかったのだ。


「本当にあなたって恐ろしい男。一度ならず二度までも不倫相手のために妻を殺そうとするなんて…」


お互いの殺意が衝突し合う。

しかし、丸腰の自分と出刃包丁を持った圭子のどちらが有利なのかは明白だ。


「ま、待ってくれ…圭子…!!ほんの気の迷いだったんだ!!信じてくれ…!」


「私を殺して、また失踪届を出して離婚が成立したらあの女と結婚するの?一千万円を手に入れて、二人でしばらく遊んで暮らそうだなんて考えてたのかしら?」


包丁の刃先が天井高く振りかぶられ、自分の体ただ一つを目掛けて煌めいた。

殺される。

まだ死にたくない。

そんな命乞いをする余裕すらない一瞬のうちに聴こえてきたのは、圭子のヒステリックな叫び声。


「そんなこと…死んだってさせるもんですかぁぁぁぁぁぁ!!!」


前屈みになり、両腕で頭を覆うことしかできない和樹の耳元を包丁が肉を刺す音とは違う鈍い音がつんざいた。


《 ドグッ!! 》


鈍器が肉を叩き潰すような音がしたと思った次の瞬間、「がっ」と呻き声を上げて床に倒れ、頭部から鮮血を撒き散らしたのは圭子だった。

何が起こったのかわからない和樹の視界に飛び込んできたのは、今まさに圭子を背後から金槌で殴り倒した張本人だったのだ。


「和樹さんっ!大丈夫?!」


「幸恵?!な、なぜ君が…?!」


「さっき和樹さんから電話で貼り紙のこと聞いた後、私も気になって探しに行って見つけたの。そしたら死体がどうとか物騒なことが書いてあったから……心配になってここに来たの!」

