第2話 それから

 モリオのセンサーは男の体温が急速に低下するのを察知していた。二酸化炭素の排出も筋反射もない。それが「死」を意味する情報だという事を、モリオの胸部にあるMPUは瞬時に判断した。

 生物の死を目前に知覚する経験は初めてのことだ。哺乳類の死に接した時にどう行動するかについては、あらかじめいくつかの選択肢がプログラムされている。しかし、人を呼ぶなどの日常生活を前提とする選択肢は、今は役に立たない。モリオには自由判断の機能があった。プログラムが想定しない状況で柔軟な行動を取るためのもので、それこそがモリオの行動を人間に似たものに見せる技術的核心部分だった。

 しかし、モリオは動けなかった。MPUに急速に負荷がかかり、知覚がのろのろと間延びする。胸郭にも負圧が生じたようで、身体が小刻みに振動する。またシステムが暴走を始めた、とモリオのエラーチェックボックスは認知したけれど、コレクトルーチンを走らせることをMPUが拒否し、次第に発熱量が増加して身体各部位のサーボ機構が更に不安定になる。

 モリオは男の身体をそっと床に横たえた。何かをしなければ、とMPUは必死で自由判断を試みた。浄化、という答えがふいに現れる。長く身体を拭くこともなく、涙や排泄物でぐしゃぐしゃになっている男は、不快を感じているに違いない。生命活動を停止した肉体に対して情緒的な反応を想定するのは不合理だ、とエラーチェックは注意を発したが、それもまたMPUは撥ね付けた。

 モリオは洗面器に水を汲んでくる。それだけがシェルターと外界を結ぶ絆である清らかな地下水は、男を森へ帰す力を持っているように思えた。白いタオルを水にひたし、男の服を脱がせ、顔から身体へと丁寧に拭う。老いて死んだ皮膚を慈しむように撫でてゆく。全てを終えると、新しいパジャマを着せ、シーツを取り替えたベッドに男を横たえた。

「ドウデスカ、心地良クナリマシタカ」

 モリオは亡骸に向かってそう語りかけた。エラーチェックはもう沈黙していた。

 モリオはしばらく男を見つめていたけれど、一歩、一歩、よろめく足取りで後ずさるようにリビングを出た。暗い廊下をゆっくりと歩く。きいぃゆ、きいぃゆ、と泣き声のような音を立てながら。

 私の名前はモリオ。最後にあの人は私を懐かしい名前で呼んでくれた。もう十年以上も名前で呼び合うことなどなかった。呼びかければ、それは必ず相手への呼びかけだったから。だから、忘れてしまっていた。私自身の名前を、そして……あの人の名前を。忘れる筈がないのに。フラッシュ・ロムに刻み込んだ大切な名前なのに。

 胸郭の負圧が強まり、うずくまってしまいそうになる自分を叱咤しながら、モリオは自分の部屋に入った。壁の棚一面に置かれた数十体のミニチュアが、モリオを見下ろしていた。男が死んだ今、自分が活動を続ける理由はもうない。各パーツの耐久年限もとうに過ぎ、いずれにせよ、もうすぐ機能は停止するだろう。その前に、この子たちを解放しよう、と思った。

 モリオはミニチュアを全て廊下に持ち出すと、一体ずつゼンマイを巻いて、はるか闇の彼方へ向けて離した。きりりりりりりり、きりりりりりりり、ミニチュアは長い長い廊下の果てにある闇に飲まれてゆく。闇から来たものが闇に戻ってゆく。

