静かな夏の日

夏川 流美

【静かな夏の日】



 灼熱の太陽が道路と私達の肌を焦がし、時折過ぎていく風はただの熱風で、それはそれは暑い夏の真っ只中だった。




 私は虫捕り網担当。彼――子太郎は虫カゴ担当。きっと虫捕り網を持ちたかっただろうに、虫を手で触れず、側に置いておくのも嫌で虫カゴを拒んだ私のせいで、子太郎が虫カゴを持ってくれていた。


 虫を見つけたら私達は息を潜める。頭も尻も見えていたが、足を踏み入れた草むらに隠れて、虫捕り網を振る機会をじっと窺う。狙いの虫が近くに止まったタイミングで、私は思い切り地面に網を叩きつけた。



 大体……4回に3回くらいは逃してしまうという下手くそな網使いだったが、上手く捕まえられていればその後は子太郎がカゴに入れてくれる。もし網の中に虫がいなかったら残念、諦めて別の虫に狙いを定める。



「なぁ見ろ、今日のバッタでっけーよ!」



 にぱーっと屈託のない笑顔で、虫カゴの中身を見せてくれる瞬間。虫よりも先に、子太郎の顔に目がいっていた。私はその瞬間がなによりも好きだった。だから下手くそなりに、頑張って虫捕りをしていた。




 ある時はトノサマバッタを捕まえ、ある時はクワガタムシを捕まえ、またある時にはミンミンゼミを捕まえた。子太郎の持つ虫カゴから、とにかく煩く鳴きわめく蝉の声がした。


 体験したことのない蝉の声の距離。私はその騒々しさにいささか恐怖を感じてしまって、子太郎から数歩先を歩きながら、人差し指で耳を塞いでいた。


 そうしていると、不意に肩が叩かれる。人差し指をぱっと離せば、やはり変わらない距離の蝉の声がダイレクトに聞こえてきた。思わずまた耳を塞ごうとしたが、少し不安気な子太郎の顔色を見て、我慢した。



「だいじょうぶか? 逃がすか?」


「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ……」


「じゃあさ、おれ歌うよ。おれの声きいてて!」



 意味のわからない提案に、私は立ち止まって素っ頓狂な顔を向けた。なんで蝉の声にびっくりしていたら子太郎が歌うのだと、素直にそう疑問をもった。そんな私を他所に、子太郎は本当に歌い出した。しかも、蝉の声より何倍も大きな声で。


 とにかく全力で口を開けて、眉間にシワを寄せているくらい一生懸命な大声だった。決して歌が上手いわけじゃなかったけれど、見たこともない頑張りようについ笑ってしまった。そんな私の様子に、眉間のシワを緩める子太郎。



「な、セミの声もうるせーけどさ、

 おれの声のほうがもっとうるせーだろ!」


「うん、こたろーの声のほうがうるさい」


「だろ! おれの声、セミに負けないんだぜ、すげーだろ! セミが怖かったら、おれの声きいてろよ、ずっと歌ってるからさ!」



 そう言って子太郎は再度歌い出した。これもまた本当に、ずっと歌っててくれた。私の家まで送ってくれて、家の中からも子太郎の歌声が聞こえてきた。しばらくしたら聞こえなくなったけど、私はこの日に知った深い安心感と喜びを一生忘れないと思った。




 それから数ヶ月が経った。時期は氷のような寒さが身に染みる冬へと移り変わった。




 1月7日。この日が子太郎の命日となる。





 我が家に連絡がきたのは早朝だった。まだお母さんしか起きていなかった時間帯。連絡が入った家の電話を取ったのはもちろんお母さんで、必死の形相で布団を剥ぎ、肩を強く掴んで、寝起きの私の頭を揺らしたのもお母さんだった。



千鶴ちづる起きなさい、起きて!

 子太郎くんが事故に遭ったって!

