ふたり

サクラクロニクル

ふたり



 Ⅰ


 下駄箱のなかに封筒がひとつ。

 すでに課外活動も終了の時刻が近づいている。校舎内の静寂は風だけが打ち破る。冷たい風。十二月が目前に迫っている。僕は手紙をすばやく鞄のなかにしまうと、あたりを見回した。まだ姉さんの姿は見えていない。ほっとする。だが、手紙を読めるほどの状況ではない。

 昇降口から外に出ると、一段と強烈な寒風に首筋をなでられる。これからもっと寒くなるというのに、先が思いやられる。マフラーが必要な時期ということか。

 十分ほどして、姉さんがやってきた。僕の姿を見るなり、腰に届こうかという黒髪を揺らしながらこちらに駆けてくる。僕もまた姉さんに向かって歩いていた。

「ごめん。待たせたね、みぃや」

 互いに立ち止まったとき、姉さんが先にそう言った。姉さんはやさしい瞳をしている。僕よりも身長が高くはあるけれど、それも五センチ程度であるし、夏だけで十センチも身長が伸びた僕にしてみれば、その関係が逆転するのも時間の問題だと考えられた。そんな姉さんが謝りの言葉を出すと、僕はすこし困る。本当にすまなそうなその響きに、自分の感情の棘を封じられる。

「ううん。僕もちょうど出てきたんだ」

 僕はそう答えた。

 それから、ふたり並んで家路につく。

「ねえ」

 と、声をかけられる。

「なにか変わったことはなかった」

 特にそんなことはない。ただ、手紙のことを除いて。姉さんにあのことを気づかれでもしたらえらいことになる。

「なんにもなかったよ」

 平静さを意識して答える。

「そう。ならいいんだ」

 姉さんは安堵と喜びを表情に出す。本当に心からの表情。どうしていつもそんなふうに感情を表に出せるんだろうと、姉弟の間柄でありながら疑問に思う。僕はそんなふうにすることができない。

「ところで」

 と、姉さんは地面に視線をやりながら言った。

「晩御飯、なにがいいかな」

「姉さんが作ってくれるならなんでもいいよ」

「なんでもいいのね」

 これで僕の好物が出てくるのは確定した。食事を作るのは当番制にしている。僕と姉さんは完全なふたり暮らしだ。しばらくは姉さんがひとりでなんでもやっていた。そんなのは嫌だったから、だんだんと雑事を手伝うようになった。料理の方も、雑誌を見てなんとかやっている。魚を三枚におろすくらいなら、造作なくできる。

 家に着く。一軒屋。姉さんとふたりではすこし広すぎる。

 それぞれの部屋は二階にあった。僕と姉さんはすぐに二階にあがる。一階にすべてを移す計画もあるにはあるが、まだ実行には至っていない。

「じゃあ、ご飯作ってるからね」

 扉越しに姉さんの声。僕は聞こえるように大きな声で返事をした。

 ようやくの好機。封筒を取り出す。誰からだろう。それすらも確認してはいなかった。裏面に前原ゆなの文字。ゆなさんか――と僕は彼女の顔を思い浮かべた。同じクラスの子で、保健委員をやっていたはずだ。あまり話すことはないけれど、ちょっと話した感じでは何事にも強気でしっかりした意志を持っているような気がした。ちょっと苦手なタイプかもしれない。ショートカットが似あう顔立ちとか、ちいさい体できびきびと動いているところなんかは、ちょっといいな、と思うのだけれど。

 ラブレターか、と僕は呟いた。

 こういう方法を取られたことは何度もあった。直接呼ばれたことだってある。だけど、そのすべてを僕は断ってきた。本当におつきあいがしたいひともなかにはいたのだけれど――僕はそのころから、外側に感情を出さないように生きていた気がする。中学生という時期から。

 思索が打ち切られる。

 ドアをノックする音のせいだ。僕は最大の力をもって手紙を隠した。机のしたに投げただけだが、見つからなければいい。

「なに、姉さん」

「ううん。声が聞きたかっただけ」

「そう」

「ねえ、みぃや」

 声のトーンがおちている。扉越しだからではない。気配で、そうとわかる。

「どうしたの」

「彼女なんて作ったらダメだからね」

「えっ」

 背筋に走ったのは寒気だった。

「絶対だよ」

「うん。わかってるよ」

 姉さんが扉を開けることはなかった。だが、そんなものがなくてもこちらが見えている気がしてならなかった。いや、もっと前からなにかを察知していたんだと推測するのが妥当だ。どんなに外面を取り繕っても、姉さんの瞳は内面の変化を見透かすようなところがある。

 僕はため息を吐いた。

 外の様子を確認。姉さんはおりていった。改めて、封筒を回収。中身を確認するために開封した。

 ほとんど真っ白な下地。無駄なものは一切ない。いままでもらったラブレターのなかで一番簡潔にまとめられた一文がそこにあるのみだった。好きです。つきあってください。それらのあとには、携帯の電話番号と思わしく数字が整列していた。文字はみな丸みを帯びているが、バランスがしっかりしているので読みやすいと感じる。こんなに単純な文字の並びなのに、そのひとの心が全部伝わってくるような気がした。

 顔の表面が持った熱がなかなか冷めなかった。なんだろう。多くの交流があったわけでもないのに、僕はゆなさんのことが気になって気になって仕方がなくなっている。恋かもしれない。そうだといいなと思う反面――姉さんのことで不安になる。

 僕は番号を携帯に記憶させ、気分をおちつかせてから、階下におりた。

 包丁がまな板を叩く音が律動的に響いている。僕はソファに体を沈め、なるべくゆなさんのことを考えないように、と意識した。が、そのような意識がある時点ですでにゆなさんの顔立ちとかいつもの様子とかが頭のなかに浮かんでおり、しかもそれらはどうも理想化されているらしく、常日頃の自分がどのように思っていたのかということを完全に塗りつぶしてしまい、前からずっとかわいい子だったかのように思えてくる。いけないいけない、と頭を振ろうと思ったが、そんなことをしては姉さんに不思議に思われるだろうからなるたけ抑えようと考えるも、今度は首筋の辺りから恥ずかしさがのぼってくる。これではダメだ。ソファに置かれたクッションに顔を埋める。緊急回避をするように。

「どうしたの」

 声がおちてくる。ハッとなって見あげれば、そこには悲しそうな顔をした姉の姿。手には包丁が握られている。姉弟で愛用している出刃包丁で、切れ味が悪くなるたびにしっかり研いでいる。その刀身が室内を照らす蛍光灯の光を跳ね返してギラギラと輝いている。姉の瞳もまた静かな光を宿している。いずれにしろ、それはひとの心を脅かすのに十分な力を秘めていた。

「ねえ、みぃや」

 姉の左手が僕の首根っこを掴み、持ちあげた。僕は上体を逸らすような形になった。首筋には包丁の背が触れている。熱が吸い取られていく。

「女の子のこと、考えてたの」

 目が据わっている。他のひとがこれを見ても、別に睨んでいるようには見えないだろうが、これでも姉さんは僕のことを睨んでいるつもりなのだ。経験で知っている。こうなるともう僕の背筋は完全に凍ってしまって、神経が壊れてしまいそうになる。

