Outsider wolf

御神楽

Outsider wolf

 はらの奥、身体の芯に重苦しい圧迫感を覚える。

 どうすれば、こうも怪物のように振舞えるものか。

 それは強健な腕のようでもあり、身体の奥を鷲掴みにし、動けば、進むと退くとに関わらず、私を、身体の芯ごと引きずり回す。

 激しさと共に、視界が崩れていく。この瞳に写るモノはその意味を失いはじめ、耳が聴くのは脳髄を撫であげる吐息だけ。

 身体の芯に響く、鈍い重量感。それがひとつ響くごとに、腹の底から吐き気がこみ上げてくるような気がする。ひとつ毎にそれは増大し続け、喉下までせり上がってくる。それでも、それが吐き出されることは決してない。

 実体の無い吐き気と共に突き上げられる意識の混濁。吐けない。どれだけ口を開き、舌を突き出したところで、乾いた嗚咽が小刻みに吐き出されるだけ。

 吐ける訳がない。いっそ、喉に腕を突っ込んで全てを引きずりだしてくれ。

 気持ちが悪いんだ、とても。気持ち悪い。気持ち悪い。

 だから――たまらないんだ。



 夜、街灯が煌々と辺りを照らす繁華街の一角。

 高校生くらいの少女が、ひとり、噴水のへりに腰掛けているのが見えた。学校の制服だろう。膝丈のスカートに紺色のブレザーを着た、髪の短い大人しそうな少女だった。ざわめき行き交う人々は風景であり、その中にただ一人、少女はぽつんと埋没している。

 彼女を気に留める者は少なかった。殆どの人は彼女の前を足早に通り過ぎていく。時たま、ちらりと視線を向ける者がいる程度だ。


 少女はうつむき加減に溜息を吐いた。

 先のことなんて、何も考えていなかった。

 そっと、頬に指を伸ばす。頬の上のほう、ちょうど目の下辺りに痣があった。仕方がないじゃないか。私はこういう人間だ。表層くらいは取り繕ってもみせよう。けれども、心を偽れよう筈はない。