 どうして自分はこんなに不安定なのだろう。


        *


「ドウシテ私ハコンナニ不安定ナノデスカ」

 あの日、モリオが男の父に発した問いだ。

「ミンナ居タノデス。カクレンボヲ始メル前ハ。ダノニ、私ガ顔ヲ上ゲタ時ニハモウ、ダレモ居ナカッタノデス。急ニ、胸ノ周囲ノ圧力ガ低下シマシタ。MPUハ意味ノナイ情報ヲ大量ニ演算シテ正常ナ処理能力ヲ失イマシタ。身体ガ振動シ、関節ノ運動ヲ制御デキナクナリマシタ。森ハトテモトテモ静カデ、樹々ノ梢ヲ見上ゲルトグルグル吸イ込マレテシマイソウナホド光学知覚ガ混乱シテ、理由モナク、自分ノ存在ニ否定的命令ヲ下サレタト認識シマシタ」

「それは、淋しかったんだよ。そして哀しかったんだよ」

 暴走したモリオが運び込まれた研究所の一室。父と、ごく少数の気心の知れた部下が、モリオのオーバーホールの準備をしている。モリオは高熱を発するMPUのうわごとのように、自分の設計者である父に語り続けていた。

「淋シイトカ、哀シイとか、ソウシタ感情ハ高等哺乳類ニ観察サレルモノデス。私ハ生物デハアリマセン。淋シイ哀シイトイウ感情ヲ生ジルコトノ作動合理性ハ想定不能デス。システム設計ニ致命的ナエラーガアルノデハナイデスカ」

 モリオがいうと、彼は哀しそうな目でモリオを見つめた。

「私は君を、人間に似せて作ろうとしているんだよ。そもそも、人間とは不安定なものなんだ。哀しいとか、憎いとか、ネガティブな感情に支配されて我を失い、周囲も自分自身も傷つけて止まないことがある。……アンドロイドの君には、生物を傷つけてはならないという基本命令が組み込んであるから、激しい自家中毒を起こしてしまうんだ」

「コノ気持チハ、私ノ情報認知ト行動選択ト行動出力ノ全テヲ、トテモ不安定ナモノニシテイマス。嫌デス。私ハ、コンナ不安定ナシステムヲ駆動サセルノハ嫌デス」

「すまないと思う。君の苦しみを見ていると、君を作ったことが本当に良かったのか、分からなくなる。でもね、人間の心は、不安定であるからこそ、嬉しい気持ちや穏やかな気持ちを持つこともできるんだよ。人は世界で起きた出来事から意味を読みとり、何らかの感情を得て、それに従い行動する。その行動が新たな出来事を生み、また新たな感情を生む。人が生きるっていう事は、そんな経験の繰り返しなんだよ。過去の経験は現在を束縛する。憎しみにしろ親しみにしろ、過去に得た感情で現在の相手を判断してしまう。だから時に、ごろごろと雪だるまのように気持ちが膨れ上がって、どうしようもなくなったりする。けれど、そんな固まった感情が、何かの拍子に、ひょい、と溶けて違う感情に変わることもある。嫌悪が好感になってり、愛情が憎しみになったりね。私は、そんな人間の経験のシステムを、機械で再現したいと思って君を作った。そのシステムが構築できれば、人はそこから、悪意や暴力や戦争をなくす知恵を学ぶかも知れない。少なくとも、何も知らないでいる時よりはましな人間関係を作ろうとするだろう。……いってみれば、君は私の人間への憧れの形なのかな」

 そういうと、彼は照れたように笑った。

 彼はもともと技術とは無縁の文化系の学生だった。認知心理学を専攻し、人間の想像力とそれがもたらす様々な行動を学んだ。そんな彼が技術畑に転向したのは博士課程の時だ。目的達成の為に、自分の行動と知覚の差異を認識して、絶えず微少な修正を加える生物の通信制御システム。それを機械の制御に実現しようとするサイバネティクスは、古くから認知心理学と密接なつながりを持っていた。内省的に論理的に人間の経験の問題を追っていた彼は、その分野でも先進的な成果を上げ続けた。しかし、その内省と論理は、他のプロパー技術者には受け入れられず、重役にまでなった今も、彼の視野を理解し慕う研究者はごく一握りしかいない。その意味では彼は孤独だった。

