カイとエックス

押田桧凪

χ and X

 防災行政無線パンザマストから早急な避難を促すアナウンスが流れはじめ、行き交う人々は混乱の渦に巻き込まれた。アーともウーともつかないような高音。けたたましい蝉の鳴き声を思わせるサイレンが街中に広がり右往左往、逃げまどう。


 これで四回目。以前までの予行演習は奇跡的に死者が出なかったものの、民衆の中のリーダー、指揮系統が自発的な声かけを行い、協力態勢をつくらない限り、いつ怪我人が出てもおかしくはない状況だ。日常と非日常の混在。


 怪獣はやってくる。



 ❖



 災害時、人は大きな決断を迫られる。命の選択、選別。トロッコ問題、カルネアデスの板、臓器くじ……。倫理テストでは済まされない、万が一の事態を想定したシミュレーションを行うために人間が作り出した「舞台装置」を、人は怪獣と呼んだ。


 怪獣のコアユニット──人間でいうところの中枢神経系にあたる制御装置のリミッターは設計時に意図的に解除されており、ネジの外れた機械、「暴走マシン」と呼ぶには申し分なかった。


 耕作放棄地が問題となっている国指定の過疎地域に怪獣の動力プラントは作られ、全長50フィート自律駆動(二足歩行)ロボットは地元の町工場・企業の協力を得て、内閣府地域防災拠点施設整備モデル事業補助金によって製造された。また、演習地の半径20km外には耐圧隔壁(防音・耐震カバー有)を建設し、安全管理においては万全の態勢が敷かれた。


 箱庭の戦場。それは生ぬるい「訓練」とは全く異なる。耐圧隔壁で囲まれた安全圏まで避難できなければ、フィールド内の怪獣に踏み潰されて人は死ぬ。人為的に暴走させた怪獣は町を壊す。平和ボケした市民に善と悪を問い直すいい機会だと、どこかのお偉方は言った。


 そのような、対災害用監視指導型ロボット・Kaiju はプロジェクト当初、多くの国民から非難されたが、郊外を中心に都市圏周辺で実践導入が開始されるとすぐに、地震大国「日本」の画期的政策として世界から注目されたこともあってか、誰も反対の声を上げることができなくなっていた。


 生存バイアスの排除。いかに災害が危険で、生き残ることが重要であり、どれほど私たちの生活が恵まれているのかを知るには、Kaijuプロジェクトは効果覿面だった。だが当然、国としても人命を奪うという最大のリスクは避けたいようで、近隣県市の消防団、警察、自衛隊を怪獣災害時に派遣し、逃げ遅れた人の安全確保に務めるよう対策を取っていた。



 ❖



PM2:17(地震発生1時間前)

管制センター


「はい、こちら緊急相談サービスです」


 落ち着きはらった声をつくり、溜息を押し殺す。大体、なんで私がこんなことを。


 倒壊した家屋からの人命救助といった力仕事は無理だと上から判断されたのか、新人刑事である初瀬 芙莉奈ふりなは、先週からコールセンターの担当を任されていた。仕事とはいっても、怪獣災害の非常窓口として開設されたフリーダイヤルであるため、緊急時以外は一人暮らしのお年寄りの話し相手か子どものイタズラ電話対応に追われている。


「ええとねぇ、そいで。あのこはいなくなったのよ。ちょっとした拍子でえな」


 またか。録音テープを電話の向こうで流してるんじゃないのかと思ってしまうぐらい何度も聞いた、常連と言っても過言ではお婆さんの嗄れた声が響く。顔も名前も知らないが、こうも毎日電話が掛かってくると自然と親近感が湧いてしまうのは何故だろうか。私は半ば呆れながらも、心の中でどこか楽しみにしている自分に気づく。


