ここに累々と
クニシマ
◆◇◆
ある日の夕方、地方局の楽屋にて『信濃ヒロシのクイズ急行!』の収録を待ちながら適当な雑誌を流し読みしていると、ふと以前に受けたインタビュー記事が掲載されているのを見つけた。二、三ページほどの紙面をざっと眺め、ああそんなことも話したっけな、と少し記憶をたぐってみるが、すぐに興味を失う。
目の前のテーブルに雑誌を放り、床に置いてある自分の荷物からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して飲んだ。ちらりと目をやった壁掛け時計の針は十八時過ぎを指している。まだしばらく余裕があるな。雑誌の隣にペットボトルを置き、座り心地の悪い椅子の上で目を閉じた。
——レイクマンのお二人は現在、バラエティから情報番組と幅広く出演されていらっしゃいますが、とりわけ木田さんといえば様々な番組でドッキリを受けている姿の印象が強いです。今までに経験したドッキリの中で、最も記憶に残っている、インパクトの強かったものを教えていただけますか?
木田:そうですね……まあ、いろいろありますけど、やっぱりあれじゃないですか。二十年くらい経ちますかね、もう。カリフラ(※注:カリフラジリスティックTV)のトーク収録中に、客席からいきなり包丁持った奴が上がってきて高遠が刺されるっていう……あれはマジで怖かった(笑)。相方、刺された! ってもう本当、パニックで(笑)。だって当時俺らデビュー一年目ですよ? まだほぼほぼ素人みたいなところにいきなりあんな……ねえ(笑)。
高遠:お前、全然リアクションできてなかったよな(笑)。
木田:いや、マジでお前死んだと思ったから(笑)。カリフラはやっぱり昔からハードですよね。菱本(※注:トゥーンボウイ・菱本誠)さんがMCだからなのか(笑)。いまだに同じようなことやってるんでしょ? もう、尊敬ですよ。
高遠:やっぱり俺たちって菱本さんとか、辻尾(※注:365H・辻尾大地)さんとかに憧れてこの世界に入ったってところがありますからね。
木田:そうそう。憧れて、上京して。いやでも東京出てきてさっそくお前が刺されるとは思わなかったな(笑)。
高遠:東京の恐ろしさを知ったよな。
木田:何言ってんだ。
——(笑)。
無数のライトが熱いほど頭上近くから木田と高遠を照らしている。やかましい色使いで塗られた背後の壁は薄っぺらいベニヤ板だ。二人は舞台の上でスタンドマイクを挟んで立っていた。
「だからね、聞いてくれますか木田さん」
「聞いてます」
夢を見ている。木田にはそうわかった。あの日の夢だ。あのドッキリがあった日。木田はそのときのことをはっきりと覚えていた。そう、こうやって大してウケもしないトークをしていたら、突然客席から刃物を持った男が現れるのだ。
「——それが、タクシーの運転手だったんですよ」
薄暗い客席からまずひとつ、戸惑うような声が上がった。それは次第に大きなざわめきへと変わっていく。そうだ、こんな感じだった。何かおかしいと思ったけれど、とりあえずトークを続けようとしたんだよな。木田は隣に立つ相方の顔を見る。けれど、あれ、こいつ、こんなに不安そうな顔をしていたっけか。あのときこいつは俺以上に落ち着いて、まるで何も起こっていないかのように話し続けていたから、こいつ大物だと感心したような記憶がある。まあ、それは結局彼がドッキリの仕掛け人だったからなのだけれど。しかしそれがなぜ今、こんな顔で凍りついている?
発するべき言葉を見失った木田がどもった瞬間、客席からひとり男が躍り出てきた。その手にはしっかりと何かが握られていた。男は一気に舞台上へ駆け上がって二人に詰め寄り、勢いよく右手を振り上げた。観客がまた一斉に喚いた。ばらばらと降り注ぐいくつもの照明を受けて、それは一等星のようにぎらりと輝いた。
出刃包丁だった。
それは木田の記憶とまったく同じ光景だった。しかし高遠の反応だけが違った。彼は自らその男に近づき、手首を掴んで押しとどめようとした。震える唇で無理に笑みの形を作り、客席に向かって大丈夫だと呼びかけようとした。違う、あのとき高遠はそんなことをしなかった。ただ怯えて後ずさり、そして刺されたのだ。それは確かに上手な演技だった。だから俺もすっかり騙されて、ネタばらしのカメラが乱入してきたときには涙さえこぼした、それなのに。
誰か誰か呼んで、と高遠がしきりに小声で囁くのを、木田はぼんやりと聞いていた。男は何か聞き取れないことを大声で叫びながらしばらく高遠と揉み合っていたが、ついに彼の身体に包丁を突き立て、ぐっと引き抜いた。
「痛い、痛い」がくがくと体を折り曲げてうずくまる高遠の腹部から、何か大きな塊がぼとりと床に落ちた。ひどくどす黒く見えたそれは大量の血だった。「痛い。」
血。血なんか出ていただろうか。あの頃のカリフラは低予算番組で、それにあまりスタジオを汚しても面倒だからと血糊は使っていなかったはずじゃなかったか。それでも当時の俺は高遠が血を流していないことに気づけるほど冷静でいられなかったから、結局あのドッキリは大成功で終わったのだ。
