44 出立


 新緑が目に眩しい、芦ノ湖の森林。

 その上に広がる初夏の青空に、一点の黒い影が現れた。


 黒い影は瞬く間に急下降し、杉の枝に優雅に着地する。

 その様子をずっと見ていた大男が、破顔した。


「いい頃合いだ、風丸。ご苦労だったな」


 大きな栗色の梟は、嬉々として主人の肩に飛び移る。

 その強靭な足に括りつけられた紙を手早く取ってやると、幻霞は相棒に感謝をこめて肉片を差し出してやった。

 風丸が杉の枝上で嬉しそうに食事をしている間、幻霞は小さく折りたたまれた紙を慎重に開き書かれた字を素早く目で追う。

 やがて幻霞は眉間の皺を寄せてうなった。


「どういうこった。なぜ青龍刀が渋谷から消えた?しかも紀伊に赤紅将軍だと……!」


 しばし、幻霞は空を睨む。


 澄み切った青い空。

 しかし、ずっと晴れるだろうと信じた空に暗雲がわくこともある。


「状況判断は忍の基本、だな」

 幻霞は紙を小さく折りたたんで懐に入れると、意を決したように踵を返した。





 九頭龍村、万巻宮司の屋敷。

 門前に、一桜の姿があった。


「お世話になりました」

 一桜は、改めて深々と頭を下げた。


 すでに村人たちは代わる代わる訪れ、魔龍の呪いから村を救った少女と別れを惜しみ、餞別の品をいろいろと置いていった。

 その品を星彩に積み終え、一桜は残った万巻と涼竹、牛若、二人の間にたつほっそりとした美女――琴に挨拶をしていたのだ。


「いいえ、お世話になったのはわたしたちの方です」

 たおやかな声で言ったのは、琴だ。

「一桜さんがこの村に来てくださらなかったら、今ごろわたしは生贄として社の祭壇で恐怖に震えていたことでしょう。たとえわたしが生贄になったことで大波が収まっていても、来年は新たな贄が選ばれる。そうやって、村には悲しみが積もり続けていく。その悪の連鎖を一桜さんが断ち切ってくれたのです。ほんとうに、一生かけても言い尽くせないほど感謝の気持ちでいっぱいです」

「そんな、顔を上げてください。あたしはそんな大層なことはしてないです」

「いや、姉さんの言う通りだ、一桜。姉さんを助けてくれてありがとう。それと、ごめんな」


 牛若はきまり悪そうに頭をかいた。


「最初に会ったとき、手荒なことしたな。気付かなったとはいえ、本当に悪かった」

 隣で、琴が困ったような顔をして再び頭を下げた。

「まったく…牛若の鈍感さには呆れます。村娘たちの中にもこの子に想いを寄せている娘は多いのですが、そういうことにも気付かないばかりか、こんな可愛らしい女の子を男子と見間違えて打ち据えるなんて…」

「ね、姉ちゃん後半の情報よけいだから!それに!涼竹さんだって一桜のこと男だと思ってたし。な、涼竹さん!」


 すると涼竹は涼しい顔で空を仰いだ。


「私は、薄々勘付いていたけどな」

「嘘だろ?!いつだよ!!」

「最初から。だって男の子というにはあまりにも華奢だろう。それに、朝餉の様子を見ていればわかる。汁椀のすすり方も箸運びも、きちんとした女の子のものだった」

「涼竹さん、姉さんの前だからってそんな」

「そんなセコいこと私はしない」

「そうよ、牛若。涼竹さんはわたしの前だからといって偽りを言ったりしません」

 涼竹と琴は優しく微笑み合った。

「あーそうかよ。どうせ悪者は俺だけだよなっ」

 拗ねる牛若に皆の笑い声が上がった。



(よかったなあ)



 一桜は胸が温かくなった。

 自分が大層なことをしたとは思わないが、こうして幸せになった人々を目の前で見ると心からうれしい。


 しかし。


 この思いを分かち合いたい人物が、さっきから姿を見せない。


「幻霞は、どこへ行ったのかのう」

 万巻宮司が首をひねった。

「さっきまで庭をうろうろしていたんだがのう」

「あたしも探したんですが、見当たらなくて」

「ううむ、あの男のことだから、ひょっこり現れるだろうがのう」

「もしかしたら、湖へ先に行っているのかもしれません。そろそろ舟の用意もできたでしょうし、桟橋へ行ってみましょう」

「うむ、そうするかのう」


 一同が湖へ向かおうとしたそのとき。



「それには及ばねえぜ」



「「「「幻霞!」」」」


 いつもと変わらず人懐こい笑顔で立つ大男に、一桜はホッとした。


「ちょいと用事を思い出したんでな。そいつを済ませつつ、関所を通っていく。なに、もう関所も当分は安全だ。箱根の関所に巣くっていた悪鬼どもがいなくなったからな」


 長年、箱根の関所に君臨していた酒呑は「白い化け物が」と叫びながら糞尿をまき散らし、廃人同様でどこかへ消えたらしい。

 酒呑に従っていた者たちも蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消え、関所には東方鎮守府軍が置いていった歩兵が申し訳程度にいるだけだという。


