第4話 僕が憎んだ世界に君が居るということ。
目の前で、品性の輝きが呼吸している。
僕は伊織を見下ろしたまま、ハンマーを握り締めて立ち尽くしていた。
「良子」
「何かしら」
「提案がある。彼女は必要だ。生かして連れて帰りたい」
「あら。駄目よ。目撃者は生かしておけない。それが神を信じる者であれば、尚更ね。彼女のオーラの色は気に入らないの」
「奴隷として、一生苦しめてやりたいんだ」
「もう。それは本心じゃないわね。いい? 世界を壊すというのは具体的な事なのよ。乗り越えなさい。目の前にあるのは、貴方の最後の人間性なのだから」
良子は冷徹な口調で言い放つ。彼女の
そう。
僕はもう、後戻りは出来ない。この手に、魂に染み込んだ血の汚れは、どんなに拭っても消えはしない。どれほど望んだとしても。
意を決して、ハンマーを振り上げる。
田辺伊織が震えていた。彼女は小鳥の雛のように弱々しくて、ほんのちょっと小突いただけでも、消えてしまいそうな気がした。
次の瞬間、思い切りハンマーを振り抜いた!
どしり、と近くの魔術師に打ち込んでなぎ倒す。そいつは滑稽な呻き声を上げながら、殴り飛ばされて床を転がった。
僕は雄叫びを上げ、狂ったようにハンマーを振り回す。それに恐れをなし、黒魔術師共は蜘蛛の子を散らすように僕から離れ去ってゆく。
その隙に、僕は伊織の手を掴む。
「早く。逃げるんだ!」
「どう、して?」
「いいから早く!」
僕は伊織を連れて駆け出した。目の前の大柄な魔術師を蹴り倒し、ハンマーを床に叩きつけながら進む。気迫に押され、狂人どもが道を開ける。
これなら逃げられる。もう少しで出口だ。僕は伊織を引き寄せて、扉へと手を伸ばす。
刹那──。
プツリと、音がした。
背に、冷たい感触が侵入する。次に、激痛が襲ってくる。ナイフで刺されたのだ。
「何、この人。期待外れなんだけど?」
アノンが血まみれのナイフを手に吐き捨てる。
僕はつんのめり、倒れて動けなくなる。激痛で全身が痺れ、指一本動かせなかった。
「きゃあああ! どうして!」
伊織が悲鳴を上げる。
滲んだ僕の視界で、血液が、床に広がってゆく。
「やめて、嫌! やめて!」
伊織が引きずられてゆく。助けなきゃ。それなのに全く力が入らない。息も出来ない。暗い。死が、迫って来る……。
混沌とした状況の中、魔術師どもが口々に何かを言っている。でも、もう、何を言っているのかもわからなかった。やがて音に続き、光も消えてゆく。途切れそうな意識の中で、何かが、視界の隅で蠢いた。
ゆるりと、目の前に白い足首が歩み寄る。
「これだから人間は。どんなに穢しても、憎しみに染めても、罪に塗れさせても、すぐに光に手を伸ばそうとする。愛の前に、こうも脆いとはね」
穏やかな声に目をやると、イスライシュが僕を見下ろしていた。
「とり、引きを、しないか。魂が……欲しいんだろう?」
僕は最後の力を振り絞り、言う。
「へえ。興味深い提案だね」
イスライシュは興奮を抑えきれないといった眼差しで、僕に手を伸ばす。
「お前にとって、都合の、悪い契約でも……構わないか?」
「契約は契約だ。僕等はそれに従うだけさ。悪魔とは、そういう存在だからね」
イスライシュは微笑して、僕の手を取った。
契約が、成立した。
「きゃあ、嫌。こんなの、助けて!」
伊織の声が木霊する。
その頭上に、血塗れのハンマーが振り上げられた。
ずしり! と、鈍い音が響き渡る。
ハンマーを持つ男は、五メートルも蹴り飛ばされて壁に叩きつけられた。壁には亀裂が入り、男は派手に吐血して倒れ伏す。
蹴ったのは、僕だ。それは恐るべき力だった。全身に、人間を超える力が満ち溢れているのを感じる。もう、誰にも負ける気がしない。
「あら。イスライシュと取引をしたのね」
良子の瞳が曇り、
彼女の指摘通り、僕の体内にはイスライシュが入り込んでいた。悪魔に憑依された途端に傷の痛みが薄れ、出血も収まっている。口からは黒い蒸気が立ち上り、全身が熱い。
「僕の名はイスライシュ。一八八◯◯人の男を殺し、古代エジプト王国を震撼させし者」
僕の口がひとりでに動き、言葉を発する。
「うわあ! こいつ、悪魔憑きだあ!」
周囲の魔術師共が、恐怖に顔を歪めて腰を抜かす。僕が睨みを利かせると、黒魔術師共は我先に逃げ出して、教会の扉へと殺到する。場は、混乱の極みに達した。
「もう。仕方がない人ね。ヘレルアテン……」
と、良子が
すると、ヘレルアテンが「応!」と吼え、その姿が半透明に滲む。悪魔は、アノンと重なった。
途端に、アノンの様子が変わる。
「熱い、がああっ!」
アノンは苦悶の声を上げ、顔を上げる。眼が異様に赤かった。まるで飢えた獣のような、強い狂気を帯びている。涎を垂らし、身体中に血管が浮き上がり、脈打っている。
「うおお。俺様はヘレルアテン。ラハブの破壊者なり!」
アノンが声を張る。否、
ぐっ、と、悪魔憑きとなったアノンが踏み出して、眼前に立ちはだかる。教会には僕とアノン、伊織、そして、良子だけが残っていた。
ヒリヒリとた緊張が、場を満たしている。