「どうかしましたか、おばあちゃん。私ですよ、私。それ、昨日も一昨日も聞きましたからね」


「へえ、そうじゃったけえな。ま、そんなのはいいんの。あのこは、方角が分かるさかいね、きっと自分で歩いて帰ってきてくれるちゅうて信じとうとよ」


 先日からあのこ、あのこと繰り返し言っているが、肝心な中身──何を指すのかについては未だ分かっていないが、おそらく、昔飼っていたペットの話をしているのだろうと勝手に想像しながら適当に相槌を打つ。そして最後は、「おばあちゃん、大変でしょうけど私も忙しいので。そろそろ次の人が待ってるからね」と特に何か予定がある訳でもないが、切ってもらうように促す流れがお決まりだった。


 たしか、今日は四回目の予行演習だったなと私は思い返す。耐圧隔壁まで避難した後も、町の避難所は人でごった返し、色々な混乱を招くことが予想される。そのための、緊急相談サービス。夕方にはコールセンターは着信で溢れかえることになるだろう。



 ❖



エリア B18(旧安波市)35°09'36.1"N 139°08'03.5"E 

PM3:23 


 どこだ、どこにいる。隊員専用無線では大人12名、小人7名の安全を確保し、退避フィールドへ──耐圧隔壁の外へ連れ戻すよう上から指示を受けていた。が、持ち場に来てみても人っ子ひとり居ない。


 そして、その次の瞬間、風が変わった。頬がぴくりと反応する。勘でしかないが、それを肌で感じた。怪獣のせいだろう、と俺は安易に考える。地面が揺れる。特注の装甲でできた黒褐色の胴体。不揃いな牙、尖った爪。目玉もちゃんとついており、宇宙に生息してそうな爬虫類を思わせる見た目だ。真っすぐに近づいてくる巨体、目測でその距離を把握して、次の怪獣の行動を予測する。右、左、左。左、左。次は右足。足で次々と住宅をなぎ倒し、建造物破壊手順はプログラム通りに思えた。


 電柱は不可解な方向に折れ、それと共に絡みついた街路樹が一斉になぎ倒された。前触れもなく、波打つ大地。

 おかしいな、怪獣が踏み鳴らして起こる縦揺れと、もう一つの──横揺れ。掌に嫌な汗がにじむ。剝がしきれずに残ったシールのベタベタした、あの感触。

 また、揺れた。全長195フィートの怪獣でさえも前脚のバランスを崩し、転倒しかける。自分の震動で倒れそうになったのではない。そしてようやく気付く。

 これは、本当の地震だと。


 逃げなければ、俺もやられる。本能的にそう察し、動こうとするが、地面を蹴る力が緩みそうになる。ある程度の傾斜がついていて、少し力を抜くとずるずると引き摺られていくような感覚だった。予兆なき重量と、揺れ。振り返ると、怪獣の踏みしめる一瞬一瞬の動きで、易々と削り取られていく町並みがスローモーションのように見えた。地響きと振動に足元を掬われ、俺は派手に尻餅をつく。受け身を取ると、尖った砂利石に乗り上がる。うっ。手がずきずきと痛みを主張し、赤い血が滲んでいた。


「そこのおじさん! こっち、こっち!」


 5メートルほど手前で、手招きするように両手を振り上げる姿があった。

 ──どこから現れた?

 周りは瓦礫やら傾いた電柱、壊れた自動販売機、冠水した道路やらに囲まれ、まるで嵐の海のど真ん中に小舟で放り出された中。突然、右も左も分からない様子で底抜けの明るさを放つ少女が、そこに仁王立ちしていた。


 愕然とし、状況を飲み込めないでいるうちに、ガソリンスタンドのオーライオーライ気分で少女は俺の手を素早く引いていく。その手を俺はやんわりと振りほどき、少女のあとを少し遅れながら歩くことにした。

 響き渡る咆哮。あちこちで火の手が上がり、風呂上がりのような茹だった熱気が襲いかかる。ああ、防護服でよかった、と心からそう思った。一方、彼女のほうは機動性はバッチリのようだが──真っ白なワンピースに身を包み、ひょいひょいと今にも崩れそうな岩場をケンケンパ感覚で踏み進めていく。そうやって、少女に手を引かれ俺が連れてこられたのは、薄暗い洞のような場所だった。