「それにしたって探したんだよ幻霞! どこ行ってたの!」

「お? なんだなんだ俺サマがいないと寂しいってか?」

「そ、そんなんじゃないってば!!」

「ははは、俺サマに惚れるなよ。なんたって女泣かせの幻霞って通り名があるくらいだからな」

「ばっかじゃないのっ、もうっ」


 一桜はそっぽを向いた。

(幻霞の姿が見えなくて不安だったのはほんとだけど……)


 万巻宮司が朗らかに笑った。

「おまえさんにそんな通り名があるとは知らんかったのう。それにしちゃあ、いまだに独りもんのようだが」

「俺サマは女の理想が高いんだよ」

「ほう、一桜は良い子じゃと思うがのう」

「ば、万巻様まで何を!!」


 慌てる一桜をにこにこ眺める万巻の横で、涼竹も真面目な顔で頷く。


「幻霞殿の嫁御は、胆力のある娘でなければ務まらないでしょう。一桜殿は見目も気立ても申し分ないし、これは良き縁組なのでは」

「おいおい勝手に盛り上がるなよ。俺サマには富士の峰よりも高い理想ってものがだなあ」

「そ、そうですよ! 涼竹さんまで何言ってるんですか! あたしにだって好みってものが」


 あたふたする一桜に、牛若が――なぜか不機嫌そうだが――大きな包みを押し付けた。


「うわっ、牛若何?!」

「琴姉さんが作ったんだ」

「村秘伝の梅干しが入ってるから、2、3日は食べられます。道中召し上がってください」


 見れば、竹の皮の包みがいくつも入っている。おにぎりだ。


「うわあ、うれしい!ありがとうございます!」


 顔を輝かせる一桜に、万巻宮司が頷いた。

「道中、気を付けての」

「はい!」


 それから万巻宮司は、隣の大男を仰ぎ見る。


「幻霞よ」

「ああん?」

「おまえさんが運命をここまで連れてきてくれた。心より礼を申す」

「なんだよ爺さんガラにもない」

「風魔は、昔からこの村の良き友じゃ。お互い助け合ってきた。だからわしらにできることがあれば、遠慮なく言ってくれ」


 耳をほじっていた幻霞は、真剣に自分を見上げる万巻宮司をじっと見返し、ふっと笑った。


「ありがとよ爺さん。大丈夫、親父殿は無事に取り返す。その算段もつけている」

「幻霞……」

「親父殿が帰ってきたら九頭龍村に行くよう、伝える。万巻宮司が囲碁をやりたがってたってな」


 じゃ、と大きな掌を振って幻霞は歩き出した。一桜も星彩を引いて続く。


「気を付けて!」


 幻霞と一桜と星彩が見えなくなっても、屋敷門前に立つ四つの影はいつまでも手を振り続けていた。





 九頭龍村から街道に入ったところで、幻霞がぽつりと言った。


「行先変更だ」

「 ? 変更って…」

「武蔵ノ国へは行かない」


 一桜は目を瞠った。


「そんな! だって、やっと芦ノ湖を越えられるんだよ?そのためにあたしたちは」

「まあ落ち着け」


 幻霞は静かに一桜の肩を叩いた。


「さっき風丸が文を持って戻ってきた。青龍刀の持ち主は渋谷村にいない」

「いない?! どういうこと?」

「青龍刀の持ち主は、紀伊ノ国へ向かったかもしれん」

「紀伊ノ国……」


 突然出てきた予想だにしない国名に、一桜はただ呆然とするしかない。


「東方鎮守府大将軍は、青龍刀を探しているはずだ。そいつの懐刀ふところがたなと呼ばれる男が、紀伊ノ国へ向かったらしい。今回、密かに箱根入りしていた南方鎮守府大将軍を挟み撃ちするために西方鎮守府軍に呼応して東方鎮守府軍は兵を出したが、本来ならそこに『懐刀そいつ』がいてもおかしくなかったんだ。それが紀伊ノ国へ向かっているとすると、理由は一つしか考えられん」

「紀伊ノ国に青龍刀が――青龍刀の持ち主がいるってこと?」

「そういうこった。このまま街道を下って海へ出たら、紀伊方面へ向かう船に乗るぞ」



 紀伊ノ国――それは黄泉の国への入り口とされる国。

 鬱蒼と茂る山にはジパングで三本の指に入るという巨大な神社がそびえ、その山路こそ幽世への道なのだと旅人は恐れ、近寄らないのだという。



(どんな場所だろうと、あたしがするべきことは一つ)



 青龍刀の持ち主に一刻も早く会い、村再興の助力を請うこと。


 決意を新たに、一桜は山道をくだって行った。




~箱根編 おわり ~

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蓬莱国の白龍姫 ~乙女は龍の宝刀で禁断の恋に抗う~ 桂真琴@12/25『転生厨師』下巻発売 @katura-makoto

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