我が二刀、宮本武蔵が末流に非ず

竹尾 錬二

我が二刀、宮本武蔵が末流に非ず

 幕末から戦前にかけて隆盛した二刀流派は枚挙に暇ない。二天一流、円明流、武蔵流、鉄人流――これらは皆、日本一と讃えられた剣豪、宮本武蔵の兵法が末流である。二刀流と言えば宮本武蔵の代名詞と言っても過言ではなく、両刀の剣術は全て武蔵に端を発するというのが、大方の認識だろう。

 明治維新を経て、剣術も撃剣、剣道と時代の変化に沿って名を改めていったが、武蔵流の三橋鑑一郎が武徳会の重鎮として名を馳るなど、二刀流派はなお大きな影響力を保ち続けてきた。

 時は大正十五年、学生競技黎明期の剣道界に於いても、一つの大きな変革が起こりつつあった。早稲田大学で大名人・高野佐三郎の薫陶を受けた天才剣士、志田三郎の活躍に端を発する、二刀の大流行である。旧制高校などでは、競って二刀技法の研究が進められた。

 四国の端、愛媛の松山商業高等学校でも、この流れに遅れを取るまいと、二刀剣士を育成する運びとなった。白羽の矢が立ったのは、一年生の中でも並外れた実力を持つ登り龍、森田可夫である。

 松山商業の主将はある日森田を呼びつけ、


「森田、貴様は今より両刀に構えよ」


 と尊大に命じた。

  

「両刀、ですか」

「そうだ。鹿児島の七校や熊本医大などでは、両刀遣いの剣士がめざましい働きを見せているという。二刀の対策を学ぶをことは、我らが松山商業の急務である。この大任を貴様に任せたい」


 一体、誰より学べば良いものでしょう? そんな疑問を、森田はぐっと飲み込んだ。

 突然お前は今日から二刀を学べ、と申し付けられたものの、肝心要の指導者が居らぬ。岡山で奥村二刀流の奥村寅吉が学生の指導をしていた話は耳にしていたが、松山商業の森田が習える道理はない。当時の学生部活動の上意下達には紙一枚挟まる隙間もなく、理不尽だろうと先輩の命令は絶対である。

 習ってないものは遣えません――そんな言葉を反せば、それは貴様の工夫が足りぬからだ、と拳骨が振る。そんな時代であった。



 何もかも分からない事だらけだが、まずは大小の竹刀を構えて体裁を整えねば話にならぬ。

 無論、武道具屋には二刀用の小太刀など売られてはいない。森田は、まず己が手で小太刀を作るところから始めた。竹刀の弦を解いて分解し、各々の手に合うように組み上げるのは、剣道家なら出来て当然の心得だ。竹刀の竹を二尺五寸程の長さに揃えて鋸で切り落とし、柄革を破らないように小刀で端を丸める。続いて、柄皮を裏返し小手の拳二握り程の長さで断ち、木綿糸で端を繕って表に返して組み直すと中々に立派な小太刀が組み上がった。一刀での竹刀の上寸は概ね三尺八寸であったが、小太刀の寸法と重量には規格なく、二刀ブーム黎明期の学生二刀剣士たちは、思い思いの小太刀を拵えて使用していたものだ。


 森田は、早速作った小太刀を弓手に、常寸の竹刀を馬手に握って両上段に構えて姿見の前に立てば、格好ばかりは一端の二刀剣士である。森田は鼻を膨らませた。


 されど、腕に握る竹刀を一本から二本に増やした所で、忽ち技倆が二倍になるなどという、都合の良い話はありはしない。寧ろ、撃たれる数が倍に増えた。

 先ず、大蟹の鋏の如く振りかざす大小の中央を突きで貫かれた。戦前の剣道界の突き技は苛烈極まり、防具外れを突こうがお構い無しに、壁の羽目板まで突き飛ばして押し込めるのは日常茶飯事、仰々しく竹刀の先革を硬い鮫皮で仕立てる者までいたのだから、突かれる側は堪ったものではない。

 胸元や首筋を紅を散らしたように痣だらけにしながら、森田は二刀の小太刀を中段寄りに下げて構え、我が喉を突かんとする対手の竹刀を逸らす術を自得していった。


 だが、突きを流す技に長けても森田の二刀は攻め手に欠いた。

 片手で竹刀を振るうことは造作もない。片手横面や突き技など、森田も片手技を幾つか修めていた。しかし、それがそのまま二刀の技に応用出来るかと言えば、そう簡単にはいかない。剣道の片手技は柄尻握りの左片手技が専らであり、右に太刀を握る二刀の構えでは、思うように行かぬ。

