祈りの森、緑の檻(「はじまり」改題)

蓮乗十互

第1話 それまで

 ひとつ、ふたつ、みっつ。ぼんやりとした橙色の光が、冷たく青い薄闇にまたたいている。男は固い寝台の上に横たわり、弱々しい眼差しをその光に向ける。

 ゆっくりとした点滅を見つめていると、次第に脳のリズムもゆるやかにほどけて、やがて幻覚が現れる。光が二重になり三重になりしておだやかに揺れ、ここはいつしか蛍が舞う故郷の川辺。水と草と土の薫り。せせらぎ。母とつないだ手の温もり。父の優しい眼差し。兄姉の嬌声。懐かしい気持ちが胸を満たして、男の顔にかすかな笑みが浮かぶ。

 ふうっ、と一瞬意識が暗闇に溶け落ち、悪寒が男の身体を揺さぶって正気にする。

 涙がこぼれていた。

 くるまった毛布の端で顔を拭う。息が肺からこぼれて涙が湧いて、もう一度顔を拭い、目をしばたいた。橙色の光はもはや蛍ではなく、シェルターの集中コンソールである事を男に思い出させた。正常な機能を失いもはや意味をなさなくなった計器類は、外界の多量の放射能を示唆したまま凍り付いて、どのくらいの年月が過ぎたろう。

 悪寒が断続的に背を走り、思わず男は呻いて丸くなる。ほとんど失われた筋肉を隔てて、あばらと腕の骨がこすれて痛い。ひゅう、ひょう、と呼吸が乾いた音を立てる。震える指で口元を触ると、皺だらけの皮膚と皮膚が触れ合って刺すような痛みがある。

 部屋の照明が少しだけ明るくなった。男の弱った視力をいたわるような、暖かな明るさだった。男は目を部屋の入り口に向けた。人型が食器トレイを持って入ってきたところだった。

「オ食事ヲ」

 人型のコルクでできた足裏とリノリウムの床が触れ合うと、足音は柔らかく森の気配の底に沈んで、ただきいきいきい、きいゆ、と軋む音がその関節からかすかに響く。両の腕と脚、そして腹の一部分にはえぐられたような無惨な傷があり、所々で内部のメカニカルな部品がむき出していた。

 人型は男の枕元まで近づくと、トレイをサイドテーブルに置いた。

 人型の木造りの顔は、稚拙だが暖かな彫跡で人間のそれを象っている。目の位置に埋め込まれた二つの視覚センサーに、森の奥に人知れず横たわる池のような深い緑色をたたえて、人型は男を見下ろした。男は顔を上げる気力もなく、目を人型からそらしたまま、口の中でつぶやいた。

「……いらないよ」

「食ベナクテハ、体ニ障リマス」

 トレイにのせられた小さな漆塗りの椀の中には、白くとろりとした流動食が入っている。人型は木匙でそっとそれをすくった。きいゆ、きいい。関節がおだやかなリズムを刻む。男は口元に差し出された匙の上の白をぼんやり見つめていたが、ふいにごく微かな腐臭を覚え、痙攣するように人型の腕を振り払った。

「いらないっていってるだろう、馬鹿野郎!」

 男はかすれた声で怒鳴ると、かえす手でサイドテーブルの上を薙ぐ。トレイがゆっくりと床に落ちて音を立て、中身が床に広がった。だが、そこまでだった。男は腕を弱々しく下ろした。一ヶ月前までの男なら、激しく暴れ回り人型にも物を投げつけていただろう。今の男にその気力はない。彼の身体も精神も、自らの感情の暴発を受け止めるだけの力をもはや残してはいなかった。

 人型は黙って床の食器を片づけ始めた。きい、きいゆきい、きいゆ。男は胸の中が痒くなるようなどうしようもない気持ちを抱えながら、俺はもうすぐ死ぬんだ、と思う。死ぬことに対しては恐怖も忌避もなかった。世界が滅びた後、永遠とも思えるほどの時間を一人で生き延びてきた事の方が、むしろ腹立たしいまでに哀しい事だったのだから。