 危篤なんだって、目を覚さないんだって!」



 私はその時、お母さんの言葉を理解できなかった。危篤ってなんだろう。目を覚さないって、なんだろう。


 ずっと私に呼びかけ続けるお母さんの声が、意識の外にぼんやりと出ていった頃に、ようやく「子太郎が事故に遭った」ということだけを理解した。



「すぐ病院に行くから、あんたは上だけ羽織って靴履いてて!」



 お母さんの切羽詰まった声色を聞きながら、私は何故か何も考えられなかった。言われたから、動かなきゃ。上を羽織って、靴を履かなきゃ。なんだかそんな気持ちで支度をしていた。


 車に乗るとお母さんは黙ったまま、いつもとは違う荒い運転で病院まで向かった。十数分で到着した病院の入り口には、子太郎のお父さんが立っていた。私はお母さんの服の裾をぎゅっと握り締めながら、後ろを着いていった。


 辿り着いたのはテレビでしか見たことない部屋で、機械とかがいろいろ置いてあって、その中心に子太郎がいた。開いていない目で天井を見つめたまま、動かなかった。



「こた。千鶴ちゃんのママが来てくれたよ。千鶴ちゃんも一緒だよ、はやく起きて顔を見せてあげなさい」



 子太郎のお母さんがそう呼びかけている声が、どこか遠くから聞こえた。私は握りしめていた服の裾を離して、覚束ない足取りで子太郎の側に寄った。





「こたろー……?」





 小さく、名前を呼んだ時だった。心電図が一定の高音を鳴り響かせた。



 即座にざわつきだす周囲。子太郎に駆け寄る子太郎の両親と、外から入ってきた看護師さんやお医者さん。私はお母さんに両腕で子太郎から引き離された。大人の壁で、私からは子太郎が見えなくなった。


 まるで、私のせいみたいだった。私が子太郎を殺しちゃったみたいだった。


 突然すぎる全ての状況に置いてけぼりの私は、お母さんの両腕の中で、大人の壁の向こう側にいるはずの子太郎のことを、ただ真っ直ぐに見つめていた。






 少しして行われたお葬式は、あまり覚えていない。ずっと実感が湧かないまま参加して、お経を聞いている間も考え続けていた。子太郎が死んじゃったって、なんだろうって。


 その考え事は、棺の中に眠る子太郎の頬に花を添える間も続いた。目を閉じたままの子太郎を見てもよくわからなくて。棺の中にいる男の子は、子太郎なのかどうかすらも考えていた。





 そして、私がようやく子太郎の死を知ったのは、棺が燃やされようとした時。私の視界から消えていく棺に、感じたことのない膨大な恐怖を覚えた。




「こたろー! まって、こたろー!」




 返事が返ってこない。私と同じくらいの体温がない。子太郎の笑顔はない。次の夏は子太郎と虫捕りができない。蝉の声よりうるさい歌声も聞けない。




「いやだ! こたろーいかないで! おねがい! こたろー、おきて! 死んじゃうよ!!」




 もう子太郎は死んでるんだと、叫んでいる時には分かっていた。だけど、燃やされることで取り返しがつかなくなる。本当に死んじゃう。子太郎がいなくなっちゃう。こんなのなにかの間違いだ。と、そんな焦りに駆られていた。





「こたろー! こたろぉぉぉぉ!!」





 私はまたお母さんの両腕の中で、声を枯らして名前を呼び続けた。次第に鼻水や涙で顔がぐちゃぐちゃになっていったけど、どんなに苦しくても名前を呼び続けた。


 返事をしてほしかっただけだった。










 時は過ぎた。私が子太郎と虫捕りをした夏は子どもの頃の思い出になり、お葬式はいくつも経験する歳になった。


 子太郎のお墓参りに始めは毎週行ってたものの、毎月に変わり、年に一度の命日だけに変わり、そして数年に一度になった。


 思い出しているはずの子太郎の笑顔や歌声が、無意識のうちに塗り替えられた違うものになっていてもおかしくない。私は子太郎を置いて、そのくらい大人になってしまった。





 灼熱の太陽が道路と私の肌を焦がし、時折過ぎていく風はただの熱風である真夏の日。離れた木の上から降り注ぐ、煩くて堪らないはずの蝉の声。命日ではなく、こんな日に私は子太郎を思い出す。




「静かな夏だよ。ずっと」




 子太郎の声が聞けなくなった時から、私の夏は静かになってしまった。どんなに蝉の声がしていても、それは子太郎の声よりも煩くないって知ってしまっているから。




「子太郎」




 もう、どこにもいないことは分かっている。分かっているのに、大人になってもまだ、名前を呼んでしまう。どうしようもなく寂しくて、誰にも届かない私の声が苦しくて。地面に落ちた涙に、今年もまた、蓋をする。

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