一.

 目が覚めると、まばゆい朝日がカーテンの隙間から漏れていた。時刻を確認すると、もう九時を過ぎている。いくら大学が夏休みとはいえ、自堕落な生活を送りすぎているような気がする。ちゃんとしなくては、と頬をペチペチ叩きながら、わたしは身体を起こした。


 久しぶりに、あの日の夢を見た。普段は忘れっぽいくせに、あの日のことは、今でもときどき夢に見る。それは他の夢と比べてひときわ鮮烈で、まるであの日を追体験しているような感覚に陥る。

 あのとき、水竜は、神聖な川に入ってしまったわたしを、躊躇いなく助けてくれた。それなのに、お礼も言えていない。あのときから十年経った今でも、夢を見るたびに、その後悔が細い針となって、チクリとわたしの胸を刺す。

 もう一度会いたいという気持ちがないわけではない。実際、助けてもらってから、あの川に何度も行ってみた。けれど、水竜が姿を現わしたことはなかったし、大学生になった今では、田舎にある祖父母の家を訪れること自体、滅多にない。


 もしかしたらこのまま、約束が果たされることはないのかもしれない。

 考えてみれば、友人関係などもそうだ。大学が別になった友人たちと、絶対また会おうと約束したはずなのに、結局お互いの予定が合わず、疎遠になってしまっている。

 SNSなどで四六時中結ばれている人間同士で会うことすら難しいのに、たった一度の出会いの中で交わされた口約束が果たされる可能性など、限りなく低いのではないだろうか。


 そんなことを考えていると、ふいに、枕の横にあった携帯電話が振動した。こんな時間に誰かから電話がかかってくるなんて、珍しい。

 その相手に、わたしはさらに驚愕した。祖母からだったためだ。

 なんでもない日に、祖母から電話がかかってくることなんてなかった。仲は良いほうだが、学校が色々と忙しくなり、せいぜい、誕生日と年始に連絡を取るくらいである。


「おばあちゃん?急にどうしたの?」

『葵。突然ごめんなさいね。どうしても伝えたいことがあって』


 その前置きに、ふっと嫌な予感がする。まさか、祖母や祖父の身体に何かあったのだろうか。二人とも健康とはいえ、もう七十歳を過ぎている。いつ身体に不調が出てもおかしくない。


 何、とおそるおそる問うてみる。


『小さい頃、葵がよく遊びに行っていた川があったでしょう?』


 まったく予想していなかったことを尋ねられ、わたしは拍子抜けするとともに安堵した。ひとまず、祖父母の身に何かあったわけではないらしい。

 しかし、なぜ突然、川のことが話題に上るのか、まるで見当がつかない。


「その川がどうしたの?」

『実はね、もうじき埋め立てられてしまうことが決まったの』


 祖母から伝えられた残酷な事実に、わたしは言葉を失った。


 わたしと彼が十年前に出会った川。

 その川が、なくなってしまう?あの極彩色の水面を、清浄な流れを、もう二度と見られなくなってしまう?

 そんなこと、今まで考えてみたこともなかった。たとえ離れていても、わたしにとってあの場所は永遠で、なくなることなどありえない。そう信じてやまなかった。


「どうにか、ならないの?」


 鉛みたいに重たくなった口を開き、なんとか電話越しの祖母に尋ねる。一筋でも希望が残っているのなら、諦めるわけにはいかない。けれど祖母の返答は、わたしの望みを根こそぎ奪うものだった。


『住民で反対運動もしたんだけどねぇ。ほら、あそこにはお社もあるから。でも、市の職員は「決まったことだ」の一点張りで。本格的に作業をするのはもう少し先だとは言っていたけれど』

「・・・・・」

『ごめんねぇ。葵』


 行き場のない怒りと喪失感に襲われ、無言になってしまったわたしに耐えかねたのだろう。何一つ悪いことをしていない祖母が、心底申し訳なさそうに謝る。


「・・・・・・おばあちゃんが謝ることじゃないよ」


 その声は、自分でもわかるほど覇気が無かった。埋め立てられることが決定する前に、もっと何かできたのではないか、という無責任な考えが、心の底からふつふつと湧き上がってきてしまう。そんな自分に、余計に腹が立つ。


 祖母によると、川だけではなく、お社までもが取り壊され、森林のあるあたりは新興住宅地になるという。新市長が開発推進派で、新しい住民を集めるために、若い人向けに土地を開発する政策を施行しているらしい。


 水竜は――彼は、このことを知っているのだろうか。


 川が埋め立てられてしまったら、お社が取り壊されてしまったら、わたしと彼は、本当にもう二度と会えなくなってしまうのではないだろうか。


 そして、さらに暗い疑問が、わたしの頭に浮かぶ。

 居場所を奪われた彼は、一体どうなってしまうのだろう。


「おばあちゃん」

 悩んでいる暇などなかった。一刻も早く、彼に会わなければ。

「久しぶりに、そっちに行ってもいいかな」

あまりに突然、わたしが言ったので、電話越しの祖母は少し驚いていたようだったけれど、すぐに快諾してくれた。

「そうよね。あの川を見られるのも、もう最後になってしまうんだものね・・・・・・」

「・・・・・・ありがとう」


 いつか彼と再会できたら、二人で岸辺に並んで、美しい川を眺めながら、あのとき助けてくれた感謝を伝え、積もる話をしたかった。けれど、川の行く末を知ってしまった今、そんなことは夢のまた夢である。

 彼と再会したら、わたしは伝えなければならないのだ。世界で一番、残酷な事実を。

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