        *


 男の生まれ育った街は、新興の産学複合都市だった。都市とはいっても、高層ビルの乱立する猥雑なそれではない。もとは平地林や湿地であった広大な土地を造成し、数本の基幹道路を碁盤状に通して百数十の大学・研究機関・企業を計画的に配置した人工の街は、どこまでも広く高い空の下にあった。基幹道路を外れると、そこに広がるのは古くからの田園の風景。清水の流れる小川や社の森で、草いきれと牛蛙の声に囲まれながら、少年時代の男は夢中になって遊んだ。

 彼が十歳の頃。その日、彼が学校から戻ると、いつもは帰宅の遅い父親が家にいて、人の形をした見慣れぬ機械を調整している。それが人型だった。

「なに、これ」

「アンドロイドさ。今日からしばらく家に置くんだ」

「ふうん」

 床に腰を下ろした状態で背中を開かれた人型機械を、少年は、じっ、と見つめた。人型の体の外側は木でできており、薄いニスを通して生白い木肌の透ける様子は、真新しい家具のようだ。

 少年の父はある総合機器メーカーの技術担当重役を務めていた。世界有数の技術力を持つその会社の中で、まだ五十歳に至らぬ若さで彼が重役に任ぜられているのは、サイバネティックスの分野で優れた業績を上げたためだ。

 重役には会社の敷地内に大きな社宅が与えられており、少年の家族もそのひとつに住んでいた。セキュリティ上の問題がクリアされていることもあって、父はよく会社の試作品を家に持ち帰っては、家族に試用させた。だから少年の家には、まだ一般には普及していない先端技術を利用した製品がいろいろある。けれど、そのどれに比べても、人型はとりわけ奇妙に見えた。手など人間の身体の一部を模したものはこれまでにもあったけれど、二足歩行を含めてこうまで人の形に似せた機械は初めてだった。

 夜になり家族が揃うと、父は皆の前で人型のスイッチを入れた。ぶぅん、と低い音が一度鳴って、二つの瞳に濃い深緑が宿る。人型が顔を上げてゆっくり辺りを見回すと、家族たちは歓声を上げた。

「ココハ、ドコデスカ」

「あれ、お父さんの声」

と高校生の姉が気づいていった。

「私の声をサンプリングしたからね。……ここは、私の家だよ」

「研究所ノ中デハナイノデスカ」

「ああ。今日からここが君の家さ」

「私ノ家」

 人型は、あらためて首を巡らせ、家族一人々々の顔に目をやった。父、母、兄、姉、そして最後に少年と目があった。少年は、エメラルドのように美しく光る人型の瞳を覗き込む。視線は深い深い水の底に沈むようで、何かしら暖かなものが心に湧き上がる。

「良く出来てるなあ。エネルギーは何? リチウム二次電池かな」

 地元の大学で化学を専攻している兄がそう聞くと、父は曖昧に頷いたあとで少し首を傾げ、

「あまり説明はできないんだが……かなり試験的な要素があってな。変な言い方かも知らんが、こいつは愛情をエネルギーにして成長するんだ。だから、お前たち、可愛がってやるんだぞ」

「なにそれ。犬か猫みたい」

 姉が呆れたようにそういうと、父は、

「同じだよ。同じことなんだ」

とつぶやくようにいい、目を細めて人型を見た。母が父に尋ねる。

「名前はなんていうの?」

「まだない。研究所では開発コードしかなかったからね」

「可愛がるんなら、名前つけなきゃ」

「ポチでいいや、ポチで」

と兄は笑いながらいったけれど、家中からブーイングがあがると、肩をすくめた。父は少年の方に優しい目をやり、

「名前、つけてみるか」

と告げた。少年は目を輝かせ、うん、と首をふる。

「それじゃあねえ」

 暖かな彫跡の残る顔。柔らかに丸みを帯びた腕、足、胴。二つの緑のきらめきは、母親を見る子犬の目のように自分に向けられている。少年は腕を伸ばし、そっ、と人型の首筋に触れた。予想したような内部機関の熱は感じられず、自然な木の温かさと冷たさがある。ふわりと森の薫りがした。手で触れた木肌の下で樹液が穏やかに流れるような気がした。いつか、一緒に森に行こう。そこが彼の故郷かも知れない。そう思った。