 ❖



エリア B18(旧安波市)35°09'44.6"N 139°07'56.7"E

PM3:37


 奥には明かりが灯っている。身を屈めながら、暗闇を通り抜けると、大きな荷物を担いでいるような人影、身を寄せ合う人びとが、常夜灯に近い明るさを放つアルコールランプにぼんやりと照らされた。

 ガサガサとダウンジャケットやコート類を擦り合わせる音が聞こえ、携帯の光をかざすと身を寄せ合わせるように静かにうずくまる大人と子供が何人も居た。視線が一斉にこちらに集まる。灰色の非常持出袋と書かれた家庭用防災キットとは別に、準備よろしくレトルトの玄米ご飯やインスタントラーメン、携帯用ガスコンロがそばに置いてあった。

 チ、チ、と音を立ててコンロを持ってきた親子が袋麺で簡易な調理を行っている。うす暗い中、明かりを頼りに指で数えると、どうやら、無線で報告された人数で間違いは無さそうだ。


「君が彼らを先導し、避難させたのか」


「そうだよ」

 少女はふふんと人差し指を唇に当て、天然の、石でできた小さなスツールに腰掛けた。それにならって、俺はそこら辺の平らな岩に所在なく腰を下ろす。


「さっきは、ありがとう。名前は、なんて」


「わからない。それが、思い出せなくて。でも数字だけは分かるんだよね」

 微かに緊張の感じ取れる声だった。怪獣の登場に錯乱しているのか要領を得ない返事だった。


 数字。それは当然だろう。見たところ、少女の年齢は十一、二程度。小学校高学年程であるから少なくとも少数の計算、分数について知っていてもおかしくはない頃だ。が、思い出せないということは、先の衝撃で記憶が飛んだか、あるいは記憶喪失。その単語がすぐに頭に浮かんだが、それにしては後ろめたいものを背負った様子ではなく、表情に翳りがない。乖離性遁走のようなものだとしても、それは心理的・環境的な要因によって生じる可能性が高い。心理学に詳しい同僚の伊佐山からそう聞いたことがあった。


「今いるのはね、さんごきゅうよんよんろく。ななごろくなな流れてくるんだよね、数字が頭の中に」


「ん? それは電話番号かなにか?」


 ううん、ちがうよ、と少女は首を振る。

「たぶん、私たちがいま居る場所のこと」

 きょとんとしたような表情を浮かべ、いとも容易いことのように答える。その反応があまりに率直で俺は少々面食らった。


 いま、居る場所の数字? まさか、座標位置のことを指してるのか? 

 すぐに携帯を取り出し、現在位置を確認すると、先程の少女の数字の羅列と完全に一致していた。


 ちなみに、怪獣災害アプリのレーダーでは危険区域レベル3 ──黄色の網掛けで塗りつぶされているエリアを示している。地図上では、もともとこのあたりは山だった筈だ。花崗岩地帯。地質的には風化・浸食に弱いことからも、土石流、傾斜地崩壊が考えられるが、ここは果たして大丈夫だろうか。いや。それにしても、なぜ座標が分かるんだ。悶々と思考していると、少女はゆっくりと口を開いた。


「そうだ、この場所。あの子がたくさん壊しちゃったからさー、落とし穴みたいな感じでできた地面のくぼみなんだ。洞窟みたいで、いいよね?」


 終始奔放な調子で、状況をうまく把握していないのか。いや、それはないだろうが、何かのアトラクションを楽しんでいるようにも聞こえる。あの子──Kaijuプロジェクトについて知らない様子だ。