「君は魂を持つ、私の大切な子供たちの一人だと思っている。だから、世界と接する中で良い経験をし、良い成長をして欲しいと、心から願っているよ」

 モリオは彼の顔を眺めた。自分が何を問うても本来彼に回答の必要はない。自分は機械なのだ、電源を落とせばそれで済む。部下たちも既に準備を終え、いつでもオーバーホールに取りかかれる状態だ。なのに、こうまで丁寧に自分の胸の内を語ってくれるのは、人間のいう「誠意」という在り方なのだろう。語られる言葉の内容から判断しても、それは自分に対する好意に間違いはなかった。モリオのMPUは、この存在を信頼する、という判断を下した。モリオはMPUへの電圧供給を自分で落とし、目を閉じた。

 オーバーホールが終わったとき、モリオは、自分のシステムの不安定さがやはり改善されていない事に気づいた。自分を捨てて帰った少年の顔を思い浮かべると、サーボモーターが不自然に唸るのだ。少年に会うのがつらかった。なんといえばいいのか判断できなかった。

 しかし半月ぶりに家に戻り、少年が目を潤ませながら「ごめんなさい」と自分に告げた時、ふいにシステムの負荷が嘘のようになくなってしまった。

 モリオは、軽くなったMPUで、少年に向けてもっとも告げたい言葉を探し、発声装置を駆動させた。

「イイノデスヨ。マタ、アノ森ヘ連レテ行ッテクダサイネ」


        *


 全てのミニチュアを闇に返すと、モリオはそのまま廊下にうずくまった。

 このまま放電させて自然に活動を停止するのもいい。しかしそれでは、あと何日間か、既にこの世にいない男を思いながら、システムの暴走に苦しまなくてはならない。

 モリオは鑿を腹にあてがい、力一杯木槌を振り下ろした。がつん、と破壊的な音が薄闇に響く。ミニチュアを作る為の、おだやかな自傷行為とは違う、自滅の為の暴走。がつん。不安定なシステム。がつん。それは淋しかったんだよ。がつん。私の家。がつん。一緒に、森へ……。

 こうぅぅん、と腹部の木製カバーを貫通して、刃はMPUと電源をつなぐ線を断ち切った。一瞬、モリオのMPUは、メモリの奥深くに残されていた社の森の風景をスキャンした。森へ行かなければ。それが、システムダウン直前の、最後のMPUの判断だった。


        *


 …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………うっすらと思考が戻る。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。自分はシステムを破壊したのではなかったのか。モリオはまだ暖まらず見えない瞳を曇らせたまま、手で腹を探ってみた。そこには大きな穴があき、マザーボードがむき出しになっているらしい。自分が鑿で穿った穴よりも拡がっていた。

 ゆっくりと瞳に緑が宿ると、モリオは自分の周囲に、折り重なるようにしてミニチュアたちが倒れているのを知覚した。何故彼らがここにいるのだ。全て闇の向こうに走らせた筈だ。単純な機構の、一直線にしか走らない筈のものが。

 よく見ると、ミニチュアたちは少しずつ破壊され、ゼンマイが飛び出していた。はっ、としてモリオは自分の腹を見る。自ら傷つけた配線群は、とても稚拙なやり方で、ゼンマイをほぐしたものでつながれていた。

 何が起きたのか、明確な答えは出ない。しかしモリオのMPUは、ミニチュアたちが意志を持って戻り、力を合わせて自分を修復したのだと判断した。人工知能はおろか、自由に腕を動かす機能すらないミニチュア。不合理を指摘するエラーチェックボックスのささやきを無視して、モリオは魂の存在を思った。