 もう戻れない。戻りたくはない。けれども、それは叶わない。おそらく私はあの監獄へ戻ることになる。戻らざるをえない。

「君、ここで何してるのかな」

 突然投げかけられた声に、少女は顔を上げた。

 街角や駅前で見慣れた制服。警察官。

 幾らなんでも酷だ。一日二日も自由にならないのか。

 間隙を縫う悲歎に揺さぶられる。立ち直った思考が、言葉を探しはじめる。口を結んで数秒、若い巡査は不審そうな、困ったような表情を向け、大きく溜息を吐いた。

 いけない、何か喋って時を稼ぐべきだ。考える時間を――

「私――」

「あのう、何かありましたか……?」

 その声は不意打ちだった。

 私と、巡査の間に、誰かが割り込んできた。巡査がひょいと振り返る。

 二十三、四歳くらいの、背の高い、背筋の通った青年が困惑の表情で立っていた。青年はスラックスにワイシャツといった出で立ちで、缶コーヒーを二本手にしている。

「あー……」

 巡査が言葉を捜して首を傾げた。間髪入れずに、青年は問いかける。

「うちの妹が、何か……ご迷惑を?」

「妹……ご家族、ああ、お兄さんですか」

「えぇ」

 彼はひょいと、巡査の肩越しに私を見やった。

「どうかしたのか?」

「さぁ……今声を掛けられたところで……」

 とめどなく、すらすらと言葉が出てくる。

 何を考えているのかは解らない。けれども私がどうすべきかは明瞭だった。私がそう答えると、青年は視線を受け取って、巡査へとちらと顔を向けた。

 巡査はやや口ごもり、顎を引いた。

「……いや、ご家族の方と一緒であるのなら、まぁ……しかし」

 腕時計を見やる巡査。

「幾ら同伴とはいえ、こんな時間じゃありませんか。繁華街に未成年連れというのは、ちょっと」

「あ。いや、これはどうも……」

 どこか居心地が悪そうに喋る巡査を前に、青年は、ハッとして頭を下げた。缶を掴んだ手で頭を掻き、誤魔化しの笑顔を浮かべ、参ったなとでも言いたげだった。

「すいません、ご心配をお掛けしまして」

「それこそ、やっぱり、そこは保護者の方がしっかりしませんと」

「いや、本当、申し訳ありません。私も一人で出歩かせるよりはと、ちょっと軽い気持ちでいたもので……」

「気をつけてください、まぁ、その、色々ありますし」

 巡査は挨拶もそこそこに背を向けて歩き始めた。青年は恐縮して巡査を見送っていた。私もひょいと立ち上がり、小さく頭を下げた。できる限り、それらしく。

 人ごみの向こうへ紛れて、巡査が姿を消す。

 私は暫くしてから、青年の背へちらと顔を向けた。

 百八十センチは越えているだろう。隣に並ぶと、頭二つ分は違うように感じた。

「助かりました」

「……」

 青年は答えなかった。

「ありがとうございます……けれど、何故ですか?」

 問い掛ける。彼はゆらりと振り返った。

 びくりと、肩が跳ね上がった。

 狼だ。

 その瞳は狼のそれだった。

 睨みつけられると、息ができなくなる。喉を食い破られてしまったかのように。

 それでも、私はその視線を求め、混濁の中に意識をさまよわせる。

 その筋張った手にごろりとひっくり返され、肩を、深く沈み込むほどに押さえつけられながら、私の視界にそれを。

 かの手がこの身をへし折ってしまうのではないかとの恐怖に、首筋をくすぐられる。

 腰が浮いている。

 芯を貫く重苦しさに意識をかき乱され、ちらつくさ中に、その眼光が輝いている。この暗闇の中、ただ二つ、狼の眼孔だけがぎらぎらと私を見つめている。

 狼の瞳に吸い寄せられるようにして、意識定かならぬまま肘をついて、やっとの思いに上体を持ち上げる。

 熱く漏れる吐息に喉を焼きながら、唇を開き、舌を突き出す。

 視界が掌に覆われた。

 その臭いが鼻の奥をつく。そのままぐいと押し付けられ、私の頭は沈む。一度たりとて、この唇に、舌に触れてくれたことはなく、伸びる舌はなお足掻くもやがて行き場を失い、焼ける喉だけが残される。

 指の隙間の向こうには、狼の瞳が輝いている。

 けれども私は、私を失っていく。嘔吐感を伴う悪寒は溶けて渦巻きはじめ、それが薄れはじめて私は、私という存在を失える。

 身体の奥に刻まれる時は加速し、存在を失って、私は深く暗い奥底に沈んでいく。全てを失い、何も無い。私も、君も、時間も。

 狂ってしまう。

 私を狂わせてしまえる。

 ようやく。

 刹那の自由をうる。時無き時の刹那に、空を。



 それは狼だ。

 狼は獲物を狩るものだ。

 人に馴染まぬ狼を飼うには、次から次に獲物を与え続けることだ。

 その拳は牙だ。

 牙は喉を喰い破り、臓腑を引き裂く。血の飢えを満たし、狼はひとり眠る。

 君は狼だ。

 君の飼い主たちは正しい。

 狼を狼のままに飼うには、獲物が必要だ。それは単なる血肉ではない。その本能を満たすための獲物でなければならない。そうして獲物を与え続けねば、狼はやがて牙を失い、人に戻ってしまうことだろう。

 けれど君は、それでいいのか。

 闘争本能には際限が無い。満たされた血の飢えは更なる獲物を求める。僅かな血では足りなくなる。やがては君自身の身を内から引き裂き、灼き尽くすだろう。

 違うとは言わせない。

 そうでないなら、何故、君は、そういう日に限ってより“激しい”のだ?

「……」

 少女は眼を覚ました。

 上体を起こす少女。少女は何も身に着けておらず、贅肉の無い胸には骨が薄っすらと浮いていた。

 隣には、青年が仰向けで眠っている。

 眠る彼の顔を覗き込む。仕事の痕が顔にも残っていた。

 ぱっくりと開いていた胸元の傷。添えたガーゼには、薄すらと赤みが差していた。私は、君の寝顔を眺めるのが好きだ。半年ほど過ごしてみて、寝顔が、君の表情で二番目に好きだ。

 君は喋らない。

 余計なことは何も口にしない。

 君はこの家に――この巣に住み着いた私を追い出しはしなかったが、構いもしなかった。ただ黙々と仕事に出かけ、帰って来、眠り、また巣を後にする。

 私はただ君の帰りを待っている。

 この巣を家に変える努力もしてみたが、まるで媚を売っているみたいで、すぐにやめた。今の私は、ただ君の側にいるだけだ。それでも、今まで生きてきた中で一番居心地がいいんだ。