「あの子。今、君が、というか俺たちが逃げているのは、あの大型怪獣だ」


「あー、それなら知ってるけどさ。なんか、おかしくない?」

 素っ気ない口調で、訝るような声を発した。

「なにが?」

「なーんか怪しいんだよね。だってさ、怪獣さんが毎回壊してる場所、大体空き家なんだよね」

 気取った涼しい答え方。傍のランタンに照らされて浮かび上がる彼女の顔は、現実感をそぎ落としたような白さを纏っていた。

「おい何を言って……。それは、まさか誰かが仕組んでるって言いたいのか」


 恐る恐る声を投げかけると、少女は目尻が切れ上がった鋭い目をぱちぱちさせて、さも賢げに話を続けた。前髪を右指でいじって整えながら。

「えっと。私がおもうにー、財政フタンみたいなのを減らそうと、怪獣さんに地ならしのお手伝いをさせてるようにしかおもえなくって」


 そんなことはないだろ。有り得ない。防災意識の向上という名目で、秘密裏に政府が動くことなど……。俺には到底考えられなかった。だが、確かにそう言われてみれば何か別の意図があるように思えなくもなかった。今日のKaijuプロジェクトの設定震度も4、首都直下地震を想定している。まさか、本物の地震と怪獣の出現が一致するとはな。

 もし仮にそうだとすると、俺たち派遣隊員は便利な手駒だと思われてるのだろうか。それが、おかみのやり方か?


「おじさん、怖い顔してる。ねぇ、まあそんなことはどうでもよくてさ」

「どうでもよくない。それに、君の名前もよく分からないままだ」


「うーん。じゃあさ、おじさん。たとえば、数字だったら何も無いものをゼロとするけどさ、何か分からないものを表す時って何て言うの?」

 少女は腰掛けた足を軽く振り動かしながら、訊いた。

「エックスと置く」

「ふうん、エックスねぇ。じゃあ私のこと、エックスって呼んでいいよ」

 肩肘をつき、少女は口元に嘲るような笑みを浮かべた。



 とりあえず、状況を報告しようと同僚の初瀬、伊佐山にメールを入れようとした。が、携帯電話のアンテナが一本しか立っていないことに気づき、俺は文字を打つ手を止めた。位置的には山の中だからだろう。

「あ、電波わるいよね、ここ。ちょっと貸してね」

 そう言って、少女は俺の手からするりと携帯を取ると、左手に持ち替えて左右に振った。はい。渡された携帯を見ると、驚くことに──テレビショッピングの宣伝のようではあるが、驚くことに、アンテナが二本増えていた。

 デジタルネイティブ世代はこんなにも機器の扱いに慣れているものだろうかと感心したが、多分違う。普通、通信状況はこんなに簡単に直せるもんじゃないだろう。まあいい。ひとまず、メールの受信ボックスを開く。


<身元不明の少女、確認。それと何名かの住民の安全も確保。なんでも方角・座標が分かるとか?>


 送信した直後。「なんだいそりゃ。知らねえよ」と伊佐山からは素っ気ない返信があったが、初瀬の方は「まさに私、知ってる。犬じゃないんだ」と何かを知っているような返信が返ってきた。早急に初瀬に電話を掛けると、コール音3回で相手は出た。


「初瀬、なにか知ってんのか?」

「あー、まあね。どっかのおばあちゃんが探してるとかって言ってたから、その子の話と一致したなあと思って」

「お前、どっかの有名な大学教授と知り合いだったよな?」

「え、ちょっと。話とばさないでよ。それに、私をコールセンターおつなぎ係だと勝手に思わないでくれます?」

 どうやら、俺がことを急いたがためにお怒りのようだ。

「すまない。急用で知りたいことがあってな。だが、その他人行儀なところが抜けてないのもいい」

 うっ、と照れたのか一瞬気づまりするような沈黙があった後、スピーカーの奥ではあと深く溜息を吐く音が聞こえた。

「はいはい、分かりましたよ、どうせ私は女性オペレーター。中間管理職、介護スタッフの足しにしか思───」と言い終わらないうちに、プツンと音が切れ、小さな電子音の後で相手が切り替わった。


