切手

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 その日は僕と恵美の結婚記念日だった。

 僕は家の全ての部屋の窓を全開にした。小春日和が幸いして、寒さに震えるようなことはなかったが、近所の人たちの不思議そうな顔が多少気になった。「大掃除?」ときいてくれた人には、「そうです」とあかるく応えた。

 僕は近所でも職場でも「陽気な男」として通っている。五年前に亡くなった妻の恵美を知る人たちは、僕が明るく振る舞うことが彼女への供養になるのだと言うが、恵美の話が出た時に瞬間曇る僕の表情に彼らは気づいていない。

 本当の僕は決して陽気な人間ではない。実は、この五年間、僕は人に隠れて泣き暮らして来たのだ。僕は恵美を心から愛していた。恵美は僕のすべてだった。先生との約束がなかったら、僕は恵美が亡くなったその日のうちに自らの命を絶っていただろう。恵美のいない世界で、僕は生きていたくない。その気持ちは今でもかわらない。

 恵美は先生のひとり娘だった。母親を早くに亡くし、先生と二人暮らしをしていた。先生の研究室に僕が助手として入ったころ、恵美はまだ十八歳の高校生だった。美しく優しく陽気な彼女に、僕はたちまち魂を奪われた。

 恵美が告白してくれたのは彼女が二十歳の時だった。

「私、病気なの。たぶん、あと五年も生きられないわ。それでもいいなら、お嫁にもらってくれない?」

 恵美は屈託のない笑顔で言った。

「君の病気のことは知っている。結婚しよう」

 僕は即答した。


 先生の研究の実験結果を見届ける。それが十年前、先生と交わした約束だった。

 十年前、僕と恵美の結婚式の当日、僕はその約束をした。

「ありがとう」

 披露宴がお開きになり帰り支度をしている僕に、先生は頭を下げた。

「余命五年という娘の事情を知りながら、君は恵美と結婚してくれた。感謝する」

 ひとつ聴いておきたい。と先生は続けた。

「娘が亡くなった後、君はどうするつもりですか」

「その時に考えます。五年のうちに新しい治療法が見つかるかもしれませんし」

 僕は嘘をついた。五年以内に新しい治療法や新薬が開発される可能性はほとんどない。 

 恵美が亡くなったら彼女の後を追って死ぬ。僕はそう決めていた。

「そうか…」

 五秒ほどの沈黙を挟んで、先生は話をつづけた。

「君も知ってのとおり、今僕がやっている例の開発には、あと十年かかるのだよ。ところが、私は後十年どころか後一年も生きられないことがわかった。癌がみつかったんだ」

 先生は自分の研究を受け継いで欲しいと言った。

「いまから、実験を開始する。この実験が成功したら私の研究は完成する。成功したかどうかは十年後にわかる。君にはそれを見届けてほしい」

 先生は封筒から実験に使うプロトタイプを出し、結婚式場の窓を開けて、それを飛ばした。それは夕日に染まりながら、天に吸い込まれるように上昇し、遥か彼方に消えた。

 先生はその一年後に亡くなった。


 各部屋に設置したセンサーの一つが反応した。二階にある書斎のセンサーだ。僕は階段を駆け上がった。

「先生、成功しましたよ」

 僕はそう独り言ちながら、書斎の床の上に着陸した紙飛行機を回収した。

 僕はこの実験の結果を論文にまとめ、先生の名前で公開する。それを終えたら僕は恵美のところへ行くつもりだ。

 僕は翼に貼られた金色の切手を丁寧に剥がし、紙飛行機の機体をひろげた。折り目のついたA4の紙には、小さな字で先生からのメッセージが書いてあった。十年という時を経ても紙の劣化はまったくなく、インクの色も褪せていない。

「この手紙を君が読んでいるということは、実験が成功したということだね。君はこの研究を君の名前で公開するといい」

…いいえ、先生、あなたの名前で公開するつもりです。あなたの研究ですから。

「この技術が何の役に立つかはわからない。ただ、この技術が戦争や犯罪に利用されるとしたら、君は全力でそれを阻止して欲しい」

 先生が開発したのは、指定した日時、指定した場所に紙飛行機を着地させるという技術だった。金色の切手に秘密がある。紙飛行機を飛ばす人は、この切手に到着先の緯度と経度、そして到着日時を入力し、紙飛行機に貼る。切手を貼った紙飛行機は、到着先がどんなに遠くても、到着日時がどんなに未来でも、雨風を避けながら飛び続け、指定場所、指定日時に確実に到着するのだ。(今日中に地球の裏側に…は、さすがに無理だとおもう)

 先生はこの技術の悪用を懸念していた。例えば、生物兵器を沁み込ませた紙飛行機に先生の切手を貼って敵国に飛ばす。へたなミサイルより有効だ。コストパフォーマンスもいい。

「恵美の死後、君は恵美の後を追うつもりだね。わたしにはわかる。恵美はやさしい娘だ。そんなことは絶対に望まない。だから私は、君に十年後の実験結果を見届けるよう約束させる。実はすでに私の研究は完成している。切手に全ての研究データを記録しておいたから確認して欲しい」

 先生は僕を死なせまいとしてこの実験をしたのだ。僕の決心は揺らいだ。

「君は死んではいけない。これは恵美の望みでもある」

 敬愛する婿殿へ、という言葉で先生からのメッセージは終わっていた。

 先生のサインの下に追伸があった。懐かしい筆跡だ。

「父の変な実験に私も便乗することにしたわ。さっき、到着日を二十年後に設定した紙飛行機を飛ばしたの。手紙の内容は秘密よ。絶対に読んでね。あなたを愛しています。恵美」

 少なくとも後十年、僕は引っ越しもできず、死ぬこともできないってわけだ。

 僕は窓の外を見て小さく笑った。

                                        

                                   (了)

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