スケッチ ブック

亜麻音アキ

スケッチ ブック

 あの子がわたしに声をかけてきたのは、ちょうど今と同じくらいの、ほんの少しだけ空気に秋の気配が混じり始めた、それでも昼間はまだ汗ばむくらいに気温の上がる頃だった。

 

「絵の、モデルになってくれませんか?」

「いいよ。ただし報酬は貰うけど」


 どうやって報酬のお金を用意しているのかは知らない。


 ご両親から貰っているお小遣いなのか、貯金を切り崩しているのか。はたまた、やむにやまれずいかがわしいアルバイトでもしているのか。男の子のいかがわしいアルバイトってたとえば何なんだろう。ぼんやり思い浮かべてみたけれど、何も思い付かなかった。


 モデルの最中に何の気なしに訊いてみたけれど、答えてくれたことはない。


「気にしないでください。ちゃんと払いますから」


 真摯と呼べるまっすぐな瞳でそう答えるだけだった。


 とにかく、決して安くはないはずの金額を支払ってでも、この子はわたしなんかを描きたいと言い続けた。


「たばこに口を付ける時の少しだけすぼめた唇が好きです」

「終わりの時間が近付くと、時計にチラッと目線を送る時の上目遣いが好きです」

「流線的な身体のラインがとても美しいです」

「呆れているみたいな、諦めているみたいな、陰のある瞳が好きです」

「あなたに、欲情しているのかもしれません。よくはわかりませんけど」


 モデル中、スケッチブックに鉛筆を走らせる硬質な音だけが響く部屋の中で、わたしが訊ねたわけでもないのにあの子が一方的に教えてくれたことはそれだけだった。


 不思議と、嫌な気持ちになることはなかった。


 一生懸命に何かを続ける原動力は人それぞれだと思うし、その何かはとても純粋なものだと思っていたから。


 なにかにひたむきに努力を続けることは、なにより尊いことだと思っていた。


 だから、わたしは日々努力をしてきた。


 頑張りなさい。努力しなさい。両親からも学校の先生からも、ずっとそう言われ続けてきた。


 だからその通りに頑張ってきたつもりだ。


 けれど、頑張って努力を続けるだけではダメだった。


 頑張りなさいと言われ続けたから頑張ってきたはずなのに、一生懸命に頑張るだけではダメだなんて、誰も教えてくれなかった。


 時計の針が無情に時を刻んでいくまま、学生じゃなくなり、いやおうなく社会へと追い出され、目の前のやるべきこと、成すべき責任にただ真っ直ぐに取り組んできた。


 そうすることが正しいと疑わなかったし、自分に出来ることはそれしかないとさえ思っていた。


 それなのに、どんなに努力を続けても欠片も評価なんてされないし、そんなことはただ当たり前のこととして受け止めてさえもらえなかった。


 小さな子供の頃は、画用紙いっぱいに、思うがまま感じるがまま様々な色のクレヨンで描いた、稚拙に過ぎる落書きじみたお絵かきを、まわりの大人たちは無条件に褒めて認めて喜んでくれた。


「お絵かきが上手ねえ」

「これは将来は画家になれるぞ」

「とっても上手くて羨ましいわ」


 口々に褒め称えられることがただ純粋に嬉しくて、描いて、描き続けた。わたしが楽しみながら一生懸命描くだけでみんなが笑顔で喜んで褒めてくれる。それはとてもとても嬉しいことだった。

 

 だからずっとそうやってきた。


 あの時の喜びを、また感じたいと願いながら頑張ってきた。


 それじゃダメだよって誰も教えてくれなかったから。


 他にやり方なんてわからない。だから、ただ愚直に目の前のことを頑張ってこなしてきた。けれど、それでもダメで、与えられた仕事をきちんと済ませても褒められもせず、労われもせず、ダメ出しだけをされて心は疲弊していくばかり。


 そんなある日に、一生懸命やっていた仕事でミスが見つかった。どうやらわたしが担当した箇所のようだった。原因を問われることもなく、言い訳さえさせてもらえず、頭ごなしに罵倒されて、ポッキリと心が折れて私は仕事を辞めた。


 辞めて初めて気が付いたことは、世の中はわたしがいなくなってもぜんぜん余裕で回っていくし、わたしの代わりなんて掃いて捨てるほどいるってことだった。


 どんなに一生懸命努力を重ねたところで、わたしはいくらでも換えの効く、ホームセンターで一個数円でバラ売りされているネジ程度の存在でしかなかったと、自分自身で証明しただけだった。