「はい、菱川ですが」

 冷たいほどに、穏やかで澄んだ声だった。しかし、研究者とはこういう真面目な感じか、という期待はすぐに裏切られることになる。


「長岡といいます。初瀬からはよく話を聞いていまして。生物進化に詳しい専門家、であってますかね?」


「ええ、そうですけども」

 はやる気持ちが次第に高まり、小走りで駆け出すようにして質問に移る。

「早急に訊きます。人間は方角やその座標を知ることはできますか? 体内時計のような感じで」


「うーん。ときたま、ね。本当にときたま、あるんだよねえ。あっ溶き卵じゃくてね」

 キヒキヒ、と教授は気味の悪い笑い声を漏らしながら、自分で言って自分で笑った。それから、ごほと軽くせき込んで残った気力を全て振り絞るかのように掠れた声で続けた。

「気味が悪くてごめんね。黄身だけに──。まぁそれは置いといて。生物はマグネトソームと呼ばれる生体磁石によって、地球の磁場を感知する能力があると言われていてね」

「リボソームみたいな」

「そうそう。がちゃがちゃ! 隊長、装填しましたっ。いや、それはリボルバー。コホン。例えば、牛は北か南を向いて牧草を食べたり、シカは北か南を向いて眠ったり。キツネは獲物に襲い掛かる時は北東から襲う……といったように、行動と方角が本能的に紐づけられている種はいくつかある。動物の方向感知能力はマグネトソームが原因だと考えれていてね。進化によっては、人間も方角を知ることができるようになってもおかしくはないだろうね。いわゆる、適応というやつだ」

「なるほど」

 途中、内容が入ってこなかったが、とりあえず偉い人であることは間違いないだろうから丁寧に頷いておく。

「だけどまぁ、なんでも機械化した今では現在位置・方角を知る必要性は皆無だし、第一、狩猟民族でもなんでも無いからね。大体の人間は退化してしまっているだろうけど」


 生体磁石。先程、披露した電波回復術もそれによるものなのだろうか。どう考えても、この洞穴は電波が遮蔽されてる筈なんだが、電子機器をも操作できてしまうだろうか。

 そして、その力。力とはいえそれは人間の本能に近いものだろう。これも同僚の伊佐山から聞いた話だが、たとえば、台風常襲地帯の海岸に近い病院では台風が近づくと警戒態勢をとるそうだ。心臓機能が低下している患者が極端な低気圧の影響で容態が悪化するらしい。それと同様に、一種の体の反応のようなものだろうか。人間も含め動物は磁気の影響を受けるというのは──。


「すみません、お忙しいところありがとうございました」

 電話を切ると、少女は膝の上で手をぎゅっと握りこみ、それからすっくと立ち上がる。その視線は微動だにしなかった。

「ふぅ。これでおじさんも助けた訳だし、休憩も済んだし行くか。じゃ、おじさんは大人しくここで待っててね!」

 少女は背筋を伸ばし、軽やかな足取りで出口を目指し颯爽と駆け抜けていく。

「ちょ、おい!」そう、ここから脱出するにしても外は怪獣が行手を塞いでいる。 当然、俺は少女を一人で外に出しておくにはおけず、慌てて少女を追いかける。落ち着きはらった笑みを見せ、少女──エックスは、一目散に外へと飛び出していった。



 ❖



PM4:18

管制室兼第二展望室


 世界終末時計は残り100秒を指した。先日、立て続けに起こったトンガ沖噴火、日向灘地震。気象庁による緊急会見では明らかにされなかったが、近年の異常気象、連続して発生する自然災害は、その他諜報機関を始めとして調査が進められた結果、地磁気の逆転ポールシフトが原因だと証明された。