 加えて、腕の粘りも足りなかった。片腕でも、一振り二振りなら、両手持ちと遜色ない速さで振るう事は出来よう。だが、延々と打ち込み切り返しを続けていくと、両手持ちとは比べ物にならない速度で手の内の力が失われていく。

 腕が疲弊するにつれ、上段に構えた竹刀は根を切り落とした菜っ葉の如く、じわりじわりと力を失い、構えが下がった瞬間に撃ちこまれる。悪循環である。

 切り返しが終わって地稽古が始まる頃合いには、森田の腕は疲れ果て、笑われる程に緩慢な速度でしか竹刀を振れなくなる事も度々であった。


 ◆


 兎にも角にも地力が足らぬ。


 仕方なしに、森田は稽古が終わった後、重信川の河川敷で赤松の老木を相手に、両刀を以て立木撃ちを稽古をする日々を始めた。竹刀より遥かに重いイスの木を振るって腕力を鍛えるのである。

 余談であるが、麦酒の空き瓶に砂を詰めて片手で振るうという、上段剣士のお決まりの鍛錬が始まったのはこの時期である。明治の末には東京に日本初のビアガーデン『恵比寿ビヤホール』が開店し人気を博していたが、四国の田舎町では未だ瓶麦酒は高価な酒であった。

 そんな稽古を続けて、一月か、二月か。赤松の罅割れた樹皮がぐるりと一周剥げた頃、森田の稽古を毎日のように、白髪の老人が眺めていることに気がついた。七十か八十か。齢の頃は定かではないが、維新前の生まれには違いまい。杖もつかず伸びた背筋と鋭い眼光。桐下駄を履き、絣の着物を纏って直ぐと立つ姿は、老人には似つかわしくない。四民平等の世となり久しいが、士族の出である事を伺える凛とした佇まいだった。

 老人が若者が説教をしたがるのは今も昔も違いなく、明治の頃にも維新前の動乱期を生き抜いた事を矜持とする老人達が、安政爺ィや嘉永爺ィと揶揄され、太平の世に生まれた若人達から疎まれたりもしたものだ。しかし、大正も十五年が過ぎた頃合いである。維新前の武勇伝を大仰に語る老人も、少なくなって久しい。