「違うよ。なんでもないよ」

「本当なの」

 掴む力が強くなる。包丁の角度が変わっていくのが感じられる。

「ホント……ホントだよ……」

「嘘だよ」と姉さんは悲しそうな口調をした。

 包丁が離れた。それの行く末はわかっている。リビングの机上に捨てられるのだ。それから姉さんがやることもわかっていた。僕はもう体中をこわばらせてそれを待つことしかできなかった。

 最初の一撃はわき腹の辺りだった。蹴りだ。かかとが食い込んでくる。その苦痛に体を捩じってしまう。仰向け。手が伸びてきて胸倉を掴み取る。鉄拳が胸元を何度も打つ。女性の力とは思えない。それが繰り返される。痛みが徐々に増す。次に来たのは手刀。首筋を的確に打ち据える。僕は思わず声を漏らしてしまった。終わりを待ちわびる。だが、まだそれは来ない。体が持ちあげられ、僕はほとんど無理矢理に立たせられた。だが抵抗はしなかった。為されるがままにしている。そして体の重心が崩され、その勢いのまま壁に叩きつけられた。もう自分がどうなっているのかもわからない。

 攻撃の手が止まっていることに気づくまでにはすこしの時間があった。

 僕は壁に背を預けている。姉さんはそんな僕の胸元にすがりついて泣いていた。

「お姉ちゃんをひとりにしないで。どこにも行かないで……」

 僕の答えは決まっている。

「大丈夫だよ。姉さん、僕はどこにもいかない。絶対に、どこにも行かないから」

 それだけしか言うことができない。姉さんは、本当だよ、本当だよ、と何度も念を押す。僕はそれに対して幾度も同じ返答をする。本当にそれしかやりようがないのだ。そうでもしなければ姉さんは僕に対する攻撃をやめられないだろう。それが本心であるかそうでないかに関わらず。

 これでまた打ち明けるのが難しくなる。恋文をもらったなんて打ち明けでもしようものなら、今度はどうなるのだろう。攻撃の矛先が僕から外されることもあるかもしれない。そうなるのはなんとしても避けたかった。この家に存在する攻撃の対象は、僕を除けば姉さん自身しか存在しないのだから。

 居間が平穏を取り戻すまでに、すくなくとも五十分はかかったように感じた。姉さんはいつも通りの姿へとおちついており、残ったのは僕の体のあちこちを軋ませる痛みだけだった。だが、それもまた自然の物質である僕の体に残されたものに過ぎない。いつかは消えるだろう。

 だから、なんということはない。

 すべて、元の通りに戻っていく。

 だけど、唯一不安があって、それは僕のなかにある恋心に端を発する。夕食後、ベッドに体を放り込む。それから僕は、ぼんやりと自室の静寂に耳をかたむけながら、ゆなさんのことを考えていた。いままでになく、気にかかっている。こんなに異性のことが気になるなんて――姉さんのことも確かに好きだけど、それは肉親への情であると思うし、恋とは違う。愛ではあるが、恋愛に含まれる愛ではない。

 ええい、やめだ、と僕は寝返りをうった。また姉さんのバランスをぶち壊すつもりなのか、と自分に毒づく。残念ではある。本当にできるか不安ではある。だけど、この恋も諦めないといけないなと感じていた。ひとは、複数の他者を同時に愛することができるとは思う。でも、他人のその行動を常に許容できるとは限らないのだ。

 思索を中断させたのは、携帯電話の震えた音だった。誰からだろう。送信者は前原ゆな。ゆなさんだ。僕の電話番号を知っていたようだ。どこから判明したのだろう。それに対する推理は放棄して、文面を見る。

 ――手紙、受け取ってくれてありがとう。大好きだよ。前原ゆなより。

 絵文字もなにも使用されてはいない、単純な言葉の並び。大好きだってさ、と自分に呟いてみる。僕はいったいゆなさんになにをしてあげたと言うんだろう。なにがゆなさんにここまで言わせるんだろう。

 僕は携帯に文章を打ち込み、メールを送信した。

 ――明日、会おう。

 それから、どれほど断りの言葉を入れようと思ったかわからない。だが、どうしてもできなかった。それ以上の文を挿入することはできないまま、送信。

 時間の経過を時計の音だけが知らせている。




 Ⅱ


 姉さんのと自分のと、両方の弁当を用意する朝。そろそろ買い物に行かないといけないな、と思った。力量の足りない部分は冷凍食品でカバーしているが、それも現物が家にあってこその芸当だ。

 姉さんの朝はいつもはやい。僕が当番の日だけがんばって起きてくるのとは違い、六時にはリビングでニュースを見ていたりする。ときどき眠そうにあくびをすることはあるのだけど、それも愛嬌と言って問題はない。僕のように無様さを晒すのとはわけが違う。

 すべてを終えて、七時半ごろに姉さんと出発する。

 互いに文化系の部活動を行っているので、それぞれの出発がバラバラになることはほとんどない。並んで歩く。仲のいい姉弟という評価を聞いたことがあるが、そう見えているならうれしい。

 空はよく晴れている。雀の鳴く声がする。ふと肩に重量。見やれば、姉さんが僕の肩を抱いているのだった。いつもはこんなことしないのに。昨日のあれが原因かもしれない。

「どうしたの」

 と、僕はちいさな声で問うた。

「みぃやとこうしていたいの」

「誰かに見つかるよ」

「いいじゃない。姉弟なんだから」

「そうかもしれないけど」

 やはり恥ずかしさはある。

 学校が近くなってくる。姉さんは僕のことをようやく放してくれた。先ほどはああ言ったものの、基本的に姉さんは他人の目を気にしないで生きてはいけないひとだと思う。だから、他者の気配を感じ取ると別人のようになる。しっかりとしていて、なんでもできる。学校という場所では優等生として振舞える。これで眼鏡でもかければ、ある種の偶像ができあがると思うが、姉さんの視力は僕と同様に二・〇だ。

 校門で姉さんと別れた。それから教室までの間に障害はなく、まっすぐの道のりを終えた。席につこうとする。そのとき、ちょうど声をかけられた。聞き覚えのある声。ずっと意識の片隅に置かれていた人物のものだった。

「おはよう」

「あ、おはよう」

 同じ言葉を交わす。

 ゆなさんは僕よりも十センチは背が低かった。見あげるような形で、ゆなさんは僕に笑いかけた。すぐにはうまく笑顔になれず、その代わり、頬が染まる感覚だけがあった。

 おちつかない気持ちをどうにかするために、着席する。それから、正面からゆなさんを捉えようと努力した。昨日の想像は勝手なものではなかったようだ。やっぱりゆなさんはかわいい。それともこれは、相手が自分のことを好いているという条件によって生じる生体反応なのだろうか。

「昨日のあれ――」

 と、ゆなさんはすこし詰まりながら言った。僕と同じ症状にでも罹っているかのように。

「突然でごめんね。でも、我慢できなかったから」

「うん」

 と、僕の方は昨夜に考えた様々な断りの言葉を必死で探していたが、それらはどこかに行ってしまっていた。痕跡すら見当たらない。目的だけが宙に浮いてしまったようなものだ。しかも、僕の身長では届かない高さにある。背伸びしてもあと一センチ届かない。ジャンプしても、僕の手をふわりと回避する。達成不可能。

