赤いのと緑のと

青空野光

辞令

貴殿の静岡支社での勤務実績を高く評価し、令和○年○月○日付けで大阪本社営業部での勤務を命じる。



 青天の霹靂であった。

 本社営業部への異動なのだから、栄転であることは間違いない。

 実際、支社長からも祝辞をいただいたし、本社勤務を羨ましがる同僚も一人や二人ではなかった。

 正月にしか帰ることの出来なかった岡山の親にも、これまでよりは多く顔を見せることが出来るだろう。


 珍しく終業時刻の午後六時ちょうどに仕事が片付き、いつもより一時間も早く家路へと就いた。

 今日が金曜の夜だからだろうか、道行く人たちの表情がいつもより明るく感じられる。

 先程から俺の前を歩いているカップルなどは、とても楽しそうに翌日のデートのスケジュールを確認し合っていた。


 人通りの多い駅前の通りから離れて線路沿いに進路を変えて五分ほど歩くと、俺の住む11階建てのマンションが見えてきた。

 公共交通機関や自家用車を使うこともなく、徒歩で気軽に出退勤が出来る立地が気に入っていたのだが、こことも来月にはお別れをしなければならない。


 五階にある部屋の玄関を開けると、誰もいない真っ暗な空間に「ただいま」と呟いて靴を脱いだ。

 リビングの入口で照明のスイッチを押すと、すぐにコートと鞄を床に放り出し、ベージュ色をした三人掛けのソファーに倒れ込む。

 ここに引っ越してきた三年前に少しだけ無理をして買ったお気に入りのソファーは、僅かな軋みすら立てずに俺を全体重を受け止めてくれた。

 壁に掛かっている時計の秒針が動くカチカチという音が、いつもより大きく聞こえるような気がした。

 この時計とも三年の付き合いになる。

 


「……腹減った」

 空腹で目が覚め、初めて自分が寝てしまっていたことに気がついた。

 立ち上がって大きく背伸びをしながら時計に視線を向ける。

 ちょうど短針が8の文字盤の上に乗っていた。

 どうやら二時間近くも寝てしまっていたようだった。


 何か食べるものが無いかと冷蔵庫のドアを開いたが、お茶やビールや調味料の類が入っているだけで、空腹を慰めてくれそうなものは見当たらない。

 コンビニにでも行ってこようか。

 そう思い、床に放ってあった鞄から財布を取り出そうとしたその時、玄関の方から鍵を開けるガチャリという音が聞こえた。


 少しして、パタパタという軽量な足音が廊下の奥からこちらに向かってくる。

 首元にファーの付いた白色のダウンコートを脱ぎながらリビングに入ってきた彼女は、栗色をした長い髪を手で整えながら「ただいま」と言った。

「おかえり。今日はお互いに早かったみたいだね」

『ただいま』『おかえり』というやりとりはしたが、彼女はこのマンションで一緒に住んでいるというわけではない。

 彼女はここから五駅程離れた隣の市で一人暮らしをしており、週末だけ俺のマンションに泊まりに来るのだ。


 岡山の高校から静岡の大学へと進学した俺は、入学直後に開かれたサークルの新歓で彼女と出会い、五月の終わりにはもう付き合っていたので、交際歴はかれこれ七年にもなる。

 俺は大学を卒業したあと地元の岡山には戻らず、大手メーカーの静岡支社で営業の仕事をしていた。

 彼女はといえば、隣の市にある結婚式場でウエディングプランナーをしている。

 そこは彼女が中学生の頃に歳の離れた従姉が結婚式を挙げた場所であり、それ以来そこで働くことが夢だったそうだ。


「ごめん。ちょっといい?」

 手招きをしながらダイニングの椅子を引き、彼女をそこに座らせた。

「……どうしたの?」

 俺の様子が普段とは違うことに気づいたのだろう。

 彼女は少しだけ不安げな表情を浮かべて俺の顔を覗き込んでくる。

 テーブルを挟んで向かい合うと、今日会社であったことをそのままに打ち明ける。

 彼女は俯きながら黙ってそれを聞き、話が終わると静かに顔をあげた。

 そして、小さな声で「……そう」とだけ言って再び下を向く。

 会話の順序としては、次は俺の番なのだろうが――。


『大阪についてきて欲しい』


 その、たった一言が言えなかった。

 


「……お腹空いちゃった」

 鉛のように肩に押しかかっていた沈黙を最初に破ったのは彼女のほうだった。

「外に何か食べに行こうか?」

 そんなことしか言えない自分を情けなく思ったが、もう少しだけ考える時間が欲しかった。

「冷蔵庫に何かなかったっけ?」

 そう言って椅子から立ち上がった彼女は、冷蔵庫のドアを開けると、先程俺がしたのと同じく小さくため息をつき、その横にあるパントリーに積まれていたカップ麺を手に取って振り返った。

「赤いのと緑の、どっちがいい?」


 電気ケトルに水を満たしてスイッチを押下する。

 俺は赤いきつねを、彼女は緑のたぬきを選び、再びダイニングに向かい合って透明のフィルムを剥がしていた。

 蓋を半分だけ開けカップの中から粉末スープを取り出していた彼女が、手の動きを止めると唐突に口を開いた。

「――赤いきつねと緑のたぬきってさ」

「……うん?」

 粉末スープを麺の上にあけてから、彼女は静かに視線をあげて続けた。

「赤いきつねと緑のたぬきって、地域によって味付けが違うんだって」

「へえ、そうなんだ」

 返答としては褒められたものではなかったが、彼女の会話の意図が読めなかった俺は、それだけ言うと自分の赤いきつねの粉末スープの袋を指で弾きながら、彼女の言葉が続くのを待った。

「私はずっと静岡に住んでいるから、静岡県で売っている味が一番好き」

 消え入りそうな声で「そっか」と発するのが精一杯だった。

「でも、大阪のもきっと美味しいよね」


 俺は椅子から立ち上がり彼女の後ろに回ると、その小さな身体を力いっぱいに抱きしめた。

「俺と……俺と一緒に来て欲しい。……結婚しよう」

「……うん、いいよ」

 すぐ後ろのカウンターから、電気ケトルの湯が煮え立つグツグツという音が聞こえてきた。


 ******


「ママー! おなかすいたー!」

 ニ才になったばかりの愛娘はそう言いながら、リビングに併設された畳コーナーで洗濯物を畳んでいる母親の背中によじ登ろうとしていた。

「ママはお仕事が忙しいから、パパにお願いしてみて」

 母親の言葉を素直に聞き入れた彼女は、俺の座るソファーの前までパタパタと足音を立てながら駆け寄ってくる。

「パパー! おなかすいたー!」

 彼女を抱き上げるとダイニングまで連れて行き、ベビーチェアの上にポスンと座らせると、中腰の姿勢で娘の小さな頭を撫でながら、俺は笑顔でこう問いたずねる。

「あかいのとみどりの、どっちがいい?」

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