「決めた。君の名前は……」


        *


 薄い闇の向こうで、こつーん、こつーん、と木を穿つ音が響く。人型が自分の腹を裂いている音だ、と男には目を閉じていても分かる。分かっている。白い意識の中で男はその意味を思う。

 いつ頃からだろうか、男が神経を苛立たせ、人型に向かって罵詈や時には暴力を振るう度に、人型は自分のミニチュアを作るようになった。始めは地下の疑似森林から木を切り取って、やがて疑似森林がその機能を失い朽ち果ててからはシェルター内の様々な木製の家具などを分解しては、身長十センチほどの人形を削り出すのだ。そしてゼンマイと歯車を体内に組み込み、ねじを巻けばただ真っ直ぐに歩くだけのミニチュアが完成する。

 器用なものだ、と最初のうちは男もただ見ているだけだった。しかしそのうちミニチュアの数が幾十にもなり、人型の居室を兼ねた物置の棚にずらりと並ぶようになると、さすがに異常なものを感じた。怒鳴られる度にミニチュア作りに没頭し、長い廊下の暗闇に向かって無言で自分の似姿を走らせる様は、まるで子供が拗ねているようだ。まさか、と思う。けれど、父はそんなプログラムを人型に施していたのかも知れない。

 やがてミニチュアの材料となる木材がなくなり、人型が自分の脚を削るのを目撃した時、男はぞっとした。おい、やめろよ、と声をかけても、人型は黙々と自傷行為を続ける。こいつは狂い始めている、と男は思った。自分の暴力が人型を追いつめているのだという事は、心のどこかで分かっていた。けれど、閉ざされたシェルターの中で荒んだ男の精神は、些細な事で暴発する自分を止められないでいる。だから、身体に変調を来しベッドに伏せ、体力と気力がやせ衰えるのにつれて感情の波も激しさを失った時、男にはかえってほっとした部分もあった。

 こつーん、こつーん、こつーん。

 淡いもやのかかった意識の中でその音は、森の奥で樵が木を伐っている音のように聞こえる。男はうっすらと目を開けた。人型は広いリビングの向こう端の壁に向かって腰を下ろし、ゆっくりと腹の前で腕を振っていた。以前はミニチュア作りは人型の居室で行われていたけれど、男がベッドを離れられなくなってからは、同じリビングの中でするようになった。まるで、男に見られていることこそが大事なのだと思っているように。

「……なあ」

 男が声をかけると、人型は手を休め、振り向いた。

「お前は何をやっているんだ」

 幾度も訊ねた疑問に、幾度も繰り返された答えが父の声色で返る。

「ワタシニモ、ワカラナイノデス」

 男は衰えた視力で、闇の向こうを見通そうとするように、人型を見つめた。二つの深い緑色がこちらを見ている。豊かな森の緑。この世界から既に失われてしまったであろう、故郷の緑。もはやそれは憧れても手の届かないものだった。

「……俺は、もう駄目だ」

「弱気ハイケマセン」

「食料の再生も、もう限界だろう。栄養の出枯らした自分の糞を食って、どうなるというんだ」

 人型は何も応えなかった。何を応えたところで、男が納得する筈もなかったけれど。

 シェルターには最初、豊富な食料が蓄えられていた。本来ここは、数家族が数ヶ月を過ごすことを想定した施設なのだ。当然、それは一人では余りあるものに思えた。それに地下には疑似森林があり、地下数百メートルから汲み上げる放射能汚染を免れた水源と人工日照で、少量ながら野菜や果物も採れた。しかし閉鎖生活が数年になり十数年になるうち、食料は次第に底をつき、頼みの疑似森林もいつしか朽ちてしまった。当たり前といえば当たり前だ。人工的に閉ざされた生態系が、そう長くもつ筈がない。