「じゃあ、またあとでね」

 と、ゆなさんは軽く手を振ってから去っていった。僕も手許が動いていた。

 どうしよう、という思いだけが胸のなかで乱舞している。そんなことをしてもどうにもならないのはわかっているはずだろうに。

 チャイム。

 ホームルームが開始されるとそんなことも考えてはいられなくなった。気を取られている暇はない。もうすぐ期末テストなのだから。

 それなのに、僕は授業の合間合間にゆなさんの方を盗み見ていた。向こうもこちらのことを多少は意識しているようで、二回ほど目があった。そのたびに反射的に目を逸らす自分。客観視するのがつらい。

 昼になり、僕は弁当箱を開いた。ふう、というため息が零れおちる。首を持ちあげ、見やった先はやはりゆなさんの席。だが、そこには誰の姿もなかった。教室のどこにも、ゆなさんはいなかった。誰か友達と昼食をとるのかもしれない。当たり前と言えば当たり前だ。僕はまだ告白に対する返事をしていないのだから。

 昼食は友人と食べた。今度のテストのことで意見交換をする。こちらは古文や世界史が得意分野で、あちらは数学や物理を得意としている。僕は進路を文系に定めているから、そのうち物理は捨てる気でいるが、いまは投棄の好機ではない。成績に響く。あちらも世界史は捨てる気でいるようだが、こちらと同様の理由で捨てるわけにはいかない。だから、互いに自分が試してみてわかりやすいと感じた問題集があれば相手に提供するようにしている。

 さいわい、僕も姉さんと同じような性質を持っているらしく、ちゃんと勉強しさえすれば、テストを苦難と思わずにやっていける。それが苦手な分野であっても。友人の方もまたけっこうなものだ。特に数学は勉強せずとも大丈夫なくらいで、貸してくれる問題集はいつも新品同様だった。その問題をやったことを示すマークが鉛筆で書き込まれているだけだ。いまどき珍しくシャープペンシルを用いないのが彼の流儀だった。僕にはそういうこだわりがなかったから、おもしろいやつだなあ、と感じる。それに、努力家であるとも。彼から借りた問題集において、解かれていない問題はないのだ。

「へへ、毎度」

 と、彼は僕から問題集を受け取ってそう言う。

「いや、僕も借りてるからさ」

「おうよ。任せとけ」

「ありがと」

 それから彼は米粒の最後の一つまでをすべて平らげると、短髪をかきむしった。

「ところでよ」

「なに」

 僕は弁当箱をしまいながら問い返す。

「お前、前原となんかあったのか」

 僕は咳き込んでしまった。

「唐突になにを――」

「唐突でもないと思うが」

「なんでそんなこと言うんだよ」

 口調が乱れる。

「いやキミ、俺は見たぞ。朝、お前と前原が見つめあってるところを。あれはもう尋常なものではない。瞳も輝いていたようだ」

 言葉が出なかった。口だけがもごもごと動いた。彼が言葉を続ける。

「いいねえ。もうすぐテストだってのに」

「うん……」

 言葉を見つけ出せない僕を彼はそれ以上に追求したりはしなかった。まったく、うらやましいったらない。そういうことを言ってから、僕の許を離れていった。うらやましい、か。まだつきあっているわけではないのに。

 午後。午前にも増して集中力は散漫になる。授業はすでに受けるというよりやり過ごすという形になっていた。そうであるにも関わらず、体感時間は無闇に引き伸ばされていたように思う。それら判然としない記憶の連続は、帰りのホームルームの終了によってようやく断たれた。

 僕と姉さんは互いの部活動のことをよく承知していたから、いっしょに帰る日とそうでない曜日がしっかりと決められている。今日は姉さんの方が遅くなるはずだった。隙があると言い換えることもできる。ゆなさんに声をかけた。

「時間、空いてるかな」

 教室中の生徒が生み出す騒音のなか、答えは明瞭に届いてきた。

「空いてるよ」

「そうか」

 と、僕は笑おうとしたが、あまりうまくは笑えなかった。ぎこちなさが相手に悪い印象を与えていないといいのだけれど。そして、まだ問題はあった。どこで話をすればいいのだろう。悩んでいる時間はなかった。ゆなさんの提案が、僕の思索する力を完全に沈黙させたからだった。

「喫茶店にでも行こうよ」

 名案だった。僕はうなずいている。意見が浮かんでこなかった。喫茶店ならおちついて話ができるような気がした。それは楽観なのかもしれなかったが、拒否する理由はない。

 ゆなさんはどんどんと前を歩いていった。下駄箱ではすこし僕のことを待ってくれた。街中に出ても、僕がはぐれていないかを振り向いて確認してくれた。おかげで置いていかれずに済んだが、体躯の差が逆さになっているのではないのかと思えるくらい、ゆなさんはすばやく歩いていった。だから僕も歩調をあわせるべく早歩きになった。姉さんとなら、互いに気を使いあうまでもなく同じ速度で歩くことができるのに。

 ふたりで喫茶店に入る。都合よくゆったりと座れそうな席が空いていた。ふたりでそこに座る。僕が先に腰をおろして息を吐くと、ゆなさんは対面に座して同じようにため息をひとつ。

 最初の一言のきっかけが掴めず、第一声は注文を取りに来たウェイトレスさんに向けて放たれた。僕はカフェラテ。ゆなさんはココア。

 僕はカップの中身を口のなかに流し込んだ。甘いのか苦いのかわからない。ただ熱いだけだった。砂糖とミルクを流し込んでも結果は同じだった。

「甘党なんだね」

 笑い声がそれに続く。

 そんなにおもしろかっただろうか。確かに、うろたえてシュガースティックを三本も入れてしまったのだが。

「ちょっと勢いで」

「勢いでこんなに入れないよ」

「うん」

「もしかして、気をつかってるの」

「えっ」

「だってさ」

 ゆなさんが視線を逸らす。

「その、わたし、緊張してるから」

「あ、いや。うん。僕もだよ」

「嘘だあ。綾川くんってもてるでしょう」

「そうかな」

「そうだよ。だって、ラブレターとかもらってるじゃない」

「うん」

「呼び出されたりしたの、見たことあるし」

「うん……」

「おつきあいくらい、したことあるでしょう」

 それが。

「ないんだけど……」

「信じられないよ」

 そう言われても困るのだった。僕はすっかりうつむいてしまい、カフェラテを口に含んだが、そこに感じられるのは妙な甘さだけだ。苦味なんてどこにもない。気分がだいぶおちこんできた。どうしよう、という思いがぐるぐると回っている気がする。回転木馬が思い起こされる。ただし、夜間であるにも関わらず電飾がすべて切れている。

「もしかして、本当なの」

 僕は力なく首を振った。肯定の意志はそれでしか表せなかった。

「誰か好きなひとでもいるの」

 寂しそうな響きが聞こえたとき、僕は視線を持ちあげていた。ゆなさんはひどく悲しそうな顔をしている。いけない、と僕は思った。

「ううん。僕、前原さんのこと好きだよ」

 あっ、と気づいたときにはもう遅かった。かなりはっきりと言ってしまった。

「えっ――そ、そうだったの」

「うん」

「そうだったんだ。そうか。相思相愛だったんだ」

 ゆなさんは照れくさそうに笑った。その顔がとても愛らしくて、僕は自分のやってしまったことに対する自責の念を黙殺してしまった。

「あのさ――」

「なに」

 ちょっとしたはにかみを見てとる。

 机上で指同士が格闘していた。

 やがて声がやってくる。

「そっち、座っていいかな」

 上目遣い。理性が壊れてしまいそうだ。

「いいよ」

 すっかり気分が舞いあがっていた。そういう自分の状態を自覚していたにも関わらず、その心地よさに身を任せてしまう。気づけば隣にはゆなさんが座っていて、僕の方を見あげてニコニコとしている。

