夜の街は案外明るい

橘田散真

眠る街に閉じた部屋

 街が寝静まったころ、1Kのぼろ部屋で明かりも付けずに羽田大翔はねだひろとは物思いにふけっていた。カーテンも閉め切っていたので、部屋の中を照らすのはスマートフォンの画面だけだった。人生には往々にしてうまくいかない時があると、大翔はひしひしと感じていた。


 一昨日。大翔は好きな女の子に振られた。正確に言えば、遠回しにあきらめてほしいと伝えられた。気持ちを伝えることすら許されず、鉛でも飲み込んだように重く陰鬱な感覚に飲み込まれてしまった。

 昨日。新しく始めたアルバイトで重大なミスをした。先輩たちが必死にフォローしてくれたが、大翔を見る冷めた目はごまかしきれない失望の色を湛えていた。

 今日。バレー部の仲間と勝とうと意気込んで臨んだ大会は大翔の不調が原因で負けた。泣きそうでぐちゃぐちゃな気持ちを必死で取り繕ってみても、自責の念が消えるわけでもない。仲間の励ましもいっそう惨めな気持ちにさせた。


「なにやってもうまくいかねえなあ」


 独り言ちた。

 大翔はここ最近の失敗について考えていた。誰にも相談せず、一人で抱え込んでしまうのは自分でも理解している悪癖だった。

 どうしてあの時ああしなかったんだろう、もっとこうしておけば、誰かを頼るべきだったんじゃないか、このままでいいのか。虫かごに捕らわれたコオロギのように、大翔の心は堂々巡りに閉じ込められていた。


(ばあちゃんからだ)


 先へ進まない思考に辟易してスマートフォンを眺めると、祖母から連絡が来ていた。どんなときでも大翔の味方でいてくれる優しい祖母は、もしかすると今一番会いたい人かもしれなかった。


「昨日送ったお野菜の下にカップ麺があるのには気がついたかい?」

「忙しいときはそういうものでも良いと思うよ」

「一人暮らしで辛いこともあるだろうけど、あたしはいつも応援してますからね」


 優しい祖母の言葉は、大翔の心を少しだけ落ち着かせてくれた。


(カップ麺、緑のたぬきのことだな)


 羽田家では大晦日に緑のたぬきを食べるのが習わしである。

 一人っ子で音楽に興味が持てない大翔は、両親がリビングで歌謡番組を見ている間、祖母の部屋でこたつで暖まりながら本を読むのがお決まりになっていた。年の変わり目を感じようかという頃になると、祖母が緑のたぬきを用意してくれるので、一緒に食べながら一年を振り返ったり、新年の抱負を考えたりする。

 緑のたぬきを食べるたびに、大翔は祖母と過ごす大晦日を思い出すのだった。


 大翔はいつの間にか小腹が空いていたことに気付き、緑のたぬきを食べることにした。

 料理をする気が起きなかったというのもあるが、少しでも他人を感じていたいと思ったのかもしれない。


 軋む椅子から腰をあげ、散らかったものを踏まないように気を付けながら蛍光灯をつけ、棚から湯沸かしポットを出し、水を入れて、コンセントに指して、粉末スープを麺の上に空け、沸き立ったお湯を注いで三分待つ。

 天ぷらは先に入れる。大翔は後から入れて食べるのが好きだったが、祖母の真似をして先に入れていたらそちらの方が好きになっていた。


 目的もなく短文投稿サイトを開いて、上にスワイプしていると、タイマーが三分を知らせてくれた。

 蓋を開けると熱い雲のような湯気が顔を包んだ。

 祖母と一緒に麺にふうふうと息を吹きかけ冷ました、あたたかな団らんを思い出しながら、七味をかけ、麺をすする。


 麺をすすりながら、祖母ならば自分になんと語るだろうかと考えた。何をやってもうまくいかなくて、空回りしている大翔に。

 しばらく考えているうちに、大翔は一昨年の大晦日を思い出した。


 ―――センター試験を目前に控えた大翔は、その年は自分の部屋で勉強していた。

 思うように成績が伸びない焦り、演習で解けていた問題が模試だと解けない自分に対する苛立ち。そんな思いを抱えながら部屋に閉じこもっていた。

 数学の演習問題を一通り解き終え、英語に取り掛かろうとしたとき。祖母が大翔の部屋の戸を叩いた


「お勉強お疲れ様。緑のたぬきそろそろ食べましょう」


「ごめん、今年は勉強する時間が惜しいから後で食べる」


「あなた、今日はもうずっと勉強しているでしょう。そろそろ休まないとおばあちゃん心配なのよ。私を助けると思って一緒に食べましょう?」


「分かった、ちょっと待ってて」


 勉強に疲れ切っているのは数学の演習の結果を見れば明らかで、祖母を助けるという免罪符があれば休憩をするのも悪くないと思ったので、大翔は開きかけていた英単語帳を本棚に戻し、伸びをしながら祖母の部屋に向かった。


 部屋に入ると、いつものこたつに二つ、緑のたぬき。ちょうどお湯を入れてから三分たったようで、祖母は二つとも蓋をはがしていた。中を覗くと天ぷらも先に入れてくれたようだ。

 こたつに入ると心地よい暖かさに心が落ち着く。

 張りつめていた心から漏れ出すように、大翔は不安を口に出していた。


「ばあちゃん、俺第一志望だめかもしれん。もうぜんぜんだめ、変なミスは多いし、練習問題だとできたことも模試になると解けんかったりする。どうすればいいのかな、俺」


 祖母はにっこりと、いつもの笑顔で幸吉を見て優しく語り始めた


「大翔くん。あなたはいつだって真っすぐで、それでいて進み続けられる強さを持っていて、どれだけ苦しんでも目標まで足を止めたことはなかったでしょう。だから今、足を止められたっていうことはすごく良い経験になると思うわ。立ち止まらなきゃ気づけない景色もある。ありきたりだけれど、そのことに気付ける良い経験、そう思うわ」


「でも、止まっていたら追い抜かれちゃうよ?」


「立ち止まって、景色を楽しんだ後は、もう進むだけよ。あなたらしく真っすぐに進めば、きっと誰よりも早く進めるわ。それに、景色の中には近道が見えるかもしれないのよ」


 祖母の言葉は焦燥に駆られた心に優しく染みわたり、大翔は久方ぶりの団らんを楽しむことができた。


 その後、大翔は祖母の言葉を思い出しながら勉強を続け、今通っている大学に無事合格することができたのだ。―――


 器が空になる頃には、大翔は祖母の言葉に再び救われた自分に気付いた。

 心なしか散らかった部屋が色鮮やかに見えた。


「空回りして、前に進めている気がしなくて、どうしようもなく自分を否定したくなるけど、今はきっと景色を見る時間なのかもな。景色を楽しんで、一息ついたらまた進めばいいか」


 大翔は自分自身に言い聞かせるように独り言ち、立ち上がり、カーテンを開けた。

 窓の外の眠る街は大翔が思っていたほど暗くはなかった、街灯が照らし、空には満月が浮かんでいた。


「月が綺麗ですね」


 届かないと知りつつも、窓を開け、コオロギは鳴いた。


 虫かごに重しはなかった。

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夜の街は案外明るい 橘田散真 @tm5657

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