水竜との約束

薄海日向

プロローグ

 わたしがその美しい竜と出会ったのは、ひときわ暑い夏のことだった。


 当時、小学校低学年だったわたしは、夏休みを使って祖父母のいる集落に遊びに来ていた。

 集落は、電車を三度も乗り換えて、さらに最寄り駅からかなり歩かなければならないほどの田舎にあった。両親は仕事で付き添うことができなかったので、幼いわたしにとって、祖父母の家に一人で行くことは、ちょっとした冒険だった。


 昼食後に出される西瓜、そよ風を受けて揺れる風鈴、可愛らしいブタの容器に入った蚊取り線香。祖父母の家にあるものすべてが鮮やかで、目新しかった。


 数日間は、そんなふうに、些細なことに胸を躍らせながら過ごしていた。


 彼と遭遇したのは、ようやくひとりで祖父母の家にいることに慣れてきた頃。


 昼食に、氷でよく冷やされて引き締まったそうめんと、近くの畑で穫れた真っ赤なトマトを食べた後、することもなく退屈だったわたしは、祖父母の家の裏手にある森を探検することにした。


 森の中は涼しく、時おり吹く風で葉が擦れる音が心地良かった。耳を澄ますと、どこからか川のせせらぎが聞こえる。きっと、森から集落のほうに続いている川の音だろうと思った。その音に惹かれたわたしは、あまり遠くに行ってはいけないと祖父母から言われていたにもかかわらず、どんどん奥へと入って行ってしまった。


 微かな水の音だけを頼りに、森の中をしばらく闇雲に歩いていく。やがて、開けた場所に出たかと思うと、清らかな川が目の前を流れていた。


 川の水は澄み、見たことのない小魚たちがたくさん泳いでいる。ここまでがむしゃらに進み、暑くて仕方なかったわたしは、迷うことなく川へと手を伸ばした。案の定、川の水は熱に浮かされたときの氷枕のように気持ち良くて、次の瞬間には、わたしはズボンの裾を捲り上げ、川に入った。


 けれど、その川は見た目よりも流れが速く、すぐに水に押し流されそうになってしまう。近くの岩になんとか掴まろうとしたものの、手が濡れているせいで滑ってしまい、あっという間にわたしは流されてしまった。


「助けて!」


 必死に水面から顔を出して助けを求めたが、誰かが助けに来る気配は全くない。それどころか、もがけばもがくほど、どんどん沈んでいく。加えて、水を大量に飲み込んでしまったせいで、とても苦しい。恐ろしさで涙が出たけれど、それさえもすぐに激流に洗い流されてしまう。


 あぁ。わたしはきっと死んでしまうんだろうな。


 そう直感した時、ふいに何かがわたしの身体をスルリと撫でた。

 瞬間、わたしの身体が軽くなり、気がついたときにはもう、水面に顔を出すことができるようになっていた。それどころか、魔法の絨毯にでも乗っているのではないかと錯覚するくらい、身体がスイスイと水面を進んでいく。


 驚いて下を見ると、水の中で、雪のように真っ白な竜が、溺れかけたわたしを運んでくれていた。


 息を呑むほどに美しい竜だった。艶のある鱗が日の光に反射して、キラキラと銀河のように輝いている。二本の角は、陶器のように滑らかだ。


 水竜はわたしを岸辺に運んで寝かせると、竜の姿から人間の姿へと転身する。人間の姿になった彼は、わたしを警戒させないためか、わたしより少し年上くらいの男の子の姿をしていた。年不相応の袴を身に着けていて、肩あたりまであるやや長い髪も、竜の姿のときと同じく、淡雪のように白い。


 そして何より、その瞳。彼の瞳の色は、宝石のように美しかった。


「わあ・・・・・・。きれいな目。宝石みたい」

 思わずわたしが呟くと、彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。

「水をたくさん飲んでいるから、あまり喋らないほうが良い」

 言いながら、彼はわたしの額に張りつく髪を優しく払う。けれど、興奮していたわたしは彼の忠告を無視して尋ねた。

「あなた、誰?」

「私はこの川を守る水神。森の奥にある社に祀られている」

「・・・・・・すいじん?やしろ?」

 難しい単語に悩むわたしに、彼はふっと目を細める。

「すまない。そういうことを聞きたかったわけではなかったか。私の名は――という」


 あの日、彼は確かに名前を教えてくれた。けれど、どうしてもその名を思い出すことができない。他の会話は鮮明に覚えているのに、名を思い出そうとすると、頭に靄がかかったようになってしまう。


「これからは、ひとりで川に入ってはいけないよ」

 美しい竜は、幼いわたしを優しく諭した。反論することもできず、大人しく頷く。すると彼は「いい子だ」とわたしの頭を撫でた。

「さあ、葵。迎えが来たようだ」


教えてもいないのに、彼はわたしの名前を呼んだ。

彼が見つめる方向に視線を向けると、祖母が血相を変えてわたしのほうに駆け寄ってくるところだった。わたしの帰りが遅いのを心配して、ここまで探しに来てくれたらしい。


「また、会えるよね?」

 約束を取り付けないともう二度と会えないような気がしたわたしは、彼に尋ねた。彼は、少し寂しそうに微笑む。

「会える。この出会いを忘れないかぎり。約束しよう」

 その言葉に安心したわたしは、そのまま意識を失った。


 気がつくと、わたしは病院のベッドにいた。そこは集落にある唯一の病院で、症状問わず診てくれる場所がった。傍らで静かに泣いていた祖母は、わたしが意識を取り戻したことに気がつくと、声を上げて泣き始めた。その声に駆けつけた先生も、子どもひとりで川に流されて助かったのは奇跡だと驚いていた。

 その後軽く診察を受け、大事がないことがわかったので、わたしはそのまま家に帰ることになった。


「ほんとうに良かった。葵が無事で」

帰り道、祖母はわたしの手を強く握りながら言った。

「あのね、きれいな竜が助けてくれたんだよ」

 できれば周囲には秘密にしておきたかったが、祖母になら言っても良いと思ったので、わたしはこっそりと打ち明けた。

 祖母は歩みを止めて、驚いたように目を見開くと、しばらくして妙に納得したように何度も頷いていた。

「そう。あの森には水神様がいると昔から言われていたけれど、やっぱり本当だったんだね。葵。今日あったことは忘れてはいけないよ」

「うん。わたし、絶対に忘れないよ」

 そう誓って、わたしは祖母と二人、手を繋いで家へと戻った。


 絶対に忘れない。

 あのとき、そう強く誓ったはずなのに、どうしても、彼の名前が思い出せない。

いつの日か、彼と出会ったときの記憶までもが、風化してしまうのだろうか。

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