 近所の老人が、散歩ついでに眺めているだけだろう。

 森田は、そう考えた気にも留めてはいなかった。


「毎日、ご精が出ますね」


 ある日、背後からそう声をかけられて、森田は思わず背筋を強張らせた。

 ――いつの間に。

 森田のいる河川敷の足元は、荒い砂利や礫で覆われており、下駄履きで歩けばさりさりと音を立てるが、老人は気配もなく静かに歩み寄っていた。

 ――また、俺の二刀に文句がある手合いか。

 森田は警戒心を露にした。以前『剣の正道は一本の刀を魂を賭ける事にあり、二刀流など邪法である』等と滔々と説教をしてきた老人がいたのだ。


「撃剣のお稽古ですか?」


 老人は、剣道の事を撃剣と呼んだ。

 西久保弘道によって、剣道という呼称が武徳会で統一されたのは大正を境としている。

 年輩の剣士達には、道場での竹刀撃ち稽古は、撃剣と言った方が通りが良かった。


「はい、両刀遣いの稽古をしております」


 その答えに、老人はそれは結構、と頷きを返した。

 ――なんだ、ただの散歩話か。

 森田は肩の力を抜いた。

 毎日に遠巻きに見つめてくる、老人の視線は気になってはいたが不快ではなかった。


 独り赤松の木を二刀で撃つ森田は、どうしようなく孤独だった。

 二刀という異形の剣は、何処にも剣道部の仲間たちとも、先人たちとも、何処にも繋がっていないと思うような隔絶。

 何より、森田自身の裡に二刀を蔑むような心持ちが産まれつつあった。

 明治の撃剣大会に二刀で名を上げた、奥村左近太や三橋鑑一郎、今をときめく早稲田大学の志田三郎。

 幾人もの二刀の名手の名を耳にしたが、彼らとは森田とは何ら関わりのない、遠い世界の住人なのだ。

 テレビ放送も始まっていない時代、森田が二刀の名手たちの剣を知る術はない。

 何の縁なく振るには、二刀の剣は、あまりに重かった。


 老人の姿は言葉もなく己に沿ってくれているようで、森田は老人の姿を目にする度、松の肌のようにささくれ立った心が安らぐのだった。



 ◆


 立木撃ちの稽古を始めて、腕力は飛躍的に上がった。それでも、森田は二刀の構えが己と噛み合わぬ事を感じていた。

 そもそも、森田は張るだの擦りあげるだの言った、小器用な技が得意な性質たちではない。一刀でも、中心を攻めて攻めて攻め崩し、空いた正中を撃ち抜く質実剛健な技を持って勝ち進んで来たのだ。

 両手に竹刀を握っては、定めるべき中心が定まらぬ。体がふわふわとする。相手の竹刀を変幻自在に撹乱すべき小太刀を握るのは、不器用な左手であり、渾身の一撃を上段から振り下ろすべき太刀は、非力な右手に握っている。剣道家の多くは利き腕の如何に関わらず、左腕が力強く発達する。森田もその例に漏れず、片手技も左の横技を得意としていた。


 腕力を鍛えて、体裁ばかりは整ったのは確かだ。疲労で無様に竹刀を取り落とす事も減った。

 しかし、森田には竹刀を振った時の身体の違和感が拭えぬ。

 相手の右小手を狙う時、我が右手首をくねらせて撃たねばならぬも気にくわぬ。

 要は――己の身体の感覚に対して、ちぐはぐなのだ。二刀というのは。


 相手の竹刀を叩き落とし、空いた空隙に面撃ちを叩きこむ。

 鮮やかに決まった一本だったが、まるで味がなかった。


 己の裡に溜まった澱を叩きつけるように、今日も森田は立木撃ちに励む。

 右、左、右、左、右、左。

 慣れた稽古だ。祭囃子の拍子木のように、規則正しい音が響く。

 それを遮るように、


「両刀遣いは、太鼓打ちではありませぬ」

 

 突如、よく響く声で老人は森田にそう告げた。

 何時も無言で見つめていた老人が、森田の稽古に嘴を挟むのは初めてのことだった。

 ――こんな耄碌したような爺に、一体二刀の何が分かるのか。

 老人の言葉は、森田の心をささくれださせ、青い反感を抱かせた。


「御老体。では御指南をお願い致します」


 そう言って、老人が片手で振るには重い、大小の木刀を差し出した。

 老人は小さく頷いてそれを受け取ると、大小の木刀を森田とは逆に――大刀を左手に持って両刀に構えたのだ。

 森田は内心で失笑を禁じ得なかった。宮本武蔵の自画像が示すように、大刀は右に握るのが二刀の常道である。

 しかし、次なる刹那、森田は老人の動きに心奪われた。

 麻枝のような細い腕が軽飄に動き、二本の木刀の重さなど無きが如く、赤松の幹を撃ちつける。森田は赤松を単なる棒杭の代わりに見立てていたが、老人は大刀を振り上げる際には小刀を突きつけ、小刀を振り上げる際には大刀を突きつけ、総身に精気漲る動きには、微塵の隙も無いのだ。

 森田の二刀は、小太刀大太刀と順繰りに遣うばかりであったが、老人の両刀遣いは、且に二刀を一刀の如く遣っている。右手に宝剣左手に羂索を握る明王像のように、両の竹刀の動きは二刀を以て一つの形を成しているのだ。老人が森田の稽古を太鼓打ちと言った意味が、胸に染みた。

 何より、腕力を鍛える為に松の木を撃っていた森田とは違い、老人の撃ちつける先には、明確な対手の意識があった。皮の剥げ落ちた古松の幹から、老人が相手にしている剣士が浮かび上がるのを幻視する程に。

 老人と己に、雲泥万理の技倆の差があるのは明らかだった。

 森田は非礼を詫びて名を尋ねると、老人は竹村と苗字だけを名乗った。


「竹村先生は、どちらで二天一流を学ばれたのでしょうか……?」


 二天一流、という言葉を聞いた瞬間、老人は俄に眉間に皺を寄せた。


「我が二刀、宮本武蔵が末流に非ず」


 低く――重たい、余人には計りえない思いの詰まった声色だった。


「我が流派は未来知新流。撃剣には益無き流派にて、これにて失礼」

 

 老人は、森田に大刀を預けると、踵を返した。

 背筋の伸びた絣の着物姿が、悠々と歩み去っていく。

 竹村老人の二刀剣技に尋ねたい事は数あれど、ついに引き留める言葉は浮かばなかった。

 未来知新流。聞いた事もない。

 森田の手の中に、木刀の大太刀が一本、

 小太刀は?

