第3話 すれ違い③放課後、そして午前1時迄

 放課後、琴音は急いで家に向かっていた。今日は演劇部のオンライン練習があるというのに、クラスのホームルームが長引いて、学校を出るのが遅くなった。早足で歩きながら琴音は今日の久原先生との会話を思い返していた。

 今日、職員室の前の廊下で、演劇部顧問の久原先生に偶然会った。それで、朝のカオルのアドバイスを思い出して言った。


「先生、山田友加里先輩はまだ退院しないんですか? 私、今度お見舞いに行きたいんですけど」


「ああ、山田の事か」と先生は少し苦い顔になった。「私も定期的に病院に行ってるが、お母さんと話す位でね。一時、とても回復したんだけど、それからまたICUに入ったりでなかなか本人には会えないんだよ」


「え……? そうなんですか」


「そうなんだ。山田は三年だから本当はもう演劇部引退の時期なんだけど、本人もあと一回位脇役でも舞台に立ちたいって言ってたんだ。それなのにな。まあ、いずれにせよ今年は、演劇祭自体中止だしな。山田がもっと回復して話せるようになったら病院に行く時、矢井を誘うよ」


「お願いします」


「大丈夫。山田の事だ。きっと良くなるよ」



*************



 琴音の心には、大丈夫という久原先生の言葉がお守りのように感じられた。

 その時、いつものバス通りに向かう道で、かすかな「みう」という声が聞こえた。見回しても誰もいない。行き過ぎようとすると、また、今度はもっと大きな「みう」という声がする。


「動物?」

見回すと、右の用水路の向こうの塀に仔猫がいた。大きな木の陰になっていて、さっきは気付かなかった。仔猫はきっと木伝いにそこまで行って、下に降りられなくなったんだろう。小さな身体を震わせている。

 琴音には、生命の危機を感じて震えているその仔猫に友加里先輩が重なって見えた。


「だいじょうぶ。助けに行くから、そこで待ってるのよ」


 仔猫は琴音の方を見ながらもう一度「みうみう」と救いを求めるように鳴いた。



***************



 琴音は胸に仔猫を抱いていた。そこは駅のホーム。

「結局オマエは私と帰る事になったね。名前はミウでいい?」

「みう」と仔猫は答えた。

 冬のホームは、空気が凍えるように冷たかった。もう星がまばらに暗い空に散りばめられている。

 やがて列車が到着し、琴音は仔猫を抱き締めたまま乗った。ふかふかの座席に座ると、さっきまでの寒さが嘘のようだ。身体がほんのり温かくなった。

 列車が走り出すと、車窓の風景が流れていく。所々に明かりの灯る田舎町に夜が近付いていた。 

 列車の中に乗客の姿はほとんどない。前の方の座席に居眠りをしているおばあさんの姿が見える。あとはうずくまって考え事をしている中年の会社員。 

 今日のオンライン練習はもう無理だと琴音は諦めていた。謝りの連絡を入れなくちゃとスマートフォンを取り出すも圏外だ。琴音は心細くなってきた。

「ミウ、オマエがいてくれて良かったよ。帰ったらミルクをたっぷり飲ませてあげるからね」

仔猫は琴音の膝で心地良さそうに眼を閉じている。



 琴音の家では、猫を飼うのに初めは反対されるだろうけど、一生懸命頼めばきっと許してもらえる。琴音に甘いパパがまず折れるだろう。ママも仕方なしにオーケーするだろう。仔猫がいる生活は、どんなにほっこりする毎日だろう。犬みたいに散歩は出来ないけど、一緒に公園で遊んだり、炬燵こたつに入ったり、家族が増えたようで、考えただけで楽しい。

 トンネルをいくつか過ぎ、もう圏外ではなくなったかなと思ってスマートフォンを取り出すとやはり圏外。そして驚いた事に時刻は12時42分になっている。家では家族が心配している事だろう。



 いや、もう琴音には分かっていた。この列車の行く先が。大体、琴音はバス通学のはずだ。

 シンシンと雪が降るような心の底に微かに残る、どこか高い所から落ちた鈍い痛みの記憶と車の急ブレーキの音を聞いた記憶。もうこの列車に乗った自分とミウは短い生涯を終えるんだ。

 こんな平凡な自分にまさかこんな役が来るなんて信じられなかった。こんなにいきなり降りかかると思わなかった人生の最期が不思議だった。家にある読みかけの本を思い出した。図書館でいつか読みたいと思っていた本の事も。もっと読んでおけば良かった。妹がいつか欲しがっていたかわいい消しゴ厶。琴音は使う予定がないのに、「これ、ちょうだい」とねだられた時、ダメと断ったっけ。あの時あげておけば良かった。

 いつかの友加里の言葉が思い出された。

――もし今、人生終わりってなった時、人生でこれやったんだよっていうのが、頭の中に本の目次みたいに大きな文字で出てくるんじゃないかって……――


 自分にはどんな言葉が出て来るだろう?「矢井家の長女で生まれました」がある。そうだ、去年の初めに、演劇部でやった舞台の事。「『冬物語』で木の精を演じました」がある。そして「ある夕方、仔猫を助けようとしました」かな。平凡な自分が社会に及ぼした事ってその位。いや、まだあるかな。


 その時どこからか汽笛が聞こえた気がした。そして隣の線路のはるか先に光を見た。隣の線路上を向こうから走って来る列車の音。遠く微かに。自分が今から向かうのが死の世界なら、あれはきっと逆だと思った。窓から光のあふれる列車が近付き、琴音の乗っている列車とすれ違う時、向こうの列車の窓に友加里先輩の顔が見えた。向こうも気が付いて、琴音の方を見て驚いている。二人は顔を見合わせ、お互いに何か言おうとしたけど言葉にならない。お互い見つめ合ったまま、すれ違った。時計を見ると、ちょうど1時だった。


――先輩は助かったんだ! 良かった。先輩のエポニーヌ、舞台で見たかったな。いや、違う。一緒に舞台に立ちたかったんだ、私も……――


 もし今、この線路を引き返す事ができたなら、たとえ小さな役でも舞台の上に立って精一杯やろうと思った。

 琴音は通り過ぎた列車の灯りを、ずっと窓の外を振り返って見ていた。その輝きが小さくなって、やがて消えて見えなくなるまで。



〈終わり〉

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12時発、1時着。/3つの心の旅【第3話】すれ違い 秋色 @autumn-hue

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