「そしたら、あなたが奥さんに殺されそうになってたから、私…つい…!!」

「ど、どうしよう……私、殺すつもりなんてなかったのに…!!」


手に握ったままの血のついた金槌を見つめてガタガタと震える幸恵。

その細い肩を、和樹はそっと抱いた。


「幸恵…君は俺の命を救ってくれたんだね」


「和樹さん…でも…!」


「大丈夫さ、もう圭子は死んだんだ。これでやっと君と堂々と付き合える。愛してるよ…幸恵」


「私もよ、和樹さん…!」


目を見開いたままゴロリと床に転がった圭子を横目で見つめ、幸恵が胸元で呟く。


「でも…どうするの?奥さんの、死体…っ」


「君は心配しなくていいんだよ。俺一人でなんとか始末しておくから…」


「……まさか、あの貼り紙に書いてあった連絡先にもう電話したの?」


貼り紙の内容が圭子による捏造だとはまだ知らない幸恵に、和樹は笑って言いのける。


「電話なんてするわけないさ。だって、あの貼り紙は圭子の──」


「そう…。だったら、一千万円は私だけの物になるのね?」


そう言って目を細めた幸恵の口元が弧を描いたのを目視した瞬間、その意味を思考する暇も与えられないうちに、こめかみに重い衝撃が走った。


《 ボグッ! 》


一瞬にして視界が歪み、平衡感覚を失った体が奇妙に踊りながらやがて床に叩きつけられる。

幸恵に金槌で頭を殴られた…そう理解した時にはもう、起き上がることすら叶わずに見つめることしかできない天井の端で、見下ろす彼女が笑っていた。


「ゆ…きえ」


「ごめんね、和樹さん。私も生活が苦しくってお金が欲しいの。もしあなたが先に大金を手にしていたのなら、このまま不倫ごっこに付き合ってあげてもよかったんだけど…」

「まだ電話してないなら、もう不要だからさっさとくたばってくれる?」


薄れゆく意識の中で、最期に目にしたのは金槌を再び振りかぶる幸恵のぼやけた顔だった。


「ちが…う……かね、は…圭子…の……」


《 ゴキンッ! 》


喉の奥から絞り出した言葉は、金槌の鉄槌が眉間を骨ごと潰した瞬間に宙を舞った。


──事切れるのは一瞬だった。


ゴトリ、と金槌を床に落とすと、幸恵は満足そうに和樹と圭子の亡骸を見比べる。

込み上げる笑いが止まらない。


「和樹さん、私があなたに近づいた理由…本当に知らなかったのね、可哀想」


そう言って幸恵は、和樹から圭子の亡骸へと目を移す。


「ごめんね圭子…やっぱ私、学生時代にあんたをいじめてた時の快感が未だに忘れられないみたいなの」

「だからね、あんたが結婚するって聞いてすぐ、和樹さんを寝取ってやったの。バカな男よね、簡単にその気になっちゃって…ほんっと笑っちゃった!」


そして、おもむろに手の中で広げたのは一枚の真っ赤な貼り紙。


「もちろん100%信じたわけじゃないけど、圭子のあの狂乱っぷりから察するに…案外やってみる価値はあるかも」


貼り紙の下に記載された連絡先に電話を掛け、圭子の死体を引き渡せば一千万円が手に入る…かもしれない。

半信半疑で幸恵は自分のスマホをポケットから取り出したが、その手を止めた。


「…さすがにどんな相手なのかもわからないのに、自分のスマホからじゃリスクがあるから……この人のスマホから掛けてみよう」


和樹のズボンのポケットからスマホを取り出すと、貼り紙に書かれている連絡先の番号を入力し始める。

期待と不安が、幸恵の脈拍数を上げていく。

もしこの貼り紙の内容がデタラメだったら、2つの死体をどうにか処理すればいい。

幸い、ガレージ内に解体する道具が揃っているし、他に家族もいないこの家の中にはいくらでも時間があるのだから。

頭の中でシナリオが完成していくその最中に、電話の発信ボタンを押した。



《 トゥルルルルッ! 》



電話の向こうの発信音とほぼ同時に鳴り響いたのは、背後の居間にある固定電話の呼び出し音だった。

鼻から小さく吸った息が、吐かれることなく肺の中に留まる。

思考力が停止したまま、居間を振り返った。


「………。」


いまだ誰も電話口には出ないスマホを耳に当てたまま歩き、キャビネットの上で鳴り続ける固定電話の前で止まったその時、2つの呼び出し音が同時に消えた。


『留守番電話に、接続します』


そしてスマホの向こうでアナウンスが流れた直後、よく知る女の声が一方的に話し始めた。


『もしもし、和樹さん。』


「……けい…こ?」


『ビックリした?あなたは知らないだろうけど、固定電話の番号も変えてあなたからの着信にだけこの音声を流すように設定してあるの』

『そして、あなたはこの番号に電話を掛けてきた。元妻殺しの共犯者である私を殺して、ありもしない一千万円を手に入れるためにね』


「……?!」


震える手に握られたスマホの向こうで、まるで女は嘲笑うかのように話し続ける。


『それと、あなたの不倫相手が私の同級生だってことも知ってるわ』

『まさか、よりによって私を散々いじめた幸恵と不倫してたとは…ね。でも彼女は確かに美人だから、あなたが夢中になるのもわかるわ』

『でもね…あの貼り紙にも書いた通り、私ってすごく嫉妬深くて執念深い女でしょう…?』


その無防備な背後で、一つの人影が頭を押さえてフラつきながらユラリと立ち上がった。


『元妻を殺してまで一緒になった私のことを殺して売ろうとしたあなたはもちろんだけど…』


《 ヒタ…ヒタ… 》


『私からあなたを奪ったあの女のことも、殺してやりたいほど憎いの…』


背中の真後ろで感じた、女の息遣い。

血の匂いが鼻をついた瞬間、首元に出刃包丁の冷たい刃があてがわれた。


『だからね、私は生きていようが例え死んでいようがこの手で必ず…』


スマホの向こう側の声と、もう一方の耳元で囁く声が重なり合う。


「ジゴクニオトシテヤルカラ」

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