二.
十年ぶりに訪れた緑豊かな集落は、幼い頃の記憶と何も変わっておらず、その美しさを留めていた。
見渡す限り広がる田園風景。都会のように高い建物が密集していることはなく、たまにポツポツと民家が点在しているだけだ。息を大きく吸い込むと、新鮮で清浄な空気が肺を満たす。車や人とも、滅多にすれ違うことはない。まるで、ここだけ時間が止まっているようにすら感じられた。
こんなに自然豊かな場所が、これから人の手で荒らされてゆくなんて、考えたくもなかった。
しばらくあぜ道を歩いて行くと、やがて祖父母の家が見えてきた。築五十年以上もある日本家屋だ。けれど、こまめに手入れされ、きちんと掃除が行き届いているためか、古いという印象は受けない。
わたしのお気に入りは、綺麗に磨かれている縁側だ。夏に、この縁側に腰掛けて食べる西瓜は格別なのだ。
引き戸の横にあるチャイムを鳴らすと、祖母が出迎えてくれた。
「よく来たねぇ。お腹が空いているでしょう」
そう言って、祖母は台所から梅おにぎりと卵焼きを持ってきてくれた。わたしが来るのに合わせて、作ってくれていたらしい。祖父の姿が見えなかったので聞いてみると、ちょうど今、日課である散歩に出かけているという。
「ありがとう。いただきます」
祖母の言うとおり空腹だったので、わたしは遠慮なくおにぎりにかぶりついた。場所はもちろん、縁側だ。
「すごく美味しい」
言ってしまえば、ただの塩にぎり。それなのに、びっくりするくらい美味しい。同じ材料を使っても、わたしにはこの味を再現することはできないだろう。
「あらあら。葵は大げさねぇ」
そう言いつつも、祖母は嬉しそうに笑っていた。わたしは祖母と積もる話をしながら、あっという間に、おにぎりと卵焼きを完食してしまった。
「ごちそうさま。
・・・・・・川の様子を見てくる」
食べ終えてからすぐにわたしが立ち上がると、祖母は呆気にとられたような顔をしていた。
「もう?少し休んでからにしたら?」
「大丈夫」
このままゆっくりしてしまったら、じきに日が落ちてしまう。そうしたら、視界も悪くなってしまうし、森には迂闊に入れなくなってしまうだろう。
玄関で祖母に見送られながら、スニーカーを履く。
「暗くなると森に熊が出るかもしれないから、日が落ちる前に帰ってきなさい。あと、むやみに川に入らないこと」
「わかってるよ。行ってきます」
祖母に手を振りながら、森のほうへと駆け出していく。
「川に入らないこと」なんて、祖母はわたしのことを一体いくつだと思っているのだろう。さすがにもう、そんな無茶はしない。
もしかして祖母にとってわたしは、いつまで経っても小さな子どものままなのかもしれない。
雑草をかき分け、森に入っていくと、何かに導かれるように、足が自然と川のほうへと向かった。
あの川までの正確な行き方は覚えていなかった。けれど、目印になるものは、はっきりと覚えている。おばけの顔のようで恐ろしかった木の幹。お腹が空いたときに摘んで食べていた木苺。注連縄が巻かれた御神木。心配しなくても、小さい頃のわたしの記憶が、今のわたしをちゃんと川へと案内してくれる。
やがて、葉がこすれる音に混じって川のせせらぎが聞こえ始めたかと思うと、ぱっと開けたところに出た。いつの間にか、地面の様子も、土から砂利へと変わっている。
顔を上げた瞬間、照りつける太陽の光を受けて、キラキラと輝く清流が目に飛び込んできた。その水は淀みなく澄みきっていて、たくさんの小魚がせわしなく泳いでいる。
戻ってきたのだ。あの川に。
懐かしい。今でも、幼いわたしがどこかで川遊びをしているような気がする。けれどもう、あの頃の無垢なわたしには戻れない。よくも悪くも、わたしは色々なことを知ってしまったのだから。
時間は限られている。早速、彼を探さなければ。
わたしは、とりあえず川の上流から歩いてみることにした。
名前を呼ぶこともできないので、ひたすら無言で探す。岩場の陰になっているところや、水の中は見落としがちなので、特に注意を払う。夏らしい強い日差しに汗ばんだが、時おり頬を撫でる清々しいそよ風のおかげで、それほどつらくはなかった。
しかし、いくら探しても彼の姿を見つけることはできなかった。もう、森の終わりのほうまで来てしまっている。この先も、集落のほうまで川は続いているけれど、なんとなく、
気づけばもう黄昏時。川は夕日を受けて、すっかり茜色に染まっている。祖母の言っていた通り、この森には熊が出る。また森のほうまで戻って、捜索を続けるのは危険かもしれない。
そう思うと急に気が抜けてしまい、疲れがどっと襲ってきた。少し休んでから帰ろうと思い、適当な岩場に腰掛ける。
彼が姿を現わさないのは、当然のことなのかもしれない。
考えてみれば、人間の子どもひとりを助けたことなど、神様である彼にとっては些細なことだろう。たとえ無事に再会できたとしても、彼のほうはわたしのことなど忘れてしまっている可能性が高い。
そう考えると、切なさがこみ上げてきた。まるで、永久に叶うことのない片思いをしているようで。
けれど、たとえ、彼がわたしを覚えていなくても。
彼に危険が迫っていると知っているのに、見過ごすことなどできない。わたしは、彼に生かされて、今ここにいるのだから。本当なら、わたしはあのとき川に流されて、死んでいたはずだった。
彼がわたしを忘れていても、わたしは彼に命を救われたことを、忘れたくはない。忘れることなどできない。
せめて、名前だけでも思い出すことができたら。
目を閉じて、彼との出会いの記憶を再生する。彼の姿形は今でも鮮明に目に浮かぶのに、なぜか名前だけが思い出せない。それがもどかしくて仕方がなかった。
『私はこの川を守る水神。森の奥にある社に祀られている』
ふいに、彼の言葉が頭に流れて、ハッとした。
お社。そこに行けば、何かヒントが見つかるかもしれない。
幼い頃は、川のほうで遊んでばかりで、森の奥にあるというお社には行ったことがなかった。おそらく、祖母に聞けば詳しいことを教えてくれるだろう。
このまま森のほうに戻り、お社を探したいという思いに駆られる。早く会いたいという気持ちと、このまま会えないかもしれないという気持ちが入り混じり、気が急いているのだ。
けれど、ここで焦っても仕方がない。
彼に救ってもらった命を、ここで無駄にするわけにはいかない。悔しいけれど、今日はこのまま帰って、明日、早朝に森に入り、お社に向かうことにしよう。
そう決めたときにはもう、森は昼間とは姿を変え、不気味なほどの暗闇に包まれていた。暗い場所は、昔から苦手だ。けれど今は、不思議と恐怖を感じなかった。
なんだか遠くから、ずっと誰かが見守ってくれていたような――。
考えて、思わず苦笑した。そんなこと、あるはずがないのに。
水竜との約束 薄海日向 @Renoir1841
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