○も□も私に頂戴

池田春哉

○も□も私に頂戴

 カチリ、と音がして電気ケトルのボタンが戻った。

 注ぎ口から漏れるやわらかな白い湯気が冷たい窓ガラスを曇らせる。

 たった二週間しか経っていないのになんだか懐かしさを感じて、私はそこに人差し指を乗せた。



***


「たとえば幸せが目に見えるとしたら、僕のうどんに乗ってる油揚げのように四角い形をしてると思う? それとも君の蕎麦の上の天ぷらのように丸い形をしてるかな」

 暖房がいまいち効かず冷たい空気が立ち込める部室で、向かいのパイプ椅子に座った先輩は言った。

 この部活動は先輩の方針で腹ごしらえから始まる。私は目の前に置かれた『緑のたぬき』と、先輩の前の『赤いきつね』を見比べながら先の問いに対する答えを探した。

 はやく答えなければ。前にさりげなく先輩の好きなタイプを訊いたとき「聡い人だ」と答えていた。私は頭がいい人間だと、この人に思わせなければいけない。

 幸いなことに文芸部には私と先輩しかいない。

 今この部室に、という意味ではなく、文芸部員は私と先輩だけしかいないという意味だ。他の人に回答権を奪われることもないだろう。顧問の先生もいるにはいるが、寒がりの先生は今日もストーブのある職員室から出てこないはずだ。

 少しだけ考えて、私は答えを差し出した。

「幸せは形がないから幸せなんじゃないでしょうか。漠然としたそれが形を持ってしまったら、私たちはそれに縋れなくなる。自分の手元にないことがはっきりとわかってしまうから。それは幸せじゃない。文字通り、不幸です」

 先輩はたびたびこういうの話をする。

 執筆作業の集中が途切れたとき。下校時刻に向けて帰り支度をしているとき。カップ麺の出来上がりを待つ五分間。ぽっかりと空いた人生の隙間を縫うように先輩は話をするのだ。先輩は時間をとても大切にしている。

 私もこの時間が嫌いじゃなかった。むしろ先輩の頭の中を見せてもらってるようで嬉しい。

 ただひとつ困ったことがあるとすれば、先輩の好きな『赤いきつね』は待ち時間が五分なのに対し、私の好きな『緑のたぬき』は三分なのでいつも食べ始める頃には蕎麦が少し伸びてしまっていることくらいか。まあでもいい。蕎麦より先輩のほうが大事だ。

 さて、この回答はどうだろう。私は先輩の手元に目を遣る。 

「うん、やっぱり君は面白いね」

 先輩は右手を顎に当てて口角を上げた。

 よし、と私は心の中でガッツポーズを決める。先輩は何か面白いものに出会ったとき、いつも自分の顎を触るのだ。

「先輩は幸せに形があってほしいですか?」

 私は質問を返した。先輩の頭の中を見せてほしくて。

「そうだなあ」

 先輩が思考を始めるべく呟いた一言は、けたたましい機械音に掻き消された。机の真ん中に置かれたスマートフォンから鳴り響くアラームを先輩は指先で止める。

「五分経ったよ」

 先輩の言葉に頷いて、私はおおよそ伸びているであろう『緑のたぬき』の蓋を開けた。ぺりぺりと心地いい感触とともに閉じ込められていた真っ白な湯気が鰹だしの香りを連れて部屋中に広がる。

「いただきます」

「いただきます」

 私と先輩は声を合わせて割り箸を割る。先輩は割り箸が綺麗に割れず不服そうだったが、それもすぐに忘れたようで、つるつると音を立てて麺を啜った。

「冬に食べると尚更おいしいな」

「そうですね」

 私の蕎麦はやはり少し伸びてやわらかくなっていたが、それを差し引いても寒い部室で食べる蕎麦は美味しかった。

 あたたかいつゆが冷えた身体に沁みわたり、ぽかぽかと温めてくれる。天ぷらを一口かじると、さくりとした部分と出汁の染みた部分の食感の違いが楽しい。

「こんなに美味しいものがお湯を入れるだけでできるなんて驚きだ」

「ほんとですね。高校生でも手に入る値段でスーパーに売ってるのも驚きです」

「多大な努力を感じるな。それを見せないところも素晴らしい」

 それから私たちはしばし無言のまま箸を進めた。静かな部室に麺を啜る音と、時折身体の内から温もりが漏れ出るような吐息が聞こえる。

「そういえば話の続きだったね」

 私が三分の二ほど蕎麦を食べ進めたところで先輩は口を開いた。先輩はもう麺を食べ終わっていて、カップの中には二口ほどかじられた油揚げが残っている。好きなものは最後に取っておくタイプのようだ。

「僕は幸せには形があるほうがわかりやすくていいかと思っていたが、君の意見を聞いて考えが少し変わった。幸せはわかりにくいほうがいいのかもしれないな」

 先輩はそう言ってつゆに浸した油揚げを齧る。もう湯気は立たなくなっていたが温度は残っていたらしく「あち」と小さく零した。

「ちょっと違いますよ先輩」

「ん、なにがだ」

 残りの蕎麦を啜ってから、私は答える。

「私は、幸せは形がないほうがいいって言ったんです」

 湯気で曇った窓の外を見ると、綿雪がちらほらと舞っていた。暖房が効かないわけだ。そういえば今週末はクリスマスだっけ。

「幸せにはいろんな形があっていいと思うんです。それは先輩のうどんに乗ってた油揚げのように四角い形をしてることもあれば、私の蕎麦の上の天ぷらのように丸い形をしてることもあるかもしれない」