 なにもかも忘れてしまいたい。ずっとこうしていたい。そういう感覚は、理想化された嘘っぱちではないみたいだ。まだ手も繋いでいないけれど、キスだってしていないけれど、これでもう十分だと思えてしまうくらいだ。いままでにないことだからかもしれない。この関係が続いていくのならば、いつかそれらも為されるのだろう。

 僕はカフェラテを飲んだ。

 嵐の如く吹き荒れる甘さのなかに、消え入りそうなほどちいさな苦味がある。

 姉さんの顔が思い出されて、僕はそれ以上なにも言えなかった。浮上してきた申し訳なさと、不安とで、楽しい気持ちが冷めていくのがわかった。それでも僕はゆなさんに微笑みを見せ続けた。僕の表情が崩れたら、夢はきっと覚めてしまう。

 周囲にいた客の顔ぶれがすっかり変わったころ、僕とゆなさんは喫茶店から出た。また明日ね。うん。メールもしようね。きっと送るよ。忘れないでね。忘れないよ。きっとだよ。きっとね。そうやって、いつまでも名残を惜しむように会話した。外はすっかり冷え切っている。高まっていた体温にそれが触れる。理性を呼び覚ますかのように突き刺してくる。

 空には星が見え始めている。ほんのわずかな輝きしか見えぬ夜空。ひどく寂しい。西ではまだ、陽光の残り火が赤々とした色彩を放っている。




 Ⅲ


 携帯で時間を確かめる。もう姉さんは家にいるはずだった。きっとどこに行っていたかを聞かれるだろう。心配をかけてしまったに違いない。

 扉を開け、ただいま、と大きく言った。姉さんの声はすぐに返ってきた。思っていたよりも明るい色調を帯びている。

 居間では、姉さんがソファに寄りかかってテレビを見ていた。ニュース番組。

「ただいま、姉さん」

「おかえり」

 僕は鞄を放り出し、すぐに姉さんの隣に座った。

「ごめん、姉さん。遅くなっちゃったよ」

「ううん。いいよ。みぃやにもみぃやの都合があるんだから」

 今日の姉さんは明るかった。ただ、やはり寂しかったらしく、隣に座った僕の手をいつの間にか握っていた。強く、握っている。手は小刻みに震え、横顔を見ようと思って顔を見あげると、視線が衝突した。

「みぃや。どこに行ってたの」

 瞳のなかには静かな光。

「文房具を買ってたんだ。ごめんね、メールもしないで」

 嘘を吐いた。

「そう――」

 姉さんはそれ以上の追及をしなかった。寂しそうな様子は変わらない。夕食を作らなければ、という意識はあった。姉さんはやがて、僕の胸に体を預けて眠り始めた。眠っているように見えるだけかもしれない。ゆっくりとした息遣いに耳をかたむける。ニュースが終わりバラエティになるくらいの時間が経つ。姉さんは本当に眠ってしまった。もうずっと前から眠っていたのだろうか。そっと肩を抱き、ソファに寝かせた。みぃや。姉さんの呼び声。僕は立ち尽くす。夢のなかでも僕のことを呼んでいる。

 僕はテレビを消した。

 もうここにあるのはふたりの存在だけだ。ふたりきり。ふたりぼっち、と姉さんなら言うかもしれない。どのみち、ここには本当に僕ら以外に誰もいはしないのだ。

 その静けさのせいで、耳鳴りがする。

 気をまぎらわせるために再びテレビをつけ、食事の準備にかかる。無心でやることだ。それしか自分を安定させる方法はない。米を研ぎ、炊飯器をセット。包丁を握り、冷蔵庫から取り出した野菜を刻むことに集中する。今日はなにを作ればいいだろう。自分の数少ないレパートリーと冷蔵庫の中身との折りあいをつけていく。単なる野菜と肉の炒めで許してもらうことにしよう。ついでに、味噌汁でも並べようか。組みあわせとして、それがまっとうなものであるかどうかの自信はないのだけれど。

 味噌汁がいい具合に完成したころ、姉さんが起きてきた。「ごめん。まだご飯の方が炊けてないんだ。すぐにできるとは思うけど」

「ありがとう」

 姉さんが寝ぼけ眼で笑った。それから五分もしないうちに、炊飯器が電子音を出して合図した。すぐに食事を開始する。

「みぃや」

「なに」

 僕は白米を飲み込んだ。

「本当は、どこに行ってたの」

「どうして」

 箸が止まった。姉さんの顔を見やる。姉さんは淡々と食事をしているように見えた。言葉が続く。

「文房具なんて、買いに行ってないんでしょう。みぃや。きっと女の子と会ってたんでしょう」

「そんなこと、ないよ」

 視線がおちていく。姉さんのことを直視できない。

「みぃや。お姉ちゃんの目を見て」

「うん……」

 僕は外面を必死で繕いながら、姉さんの瞳に焦点をあわせた。

「やっぱり、女の子がいたんだね」

 箸が置かれた。なにが起こるかはだいたい理解できた。僕はすばやく食卓から身を逃がすと、リビングの方に転がり込んだ。姉さんは追跡してくる。

「姉さん、誤解だよ」

 言い訳に力が入らない。嘘は露見する運命にある。しかし、姉さんはきっと僕が嘘を吐いているなんて思ってはいないだろう。

「みぃやのバカ。どうしてお姉ちゃんに嘘を吐くの。女の子に会ってるだけなら別にいいじゃない。それとも、みぃやはお姉ちゃんを捨てようとしてるの。捨てる気なんだ。だから嘘ばっかり」

 先制の一撃はサッカーボールをゴールに叩き込むかのような鋭い蹴り。僕は身をよじってそれを受ける。腰の辺りに直撃する。痛みで体勢が崩れた。ツボかなにかに入ったみたいだ。痺れる。姉さんの手が首根っこを掴みあげる。かと思えば、かなりの勢いで地面に向かって力が加わる。全体重を乗せている、ということはすぐにわかった。とっさに顔面をかばう。両の手の甲がジンジンとした。右肘がソファの角にぶつかった。姉さん。そう声を出そうとしたのと、姉さんの腕が喉に押し当てられたのは同時だった。首を絞める気だというのがわかった。ほとんど本能的にそれを振り払おうと手が動いたが、地面と激突した影響なのか、うまく力が入らない。その間にも姉さんの腕が僕の首を締めあげていく。首からうえが熱くなる。頚動脈が押さえつけられている。このままだと、気を失う。

「姉さん、死んじゃう……」

 声がかすれていた。姉さんの耳に届いているだろうか。力は強くなっていく。聞こえていない。僕は姉さんの腕を叩いた。気づいてもらえるように。

「ダメだよ姉さん、もう、僕……」

「みぃや」

 体が解放される。気道に多くの空気が入ってくる。僕は咳き込んだ。胸が苦しい。

「みぃや、大丈夫」

 姉さんが背中をさすってくれる。僕の顔を覗き込んで、しきりに大丈夫かどうかを聞いてくる。

「みぃや、死んじゃダメ。みぃや、みぃや――」

 僕は姉さんに抱きすくめられた。やわらかくやさしい抱擁。僕の体をなでる手は、本当に暖かくて、慈愛に満ちているような気がした。殺されるはずがないではないか、と僕は自分を恥じた。どんなに力を振るおうと、姉さんが僕のことを殺せるはずがない。ただ不安なだけなんだ。どこかに行ってしまうひとを留めておく方法をこれ以外に知らないだけなんだ。きっと、そうなんだ。自分に言い聞かせる。