 ESA(欧州宇宙機関)の地球磁場観測データからも分かるように、過去200年間に20%、地球の磁場は弱まってきているのは明白だった。さらに、通常25万年周期で起こると考えられている地磁気の逆転が最後に起こったのは、78万年前であるとされ、地殻変動、超大型自然災害はいつ起こってもおかしくなかった。ポールシフトによる影響───地球の磁気バリアが弱められることで、電力供給は当然不可能、地球は一年中夏になり、最悪、地球が居住不可能になる可能性だってある。1970年以降、北磁極は毎年40km程度移動し続け、磁極反転へと向かう大きな変化が起こっている。世界の中の日本として、今、対策をとるべきことは──。

 怪獣と少女。

 この二体を引き合わせたら最後。これでポールシフトは抑えられる。危機管理担当大臣──黛 《まゆずみ》 一郎かずろうはそう信じていた。全てのプロジェクトは今、この瞬間のために存在する。後は、うまくあの子がやってくれれば……。

 管制室の中央に占める大画面モニターには、ゲルニカを思わせる黒々とした雲がたちまち空を覆い始める映像がうつし出された。



 日本全国の中で、地磁気の影響が最も大きい地域が演習候補地として選ばれ、表向きは防災の強化として、法案は可決し、Kaijuプロジェクトはスタートした。


「ポールシフトが明日、起きる。そんな雲をつかむような話、誰も信じないだろう。どんなに予測の精度が上がったとしても、少しずつ少しずつむしばんでいくように。日常化した危機感が現実に変わった時しか、人はそれを信じない」


 三年前、プロジェクト始動前。断固とした信念を表明する口調。非難するような強ばった声。憐れむような表情で溜息を吐きながら黛はそう言った。その場にいた政府高官らは虚をつかれ、咄嗟に表情が作れないでいた。それは異論をさしはさむ余地のない忠告だった。

 政府の中でも一部の人間にのみポールシフトの予測が知らされていた。


「そして今、万人に等しく言える程度に、その見事な実例を現実で見たような気がしないかね?」

 その目がわずかに大きくなったように見えた。黛は三年前の時のことを思い出し、懐かしさと寂しさが入り混じったような笑みを浮かべる。


「活動時間残り40分です。怪獣の外部燃料タンクは破損したようですが、どうしますか」

「かまわん、続けろ」


 ──きっと大丈夫だ、もう私の中で計画は出来上がっている。



 ❖



エリア B18(旧安波市)35°09'44.6"N 139°07'56.7"E

PM4:25


 すぐに、洞の穴の外──白い世界。不意に開けた視界が眼前に広がった。

 ゴー、ゴー。ドォン。心音を掻き乱す、あの怪獣の咆哮がまた耳の奥を満たし、異常までに偏執なノイズとなる。

 ──うるさい。

 一方、隣に立つ少女は快感を反芻するように目を細め、それから一つあくびを噛み殺した。


「ここから、怪獣まで100メートル位か。どうするつもりだ? エックス」

「うーん、じゃあ呼ぼっか?」

 取り立てて構える風もなくそう答えた。


「は?」

「あーこれはね、前、試したんだけど。私、怪獣さんと共鳴できるんだ」


 共鳴。それから、神聖な沈黙。俺はゴクリと固唾を飲んで、エックスの次の言葉を待った。

「さっきの電話聞いてたけどさ。私、なんとなく磁石かなって感じなのは自分でも分かってたんだ。で、ゴツゴツした怪獣さんとなら磁力で引き合うのかなあって思って、試したの」


「だから、多分倒せる。離れてみてて」


 それから、少女はパチンと大きな音を立てて手を合わせ、次の瞬間。それまで、びくともせずに、大地をのし歩く怪獣はぎゅううんと地面に吸い込まれるようにして、足元から崩れ落ち、転倒した。スタントマンが高層ビルか何かに突っ込んだ時に割れるガラス一面を思わせる爆音と、花火が爆ぜるような音が重なる。とにかく、うるさかった。そして、怪獣はまた立ち上がる。