 振り返ると、赤松の幹に小太刀が突き立ち、びりびりと震えていた。

 一体、何時の間に撃ったものか。目にも止まらぬ石火の早業であった。

 申し訳程度に先を尖らせたばかりの小太刀を、松の幹に突き立てるなど、尋常ではない。

 力を籠めて引き抜くと、竹村老人の掌の温もりが、微かに柄に残っていた。

 

 森田は、竹村老人の構えを真似て、右手に小太刀を、左手に大太刀を握り、上下段に構えてみた。

 撃とうと思うまでもなく、剣先が走った。

 左手に握った太刀を松の幹に撃ちつけた瞬間、外れていた歯車が、カチリと噛み合うような音がした。

 今まで体の中で滞っていた力の流れが、堰を崩したように滑らかに流れ始めたような感覚。

 己の身体の全てが、一つの合目的な動作として、わっ、と一度に動いたのだ。

 

 その感覚を忘れたくなくて、幾度も、幾度も森田は左手で太刀を振るった。

 森田の眼前には、喉元に竹刀を突きつける対手の姿が浮かんでいた。

 対手が森田を撃突せんと動く。突かんとすればその剣先を抑え撃たんとすればこれを払う。

 小太刀と大太刀はあくまで一つ。

 右手の小太刀を以て制した時には、既に左手の大太刀は撃ち終わっているのだ。

 

 ちぐはぐだった森田の身体は再び一つに纏まった。

 森田を包み込んでいた孤独感も、夏の通り雨が上がるかのように消え去っていた。

 剣を通じて、何か大きな流れのようなものの中に己がいる事を、森田は知ったのだ。

 

 その後、森田が老人と出会う事は無かった。

 一度見たきりの――されど、目に焼き付いた老人の太刀筋を真似て、森田は稽古を重ねた。

 

 ◆


 戦前の四国では、未来知新流の竹村与右衛門という剣客がその名を轟かせたが、この老人との関係は定かではない。現在では未来知新流は失伝し、その業を伝える者は残されてはいない。

 ――擊劒叢談に曰く。未来知新流の極意は、小刀を投擲する『飛龍剣』である。

 ある本に、昭和の剣聖、中山博道が逆二刀に構えた珍しい写真が残されている。


『当世では、この構えを外法と蔑む者も多いが、遡れば未来知新流なる古流に端を発する構えなり。能々吟味すべし――』


 写真には、そんな短い警句が添えられている。博道が如何にして四国の小流派である未来知新流を知ったかは定かではない。一説では、博道が居合道の源流となった土佐居合を求めて四国を訪れた折に学んだものだという。

 森田可夫はその後、昭和四年の御大礼記念天覧武道大会――当時の剣道家の最大の栄誉である、天覧試合の府県剣士の部に出場し、準々決勝まで勝ち上がる快挙を遂げた。また、森田に感化されて逆二刀に構えた香川の藤本薫は、見事昭和九年の天覧試合に於いて準優勝を果たした。逆二刀は爆発的に全国へと広まっていったのである。

 今日では、逆二刀の剣士の数は正二刀のそれを上回るに至っている。名は忘れ去られても、剣道二刀黎明期、逆二刀を以て時代に立ち向かった剣士達の業と工夫は、今も尚、二刀剣士の太刀筋の中に息づいている。



 了


 参考文献

 

 昭和天覧試合 大日本雄弁会講談社 昭和5年5月5日

 剣道百年 庄子宗光 時事通信社 昭和47年7月1日

 日本剣道と西洋剣技 中山博道 審美書院 昭和12年8月30日

 二刀流を語る 吉田精顕 昭和16年7月20日

 私の剣道修行 第一巻 昭和60年2月1日

 昭和の二刀流ビルマに死す 南堀英二 2007年9月14日

 武蔵の剣 剣道二刀流の技と理論 佐々木博嗣 平成15年5月20日 

 剣道指導の手引き 二刀編 全日本剣道連盟

 

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