 シェルターの計器類はもう外界の情報を正確に示すことはなかった。地上はどうなっているのだろう。人類は死に絶えたのだろうか、それとも、既に復興を遂げたのだろうか。食料がもうあまりもたないと分かった時、人型は自分が外に出てみると何度か主張した。けれど、男はそれを頑なに拒んだ。世界がどうなっているのか、知りたい気持ちよりも知りたくない気持ちの方が強かった。扉を開けると、戦争直前のあの頃世界中に満ちていた悪意がシェルターに進入してくるような、呪術的な恐怖があった。それに、人型が自分の仕打ちに耐えかねてそのまま逃亡するのではないか、そうでなくとも、強力な磁気異常にやられてしまうのではないか、との不安もあった。機械ではあれ、プログラムではあれ、男が会話をする事のできる、唯一の存在を失うわけにはいかない。

 最後に試みたのが、排泄物の再生だった。糞尿を浄化し、ほんの少し固形栄養を添加して出来上がる白い流動食は、最初のうちこそ腹を満たしたけれど、それを食べて排泄したものをまた食べて排泄する無限連鎖は、男の体を急速に蝕んでいった。あたかも、閉鎖生態系の疑似森林が朽ちていったように、男は実際の年齢を遙かに追い越して老い続けた。

 俺は老衰で死ぬのだ、と男はかすれた意識の中で思う。自分が今幾つなのか、正確には分からないが、せいぜい三十代の筈だ。しかし、時折り覗く鏡の中の自分は、七十代の終わりを迎える者の顔をしている。

 死ねば良かったんだ。みんなと一緒に。核の火に焼かれて。一人で生き続ける意味なんか、何もなかったんだ。

 男はベッドに叩きつけるように腕を振った。けれどその腕は力無く、ぱさりと乾いた音を立てるだけだった。

 人型はしばらく男を見つめていたけれど、やがてふたたび壁を向き、こつーん、こつーん、と自らの腹に鑿をふるう。その狂気が男にはうらやましかった。人間の自分が狂うことなく、機械の人型が狂うことが、とても皮肉な事に思えた。

 子供の頃に読んだSF小説にも、矛盾した命令を受けたコンピューターが暴走し、人間を殺す話があったように覚えている。人型が自分を殺す様を男は想像した。緑の目に殺意が宿って血の赤に変わり、木の腕が怒りに満ちて振り上げられ、自分を殴打する。やがて意識が次第に沈み、想像は半夢へと変わる。殴られる自分は時に自分自身を殴る者となり、人型が殴られる者となって破壊され、自分自身を破壊する人型になる。

 深い眠りに落ちる一瞬前の意識の中で、ああ、と男は気づいた。同じだ、人型が自分を傷つける気持ちは、今の俺と同じなんだ、と。


        *


 人型が少年の家に来た当初こそ、兄も姉も物珍しさで相手をしていたけれど、稚拙でパターン化した受け答えしかできないでいる人型にやがて興味を失い、それぞれの生活へと戻っていった。しかし少年は違った。自分で名前を付けたアンドロイドが愛おしく、毎日のように外へ連れ出しては、友人たちと一緒になって、様々な遊びの仲間に加えた。始めは無機質な反応しか示さなかった人型も、少しずつ少しずつ、人の感情に似た反応を見せるようになった。また、数ヶ月に一度、研究所に行って検査と諸機能の改良を受ける度に、動作は精妙になり、交わす言葉も豊かになってゆく。やがては留守がちの母に代わってある程度の家事をこなせるまでになった。