「こっちだよー、怪獣さん! こっちこっち」


 おい、何を……。何を考えているんだ。エックスはしゃがみこんで、辺りに散らばっている砕けた小石たちを丁寧に拾い集める。まずいな。怪獣は音、光を発する対象物を優先的に破壊するセンサーを持っている。もしもの時は誘導灯を投げて時間を稼げるよう訓練を受けてはいるが、エックスを救出しながらだと逃げ遅れる可能性が高い。

「大丈夫、もう私の中で計画は出来上がってる」

 少女は小石を集め終えると、それから空中でぱっと手を離した。ひゅんともしゅんともつかない空を切る音と共に、石は規則正しく地面に落ちて、並んだ。地面に盤面が浮かび上がる。それはまさしく、チェスだった。


「私が白で、怪獣さんは黒ね!」


 そう言って、カチカチと音を立てながら二つの石を叩き合わせ始める。と同時に、十メートル手前で怪獣がぐるん、と尾を振り上げたかと思うと、一歩足を退いた。


「よしよぉーし。お行儀よく、ね。まず初めに、わたしはナイトをF3にっと」


 だから一体、何を。そう思ったとき、今度は少女が怪獣を物理的に、ねじ伏せた。そう見えた。

 おかしかった。そんな、百均に売っているようなマグネット盤のチェスをイメージした何かで怪獣──たしかに磁気を帯びた金属体であるが──に敵うはずがないと直感で思っていた。俺は怪獣の設計を任され、アルゴリズム解析にも協力した。そういう寸法になっている筈だった。が、彼女のやり方は存外に効果的なようだ。

 斥力の影響か、態勢を崩した怪獣は唖然としたように火炎放射器を内蔵した口を開けて、すてんと転んだ。それがサイレントだったならまだ滑稽なシーンに思えたが、激しい悲愴感を告げる轟音とともに炎が撒き散らされ、地上の足場は灰燼に化した。全身に太陽の光が沁みこんでいくような、かあっとした熱気が押し寄せる。くすぐるような熱が泳ぎ回る。ドォン、と辞書くらいの厚さの本を高所から落とした時の、何百倍もの音が耳に張り付いて、離れなかった。


 そして、数分後、あたかも少女の剣幕に圧倒されたかのように、きゅうんと鳴き止み、怪獣は肉塊となった。その様はモルモットのような小動物の死の間際を連想させた。さっきまで、射すくめるような強い視線を放っていた、怪獣のカーネリアンに近い瞳は、瞳孔が開き、目から焦点が失われていた。


 普通なら。普通の人間、たとえ、特殊な力を持っているスーパーヒーローや、まさしく今の彼女のような人間だって。怪獣を前にすればきっと狼狽え、立ち往生するだろう。怪獣だけじゃない。あらゆる猛威──自然現象、不可解で正体の掴めないものや不公平、壮大なたくらみに呑み込まれそうになった時、人はくずおれそうになる。

 だからこそ、なぜこんなにも彼女が強いのか、俺には分からなかった。

 鼻からふっと息がもれる。

「またしても、ありがとう」

 なにが、というには主語がまとまらなかった。簡単に言えば、怪獣を止め、そして俺も含めて、逃げ遅れた人を救ったこと。感激のせいなのか俺は上擦ったような声しか出せなかった。

「俺は──」

 なにもできなかったから。

 その言葉を制するように首を振り、いいのいいのと安請け合いのように頷いた。「これが私の役目だから。あとは避難の誘導、よろしくね」

 そう言って背中を向け、少女──エックスは倒壊した住宅地の方へ一度も振り返ることなく、迷いない足取りで歩き始めた。その声には揺るぎがなく、強い力が込められていた。エックスはワンピースの右ポケットから子供ケータイらしきものを取り出し、耳に当てる。ストラップには、トカゲのようなぬいぐるみが付いていた。