 どこかに転がしてうっかりなくしてしまったところで、すぐに労することもなく換えの見つかる、大勢に影響もない取るに足らないものでしかなかった。


 何もかもがどうでもよくなった。


 自分なりに一生懸命努力してきたはずなのにわたしの手には何もなくて、だからといって死んでしまおうだなんて度胸もなく、昼間からコンビニで安ウイスキーを買ってたばこをふかして咳き込んでいたところに声をかけられた。


「絵の、モデルになってくれませんか?」


 苦くて、眉をひそめたくなってしまいそうな懐かしい感覚が蘇ってきた。それほどまでに、一生懸命に努力をしている人間の目をしていた。


「いいよ。ただし報酬は貰うけど」

「報酬、ですか?」

「うん。一時間千円。払える?」

「払います」


 そういって、あの子はじつに子供らしい二つ折りの財布から、けっこう使い古されてくっきりと折れ目の付いた千円札を差し出してきた。


 本当に事前に用意してたわけじゃない、たったいまわたしに言われて財布から取り出した、なぜだか親近感の湧いてしまいそうなしわしわの千円札。端が折れ曲がり、きっと皺がつきすぎて自販機からも押し返される、使い古されてなおいまだに世の中を渡り歩かされている千円札。


 冗談のつもりだった。


 だってあの子の見た目は良くて高校生、もしかすると中学生かもしれない幼さを感じさせた。


 新手のナンパなのかとも思ったけど、中高生にナンパされるほど自分がいまだに若々しいだなんて自惚れてはいない。


 どうせ冷やかしだろうと促されるまま椅子に腰掛けて、足を組んで頬杖をついた。対面に腰を下ろしたあの子は時折、睨み付けるみたいにわたしに視線を寄越しながら、基本的には口を開くこともなく静かに、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。その熱心に描き込む姿を、わたしは鏡でも覗き込むみたいに見つめた。


 一時間後、ぱたんとスケッチブックを閉じて、「明日もお願い出来ますか?」と訊ねられた。自暴自棄だったとまでは言わないけれど、からかい半分とどうでもいいやって気持ちが半分で、携帯番号を書いた紙切れを手渡した。

 

 そして、これが何回目なんだろう。


 一時間で終わる日もあれば、三時間ジッとモデルをさせられる日もあった。二、三日連絡のない日もあれば、三日続けて二時間以上なんて日もあった。もちろん、時間に応じた金額を、やっぱり二つ折りの財布から千円札を抜き出してきっちり払っていく。


 さすがにけっこうな金額になってきていた。律儀ですごいなと思った。


 努力してるんだね、頑張ってるんだね、えらいね、すごいね。


 でもね、大人になったら、それだけじゃダメなんだよ。


 あなたのまわりの大人たちは、誰もそれを教えてはくれないの?


 ねえ、どうしてそんなに頑張れるの?


 きっと、心が折れる瞬間がやって来るよ?


 その時、あなたはどうやって立ち直るのかな?


 わたしはどうして、それをあなたに伝えないのかな?


 意地悪、なのかな。


 スケッチブック越しにまっすぐな視線を向けられるたびに、わたしの心が見透かされているみたいで、子供相手に気圧されて視線を逸らしてしまいそうになる。


「出来ました」


 ちいさく一つ、満足そうに頷いて、わたしにスケッチブックを見せてくれた。


 そこには、子供みたいに笑顔を浮かべるわたしの姿があった。


 ――なによこれ、こんなの違う。


 わたし、モデルの最中に笑顔なんて一度として浮かべていなかったじゃない。あなたの将来を心配するフリをして、世の中を達観したみたいに斜に構えて見下して、つまらない疲れた大人の顔をしてたじゃない。


「最初に会った時から、あなたには笑っていてほしいって思ったから」


 なによこれ、なーんにも知らずに、バカみたいに一生懸命に画用紙にお絵かきをして、誰かに喜んで貰いたくて絵を描き続けていた、幼い子供の頃のわたしみたいな顔してるじゃない。


「買うわ、この絵」


 わたしは今までずっと報酬として受け取っていたお金を全部押しつけて、スケッチブックの中で笑顔を浮かべるわたしを奪うみたいに受け取った。


 ――こんなところにいたんだね、なくしていたわたし。


 スケッチブックを胸にきつくきつく抱き締めて、わたしは膝を付いて子供みたいにわあわあ泣いた。


 それっきり、絵の完成を最後に、あの子から連絡は来なくなった。もちろん、わたしから連絡をすることもない。

 

 あの買い取ったスケッチブックの絵は、今もわたしの部屋の壁に画鋲で無造作に貼り付けている。


 再就職した職場で、やっぱり一生懸命に努力することしか出来ないわたしの、ちっぽけで脆い心の支えになってくれている。


 笑顔のわたしに、わたしは笑顔を思い出させてもらっている。

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