 僕は姉さんの胸のなかで繰り返した。大丈夫だよ。ただ、大丈夫だよ、と。

 姉さんがおちつくまで、ずっとそうしていた。

 僕のせいなんだろうな、と、それぞれが自室に戻ってから考えた。ベッドのうえで、携帯電話と共に横になる。放り出されたシルバーのそれは、ゆなさんからのと思われるメールを受信して以来、沈黙している。あれから五分か十分は経った。返してあげないと、不安に思うかもしれない。何度も返信しようと手に取ったが、姉さんのことが思い出されてメール内容のチェックすらできなかった。

 姉さんの事情を話して、なんとかやっていくしかないのだろうか。そういう考えもあるにはあった。だけど、それをゆなさんが納得してくれるかどうかはわからない。うじうじと悩む。時計の針はその間にも働き続ける。迷いなどない。

 行動するしかないか、と僕はメールを見た。

 ――先に送っちゃった。

 それしか書いていない。

 ――遅くなってごめん。夕食の最中だったんだ。

 返信。

 それから、期末テストの範囲内で使われるだろう英単語をまとめたノートを机から持ってきた。暗記しながら返事を待つ。

 ――ううん。ごめんね。邪魔しちゃったかも。

 ――ぜんぜん大丈夫だよ。ゆなさんの方はいいの?

 やりとりの谷間にもどかしさを感じる。電話ならもっとたくさん話せるのにな、と感じる。

 ――うん。ぜんぜん平気。

 ――勉強とか、しなくていいの。

 送ったあと、これはまずいかもしれないと思った。僕のなかでのゆなさんは、けっこうテスト勉強で苦労するタイプのひとだった。

 ――いましてるの。メールだったら合間合間にできるもん。

 ――そうか。僕も勉強してる。

 ――そうなんだ。いっしょに勉強中なんだね。

 ――うん。お互いにがんばろうね。

 ――がんばる。テストが終わったら、電話とかもしようね。約束だよ。

 約束。その言葉に手が止まる。英単語が頭に入ってこなくなる。どうすればいいかを考えた。

 ――お小遣いの問題で、あんまり電話とかできないんだ。

 そう送った。

 ――そっか。じゃあ、デートしよう。それならいいでしょう。

 デート。またも手が止まる。デート。してみたい。今日の出来事だって、僕にとってはデートのようなものだった。もっとすごいのかもしれない。もっとすごいのか。キスとかしちゃうのだろうか。胸が跳ね、頭に血が昇ってくる。心中に浮かびあがるのは、ゆなさんと口づけするイメージ。

「うわっ、莫迦な」

 ちいさく声が出てしまった。

 ボタンを押す手が正常な動作をしない。震える。

 ――うん。そうしよう。楽しみだな。

 他にもたくさんの文章を書き連ねたかったが、自粛した。あとで読み返したとき、羞恥に堪えられなくなる可能性が高い。

 ――わたしも。それじゃあね。

 ここがピリオドだろう。僕は携帯電話を放った。ため息が転がりおちる。乗り切ったとは言えない。悪化させたというのが妥当なところだろう。愚かだな――自分に向かってそのような罵声を浴びせることは容易だったが、恋愛感情に行動を振り回されるなんてことははじめての経験で、制御方法がまったくわからない。単に熱中しているだけなのだろうか。それならいずれ冷めるだろう。だけど、冷めなかったら。冷めない恋はないように思う。しかし、関係性を永続させたいと思うことはありえるだろう。そこまで行くと愛になるのだと考える。愛か。

 気のはやい話だ、と僕は苦笑した。英単語の方に意識を向ける。逃避するように。いつまでも考えていたら、勉強が進まない。

 僕はベッドから起きあがると、机に向かった。暗記系の科目は寝そべりながらできるが、姿勢を正して集中した方が時間対効果が高いことを経験で知っていた。寝そべっていると気が緩んでしまう。それは勉強以外の面でもそうなのではないかということに思い至る。

「莫迦だな」

 独り言。集中力が乱れているからこうなる。重要な年号を繰り返し呟き、思考を世界史で塗りつぶす。蛍光ペンで彩られた教科書とノートを相棒にして。

 二十三時を回ったころ、区切りをつけて風呂に入った。姉さんはすでに入浴を済ませており、パジャマ姿でぼうっとしていた。

「姉さん。寝ちゃったら風邪ひくよ」

「ん――ありがと、みぃや」

 どうやらまどろんでいたらしい。声をかけて正解だった。室内は暖房のおかげで快適だが、かといってリビングが寝るのに適した場所だとも思えない。

「ちょっと来て」

「なに」

 姉さんに手招きされ、僕は隣に座った。途端、姉さんは僕のことを抱きしめた。まるでぬいぐるみをそうするかのように。

「あったかいね」

「風呂あがりだからだよ」

「ううん。みぃやはいつもあたたかいよ」

 姉さんは微笑んでいる。僕は本当にいつでもあたたかいのだろうか。そんなことはわからなかった。あたたかさはやさしさに繋がる気がする。だとすれば、いつでもあたたかいとは言い切れないように思える。それは口に出さず、僕は姉さんに体を任せた。姉さんの心に平穏とやすらぎがあるのならば、それを乱したくはない。それらの維持に僕が必要なら、できるかぎり提供してあげたい。そう思う。前は、常にそう思っていた。いまはどうだろう。僕にだって自我はある。すべてを姉さんの思うがままにしてやることは絶対にできない。そんなことはわかっていたはずなのに、いまそのことに気づいたみたいな衝撃が胸のなかを襲っていた。

「姉さん」

「どうしたの」

 とろん、といまにも眠ってしまいそうな瞳を見る。

「すこし、甘えていいかな」

「いいよ。いつだって、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから」

「うん。ありがとう」

 忘れたいものがたくさんあった。だが、意図的な忘却をできるような技術を僕は持ちあわせてなどいなかった。これが夢だったらいいのに。ふたりきりの生活が、全部うたかたの夢だったら、どんなによかったことか。自分勝手な思いが渦を巻く心中を見つめながら、僕はしばらく、姉さんのぬくもりのなかでまどろんだ。すべてを夢と錯覚するために、そうしていた。

 だが、夢は覚めるようにできている。おやすみ。そう言葉を掛けあい、それぞれは部屋に戻った。そして、僕はベッドのなかで眠りにおちる。おちていく。いまここにあるのは、自分の体だけ。それだけを頼りに、ふたたび夢のなかへと逃げていく。




 Ⅳ


 テスト前だということもあり、教室にはいつもと違う空気が流れていた。なにも恐れることなく、いつも通りに過ごす。そのように豪胆な人間はまったくいないように思える。ひとりだけ、それに近い人間はいた。

「なあ」

 彼は勉強をするときだけかけている眼鏡のずれを直しながら、僕の方を見た。

「お前の姉さん、名前はなんと言ったかな」

「えっ」

 数学の授業中だった。正確には自習中だ。先生が高熱を出して倒れたのだそうだ。その影響で、室内は昼休みの如き騒がしさに包まれている。ときおり隣の教室の先生が注意しに来る。そうすると五分間は静かになる。それ以降は速やかに状況の復元が行われ、また騒音を発し始める。