 けれど――

「……さむいな」

 背を這う悪寒に肩を震わせ、布団に潜り込んだ。

 眠る君の腕をかい抱き、身を寄せた。

 意識の中、どこかに黒いものが薄ぼんやりと漂っている。それから逃れられぬことを解っていながら、君の腕をより強く抱いた。

 解っている。どうせこんなもの、ずっと続けられはしない。

 ちっぽけなものしか求めてはいない。けれどそれすらも手に入らず、失われるとしても、それは劇的な破局ではなく、緩慢に崩れ去るのであろうことも解っている。

 それはトラブルと呼ぶにはあまりにも予見されきった、遠目にもその存在の明らかな、ただ大きな影を落とすだけの存在だ。この道を進めばやがてそれに行く手を阻まれることは、道端に佇む私自身が教えてくれた。

 それは私に敵意を向けるでもなく、意図して押し潰そうと動くこともない。それはただそこに存在する外壁のようなものだ。

 空からは小雨が降り、辺りは寒く、その壁は辺り一面を影で覆いつくしている。

 この壁には門がある。

 壁の内で暖を取るためにはその門を経るしかなく、その門へ至るには今来た道を引き返して、正しい道を進み直さねばならない。けれど私は、その門をくぐるための手形を、あるいは自ら破り捨ててしまったがために、もはや堂々と門をくぐることはできないのだ。

 手形が無いならば、かの門にすがり、腰低く頭を垂れて、自省を言葉にすることによってのみ通行を許される。

 かの、慈悲と寛容の名の下に。


 この道には、君がいた。私は君の隣に腰掛ける。

 荒涼とした景色が広がっていた。小雨は降り止まない。壁に遮られた日陰の中、私たちはは雨に打たれ、ぬかるんだ地べたに座っている。眠くなればぬかるみの中へ共に横たわり、君の鼓動を胸に聞く。

 私たちはいずれ痩せ細り、そこへ臥せったままとなる。

 君の名を呼べども声はなく、やがて、どこか遠くからやってきた鬼に、私はひっそりと攫われていく。



 一週間ほどした頃だったろうか。

 返り血と共に帰ってきた君を出迎えて、私は君の頬に手を伸ばし、つま先立ちに唇を近づけた。

 君は私を押しのけた。

 静かな拒否と共に私を突き倒して、この喉笛に喰らいついた。

 君は、私の唇を受け容れない。

 細い私の腕がどれほど君の身体にしがみ付こうとも、足を絡めようと、爪を立てようと、君をこの身に受けようと、決して口付けだけは交わさなかった。それからも、こうしてずっと。

 求め、触れて、私は、君を変えたいと願っているのだろうか。

「君は狼だ。狼は長生きできないぞ」

「……そうだろうさ」

 混濁する意識の中、荒い息と共に吐いた私の言葉は、君を動じさせなかった――薄すらと眼を開いて、私は眠る君の横顔を見つめた。

 一糸纏わぬ姿のまま、私はベッドを降りてタンスへ向かい、一番下の引き出しを開いた。

 手を突き入れてタンスの裏をまさぐり、小さく、ずっしりと重い紙箱を引きずり出した。蓋を開き、取り出した拳銃に弾倉を差し込む。硬い遊底を力いっぱい引いて、弾を送り込んだ。

 ゆらりと歩く私は、ぺたり、ぺたりと足音を響かせていた。

 眠る君の傍らに座り込んで、私はゆっくりと、その銃口を顔に向ける。安全装置を外す小さな金属音。

 鼓動は落ち着いていた。不思議なほどに。

 ふいに、君が眼を開いた。

 銃を握る指からせりあがるようにして、私の眼を見つめる。君は驚いた様子もなく、黙って私を見つめて、やがてこともなげに眼を閉じ、小さな溜息と共に再び眠りに就いた。

「そう……」

 私はゆっくりと腕を持ち上げて、自らのこめかみに銃口を押し当てた。

 高揚はない。悪寒も混濁もなく、ただただ無感動で、静かだった。

 何も感じられなかった。何も。夢のようにまるで現実味が無く、私は私の存在すら疑った。私は混沌のただ中にその身を反転させて、ありもしない現実に幻と踊っているようで。

「……」

 私は鏡へ向き直る。

 そこには、少年の姿が映っている。衝動的に引き金を引く。少年は砕け散る。

 鏡に走る蜘蛛の巣に、私が囚われている。

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Outsider wolf 御神楽 @rena_mikagura

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