 それでもまだ、俺の胸の奥には薄いもやがかかっていた。彼女はどうやって磁石を操っているのか。なぜ、ここに現れたのか。そして、生体磁石の能力もさることながら、最も気になっていたのが、彼女は磁気単極子モノポールなのか、ということだった。いや、そんなものはこの世界に存在するはずがない──磁石はN極とS極でひとセット。切ってもきれない関係にあるのだから、彼女が、エックスがNとSのどちらかを有していることは絶対にない。だが、怪獣と引き合い、そしてはね返す力を有するとしたら、彼女の体の中で生体磁石は反転していることになる。いや、逆か? もし地磁気の方が反転しているとしたら……。いや、そんなことはないだろう。



 ❖



エリア B23(旧天上市)

PM4:47


「おとーさん、終わったよ」

乱れた呼吸を整えながら、自信ありげな表情でエックスは言った。


「そうかそうか、よかった……って、のお、のお。ノー! 外ではお父さんではなく」

「え、だってお父さんじゃん」

 エックスはややむきになった口調で大きく頬の筋肉を動かし、はあと大きな息の塊を吐き出す。


「まぁ、いい。大臣と言われるよりはマシかのぉ。で、声の録音テープは?」

「それなら大丈夫。基地局の──さんに、──てもらったから」

「ん? 途切れて聞こえんが。まだ、影響が残ってるんじゃないかの? 磁場変えすぎたせいでなあ」


「そうかも。で、逆探知されたら困るでしょ? 初瀬おねーさんが受け取った電話の録音の送信場所が、怪獣対策本部から掛かってきてるって知ったらマズいじゃん。せっかく、私の存在を怪しまれないように手を回してもらってるのに」


 エックスはけろりとした顔で言ってのける。


「だから、ちゃんと基地局の人に頼んだよ。ねぇ、こういうのカクランって言うんでしょ? 私、すごくない?」

「なるほどな。フフ、さすがわしの娘。お礼をやらんとなぁ! 今度の二月三日の誕生日にプレゼントとあわせてプレゼントを渡すからのぉ」

 かかっと黛は豪快に笑った。


「ありがと! いや、ちょっとお父さん! さっきから思ったけど、まーだ、おばあちゃん喋りが抜けてないじゃん!」

 うんざりしたようにエックスは息を落とす。

「すまんすまん」

「それに、毎年節分の日だからって、私にいっつも正確な方角を聞いてくるくせに!」


「あ。でも私、大丈夫かな。色々、あのおじさんに見られちゃったけどさ」

「あぁ、それなら大丈夫。部下の伊佐山には、あいつに心理学云々を吹き込んでおくよう言っといたからな。まあ、それも相まって、なんも心配はいらんだろう」


「そっか、じゃあよかった。私の磁石を利用して、ずれ始めてた地球の磁石を戻してた、なんてまぁさすがに考えられないことだろうけど。怪獣さんについて、なんか勘づいてそうだったからさ。あと、私が勝手に携帯いじっちゃたし」


「まあたしかに長岡は頭がきれるからなぁ。機械音痴だけど」

 黛は少し考える間をおいて、苦笑を浮かべた。


 怪獣はあくまで陽動──災害時の避難体制を整えるための布石であり、大事な駒でもあった。怪獣が転倒したのは磁場のゆがみが原因であり、けしてエックスは怪獣を倒そうとした訳ではなかった。地磁気のずれを修正するための測定器としても、怪獣は利用された。


 確かに、逆探知で発信源が特定されてたら危なかった。あの子の芝居がかった奇行に、長岡は何かに気づいたのかもしれないが、まぁでも政府の陰謀だと話をすり替えられただけ成功だなと黛は思った。



 ❖



エリア B18(旧安波市)

PM5:15


 洞穴から全市民を避難させ終え、ひと息ついたところだった。

 さて、初瀬と伊佐山に彼女のことをなんて説明しようか。遠くのビルの残骸を眺めながら、俺は冗談交じりにそう思った。

 ───怪獣に育てられた少女。

 喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込み、天を仰ぐ。



 その空は、病的なまでに赤かった。

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