「だから、姉さんの名前だよ。思い出せなくてな」

「思い出さなくても困らないと思うんだけど……」

「いや、困る。困るんだ。わかってくれ」

 彼はいつになく真剣な表情で言った。心なしか眼鏡がぎらついているようにも見えた。僕はその迫力に気圧された。

「ゆい、だけど」

「漢字は」

「どうしてそこまで……」

「漢字は」

「わかったよ」

 唯依、とノートに記した。

「そうか。ありがとう。助かった。思い出せなくてもやもやしてたんだ。これですっきりした」

「なんでそんなことを気にするんだよ」

 大いなる疑問だった。

「人間はな、何気ないことが気になるものなんだよ。体験してみればわかるが、思い出せそうで思い出せないことがあったりした日には、勉強の効率はおちるし、凡ミスは増えるし、散々な目に遭うんだ」

「そんなものかな」

「すくなくとも俺はそうだ」

 仕方がないだろう、という顔をされたので、納得しておくことにした。それ以降、彼が姉さんのことについて触れることはなかった。お互いに黙々と問題を解き続けた。先生が何度目かの注意を行うのを横に聞いた。それをきっかけに教室内を見わたす。ゆなさんはひとりで勉強に集中していた。努力家なんだな、と改めて思う。その姿に心を奪われて、一分ほどぼうっとしていたらしい。気づけば友人がにやついている。

「幸せだねえ」

 その呟きに、そんなんじゃない、という反論をしていた。無駄だった。そうですか、と返す彼の表情に、僕の言葉を信じている雰囲気など微塵も存在しなかった。どうも感情が隠しきれていないらしい。自分の頬を軽く平手打ちし、戒める。

 何事もなく自習の時間は終了する。その後の授業も同じようなものだった。ホームルーム終了後、ゆなさんに肩を叩かれた。

「あと三日だね」

「うん」

「自信、ある?」

「すこし。日々の積み重ねの分くらいは」

「うらやましいな」

「そうかな。ゆなさんだって、努力してると思うよ」

「テスト前だけだもん。普段やってないから、ちょっと自信がないんだ」

 ゆなさんは本当に不安そうな顔をした。心のなかを開示してくれているようで、なんだかうれしかった。

「まあ、僕も、磐石とは言えないから」

「綾川くんは大丈夫だよ。いつも真面目にやってるし」

「そこそこは」

「だから大丈夫だよ」

 ゆなさんはニコリと笑ってくれた。そうか、大丈夫か。なんだかそんな気がしてくる。幻想みたいなものかもしれないけど、自信には違いない。自信なんてだいたいそのようなものだ。ひとを安定動作させるためにはあった方がいい。

「ありがとう」

「だって、安心して、ね」

 ゆなさんは頬を染めた。安心して、なんだろう。すぐにはわからなかった。

「ほら、テストの結果が不安じゃ、楽しめないじゃない」

 そうか、と僕は気づいた。ゆなさんと同じ顔になる。視線が地面の方に引っ張られた。正対できない。

「うん。憂いのないデートができるといいね」

 拳が胸を叩いた。ゆなさんの一撃は、姉さんのそれとは比べものにならないほど弱かった。本気ではないようだった。なんで殴られたのだろう。そんな疑問は、ゆなさんの表情を見ればすぐに氷解した。真っ赤だ。リンゴみたい。

「ご、ごめん。じゃ、じゃあね」

「うん――」

 お互いに手許を見つめあっているような気配があった。他のひとに見えないように手を振りあってから、僕は昇降口に向かって歩き始めた。

 階段をおりている途中、友人が並んだ。

「デートか」

 口に水を含んでいたら噴き出してしまっているところだった。

「なんだよいきなり」

「テスト後にデートするんだろう」

「聞いていたのか」

「声がすこし大きかったんだよ」

 拳の理由がまたひとつ判明した。

「みんなに聞こえちゃったかな」

「いや、そこまででもない」

「やっぱり立ち聞きしてたんだな」

 下駄箱で靴を履き替える。

「お前に声をかけようと思ったら、たまたま聞いてしまっただけだ」

「ひとのプライバシーをなんだと思ってるんだ」

 校舎外から吹きつける風は冷たかった。僕は鞄からマフラーを取り出すと、首にぐるぐると巻きつけた。青と黒の毛糸で編まれているそれは姉さんの手編みで、去年の暮れに姉さんがクリスマスプレゼントとしてくれたのだった。

「公共の場で会話をするなら、自衛しなければならんということくらい知っているはずだと思ったが」

 彼はニヤリと笑った。そう言われればそういう気もする。僕は肩をすくめた。マフラーのなかに隠れるような格好になる。

 外に出る。空は灰色をしている。雨が降るようには思えなかったが、はやく家に帰りたい気持ちになった。姉さんが来るのを待つ。なぜか友人もいっしょにいる。

「誰か待ってるのか」

「いや別に」

「じゃあなんで」

「諸事情」

 彼はたまに意味のわからない行動を取る。指先が冷えるのでポケットに手を突っ込む。ややあって、姉さんと合流した。

「お待たせ」

 そう言ってから、姉さんは視線を横にずらした。

「あれ」

「どうも」

 と彼は挨拶した。

「じゃあな、幹也」

「あ、うん。じゃあね」

 彼が僕のことを名前で呼ぶなんて珍しい。姉さんの前だからだろうか。彼はそのまますぐに去ってしまった。なにがしたかったのかわからない。

「もしかして、お姉ちゃん、邪魔しちゃった?」

「いや、特にそういうことはないけど――」

「そう」

 僕は去っていく彼の姿をすこしの間だけ見つめていた。いったいなんだったのだろう。僕がその疑念を解消する前に、姉さんが帰ろうと促した。それにうなずき、並んで帰路につく。

 家が近くなると、姉さんとの間にある距離も短くなる。僕がなにげなくポケットから出した手が、姉さんの指と絡みあう。僕はその感触にはっとなって、顔を見あげる。冷えていた。ポケットのなかにいた僕のてのひらから熱量が奪われていく。

「手、冷たくてごめんね」

「ううん。気持ちいいくらいだよ」

 もしかすると、ポケットから手が出てくるのを待っていたのかもしれない。普段の姉さんは、自分のして欲しいことを直接に口から出せないようなところがある。

「姉さんは、テストに自信ある?」

「悪くはならないと思う。勉強してるから」

「そうだよね」

 姉さんは学校単位で見てもトップクラスの成績を誇る。自分から成績表を見せびらかすことはないが、なかを覗けばいつでも最大評価が整列している。体育などといった実技系がたまにおちていることもあるが、筆記でどうにでもなる教科は完璧だ。指定校推薦も簡単に得られるだろう。

「みぃやは、大丈夫?」

「たぶん。勉強はしてるから」

「お姉ちゃんの弟だもんね」

「まあね」

 会話の途中で家にたどり着く。空の色はますます暗くなっていく。家のなかならそんなことも気にならないだろう。リビングにつくとすぐに暖房を入れた。テスト前ということもあり、あまり会話を交わすこともなく、自室にこもる。あらかじめ決めておいた夕食の時間までは部屋から出ない予定で。食事はこのところ簡単に済ませている。弁当の方も、おかずの種類が減り、代わりに個々の量が増えた。特に白米が。

