花火の裏側、人魚姫の囁き

灰原標

花火の裏側、人魚姫の囁き



 鼻から脳みそに突き抜けてくるしい、塩素の匂いだけがあの子と私の青春だった。


 茹だる暑さに机上に溶けてしまいそうにうるさい教室のなかで、あの子だけが涼しげに背筋を伸ばしていたことを知っている。髪の毛とセーラー服の襟元の間、ほんのすこし焼けた首筋はみなぎる若さを象徴し、その裏側、退屈そうに伏し目がち。まっ黒な瞳に、私たちの未来を調べる紙切れ一枚の白が反射する。すらりと伸びた腕は一ミリも動かず、だから私はあの子が気になった。

 彼女は人魚姫だった。プールという巨大水槽で、しなやかに尾びれをひるがえす。私は毎日生理だと嘘ついて日陰の中心で、あの子を見つめていた。したたる雫の、なんと透明なことか。なんとまっすぐに、水の中で自由に動き回ることか。

 いつしか、彼女と目が合うようになった。ゆらゆら水面が揺れて彼女を彩る。太陽のもと、彼女は彼女たちを幽閉する水槽から手招き。誘われるまま彼女に歩む私の腕をつかみ、嘘みたいに真っ青なそこへ引きずり誘った。舞う飛沫。先生の怒号。下着まで浸水しているのに、私の身体をかたどる自由な水に心地よさすら覚えた。

 彼女ははじめて水というものを知ったように唖然とする私を見て、あのまっ黒な伏し目がちを忘れ去れるほど無邪気に、口を開けて笑った。

 だから私は、この巨大水槽の底に心を落とした。


「ねえ、今日おまつりあるんだって」

 陸で初めて交わした会話だった。私と彼女二人だけ。夏休み。教室に残った私と彼女は、まだ未来を決められずにいる落ちこぼれだった。

「一緒に行こうよ」

 やはり彼女は無邪気で、だけれど人が悪い笑みを浮かべて私に言った。カーテンが踊る。土ボコリのにおいが日に焼かれてコーヒーのように香ばしい。野球部の校歌斉唱がばかみたいにばらばらで聞こえる、昼下がり。

 吹奏楽部の管楽器のチューニング。不協和音が遠くで聞こえて、私はうなづいた。


 太鼓と、雑踏と、鮮やかな浴衣を通り抜けて、彼女は私を連れ去る。下駄がカランコロンと鳴って、奇怪なものを見る目を次々通り去ってゆく。私は汚い白シャツから貧相な腕を生やして、あなたは登校時のままのセーラー服。走る。息が上がる。祭囃子を背景に、私たちは暗い方、闇の方へと走る。

「おまつりはそっちじゃないよ」

 あなたは聞かなかった。

 昼間の熱を忘れた黒塗りの道路は冷たく、私と彼女というぬくもりを持った人間を歓迎しているようだった。空気の重みが喉を伝わり、くるしい。それから、体が軽くなって、頭がぼんやりとした。

 辿り着いたのは桟橋だった。海に囲まれた、星と月の明かりしかない、閉じ込められたかのような箱の中。

 あなたは鞄を荒らし、雑にとった一枚の紙切れを破った。私たちの未来を調べるための紙切れ。躊躇いもなく、未来なんてあるわけないと気付いて嘆く少女のように、あなたは何かに堪えて、ひたすら、紙の繊維の音を夜空に響かせた。

 風にたなびき、未来の一欠片すら無くなった頃、あなたは私を見やった。例えるなら、そう。人魚の瞳だった。海に住まう、あやしく、妖艶な怪物。背筋が撫ぜたように粟立ち、私は睨まれた蛙のように指先すら動かせない。

「おいで」

 花火のように舞う飛沫が返り血のように頬に張り付く。あなたは闇の海に飛び込んだ。顔だけを出して、私に手を差し伸べる。

 先も過去もわからないこの闇の中、月明かりに照らされたあなたの期待のない笑顔だけがむなしい。

 私は一歩、二歩と、あなたに近づき、桟橋から闇に潜むあなたを覗き込んだ。

「どうせあたしたち、なににもなれないよ」

「なににもなれないことだけ知ってるよ」

 彼女は目を細め、呪いのように繰り返す。

「だからあんたも、あのつまんない教室に居残ってたんでしょ」

 おいで。

 声が、瞳が、指先が、滴って私に囁く。おいで。こんなところにいてもしょうがないでしょう。おいで。おいで。

「あたしといこう」

 糸でつられたように、心が動いて、手が動いた。

 遠くの打ち上げ花火が銃声のように響いて、あ、私は、あ、とすら言える間もなく闇に顔からつんのめった。ぬくい。なのに冷たくて、先も過去も照らされない、ただ広いここだけに、私とあなた。

「花火が見えないところがあるなんて思わなかった」

 あなたが私の頬を撫でる。

 夜空には相変わらず銃声が、私たちの世界を、水が入った水槽を壊してみるかのように、ただひたすら唸り続ける。

「花火の裏側の世界がここだよ。なにも見えない」

 それからあなたは私にやわい唇を押しつける。冷えた唇に、あなたのぬくもり。やさしい温度というものが、このときはじめてわかったような気がした。

「いこう」

 あなたは踊りに誘うかのように私の手を取り、背を向け、進む。それから、闇の中に消え、深海の魔女が私を腕から沈めた。

 光も酸素もない世界であなたの手のひらの温度だけが頼り。蜘蛛の糸より脆くて、いつ離れてしまってもおかしくないこの手に、しがみつくように泡を吐いた。私の人魚姫。鼻から闇が、海水が、つぅーんと、喉まで。もがいて、それでもあなたは私の手を離さなかった。

 なにも見えずに苦しいここで、それだけが幸福なんだとーー。


 白い部屋で目を覚ましたとき、あの子はいなかった。

 ああ、人魚姫。

 海にかえったんだ。


 もう学校の巨大水槽にあの子はいない。脳まで突き抜けるほどの塩素の心地よさもない。ひとつ机ががらんと空いて、その席にいた人魚姫は、足が尾びれになってしまったから座れない。

 ばかになったんじゃないか。

 私はあの夏の夜、私の孤独な脳みそが塩素にやられていたのだ。あの子は私が生み出した妄想の産物であると言い切れてしまうくらいには、あの子がいない世界に、あの子がいたことを足らしめる何かがひとつもなかったのだ。

 もう桟橋には私を深海に沈めようとする魔女なんてものは現れない。


 代わりに。


 くたびれた花束がひとつ。桟橋の先に落ちる。

 私はそのしおれた花弁をみつけると、うずくまって奥歯を噛み締める。それから醜い嗚咽を上げるのだ。

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