男が木田のほうを向いた。その重い前髪が影を落とす目元を、ふとぽっかり黒い空洞と見まがう。そのときになってようやく舞台脇からスタッフがなだれ込んできた。取り押さえられながら男は木田に向かって包丁を投げた。その狙いは逸れたようで脚をかすめた。それでもすぐ服に滲み出してきた赤色と、数歩先で水溜りのように広がる高遠の血が、木田の頭を眩ませた。悲鳴と怒号が飛び交う収まりようのない喧騒の中で、ふと音を立ててスタジオの照明が落とされた。木田はよろめき、セットの壁に背を預けるようにして崩れ落ち、気を失っていった。薄れる視界が遠ざかっていく。この暗がりに何も見えなくなったとき、俺は目を覚ますのだ、と木田は思った。ああ、しかし、その暗さというのは、目が慣れてしまえば再び見えるような……鉄臭いにおいが残っているような……。
寝ているうちにバランスを崩したのか椅子から落ちそうになり、木田は慌てて目を開いた。
「おっ、どうした。大丈夫?」
ガタンという音でこちらに目を向けた高遠がそう声をかけてくる。夢で見たよりずいぶんと老けた顔をしていると感じた。
「大丈夫、大丈夫」
時刻は三十分ほど経過しているようだった。目の前の机には雑誌が置いてある。
そのときドアがノックされ、マネージャーが「木田さん」と呼びかけながら入ってきた。不意に何やら気が遠のいていくような感覚が木田を襲った。木田さん。木田さん。木田さん。急激に脳が冴えていく、どこかへ引き戻される——いや、と強く振り払う。額に浮かぶ脂汗を目ざとく見つけたマネージャーは「木田さん?」と心配そうな顔をしてみせた。その声がやけに遠くから聞こえているように思えた。寄りかかっていた壁の感触が克明に思い出されるような気がして、木田は椅子に背をもたせかけるのをやめた。ぞくりと身体が震え、底のない穴のような想像が一瞬のうちに彼の思考を塞いだ。もしあの日から今までの二十年以上もの時間が全て気絶した自分の見ているかすかな夢でしかないのだとしたらどうしよう。もうすぐにでもあの暗いスタジオの隅で青ざめた顔のスタッフに揺り起こされるのだとしたら。そうやって目を覚まして、包丁だけが足元の床に転がったままなのを見たなら、担架に乗せられて運ばれていく高遠のその腕の皮膚が異様に色を失っているのを見たならどうする。その光景はやけに鮮明に木田の脳裏を駆け巡った。いいや、と木田は頭を強く振る。俺はただ、まだ少し寝ぼけているだけだ。そんな木田を高遠が見ている。そう、高遠はすぐそこにいる。だからこんなものはただのばかげた妄想だ。こんなふうに考えたということすらじきに忘れる程度のちっぽけな空想だ。
そう思ってみてもまだ血の気が引いたままの木田に、マネージャーは再び口を開いた。
「木田さん、ちょっと、起きてください」
壁の時計は五、六分ばかり針を進めていた。俺は首筋が汗ばんでいるのに気づいた。どうやらいつのまにか楽屋に入ってきていたマネージャーが俺を起こしたようだ。すぐそばに何やら懐かしい気配があるような気がしたが、もちろんここにいるのは俺とマネージャーの二人だけだから、少し頭を振ればそれはかき消える。
「うん? まだ時間じゃないだろ」
一人用の狭い楽屋。小さな窓の外に沈んでいく夕陽が見える。夢を見ていたな、と、それは覚えているのだが、見た景色はとっくに薄れていて、もうあと何分もしないうちにすっかり失われるだろうとわかった。俺は椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
「なんか、夢、見たわ」
「へえ。どんな夢でした?」
「いや、忘れた。覚えてないだろ、いちいち」
まあそうですねとマネージャーが応える。机の上に、ページを開いたままで放り出した雑誌と飲みかけのペットボトルが静かに佇んでいた。
——レイクマンさんは現在、バラエティから情報番組と幅広く出演されていらっしゃいますが、これまでの芸能生活の中で、転換点となった出来事というものはありますか?
レイクマン:そうですね……まあ、これも結構いろんなところで言ってきましたけど、まず俺、最初はコンビだったんですよね。これ、今、芸名にしてる『レイクマン』って、もともとコンビ名だったんですよ。学生の頃、トゥーンボウイさんとか前田康一さんとか365Hさんとかが出てらっしゃった『ソウル・ファイト・セッション』が好きで、同じ趣味だったやつと組んで養成所入ってデビューしたんですけど、一年目でそいつがちょっと事故に遭っちゃいましてね。それから俺一人になって。なんでやっぱり、転換点っていったらその事故かなあ……あんまり面白くない話でちょっと、申し訳ないですけど(笑)。
ここに累々と クニシマ @yt66
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