あなたのバンシー

長尾たぐい

"Blow the House down": Coding, the Banshee, and Woman's Place

 シャノンは母の言葉を反芻する。人生に価値なんてない。あるのは無数の意味だけ。

 今、106号室の中でひとつの意味の連なりにピリオドが打たれた。ページの余白はバンシーの泣き声が埋める。シャノンたちが必要とされるのはそれが止んだ後だ。

「10分後に106」

 極めて端的な指示を受けたルネはニキビ痕がうっすらと残る頬を微かにふるわせ、やや緊張した面持ちで頷く。

「死人の顔を見たことは?」

 まだありません、と返すその声は硬い。ルネはこの冬に研修を終えて配属されたばかりだった。幸福だね、と手元のデータから目を離さずシャノンは呟く。

 すでに106号室の住人の家族と連絡はついている。50分後には到着する。この短い間にもすべきことは多い。役所へ提出する書類の用意、葬儀社への連絡、家族の心理サポートを行う部署への連絡、遺体への処置。

 シャノンはリモート管理デスクを操作する。確認用の画面に106号室のベッドサイドが映し出された。死者の枕元にはバンシーが佇んでいる。ただしプラスチックでできた頭部に長い黒髪は一筋たりともなく、眼窩に当たる部位にはレンズとセンサが押し込まれており、赤くはない。緑の服は着ている。ここの職員の制服と同じものだ。

「ここのバンシーは誰の声で泣いたんでしょうか」

「母親」

 緊張からくる新人の無駄口への答えは端的にするのがよい。たいがいはそこで黙る。だが、ルネは首をひねって再び口を開いた。

「子どもや配偶者じゃないんですね」

「珍しくはない。君がここで私と同じくらい勤め続けた頃にどうなっているかはわからないけれどね」

 ルネから勤続年数を尋ねられたシャノンは黙って自分の白髪頭を、次いでルネの管理デスクに接続されたアイグラスを指差した。

「グズグズしてるとケアロイド越しに彼女の家族と挨拶するハメになる」

 ルネは慌てて目元にグラスを装着し、10階の遺体処置用ケアロイドを動かし始めた。駆けつけた家族が目にする死に顔が安らかであるように、引き継ぎの葬儀社がより簡単に死に姿を整えられるように、これから死後硬直と乾燥、腐敗の開始に対処しなければならない。シャノンは自分のグラスを装着した。バンシーの視界越しに死者と対面する。穏やかな死に顔だった。新人にはもってこいの。

 「人間を超えたケア」モア・ザン・ヒューマン・オブ・ケア には二つの意味があった。ひとつは過重な労働から当事者の家族やケアギバーを解放すること。もうひとつは人間が人間に与えられる以上の充足感を当事者にもたらすこと。複数の団体や研究者の手によって30年ほどの年数を費やし開発されたケアロイドは、それらを満たすものとして高齢者ケアの現場において瞬く間に広まった。衰えた認知機能に高い効果を発するデザイン。操作者を問わず身近な人間の癖を再現するモーション。安心をもたらす音声でのコミュニケーション。そしてその声による看取り。心肺の停止以後、およそ10分は聴覚機能と意識が維持されるという見解にもとづき、ケアロイドには死のプロセスを迎えた当事者に声をかける、あるいはその傍らで「泣く」という機能が付与されている。モア・ザン・ヒューマン・オブ・ケア実践の先駆的な役割を果たしたこの施設で、ケアロイドたちはバンシーと呼ばれている。アイルランドやスコットランドで語り継がれるそのおとぎ話の妖精は、勇敢で高潔な人間の死を知らせるために泣くのだという。


「アンドリュー、何か適当な紙はないかな。いつもの手帳が見当たらないんだ」

 認知機能の著しく低下したケアセンターの住人にとって、ケアロイドは友であり、親であり、子である。シャノンが操作するケアロイドは、エイダ・ラーソンにとってかつてのラボメンバーのようだった。シャノンは出力音声を若年男性のものに切り替え、ケアロイドが下げているビニール製のポシェットからメモパッドを取り出して渡した。エイダが長年使っていた手帳は4年前から販売を停止している。

 震える手でメモパッドに弱弱しい文字が連ねられていく。彼女はこうして20年前に自分が編者として発刊した論文集のイントロダクションを繰り返し、繰り返し書く。この行為の反復自体に意味はない。

「ところでエイダ、5分後にアポイントがあることをお忘れでは?」

「そうだったかな。誰とだっけ。準備はいらないやつだよね? こういうことはいつも忘れてしまっていけない」

「メアリ・ラーソンですよ」

 エイダは睫毛のほとんど無くなった瞼をぱちぱちと開閉して、次の瞬間、盛大に笑い出した。

「そうだった! 『毎度ながら仕事熱心ね、ママ』って嫌味を言われるところだった。あの子はいくら仕事が忙しくても、あたしと違って人との約束を忘れることはないから。ありがとう」

 エイダの表情は伸びやかだ。今の彼女にとって娘・メアリは、実像とそう遠くないところにあるようだ。それがいつまで続くのかは誰にも分からないことだが。

 結局その日の面会時間、エイダ・ラーソンとメアリ・ラーソンのふたりが、老いてなお手を止めないエンジニアの母と、順調にキャリアを形成しつつある弁護士の娘として向き合うことができたのは、面会時間の始めのうちだけだった。そのあとこの日のメアリは、エイダの編み物仲間として彼女の取り留めのない話に耳を傾け、相槌を打ち、覚えられることのない次の約束をして、別れた。

「娘は出来がいいまま大人になったけど、息子はダメだった。今はどこで何をしているかも分からない、だって。自分が忘れられることにはもう慣れたけど、この言葉を聞いたら本当に泣けてきて」

 面談室の中でメアリはそう言って顔を覆った。嗚咽に合わせて肩が震える。

「忘れられることに慣れたなんて言わなくてもいい」

 メアリの隣に座るカウンセラーが彼女の背をさすった。

「そう、いつだって良き理解者でいる必要なんてない」

 コーヒーをローテーブルに置きながら、シャノンはそう声をかけた。時間を作ってここを訪う人間の忍耐強さは賞賛に値するが、ここの職員がそれを口にすることはない。悔恨や哀惜、喜びや発見ですでにいっぱいの両手には不要なものだからだ。

「……それをあなたが言うの」

 シャノンは頷いた。

「それを完璧にやり遂げるべきなのは、ここの職員とシステムだけ」

 メアリはそう、とかすれた声で短く応えた。

 エイダの終末期は穏やかな微睡で占められていた。ただ、人生の総体がそうであるように、その中にはときおり荒れた冬の海のような恐慌が紛れ込んだ。不安、悲しみ、怒り。ママはどうしてあたしを捨てたの、とエイダは何度もケアロイドにすがりつき泣いた。施設の職員たちは、幼いエイダが母親の愛情に恵まれなかったことを良く知っていた。数学と昆虫採集に熱中し、飛び級を繰り返すたびに母から遠ざけられ、拒絶された幼少期が綴られたエイダの自伝はケア従事者の教育課程で言及されることも多かった。また、施設開設時の講演会で、病を得た母のケアに伴う苦難がバイオメカトロニクスを専門としていた自分をケアロイド開発に向かわせた、と語るエイダの姿を覚えている職員も少数ながら現役で働いている。

 そうした生い立ちにもかかわらず、不安の渦中にあるエイダを落ち着かせるのに最も効果を発揮したのは、ホーム・ムービーの記録をもとに再現された彼女の母親の若い頃の声と仕草だった。どうしたのエイダ、何か悲しいことがあったの? 大丈夫。落ち着いて。話を聞かせて。それらの言葉が才能と栄誉に恵まれた80年あまりの生涯で、エイダが焦がれつつも得られなかったものであることは、ケアロイドを操作する誰の目から見ても明らかだった。

 やがて、そうした冷たく厳しい吹雪も吹くことはなくなる。身体ははじめ固形物を、そして水分を受け付けなくなり、呼びかけにもほとんど反応せず、凪の中を漂う小舟のように眠る。施設はエイダが本当の終末期に入ったことを娘のメアリに告げた。見送ることが叶わない場合、最後の声掛けはどうするかと職員に尋ねられたメアリは、少しの沈黙の後に録音した家族の声かけを流し、そして最後まで祖母の声で歌を流してほしい、と答えた。

「本当はあなたも……いえ、何でもない。どうか最期までよろしく。あなたを信じているから」

 メアリは自分の願いを他者に強いることなく、かといって口をつぐむこともしない。彼女のそうした人柄をシャノンは尊敬していた。託された信頼を飲み下すように、強く顎を引いて頷いた。

 そしてその時はやってきた。呼吸のリズムが乱れ始め、それに合わせて肩や顎が動く。喉元から音がする。死前喘鳴だ。シャノンはエイダの頭の下からそっと枕を外し、肩へクッションを差し込んで気道を確保する。呼吸回数と無呼吸の長さを測定する。血圧が下がってきた。手足の先が冷たく青ざめてゆく。脈拍が弱く、計測できない。メアリへ連絡は入れたが、彼女が間に合うかは分からない。シャノンはメアリから渡された音声データを流す。

 ――おばあちゃん、今年もヒメアカタテハが無事蝶になったよ。おばあちゃんに見せたい。

 ――シェリーはいつも通り蝶に夢中だったから、マックスの面倒は僕がみてた。元気だから心配しないで。ね、マックス? (ワン!)

 ――エイダ、あなたの孫たちはこのとおり元気いっぱいです。ふたりを見守ってきたあなたの知恵と優しさに心からの敬意を払います。私が作ったタティ・スコーンにA+の評価をしてくれたこと、一生忘れません。

 ――ママ、料理がへたくそで、整理整頓と昆虫が大好きな私のママ。好き放題に生きるあなたの背中を見て、私はのびのび育つことができた。今までありがとう。愛してる。

「たくさんの人があなたを愛し、敬い、労っている。でも、それらの一切がなくても、たとえあなたの母があなたを愛さなかったとしても、あなたの生には意味があった」

 シャノンはデータを切り替える。バンシーの穏やかな歌声が響く。その中でエイダは息を引き取った。


 106号室の住人の息子はメアリと同じ依頼をした。ただ、その表情は晴れやかだった。事前調書の中に彼の母と彼の祖母の間に何か遺恨があったという話はなかった。スキンケアとクーリング処置を終えたシャノンはグラスを外して時間を確認する。彼を含めた家族の到着まであと10分。隣のグラスを外したルネの顔を見る。顔色はやや悪いものの、達成感が漲っている。

「私、エイダ・ラーソンを尊敬していてここへの就職を希望したんです。けど遺体を見るのは初めてだし少し不安だったんですけど、なんとかできてよかったです」

 興奮のせいで聞きもしないことをベラベラとルネは口にする。もう息をしていない入所者を初めて目にした新人は大抵こうなる。

「この仕事をしてると、エイダのおかげで安定した終末期を送れるんだって実感します。私のも、安心できる誰かの声を聴きながらあんな穏やかな顔で生涯の終わりを迎えて欲しいです」

 すみません、おしゃべりが過ぎましたとルネは苦笑いした。愛情を与えてくれる何人もの大人に囲まれて育つと、こうした人間になるのか、という不合理で前時代的な感想をシャノンは抱いた。

 ケアロイドの導入から40年、大半の国で高齢者ケアが完全に福祉システムの中に組み込まれ、家族に、大多数の女に割り振られていたその担い手という配役は不要になった。明確な解放だった。そして、女から外れた軛はこのひとつだけではなかった。高齢者ケアのシステム化と並行化して、世界各国で合法化された体細胞による生殖は、出産に伴う荷重からも女を解放しつつあった。

 106号室の住人のように、死の床で「母」を求める人間はやがて稀な存在になるだろう。子に栄養や愛情を与える特権的な主体が染色体XXの「母」である必要などなかった。システム化された生殖と養育と看取りに配置される「人間」という名の部品モジュールの定義はみるみるうちに変わっていった。ルネの言う「私の親たちペアレンツ」が何人から構成されており、その性比がどうであるかシャノンが当てられる確率は低いだろう。

 世界は変わりつつある。それでも自分の枕辺ですすり泣く声の主は、ゆっくりと下る死の螺旋階段の先にいるのは、母だとシャノンは確信している。母にとってそれが母の母であったように。

 シャノンは身支度を整えるためにデスクを離れる。ベテランの、信頼のおけるケアロイドオペレーターとして遺族に哀悼の意を示すために。周囲から、母から期待された道を大きく外れてもなお人生を賭けて現実に引き寄せようとした夢は、20年も経てば砂袋のような重荷になった。そんな過去もこれから会う人々には何の関係もない。だからシャノンは実の弟としてではなく、ひとりのケアラーとしてメアリに接し、ケアロイド越しのエイダを母ではなくひとりの入所者として扱った。

 エイダは幼いシャノンに言った。君がもっと大きくなって、あたしの言うことを何もかも否定したくなる時が来ても、この言葉だけは信じていて。人生に価値なんてない。あるのは無数の意味だけ。

 その10年後、母はシャノンの掲げた夢を否定してこう叫んだ。君のやるべきことはそれじゃない、君にはちゃんと別の、あたしと同じ才能がある。それは母の心変わりを示しているように思えた。お前に付いている価値を高めろという、周囲の大人の言葉と変わりないと。そうではなかったと気づいたのは、自分の知らない母の姿を間近で見続けていたからだ。シャノンは全てを理解した。許しは必要なかった。ただ敬意と労いの気持ちを持って、バンシーの内側から母を見送ればよかった。

 そう、母さん。あなたの言う通り、俺の人生だって意味しかない。そうだろ?

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