 古文単語がどれだけ覚えられているかを確認しているとき、扉が叩かれた。ごはんだよ、の声に、僕は勉強を中断する。まあ大丈夫だろう。だいたいのところは押さえてある。

 このところの姉さんは僕に攻撃をしないで済んでいる。テストに集中しなければならず、雑事に構っている余力がないというのもひとつの要因として確かにあるだろう。僕もそうだった。ゆなさんとのメールのやりとりもだいぶ件数が減ってきている。僕からメールを送っても、返ってこないことがある。そんなときは翌日にゆなさんから声をかけられる。ごめんね、気づかなかった。ううん、こちらこそごめん。テスト前なのに、メールなんて送ったら迷惑だよね。そんなことないよ、と僕から視線を外すゆなさんは、それからなにかをもごもごと言うが、なにを言っているのかはわからなかった。声がちいさくなってしまうようなことを言ったのか、と僕はその内容を想像する。そのすべてが自分に都合のいいことばかり。そして沈黙。話すことが思いつかず、それじゃあね、と別れる。

 食事は淡々と進む。

「おいしい?」

 姉さんがどこか申し訳なさそうな表情で言った。

「うん。けど、どうしたの」

「いつもより、うまくいかなかったの」

 確かに、野菜炒めはわずかに焦げていた。ごはんもすこしやわらかい。

「大丈夫だよ。姉さんは、僕よりもずっとずっと料理がうまいんだから」

 言ってから、慰めになってないな、と思った。別の言葉を探したが、姉さんがどうして失敗をしたのかがわからず、なにも言うことができなかった。

「ごめんね。ちょっと、調子が悪いの……」

 姉さんの箸はあまり動いていなかった。すこし心配になってくる。食が進まない。よくよく見れば、姉さんの頬が赤くなっている。けれど目許からはすこし血の気が引いており、瞳からは輝きが失われつつある。

「姉さん、もしかして、熱があるんじゃないの」

 僕は箸を置くと、姉さんに傍に行き、ひたいに手を当てた。熱い。体温計を持ってきて、計ってもらう。三十八度ほどあった。

「ちょっと、熱があるね」

 姉さんは笑おうとしたが、うまくできていなかった。

「これはちょっとじゃないよ」

 すぐに言ってくれればいいのに。その思いは口に出さず、僕は姉さんを促して部屋で寝てもらう。姉さんの部屋は自分の部屋とは違う香りがする。まるでよその家に来てしまったかのような気分になる。僕はタオルと水を張った洗面器を用意し、看病する体勢を整えた。

「テストは目の前なんだから、無理なんて絶対にダメだよ」

 姉さんは毛布のなかでうなずいた。息が乱れている。隠していたものがすべてあらわになった。そういうことだと感じる。僕に心配させたくなかったのだろう。姉さんはそうやって自分だけで問題を抱え込む。支えきれなくなったら崩れてしまうと知っているはずなのに。

「うん。無理はしない」

 姉さんはそう呟いた。

「だから、もう部屋に戻っていいよ。みぃやはみぃやのやることがあるでしょう」

「でも」

「大丈夫だよ。死ぬような病気じゃないでしょう」

 僕は黙り込んだ。姉さんの荒い息遣いを聞きながら、どうするべきかを考えた。そして、思いつく。

「姉さん。じゃあ、すこしだけ、手を握らせてよ」

 姉さんがこちらを見る。見つめあう。

「みぃや――すこしだけだよ」

「うん」

 布団からそっと抜け出してきた手を掴む。熱かった。僕はそれを両手で包んだ。どこにもこのあたたかさを逃がしたくなかった。祈るような気分で、半ば本当に祈りながら、目を閉じた。普通ならば感じないだろう、喪失への恐怖感が強く感じられていた。それに比例して手にこもる力も強くなったが、心配させてはいけないと思い、必死で抑えこんだ。

「みぃや。どうしたの」

 姉さんの声で、僕の意識は現実に戻った。

「ごめん――もう、行くよ。ちゃんと治さなきゃダメだからね」

 それだけ残し、僕は退室した。




 Ⅴ


 姉さんの風邪は一日で治った。疲れによる一時的なものだったのだろう。翌日は大事を取って休んでもらったが、体調にさほど問題はないようだった。僕が提言しなければ、きっと学校にも行っていたはずだ。

 異変もなく時間は過ぎていく。

 テスト期間の直前、ゆなさんがなにごとかをぶつぶつと呟いているのを目撃した僕は、どうしたの、と声をかけた。ゆなさんは体を跳ねさせる。驚かせてしまったみたいだ。

「びっくりした」

 見ればわかった。ゆなさんの心の乱れは相当なものであることも。

「独り言を呟いていたけど」

「うそ」

「本当だけど」

「そっか。うん、そうかも。さっきまで、英語のことであたまがいっぱいでさ」

 あふれ出していたということらしい。

「あんまりがんばりすぎない方がいいよ。もうちょっとリラックスしないと」

「そうだよね。うん、リラックス、リラックス……」

 声がまともに届いているとは言いがたかった。受験でもないのにここまでガチガチになってしまうひとというのは、いままで、見たことがない。なんとかしてあげたいと思う。がんばりすぎて自滅してしまうなんて、あんまりだと感じる。

 どうにか気を楽にしてあげようと、案を考えた。なにか、テスト以外に意識を向けさせればいい。そうか。それだ。僕はゆなさんの耳元でその言葉をささやくことにした。

「ところで、デートはどこに行こうか」

「ひゃっ」

 ゆなさんが僕の目を見る。

「突然、なに言い出すの」

「楽しみだから……」

「そ、それはわたしもだけど――でも、いま言うことじゃないよ」

 眼光が鋭くなる。睨んでいるみたいだ。そうは見えないが。

「ご、ごめん」

「もう。綾川くんって、けっこう変なところがあるんだね」

 ゆなさんは口を尖らせている。どうやら怒らせてしまったらしい。後悔の念が湧いてくる。

「ごめん。ちょっと考えが足りなかった。本当は、リラックスして欲しかったんだ」

「わかってるよ」

「えっ」

 今度は僕が驚いた。

「突然デートなんて言い出すから、ドキッとしたけど。わかってるよ。綾川くんはやさしいって」

 それから、笑顔。

「まだ時間はたくさんあるから、デートのことはまた今度ね」

 僕はうなずいた。ますます、テスト後のことが楽しみになった。

 そしてテストはやってくる。

 ゆなさんはやはり緊張した面持ちでテストを受けていたようだが、前日よりかは随分と程度が軽くなっていた。僕はそれでも心配になってしまっていくらか声をかけたが、自分の心配をしなさいとたしなめられてしまった。それもそうだね、と僕は苦笑してみせた。テスト後、感触を確かめあう。ゆなさんはどうも本番に強いタイプらしかった。思ったよりできた、と言っていた。僕の方は、だいたい予想通りというところだった。

