緑の迷子

水玉猫

3分間のなぞなぞ

「それじゃあ、第2問だ。緑だけど、緑じゃない。たぬきだけど、たぬきじゃないのもの、なあんだ」

「緑のたぬき!」


「はい、正解。よし、3分たったぞ。いただきます!」

「いただきます! パパとカップ麺を食べるときは、いつも緑のたぬきだね」

「うまい天ぷらそばが、お湯を注いで3分待てば食べられるんだぞ。これ以外の選択肢はない」


「5分待てば、赤いきつねも食べられるよ。パパは5分待てないの?」

「パパは3分しか待てない」

「だから、ママに言われるんだよ。『短期は損気』って」

「オレの名前は、損気じゃなくて悠期ゆうきだって、ママに言っておけ」

「短期の方が、パパのことだよ。『悠』って気の長そうな字が付く癖に気が短いから、損なんだって」

「よけいなお世話だ」


「パパは、天ぷらは後乗せサクサク派だね」

「3分待つ間、ふたの上に乗せておく。合理的だ」

「あたしは、だんぜん先乗せシミシミ派! お出汁がしみた天ぷらの玉ねぎ大好き!」

「ごちそうさま」

「あれっ、パパ、もう食べちゃったの」

「早く食べなければ、そばが伸びる」

「早すぎだよ。美味しい緑のたぬきなんだもの、もっと味わって食べなきゃ、もったいないよ」


「おまえ、だんだん言うことまで、ママに似てきたな」




***




 なぜ、もっと二人の生活を大切にしなかったんだろう……。なくしてから、やっと気が付いたんだ。

 妻は、いや、すでに離婚したから、元妻だ。今ごろは、機上の人。一路サンフランシスコに向かっている。彼の地で、また学生を始めるためだ。

 ぼくたちは、結婚を急ぎすぎた。籍を入れたのは二人ともまだ大学生のときだった。結婚してから、やっと二人の価値観が違いすぎることに気が付いたんだ。お互い共通していることは、短気な性格だけだった。

 行き違いすれ違いは日毎に激しくなり、結局は別れることになってしまった。そして、元妻は一度は断念した大学院への進学を叶えるために、今日、旅立って行ったのだ。ぼくは今でも元妻を愛していた。手が届かなくなってから、どれだけ愛していたのか、こうして思い知る羽目になってしまった。今となっては為すすべ一つないぼくの心は、行き場をなくして迷子になっていた。


 ぼくはにがい後悔ごと、緑のたぬきの残ったつゆを飲み干した。

「もう、食べ終わったんですか」

 昼休みの休憩室。いつ来たのか、研修中の新人がぼくの前に座っていた。

「早く食べなければ、そばが伸びる」

 ぶっきらぼうに答えると、なにがおかしいのか彼女はクスクスと笑った。

「先日は、ありがとうございます」

「なにが?」

「面接でお世話になりました」


 あの日は面接担当者が病欠で、ぼくが代わりをつとめたんだ。間接的にはともかく、ぼくが直接採用を決めたわけではない。彼女からお礼を言われる筋合いはない。だが、それを口にせず、彼女の緑のたぬきを見た。

「もう、3分経ったんじゃないのかな」

 そう言ってから、どうせなら「入社おめでとう」とか「研修はどうだい」の方がふさわしかったなと悔いた。いつだって、ぼくはこうだ。気がき、ろくな考えもなしに、ちぐはぐなことを口走ってしまう。


「天ぷら、先輩は後乗せ派でしたよね。わたしは先乗せ派なんです」

 彼女は緑のたぬきのふたをめくりながら、楽しそうに言った。ぼくが食べるところを見ていたのだろうか。


「迷子になる」

「えっ? だれがですか、先輩。天ぷらがですか」

「ああ」

 ぼくは一体、なにを言っているんだろう。自分でもそう思った。だが、彼女には通じたようだ。


「天ぷらがお出汁を吸ってふにゃってしたところが美味しいんですよ。しみしみ天ぷらがカップの中で迷子になることは、ありません。かくれんぼしたって、だいじょうぶ」

 彼女は、天ぷらをそばの下に沈めた。まるで、子どもだ。ぼくは、呆れて言った。

「食べ物で、遊ぶんじゃないよ。さっさと食べないと、そばが伸びる」

「先輩ったら、そばが伸びるばっかり」彼女は肩をすくめて、緑のたぬきを食べ始めた。


 ぼくは彼女が食べるところを見ている自分にハッと気が付いて、立ち上がりかけた。すると、彼女が箸を止めた。


「先輩ったら、おそばが伸びるどころか、まだ固いうちから、食べていませんでしたか。天ぷらだけじゃなくて、おそばまでパリパリ音がしていましたよ」 

「きみは、いつから、見ていたんだ」ぼくは、また椅子に座りなおした。


「先輩がお湯を入れるところから。わたしが、あいさつしても気が付かないんですもの。二度、あいさつしました。お湯の順番を待っているときと、ここに座ったとき」

「すまなかった。考えごとをしていたんだ」

「一度、面接のお礼が言いたくて」


 彼女はまた黙って食べ始めた。本当に、美味しそうに食べる子だ。不意に、彼女が顔をあげた。ぼくは慌てて、目をそらした。


「迷子になったら、探せばいいんですよ。こうして」

 彼女は、ふやけてバラバラになった天ぷらを器用にそばに絡めて口に入れ、ニッコリと笑った。「美味しい」

「本当に美味しそうに食べるな、きみは」今度は声に出して言った。


「美味しいものは、おいしく食べなきゃもったいないです。3分待つのが長いなら、その間、なぞなぞを考えればいいんです」

「なぞなぞ?」

「子どものとき、待ちきれなくて、すぐにふたを開けようとしたわたしに、母がなぞなぞを出してくれたんです。考える時間は3分間。それで、わたしはおとなになっても、緑のたぬきにお湯を注いでから3分間は、なぞなぞを考えるんです」

「一人のときは、どうするんだい」

「一人のときは、自分で自分になぞなぞを出すんです」

「なんだい、それは」


 ぼくは思わず笑い出してしまった。声に出して笑ったのは、何年ぶりだろう。目の前の彼女も気分を害するどころか、いっしょになって笑っていた。


「いや、失敬。笑うつもりはなかったんだ」

「わたし、先輩と3分間のなぞなぞをするつもりだったのに、先輩ったら席に座ったらすぐに食べ始めるんですもの」

「すまなかった。これからは、なぞなぞに付き合うよ」

「約束ですよ」


 ふと気になって、彼女にたずねた。

「それなら、さっきもなぞなぞを考えていたのかい」

「はい」

「どんななぞなぞ?」

「3分間、待てない人はだあれ」

「……ぼくじゃないか。そんなんじゃ答えを見付けるまで、3分もかからないぞ」

「わたしは答えを考えながら、待ちましたよ」

「考えながらじゃない、答えを眺めながらじゃないのか」

「ウフフ」


 彼女の笑い顔を見ながら、ぼくは満更まんざらでもなかった。

 彼女が食べ終わるのを待って、いっしょに休憩室を出た。


 別れ際に彼女が言った。

「迷子になっても、わたしが探してあげますからね」

「えっ、何を、天ぷらをかい?」

 彼女はそれには答えずぺこんと頭を下げてから、足早に研修に戻って行った。



 これがきっかけになって、ぼくとあかねは付き合い出した。

 彼女は別れた妻みどりの従妹いとこだった。同じ会社に就職した従妹にぼくのことを託して、みどりは一人旅立って行ったのだ。

 あかねは、ぼくのせっかちさ気の短さをいつも面白がっていた。ぼくも彼女といるのは誰といるより快適だった。

 みどりの心遣いに答えるためにも、ぼくはあかねとの時間を大切にすると心に固く誓っていた。




***


 


「ただいま」

「おかえりなさい、ママ」

「あら、パパと緑のたぬき、食べていたの?」

「うん。パパもちゃんと3分待ってから、食べたよ」

「おい、いつも、パパは3分待っているだろう」

「この間、ママのいないときは待たずに食べたよ。おそばパリパリいってたもの」

「よけいなことをママに言うな」


「まったく、短気は損気、悠期ゆうきは損気ね。美味しいものを一番美味しい状態で食べられないって、すごく損なのよ」

「ほら、パパ、短気は悠期ゆうきじゃなくて、悠期ゆうきは損気でしょ」


「だから、よけいなおせわだ。ママも緑のたぬき、食べるだろ」

「ありがとう、パパ。そうだ、お従姉ねえさん、来月、パートナーといっしょに日本に里帰りするんですって。結婚してから、はじめての里帰り」

「ママ、そのおねえさんって、アメリカにいるママの従姉いとこのおねえさん?」

「そうよ」


「はい、ママ。緑のたぬき」

「ありがとう、パパ。あー、いい匂い、おなかすいた」

「だめだよ、ママ、3分、待たないと」

「いやだ、パパに言われたくない」


「ママ、なぞなぞ出すよ。緑だけど、緑じゃない。たぬきだけど、たぬきじゃないのもの、なあんだ」

「それは、さっきパパが出したなぞなぞだろう」

「テヘへ」



 すべては笑顔のために all for smiles


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