暫くの睨み合いの後、僕等は互いに息を吸い込んだ。
ふっと、アノンの姿が消える。人間の速さじゃない! 僕の肉体は自動的に機能して、超高速で対処する。
パァン、と、拳を弾く。だが、ヘレルアテンは止まらない。僕も踏み込んで拳を叩き込む。
僕とアノンは激突した。
轟音、衝撃、苦痛。
僕の拳が唸りを上げて、アノンの顎に突き刺さる。アノンも僕を殴りつけ、肉を打つ音が響き渡る。鈍重な衝撃と痛みが僕の肉体を何度も貫く。が、イスライシュは少しも怯まない。少しも、恐怖を感じない。ヘレルアテンも殴られながら、歓喜に似た狂気を撒き散らす。
絶え間なく、人間を超える力がせめぎ合う。
床のタイルが踏み割られ、血風が舞う。僕等が殴り合い、蹴りを放ち合う度に、衝撃波で窓が割れる。やがて骨が砕け、肉が爆ぜる。だが、それ程の傷も、じわじわと癒えてゆく。
ぐっと、全身に力がみなぎった。僕の右足の熱量が高まってゆく。イスライシュは、何か切り札を使う気なのだ。
「ヘレルアテン、この一撃で眠れ!」
「黙れイスライシュ。下級天使が俺様に勝てるつもりか!」
必倒の、渾身の蹴りを放ち合う。鈍重な衝撃音が木霊して、蹴りが突き刺さる。僕等は互いに蹴り飛ばされて、ドカン。と、分厚いコンクリートの壁を突き破った。
暫しの静寂の後、むくりと、身体が自動的に起き上がる。アノンもまた、ゆらりと起き上がった。どうやら、悪魔憑きって奴はとても頑丈で、もの凄い怪力を出すらしい。痛みにも鈍感になり、傷もすぐに癒えてしまう。それは互いに、容易には相手を仕留められない、ということを意味していた。
「もう。これじゃ
良子はやけに無感情に言う。
「済まないね、良子。でも、僕は契約を履行する。この場合、結論は一つしか無いように思うけど?」
僕の口を使い、イスライシュが応える。
「そうね。本気を出せばヘレルアテンが負ける筈は無いのだけど、だからといってイスライシュを失う訳にもいかない。仕方がないわ。貴方の勝ち。ね」
良子は、小さく溜息を吐いてヘレルアテンに目配せする。すると、アノンから、ヘレルアテンが抜け出した。
アノンが崩れ落ち、嘔吐する。その背に、良子が優し気に触れる。
「ここでお別れね。でも、覚えておきなさい。貴方の憎しみは間違っていない。世界は取り返しがつかない程に汚れているもの。そして世界も、神も、決して貴方を受け入れることはない。私は、貴方を救いたかったのよ。本当に残念だわ」
良子は淋しげに言い残し、魔術師共を連れて教会を後にする。遠ざかる背中が闇に紛れ、消えてゆく。
残されたのは、いくつもの死体と静寂だけだった。
やがて、僕の身体からイスライシュが抜け出した。その途端、凄まじい倦怠感が襲い、立っていられなくなる。
「君には生きて貰うよ。あと二つ、願いを言って貰う必要があるからね」
そうして、イスライシュの姿は滲み、虚空へと姿を消した。彼は一応、良子の守護天使である。良子を追っていったのだろう。
「
初めて、田辺伊織が僕の名を呼んだ。
僕は、まだ立ち上がれなかった。そんな僕の胸に頬を擦りつけて、伊織は声を上げて泣いた。
★
僕はその後、警察に自首した。
だけど、起訴も捜査もされなかった。事件の証拠も被害者等の記憶も、何もかもが無かったことになっていたのだ。戸籍も改変されており、殺された連中は、初めからこの世界に存在しない事になっていた。
★ ★ ★
あれから何年もの月日が過ぎ去った。
僕と伊織とは、恋人という関係を続けている。彼女との生活を続けるうちに、僕は少しずつ、人間らしい感情を取り戻していった。
僕はとある個人サイトを立ち上げた。
「裏パブリックビューイング」と、いう。未解決事件を専門に取り扱うサイトだ。
作った動機は二つ。
対世界は悪だ。だから、それを戒めること。
人は、どうしても誰かを許せないならば、討つべき者を討たねばならない。それは対世界に陥って無差別に暴発するよりは遥かにマシだし、筋が通っている。
裏パブリックビューイングは、適切な諸悪の根源を割り出す為に機能する。
もう一つは、世界の真実を知る為。
僕等には知らない事が多すぎる。世界がどんなに危険で汚れているかってことも。こちらから踏み出して情報を集めなければ、それは目と耳を塞いでいるのと変わらない。
いずれ、サイトに集まる情報から、良子やその組織についても明らかになるだろう。
締尾良子がどういった存在なのかは、僕にも、最後まで解らなかった。彼女が何処へ行ったのかも。
一つだけ言えるのは、彼女は世界を壊しに行った。それだけだ。
彼等魔術師に関しては、大昔からこう呼ばれているそうだ。
〝ストリクス〟、と。
いつかまた、ストリクスと戦う時が来るだろう。僕の全身が、それを確信している。僕も同志を集めようと思う。一人でも多く、勇敢で賢い光の側の人間に、このサイトを利用してほしいと願う。
おしまい。
隣の良子さんは終末を手招きする 真田宗治 @bokusatukun
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます