キング・ミダス編 第七話『クロージング』

 久間きゅうま藍原あいはらミダスの用意した新たなトランザのフィールドであるオフィスビル一階のロビーで、ベンチに寄り添って座っていた。


 今すぐにでも、このトランザは終わる。しかし、二人にとってはたった一秒でも無駄にできない大切な時間だった。


「本当に、これが最後なんだね……なんか、ちょっと信じられないな」


「今さら何言ってんだよ。これは、元々お前が考えた計画じゃねぇか。けどまあ、中々に楽しかったよ。不満は何もない」


「ほんとにー? 実はもっと稼ぎたいとか思ってたんじゃないのー?」


「やめろって。俺は借金を返済できた時点で、もう金への執着なんて消えたよ。でも不思議な気分だな。少し前まで、あんなに必死こいて小銭稼いでたのにさ。今は何も、惜しくない」


 父親の蒸発、そして母親の自殺。久間が少しでも多くお金を稼ぎたかったのは、お金によって二人が消えてしまったのだと考えていたからだ。だからこそ二人を、自分の手で買い戻したかった。


 だが、今は違う。久間には、もっと大切な存在ができた。もはや、失ったものにすがるようなことはない。


「あのさ久間、最後にちょっとだけ自分語りしてもいいかな?」


「珍しいな。今まで、自分のことなんて何も話してこなかったのに」


「ふふ、そうだね。けど、もう時間もないし、久間には聞いてほしいんだ。私の両親が、どうなったのかを」


「藍原の……両親?」


「うん。実はさ、私の口から言っちゃえるほどに最低で最悪の、ダメ人間だったんだよね。二人してギャンブルで借金作って、首が回らなくなったの。それである日、無理心中したんだ。私は運良く、いや、運悪く生き残っちゃった。そして、ここに呼ばれた。でも、ここに来ても私はギャンブルに縛られててさ。酷い人生だなって、ずっと思ってた……久間と出会うまでは」


「……俺と?」


「そうだよ。久間との出会いが、私を変えてくれた。あの時、私は初めて人をお金の力で救うことができた。そして、私のトラウマを消し去ってくれた。ずっと嫌だったんだよ、怖かったんだよ、お金の力で人の人生が潰れてしまうのが。だから、私すごく感謝してるんだ。それこそ、本気で好きになっちゃうくらいに」


 藍原の瞳が、光を反射して僅かに輝いた。その正体は、小さな涙だった。


「手……握ってもいい?」


「……どうぞ」


「ふふ、やったぁ……」


 嬉しそうに、藍原は久間の手に自分の手を絡ませた。

 けれど、その時間さえももう終わりを迎えようとしていた。


 トランザの残り時間は、もう僅か数分ほどである。楽しい時間というものは、あっという間に過ぎてしまう。


「ねぇ、久間……」


「ん? なんだ?」


「えーっと、ちゅーする?」


「……へ?」


 その瞬間、数秒だけロビーが静まり返った。


 僅かな間を開け、再び藍原が言葉を紡いだ。


「ふふ、今もしかして、照れちゃった?」


「お前なぁ……」


「えへ、冗談抜きで、本当にしてあげてもいいよ」


 藍原は嬉しそうに、はにかんで笑った。


「いいのか? んなこと許したら、俺は最後までするぞ。当然、時間ギリギリまで攻め続けてやる。それで損失させて、利益だって獲得してやる」


「うええぇっ!」


 ただならぬ危機感を覚え、藍原は己の胸元を腕で隠す。


「本気にすんなよ。むしろ、今じゃ虚しいだけだろ。そういうことは、シャバに戻ってからで十分だ」


「え? でも、私たちは記憶を失っちゃうんだよ? ここで一緒に闘ったことも、同じ夢を追い求めたことも、何人もの人をお金の力で救ったことも、何もかも忘れちゃう……もう、私たちの時間は今しかないじゃん……」


 今までになく、悲しげな表情を浮かべる藍原。そんな彼女の姿を、久間はあまり見たくはなかった。


「それはこの区域に関連する記憶だけだろ? お前が忘れていたとしても、俺はちゃんと覚えてる。あの日、路地裏でお前に救ってもらったことを」


「あっ、そういえばそうだったね」


 あの時はまだ、久間は資産家アセットホルダーではなかった。失われるのは、あくまでも資産家アセットホルダーになってからの記憶だ。つまり、久間の記憶から藍原に救ってもらった事実は決して消えない。


「それに、俺たちの出会いはあくまでも偶然だったろ? この区域そのものは関係ない。ならさ、もう一回その偶然が起きればいいだけの話じゃねぇか。俺は信じてるぜ、また偶然、お前と出会えるだろうって」


「なにそれ、ちょっとロマンテイスト求めすぎでしょ。なんか久間、少女漫画オタクみたい」


「んだよ、その変な例え」


「いいじゃん、可愛いよ」


「嬉しくねぇから」


 嘘である。この男、いま人生で最も歓喜している。

 そしてついに、トランザまで残り一分を切った。


 開始直後に、久間は藍原に少しだけ投資しているため、その勝敗は既に決していた。


 藍原は最後に、自身の右手を久間の左手へと重ねた。


「じゃあ、先に行って待ってるから。久間、本当にありがとう」


「ばぁか、お礼を言うのはこっちだっての。それじゃあ、またな」


「うん。バイバイ」


 タイマーの数字は徐々に小さくなり、やがてゼロを刻んだ。

 こうして、違法経済特区最後のトランザは幕を閉じた。


 久間はロビーのベンチから一歩も動かず、ただただ表情を固めたまま、何もない虚空を見つめていた。


 しばらくすると、そんな久間の元に二人の人物が姿を見せた。一人はハスラー風のロバ耳を生やした少女。そしてもう一方は、シークレットサービスを彷彿とさせる黒スーツの男。


「久間様、お疲れ様でした。これにて、この区域は完全に閉鎖されます。良かったですね、お金の力で誰かを救うことができて。今のお気持ちはどうですか? 楽しかったですか? 満足しましたか?」


「うるせぇ。言い方がむかつくから無視する」


「えー、最後だというのに酷いですねぇ」


「おい、これで本当に終わったんだよな? 俺が全てのベネを救済に使用し、残ったベネも独占した。これでもう、こいつに価値はない。これ以上、この区域に金が流れることはなくなったんだからな」


「そういうことになりますね。新たな資産家アセットホルダーを補充しても、久間様に救済されてはベネを増加させることはできない。市場的に終わりです。あーあー、これで無職ですよ私たち。社会的に死にました。もう最悪です」


 最悪。最も悪いとつぶやく割には、そこまで辛そうではない。むしろ言葉の並びがわざとらしい。


「でもいつかは、こんな日が来ると思っていました。資産家アセットホルダーが己の利益ではなく、誰かを救うためにその利益を捨てる。経済回復において、その資産家アセットホルダーは下の下ですけど」


「そりゃ、人間はロボットじゃないからな。ただ数字を伸ばすだけが脳みそってわけじゃないんだよ」


「そのようですね。これは、一から違法経済特区の組み直しが必要らしいです。資本主義とは、人によってその形を歪な物に変えてしまうんですね。ふぅ、そろそろこの区域も潮時でしょう」


「みたいだな。まあ、それも仕方あるまい」 

 査定係は最後までインテリらしさを貫き、サングラスを小指で押し上げる。


「それで、俺はどうなるんだ?」


 久間は痺れを切らし、その触れていいのかどうか怪しかった疑問を絞り出した。


「解放されるのか、このまま消えるのか、ということですよね? はっきり申し上げますと、このまま消してしまいたいです。やはり、手のひらの上で踊らされていたというのは、非常に気分が悪いですから。傀儡は、この区域だけで十分です」


「なるほど、中間管理職さんは誰かの思い通りになるのが心底嫌らしいな」


「その通り……もううんざりなんですよね、命令通り働くのって。散々、この区域にこき使われてきたんですから」


「だから俺に嫌がらせって、お前相当性格悪いよな」


「久間様にだけは言われたくないですね、久間様にだけは」


 大事なことらしく、ミダスは二回続けて言った。

 久間にもその自覚はあるが、さすがにこうもはっきり言われると心に突き刺さる。


「残念ながら、久間様はこのまま記憶を消されて解放されます。本当に残念ですが」


「てめぇ、また二回言いやがったな。どんだけ俺のこと嫌いなんだよ」


「大嫌いです。黒幕思考の人間は、例外なく全員嫌いですから。久間様が藍原様と再会しないことを、心の底から祈り続けます」


「ねちっこいなぁ、お前モテないだろ? ロバ耳ダサいし」


「久間様には言われたくありません。絶対童貞ですし。ていうかこの耳だって、好きでつけてるわけじゃありませんから」


 ロバ耳を気にしているのか、ミダスの口調が若干荒ぶる。


「童貞言うなし。つうかその耳と名前って、もしかしてあの王様が元ネタか?」


「そのようですね。まあ、私はあまり詳しくありませんけど。多分、この区域の趣味じゃないですか?」


 ミダス王、この世にある触れた物を全て黄金に変えたとされる王。まさにこの世界の中間管理職に相応しい装飾と名前、ということなのだろう。この区域のセンスは、中二病経験者の久間にも理解不能だ。


「まあ、この区域から解放されるなら、私たちとしても悪くないですね。すぐにまたできるでしょうから、それも時間の問題ですけど」


「その時はもう俺を誘ったりするなよ。こんなクソゲーは永遠にごめんだ」


「さすがにこの区域ももう懲りたでしょう。多分、永遠に呼ばれませんよ。あなたみたいな偽善者は」


「はは、それなら助かるよ。金は、程よく持っているくらいが一番いい」


「おそらく、それがこの区域の答えです。お金なんてものは、必死にしがみつくものじゃありません。貧しくても、人は小さな幸せを掴めるんですから」


「……だな」


 久間たちによる談笑は、その後もしばらく続いた。これが最後だからか、帰還直前までの瞬間は少し長く感じた。


「さて、そろそろ閉じるとしますか。私も上司であるこの区域に、何かしらの退職金は要求したいですし」


 ミダスが普段から常備しているキューのような棒を、天高く振り上げた。


 先端をくるくると回し、何やら金箔のようなものがこぼれ落ちる。

 それを体に浴びると、徐々に姿が薄れていった。


「それでは久間様、今までありがとうございました。楽しい日々でしたよ。まあ、同じくらいイライラすることもありましたが」


「ったく、最後までいけすかねぇ女だなぁ。俺はこの区域を根っこから潰せて大満足だよ、なんたって金は人を救えるってことを証明できたんだからな。んじゃ、あばよ。もう二度と会うことはねぇだろうけどな」


「私としても、もうあなたと顔を合わせるのはごめんです」


 ミダスは最後に、殴りたくなるほど憎たらしい笑みを浮かべ、久間を送り出した。


 久間も最後まで、捻くれたその根性を曲げることは決してなかった。


 次第に意識が遠のき、視界に暗幕が降りた。

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