 少年たちが好んで行った遊び場は社の森だった。街は、古代から神々の住まう場所として信仰を集めていた聖なる山の山裾から広がる平野に位置する。少年の家から自転車で二十分、緑豊かなその山の麓に、社の森はあった。不思議な静謐と濃密な樹々の香り、複雑で鮮やかな色、様々な虫。子供心にも、都市の空間とは明らかに異質な、心を落ち着かせる何かがあった。人型が時折りぼんやりと立ちつくして木々の梢を見上げている様子は、遠く故郷に思いを馳せる人のようで、彼もこの場所を好んでいるのだと少年は思った。

 ある日友人の一人が、かくれんぼの際に人型を置いてきぼりにして帰ろう、と言い出した。以前から時折り行われていた、よくある子供たちのいたずらだ。無論その度に標的は違う。少年も幼い頃に年上の友人たちに置いてきぼりをくらって、泣きながら家に駆け戻った記憶がある。少しだけ心が痛んだけれど、それよりも誰かをからかうサディスティックな快楽の予感がまさった。

 樹に顔を伏せてゆっくりと数を数える人型を残し、少年たちはこっそりと家に戻った。それから四時間して、日もほとんど落ちかけたオレンジ色の世界を一人で帰ってきた人型は、玄関を開け中に入るなり崩れ落ち、痙攣した。胴は手で触れることができないほどに発熱して、全身に機能変調を来していた。

 人型は研究所で修復を受け、半月ほどで少年の家に戻ってきた時には、以前と何も変わらぬ様子だった。少年は、ごめんなさい、と人型に謝った。人型は、

「イイノデスヨ。マタ、アノ森ヘ連レテ行ッテクダサイネ」

と応えると、笑うかわりに少しだけ首を傾げてみせた。

 大陸で戦争が始まったのは、それから何年か後、少年が十五歳の時だった。

 開戦からしばらくは、戦争はあくまで大陸の局地戦として行われていた。しかし、大陸から離れた少年の国も戦争と無縁ではあり得ない。メディアは、自国に近い立場にある国に有利な報道をし、相手の国がいかに非人間的な社会かという事を書きたてた。多くの機器メーカーが戦争特需の好景気を迎える中、父の会社も生産ラインの半分を軍事用に転換し、様々な物資を作り続けた。民生用技術として開発されていると思っていたもののほとんどが既に軍事技術に組み込まれている事を、むしろ軍事用にこそ先端技術が開発されてきたことを、その時に少年は初めて知った

「どうして戦争が起きたの」

 少年はある夜、TVニュースを見ながら父に尋ねた。父は哀しい表情で、少年の目を真っ直ぐに見ながら応えた。

「あの国の人たちの感情が、相手を憎いと思う気持ちで一杯になって、傷つけずにはいられなくなったからさ」

「よく分からないな」

「要因はいくらでもあるんだよ。食料不足、エネルギー不足、財政難。そして、周囲の国々の無理解や偏見と、それによる過剰な自意識の破綻。いろんなものに飢えて、その飢えた気持ちが、相手も自分自身も傷つけてしまう。いいかい。今世界に起きている事は、一人の人間の内にだって起きる事柄なんだ。純粋に周囲の人々の態度を原因とするものであれ、自分自身の頑なさが引き起こすものであれ、淋しいという気持ちは、何かを傷つけるように働くんだよ」

 少年にはやはり父の抽象的な言葉の意味が分からなかった。その頃には、父が周囲の大人たちとは随分と違うナイーブな人格だという事に少年は気づいていた。会社でも変わり者扱いをされて、重役会議の方針とは違う研究を続けてきたこと、自宅で試用する開発品の多くが、人型を含め、父の独自の研究であった事を、今は遠い街で技術者になった兄に聞いていた。

 開戦から半年を過ぎた、ある休日の事だった。兄も姉も既に独立し、母は仕事に出かけて、家には少年と父と人型だけがいた。ふいにTVの画像が激しく乱れ、消えた。それと同時に電話が鳴った。

