エピローグ


 その日は、朝から気分の悪いニュースが久間の元に飛び込んできた。

 会社をリストラされたサラリーマンが、電車に身を投げて自殺したのだ。


 思えば、少し前にも同じようなことがあった。リストラにあった会社員が、ビルから飛び降りた事件。一ヶ月以上前のことだが、久間にはどうも最近に感じられた。


 妙なことに、ここ一ヶ月の記憶が何故か曖昧なのだ。

 しかし、日常生活に何か支障があるわけでもないので、久間きゅうまは気にせず生活していた。ただ一つだけ、大きく変わったことがある。


 久間が抱えていた借金が、何故か返済されていたのだ。決して簡単に返せるものではない、いったい誰が、何の目的で返済したのか、全くわからないままだった。


 おかげで、生活には大きな余裕ができていた。今はどうにか、高卒認定試験を受けてまともな職につくことを目標にしている。


 そのためにアルバイトをしながら、コツコツ勉強に励む日々だ。我ながら充実していると、久間は満足している。前のようにただただ見えないゴールを追いかけ、ひたすら働いていた頃とは違う。今は明確に目標を見据えられている。


 だけど最近、久間は妙な夢を見る。ロバの耳が頭から生えた、人間なのかすら怪しい謎の人物との交流だ。それに、会社のオフィスのような場所で何者かと闘う光景がフラッシュバックしたりと、奇妙なことが多い。そんなドラマや映画、アニメなどを見た覚えも、久間にはなかった。


 代わり映えしない一日を終え、久間は帰路についた。

 すると、目の前に見知った男が立ちはだかった。


「おっ、久しぶりだなぁ、クソニート」


 少し前、同じアルバイトをしていた男、浅野だ。窃盗事件を起こし、今は解雇されている。顔は覚えていたが、その名前はもう忘れてしまっていた。


「どうしたんだ? 俺に何の用?」


「用なんてねーけどよ、今ちょうど金がねーんだ、少し金貸してくれねーかなぁ?」


「嫌だ、って言ったら?」


「まあ、少し憂さ晴らしにでも付き合ってもらうかな。今日もうちのクソババアにどやされてイライラしてんだ。ほら、こっち来いよ。懐かしいだろ?」


 久間は薄暗い路地裏へと連れ込まれる。この時間、特にこの場所は人の気配がない。


「お前、成長してねぇな。前にも、ここで同じことがあったろ? あの時は、知らねぇ女に助けてもらったけどさ」


 資産家アセットホルダーになる前の記憶として、浅野あさの絡まれたことは覚えていた。その少女についても、助けられたという事実だけは鮮明に覚えている。


「そんなこともあったっけか。悪いな、もう忘れちまったよ」


 久間は平然と嘘を吐いた。


「あっ……そう」


 浅野は拳を振り上げた。殴られる、そう直感した瞬間だった。


「おまわりさん! こっちです、こっち!」


 路地裏の入り口から、女の子の叫び声が響いた。


 浅野は舌を鳴らしながら、その場からすぐに撤退した。どうやら相当、警察のご厄介になるのが嫌らしい。


 久間がホッと胸を撫で下ろしていると、入り口から少女が歩み寄って来た。


「大丈夫? もう殴られてたらごめんね、これでも最短でやったつもりなんだけど」


 少女は久間の前にしゃがみ込んだ。


「あれ、警察は?」


「嘘に決まってるじゃん。普通に考えて、あんな短時間で警察なんか呼べないって」


「ははは……そりゃそうか」


 久間は苦笑しながら、ゆっくりと顔を上げた。


 同時に、久間は目を剥いた。目の前にいる少女は、前に一度自分を助けてくれたあの少女だったのだ。


「あ、あんた……あの時の」


「へ? あれ、私とどこかで会ったっけ? あーごめんねー、ちょっと覚えてないなー。それがなんか記憶が曖昧で、なんかすごい長い間の記憶がない感じするんだよねー。もしかして、君は何か知ってたりする?」


「はは、悪い。何もわかんねぇや。けど、俺も似たような感じだからさ。記憶喪失みたいなもんなら、俺のことは覚えてなくて当然だな」


「へぇ、君もなんだ。ふふ、なんだか変な既視感だね。頑張って思い出すからさ、許してよ」


「あんな衝撃的な出会い、忘れられてるとは意外だよ。そういや、まだ名前聞いてなかったかも。俺は久間善治ぜんじあんたは?」


「私は藍原真紀あいはらまきよろしくね、久間」


 その日、再び時間は動き出した。違う未来を目指して。

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ボトルネック 江戸川努芽 @hasibahirohito

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