 私は立ち上がり、部室に一つしかない窓に近づく。先輩はそんな私を目で追いかけた。

「――強いて言えば」

 結露で白く曇っている窓ガラスに人差し指を置く。冷気が指の腹を撫でた。

「この湯気のように、どんな形にも成り得るものかもしれません。そのほうが理想的ですから」

 指で点をふたつ並べて描き、その下にUの字のような曲線を引く。きゅっ、と音が鳴った。スマイルマークが窓ガラスに描かれる。

「どんな形にも成れるなら、どんな人だって幸せになれるでしょう?」

 丸でも四角でも私でも先輩でも。

 誰だって幸せになれるし、誰かを幸せにすることができる。

 今も、先輩が私の時間に色を添えてくれているように。

「そんなに都合がよくていいんだろうか」

「いいんですよ。都合いいほうが幸せじゃないですか。幸せはそこら辺にいくらでも落ちていて、私たちは貪欲にそれを拾い集めればいい」

「もしそうだとしたら素敵な話だ」

「ええ、幸せは素敵なものですから。当然です」

 私が胸を張って答えると「君は本当に面白いな」と先輩は小さく苦笑した。その笑顔が窓ガラスに映ってスマイルマークと並ぶ。もちろん似ても似つかないけれど、それでいい気がした。

 さてそんなことより、大事なのはこれからだ。

「ところで先輩。幸せに色があるのはご存じですか?」

「色?」

「はい。今も見えてますよ」

 先輩は首を傾げた。私は種明かしをするように人差し指をピンと立てて、その指先を机に向ける。先輩の目の前に置かれた、空になった発泡カップを指差す。

「赤と」

 指先を少しずらして、つゆの残った自分のカップを示す。

「緑です」

 先輩はもう一度笑った。右手が顎を触れている。

「形は決まってなくても色は決まってるのか?」

「いえ、色だって人によって様々だと思います。ただ、今の私たちにとっての幸せはきっとこの色でしょう」

「おいしかったもんな」

「ええ、すごく」

 窓からの冷気で身体が冷えてきたので、私は窓から離れて自分専用となっているパイプ椅子に座った。

「でも、私はもっと欲しいです」

「もう一個食べるのか? 僕はもう無理だが」

「ちがいます」 

 私は息を吸う。出汁の香りがまだ少しだけ残っていた。


「先輩、良かったら今週末一緒にクリスマスマーケットに行きませんか」

 

 思い切って、言った。言ってしまった。

 部室でしか会えない先輩と外で会おうなんてまるでルールを犯している気になる。

 でも私は私の幸せのために、先輩とクリスマスを過ごしたいんだ。

 先輩は私の言葉に少し戸惑ったようだが、顎に手を当てて「赤と、緑」と呟いた。

「……君はいつも僕に時間をくれたね」

「え?」

「気づいてたよ。君の蕎麦はいつも伸びてるって」

 先輩はいつになく真剣な表情をしていた。

「なかなか言い出せなくて悪かった。君の二分を僕にくれてると思ったら嬉しくてね。それなのに、君はまだ僕に時間をくれるのか」

 先輩の淡い瞳と目が合う。


「嬉しいよ。僕は幸せ者だ」


 そんなことがあるのか、と思う。

 でも、あるのだろう。

 幸せは素敵で、理想的で、そこら辺にいくらでも落ちている。

 それなら私の幸せが、そのまま誰かの幸せになることもあったりするのかもしれない。

「……来週も雪が降るといいですね」

 冬の空に舞う綿雪に、都合のいい未来を祈った。



***


 部室の扉が開く音がした。誰が入ってきたかなんて見なくてもわかる。

「先輩、ちょうどお湯沸きましたよ。入れておきますね」

「ありがとう」

 先輩は鞄を机の下に置いて、パイプ椅子に座った。冬休み明けの久しぶりの部活動だが、やっぱり先輩には部室がよく似合う。

 私はぺりぺりと心地いい感触とともに『赤いきつね』の蓋を半分ほど開け、湯気の立つお湯を注いだ。内側の線までお湯が満ちたことを確認して、私は自分の『緑のたぬき』の蓋を開ける。

 そのままケトルを傾けようとした手を、先輩に掴まれた。

「二分だよ」

「……そうでした。つい癖で」

 私はケトルを机に置く。先輩は私を掴む手とは逆の手でアラームをセットした。

「私の二分はもういらないんですか?」

「名残惜しいが、君にはたぬきの本気を味わってほしくてね」

「先輩は優しいですね」

 私は掴まれた手を外して、先輩の左手を優しく握り返す。先輩の手はいつも冷たい。

「でも、私はもっと先輩の時間が欲しいです。今度はアウトレットに行きましょう。初売りセールをやってるそうですよ」

「君は次々と幸せを見つけてくるね」

「ええ、知らなかったんですか?」

 じわりじわりと私の体温が先輩の手を温めて、その差分を埋めていく。幸せには温度もあるかもしれない。


「私、貪欲なんです」


 にこりと私が微笑んでみせると、先輩は右手で自分の顎に触れる。

「君は本当に面白いね」

 手を重ねたまま笑い合う私たちの姿が、スマイルマークの描かれた窓ガラスに映った。



(了)

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○も□も私に頂戴 池田春哉 @ikedaharukana

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