 二言三言を交わして受話器を置いた父は、宣戦布告があり核がこの国の首都に落ちたらしい、と深刻な顔で少年に告げた。

「ここも危ない。すぐにシェルターに入りなさい」

「父さんは」

「お母さんを迎えに行って来るから」

 各重役の家には、地下の共同シェルターへの入り口が設けられていた。これまで一度も開けたことのない扉を開けて、少年は人型と一緒にシェルターに向かった。深い階段を下りてたどり着いた中央エントランスにはまだ誰も人影が見えない。リビングに入ると、自動的に部屋の照明がつき、ケーブルTVが映る。画面にはのどかな森の風景。それが社の森である事が少年にはすぐに分かった。森は画面の向こうで、何事もなかったように緑をたたえている。核が落ちたなんて、何かの間違いではないのか。父は何か勘違いをしているのではないか。少年はなんだか、あわててシェルターに降りてきたことが馬鹿馬鹿しいように思えてきた。現に、まだ他の家からは誰も避難してこないではないか……。

 次の瞬間、ごごごごごごごごごごうううううううううう、と激しく地が振動した。ふっ、と照明もTVも光を失い、少年は思わず両手で耳を覆いその場にしゃがみ込む。悪魔の咆哮。心を犯す闇。圧倒的な悪意と暴力に、空間が歪み震える。

 随分永い時間が過ぎた。

 音も振動もいつの間にか止んでいた。自主電源に切り替わったのだろう、再び照明がつく。何が起きたのか。少年の脳裏に浮かんだ答えはひとつだったが、それを認めたくはなかった。TVはもはや、どのチャンネルも白いノイズしか映さない。ラジオも同様だった。少年は端末に駆けた。しかし、ネットにアクセスしようとしても一向に繋がる気配がなかった。

 集中コンソールを調べていた人型が少年に告げた。

「地上ニ強イ放射能ト電磁波ガ観測サレテイマス。熱量ハ測定不能。コレハ……核デス」


        *


 眠り、というよりは意識の混濁。夢とも幻影ともつかぬ世界で男は思う。

 あの時世界に満ちていた悪意は、ついに世界自身を滅ぼした。俺を滅ぼすのも俺自身の悪意なんだ。シェルターの中で、世界の悪意から逃れたつもりで、自分で悪意を育てていたんだ。

 ごぼっ、と内臓そのものを吐き出すように血の固まりを嘔吐して、男はベッドから転げ落ちた。人型が、きゆきゆ、と音を立てながら駆け寄ってくる。男は子供のように人型にしがみつく。ぶるぶると身体が痙攣するように震える。死がすぐそこにあった。

「なあ」

 男は人型に語りかける

「ハイ」

 人型は男を抱きかかえたまま、優しい緑色の目で見下ろしている。

「もう一度、一緒に森に行きたかったな」

「行ケマスヨ。今ニ救イガ来マス。世界ハ昔ノママデス。森ヘ行キマショウ。アノ懐カシイ森ヘ」

 父の声音が呪文のように男の耳に染みて、目の前に社の森の風景が浮かぶ。それがあり得ない幻だと判断するだけの力は、既に男にはなかった。

「ごめんな。モリオ、ごめんなあ」

 モリオ。森男。それが、男がつけた人型の名前だった。

「ごめんなあ」

 男はぼろぼろと涙をこぼした。うわごとのように繰り返される謝罪の意味は明らかにならない。あの日のかくれんぼの事をいっているのか、それとも、シェルターの中で繰り返しモリオを追いつめた暴力をいっているのか、男自身にももはや分明ではなかった。愛する世界を奪われた哀しみと、愛する者を傷つけた悔恨が、ゆらゆらと混じり合って、ただ涙がこぼれた。

 モリオは無言で男の身体を抱きしめた。樹の香りがする。森の薫りがする。男は自分が少年に戻っているのを知る。身体中に生命力が溢れるのを知る。豊かに生い茂る樹々の奥へと少年は駆けてゆく。家族がいる。友人がいる。男の顔が和らぎ、穏やかな笑みが浮かぶ。

 そして、男の息は切れた。


 続く

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