 森へ行こう。

 モリオはミニチュアたちを腕に抱え上げると、ゆっくりと廊下を歩きだした。

 きいゆ。きいゆ。

 闇の向こうへ。

 きいゆ。きいゆ。

 懐かしい場所へ。

 きいゆ。きいゆ。

 エントランスホールは闇に満ちていた。モリオはハンドルを回し、核の落ちたあの日から一度も開けたことのない四重の扉を開くと、階段を上る。きいゆ。暗闇の中で、二つの緑が暖かく光る。階段は途中から、落盤したコンクリートの固まりでふさがれていた。他に出口はないか、と見回すと、壁に巨大な亀裂が走っているのがわかった。きいゆ。モリオは亀裂に足を進めた。きいゆ。光が見えた。光に向かってモリオは歩いた。

 亀裂を出た途端、モリオを光の固まりが襲った。一瞬、緑色の目は世界を見失う。

 光の向こうに広がっていたのは、鬱蒼と茂る森林だった。くあかかかかかか、と鳥たちが鳴く。樹々の枝葉を分けて降り注ぐ陽光は、雨上がりなのだろうか、鮮やかな森の黄緑色をほのかに光らせている。モリオは呆然と立ちつくした。知覚が急速に開けてゆくのが分かる。踊る光。樹々のざわめき。深い緑の薫り。脚に触れる草の露の冷ややかさ。それは光のスペクトル解析や嗅覚刺激物質の分析や温度検知ではなかった。自分が世界にある事の確からしさだ。モリオの胸は震えた。こんなにも、こんなにも世界は豊かだったのか。

 モリオはその場に腰を下ろした。電圧が急速に下がっているのが分かる。マザーボードの修復は完全なものではない。もはや一歩も歩けない。もうすぐ、自分は完全に機能が停止する。

 モリオは抱えていたミニチュアたちを横たえると、上から落ち葉をかぶせた。埋葬のつもりだった。男の亡骸も埋めてあげたかったけれど、もうその力は残されていない。

 ふと彼は、十メートルと離れていない所に一人の少年が立っているのに気づいた。少年は大きな黒い瞳で、モリオの緑の目を見つめている。モリオはぼんやりと、その少年に男をだぶらせていた。初めて出会った時の男は、丁度あの位の年頃だった。

 ユウジさん。

 思い出した。ユウジさんだ。あの人の名前はユウジさんだ。どうして忘れていたんだろう。こんなにも大切な名前なのに。こんなにも懐かしい名前なのに。

 モリオは、ゆっくりと握手をするように手をさし伸ばして、いった。

「ユ・ウ・ジ・サ・ン」

「お父さん!」

 ふいに少年はそう叫び、きびすを返すと小道を走り出した。

「お父さん、人が倒れているよ、お父さん!」

 人。私は人なのか。ユウジさんと同じ、人間なのか。

 少年が駆けてゆくずっと向こう、樹々の狭間に、小屋が見えた。煙突からはほのかに煙が上がり、人間が生活を営んでいる事を示していた。

 人間がいた。まだ人間は生きていた。家族の営み、生命の営みは、核を耐えて生き延びていたんだ。

 モリオの緑の目から、こぼれる筈のない涙がこぼれた。涙は木の肌を伝い、草の露にまじって、土に吸い込まれてゆく。私はこのまま土に帰ろう。森の中で朽ち果て、腐食し、微生物を養い、新たなる樹々へと変容しよう。それが私の生命の連続なのだ。

 さっきの少年を先導に、小道を男性が駆けてくる。少年の父親なのだろう。森を生きる男のたくましい身体つきと、人を思う心の優しげな顔立ち。悪意ではないものが世界に生き残っている事を確認して、モリオの電力は急激に圧を落としてゆく。ユウジの父を、自分自身を子と呼んでくれた人のことを、モリオは最後に思った。

 お父さん、私は幸せでした。

 それが、最後にフラッシュ・ロムに刻み込まれた言葉だった。

 少年と父親が駆けつけた時にはもう、モリオの全ての機能は永遠に停止していた。モリオは森へ帰ったのだ。


        *


 それが、すべてのはじまり。


 了

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祈りの森、緑の檻(「はじまり」改題) 蓮乗十互 @Renjo_Jugo

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