3年と3分後。

糸四季

美味しさは成長の尺度


 ある土曜の正午過ぎ。

 相談の結果、昼食は簡単なのに美味しくて、私たちふたりとも好きなものになった。

 まずは、テーブルにパントリーから取り出した緑のたぬきを二つ用意する。

 ビニール包装をビリッと破くのは、3歳になったばかりの娘のお仕事。綺麗に剥けた緑のたぬきにご満悦な娘の横で、床に投げ捨てられたビニールの残骸をゴミ箱に持っていくのは、母である私のお仕事だ。

 続いて、蓋を剥がすのはそれぞれのお仕事。ここまで開ける、という線にピタリと合わせるために、娘は慎重に慎重に剥がしていく。

 特に誰かに言ったことはないけれど、私は緑のたぬきの蓋を剥がすときの、ぺりりという音と感触がわりと好きだ。


「はい、おかあさん」


 きっちり線まで蓋を開いた娘が、中から粉末スープの袋と、かやくの天ぷらを取り出す。小さな手からそれらを受け取り、粉末スープの袋を開き、娘に返した。

 袋を開くのが私のお仕事。粉末スープをカップの中に振りかけるのは、娘のお仕事だ。多少粉がテーブルに散るのはご愛敬。散った粉を、娘がこっそり指につけて舐めるのもご愛敬だ。


「天ぷらは?」

「天ぷらは、あとでのせるのがおいしいのよ」

「へぇ、そうなの」

「おかあさんが言ってたでしょ?」

「うーん? そうだっけ?」

「そうなのよ。おかあさんはわすれっぽいからぁ」


 小さいお母さんに言われ、ごめんなさいと私は笑う。

 普段私がよく実家の母に言っているセリフだった。3歳の娘は、私の話を本当によく聞いている。


 電気ケトルからお湯を注ぐのは私のお仕事。白い湯気の向こうで、わくわくした顔で待つのが娘のお仕事。

 緑のたぬきの蓋を戻して、箸をその上に乗せる。

 タイマーを3分にセットするのは私のお仕事で、


「わたしがスタートする!」


 タイマーのスタートボタンを押すのが娘のお仕事。

 まだ数字の読めない娘は、変化するタイマーの表示を覗きこみながら「あとなんぷん?」と聞いてくる。


「あと2分半」

「もうちょっと?」

「そうだね。もうちょっと」


 まだかなまだかな、と体を揺らす娘を眺めながら、3分待てるようになったのだなあとしみじみ思う。

 そういえば、娘が生まれたばかりの頃も、緑のたぬきを食べたことを思い出した。

 授乳とおむつ替えばかり繰り返していた産後。夜間の授乳で常に寝不足で、家事をする気にもならず、泣いてばかりの娘を抱え、ひとりきりの部屋でテレビをつけっぱなしにし、見るともなしに見ていた。

 やっと娘が昼寝をしてくれたので、ベビーベッドに寝かせて、さあ昼食をどうしようと考えた。たいして動いていないのに、授乳しているせいかやたらとお腹が空くのだ。わざわざ作りたくはないが、食べなければならない。それで手に取ったのが、緑のたぬきだった。

 たった3分で手軽にご飯が食べられる。しかも美味しく、温かい。後片付けも楽。これも大事。

 マルちゃんマークに感謝しながらお湯を注ぎ、ソファーでぐったりしながら3分待った。天ぷらを乗せて、さあ食べようというとき——。

 隣の部屋から、眠ったばかりのはずの娘の泣き声が響いてきた。

 

『起きるの早すぎない……?』


 まるで私が食べるときを見計らったかのようなタイミングだった。

 それでも私は、緑のたぬきを食べようとした。赤ちゃんは、少しくらい泣かせていても大丈夫。お母さんがご飯を食べる時間も大事。「ちょっと待ってね」などと話しかけていれば赤ちゃんもわかってくれる。などということが育児書には書かれていた。それを実践しようとしたのだが——。


『やっぱり無理! 赤ちゃんが泣いてるなか、落ち着いて食べられるわけないじゃん!』


 結局箸を置き、元気に泣く娘のもとに駆け付けた。


『よしよし、どうしたの~? さっきおっぱい飲んだでしょ? オムツかな~……あっ! 背中に漏れてる! ああ~シーツも濡れてるじゃーん』


 そこからは、急いで着替えを持ってきて、オムツを替えて、服を着替えさせ、シーツを剥がし代わりにバスタオルを敷き、汚れた服やシーツを洗い、泣き止まない娘にまた授乳をし……緑のたぬきの前に戻れたのは、30分後のことだった。

 麺はすっかり伸び、天ぷらはふにゃふにゃに崩れ、スープは冷めきっていた。

 いつになったら、美味しいご飯が落ち着いて食べられるようになるんだろう。あの頃の私はそんな日は永遠に訪れないように思え、ため息ばかりついていた。



ピピピ!

ピピピ!

ピピピ!



 3年前に飛んでいた意識が、タイマーの音で引き戻された。

 寝がえりさえできず泣くばかりだった娘が、タイマーを私に見せ「3分たったよ!」と得意げに教えてくれる。

 蓋をぺりりと完全に剥がし、天ぷらを乗せて出来上がり。


「いただきます!」


 手を合わせ、元気よく言った娘。待ってましたとばかりに、すぐにフォークを手に取る。

 私は娘の緑のたぬきから、麺と天ぷらをお椀へと移してやる。こうやって少し冷まさないと、食べられないお姫様なのだ。


「ふーふーしようか?」

「じぶんでできる」

「左様でございますか」


 ぷーぷーと、丸い頬を更にまあるく膨らませながら、蕎麦に息を吹きかけるお姫様。ちゅるると蕎麦を口に含むと、笑顔で頬に手を当てた。


「ん~! おいしぃ!」

「どれどれ。お母さんも……」


 つい娘に構ってしまい、自分のことを後回しにしてしまう自分に苦笑しながら、蕎麦をすする。

 伸びていない、温かい蕎麦。出汁のきいたスープの香りが鼻を抜けていく。


「……うん。美味しいね」

「カリカリの天ぷらだぁいすき」

「お母さんもそうだったけど……」


 形を保った天ぷらを箸でつかみながら、3年前に食べたふにゃふにゃに崩れた天ぷらを思い出す。


「スープがたっぷり染みこんだ、ふにゃふにゃの天ぷらも嫌いじゃないかも」

「え~? そうかなぁ。あ、でも、ふわふわしててかわいいかも!」


 そう言って顔を上げた娘の頬に、ふやけた天ぷらの欠片がくっついていたので笑ってしまった。


「ふふ。そっか。ふにゃふにゃじゃなくて、ふわふわかぁ」


 もう伸びきった緑のたぬきを食べることはないかもしれない。

 けれど私はきっと、これから娘の成長を感じるたびに、3年前に食べた伸び伸びの緑のたぬきの味を思い出すだろう。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

3年と3分後。 糸四季 @mildseven10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