 そんなふうにして日々が過ぎる。

 テストの帰り道、姉さんに手ごたえの有無を聞かれる。完璧とは言えないまでも、それなりかな、と答えた。姉さんはどうなのかと問い返せば、お姉ちゃんも同じ、という返答。本当はお互いに心配なんてしていない。確認しただけだ。ふたりで笑う。夕食。食事はますます米の割合が増え、出来合いのお惣菜が食卓を占領した。姉さんも、僕の提案に賛成してくれたのだ。テストの真っ最中でも、姉さんなら自分で作ってしまいかねない。そうなると姉さんばかりに負担がかかってしまう。すこしでも荷をおろしてあげないと、僕の心までおちつかなくなる。おちつかない心では勉強もはかどらない。近くのスーパーに行き、お惣菜を適当に拾っていく。

 食事も終わり、風呂も済み、就寝準備にかかる。

 そのようにして進んでいくテスト期間の最中、どうしても眠れない夜があった。体調に異変があるわけではない。テストに対する不安もない。ゆなさんへの思いで眠れないということでもない。どうしても、眠ることができなかった。眠ることが怖かった。部屋を見回す。暗闇。闇だけしかない。電気をつけても不安感は消えない。むしろ、つけなかった方がよかったかもしれない。僕はベッドから逃げ出す。リビングに出ていってソファに座り込む。暗いが、自室よりは不安がまぎれた。ここで姉さんに殴られたり蹴られたりするときのことが勝手に思い出される。でも、それは不快ではなかった。決して楽しいものではないというのに。回想をかき消すように電気がつく。姉さんだった。僕と同じように眠れないらしい。いっしょにソファで寄り添う。眠いのに眠れない、ぼんやりとした意識のなか、姉さんが僕を抱きしめる。強い力で。姉さんはなにも言わない。僕にも語るべきことはない。ただそうしていることで安心できた。眠りを阻害するものは、こうしていると次第に消失していく。姉さんのなかにあるそれも、きっといなくなっているはずだ。僕だけがやすらいでいるなんて、そんなのは嫌だ。僕はその思いに耐え切れなくなって声を出す。姉さん。姉さんは、こうしているとどう思う。やさしい声が返ってくる。幸せだよ。うれしくなる。僕も幸せだよ。すると、姉さんが僕の耳元で呟く。ねえ、みぃや。今日は、ふたりでいっしょに寝ようか。その呼びかけに、僕はずっと昔の姉さんのことを思い出す。羞恥や遠慮などという言葉を知らなかった時代。もう過ぎてしまったはずのそれが、いま目の前にある。うん。姉さん、今日は、いっしょに寝よう。姉さんと、離れたくない――

 翌朝、目覚まし時計よりもはやく覚醒する。姉さんのベッドのなか、僕は抱きしめられている。姉さんの息遣いが伝わってくる。もうすこし、こうしていよう。僕はなにも言わず、ぬくもりのなかに浸され続ける。やがて姉さんが目を覚ます。おはよう、という声を聞く。おはよう、と返す。

「昨日はごめん」

 と僕は言った。

「みぃやがたまにそうなるのは知ってる。だから、謝らなくていいよ」

 姉さんが僕の頭をなでた。僕は急に胸がいっぱいになるのを感じた。押しとどめていたものが零れていくのを止めることができなかった。

「ごめん。弱くって、ごめん」

 目覚まし時計が泣き叫ぶまで、僕と姉さんはずっとそうしていた。

 朝食もそこそこに、学校へと向かう。

 テスト期間中にあった変調といえば、そのくらいしか思い当たるものがない。化学でやや苦戦したというのも予想通りのことだったし、世界史が思ったよりも簡単だったというのもたいしたことではなかった。いつもと違うはずの生活は、いつもと同じようにして進んでいった。

 いつしかテストも最終日、最終科目となる。

 それも、終わった。

 僕は回収される答案用紙を見つめながら、深く息を吐いた。テスト週間という期間だけを見れば、長い時間だった。テストから受ける重圧も、無視することはできなかった。なんとかやり過ごしたか、という思いと、まあこんなものなんだろうな、という、中学のときから繰り返してきたことに対する感想のふたつがあった。そのどちらもが、ため息に混じって教室の空気に溶けていく。

 終わったね、と、気づけばゆなさんが傍らに立っている。そうだね、と僕は笑顔になるよう意識した。緊張の糸が切れたらしく、だらしないものになっていそうだ。

「なんか、笑顔が硬いね」

 どうやら逆だったらしい。対するゆなさんの方は、完全とは言わないまでも、晴れわたっているようだ。

「テストは疲れるから」

 当たり前のようなことを言って、僕はまた息を吐いた。

「そりゃそうだ」

 と後ろから声。彼だった。

「だいぶ疲れた。それだけがんばったということだ」

「それはそうだと思うけどね」

 ふっ、と意味深な笑いを浮かべ、彼は眼鏡を外した。それから、眼鏡拭きでレンズを磨いた。

「努力に見あう結果が出るといいな」

 彼はそう言ってから、僕とゆなさんの顔を見た。

「まあ、あとは待つだけだから、結果におびえずに気楽にしたいよな」

「まあね」

「そういえば」

 とゆなさんがなにかを言おうとしたが、彼はそれを遮った。

「邪魔者は消えさせてもらうよ」

 それから、僕に耳打ちした。

「明日はがんばれよ」

 なにをがんばればいいのだろう。ゆなさんに楽しんでもらえるようにがんばれ、ということだろうか。それとも、僕の幸せのためか。キスとか。首を振ってその考えをかき消す。どうしてそういうことしか考えられないのかと、自らを恥じる。

「なんか、あんまり話せなかったな」

 ゆなさんは彼の方を見ながら呟いた。

「いいやつだよ。気を使ってくれているみたいだ」

「じゃあ、知ってるんだ」

「なにを」

「わたしたちがつきあってるの」

 ゆなさんはそこでだけ声をちいさくした。

「バレバレらしいよ」

「やだな。恥ずかしい」

 僕もだ。つきあっているなら堂々とすればいい、という考え方もあるが、そういうものは精神力のあるひとしかできないと思う。クラスのみんなから好奇の目で見られるのも嫌だ。だから、つきあってるのがバレバレというのは、精神衛生上、あまり好ましくない状態だった。

「明日のことは、メールで決めようか」

 僕の言葉に、ゆなさんはうなずいた。

「楽しすぎて、声が大きくなっちゃいそうだからね……」

 冗談なのかそうでないのか、判断できなかった。そんなことは関係なかった。笑いあう。照れ隠しと、心中に入りきらなかった喜びの笑顔なのだと感じた。

 ゆなさんと別れたあと、昇降口で姉さんと合流した。終わったね、と姉さんが言った。終わったね、と僕も言った。今日はちょっと奮発しようか。姉さんは僕の先を歩いた。帰り道とは別の方向。スーパーのある方だ。月に二度か三度は、揃って買い物をすることがある。

 姉さんは野菜の状態をつぶさに調べ、これと決めたものを買い物籠に入れていった。僕は籠を乗せたカートを押していき、ちょっと欲しいな、と思ったものを手に取っていく。姉さんはどうも肉を焼こうとしているらしい。ステーキ用の肉を睨んでいた。僕はステーキソースが残っていたかどうかを思い出そうとした。

 安かった清涼飲料水などを乗せると、籠はいっぱいになった。僕は財布の中身が心配になった。姉さんならちゃんと考えているだろう。そう思えば、不安もまぎれた。案の定、支払いに問題はなかった。

 帰宅後、姉さんはエプロン姿へと変わった。気合が入っている。僕は姉さんのサポートに回る。皿をあたためたり、ニンジンを切っておいたり、という簡単な作業を済ませる。姉さんはワインを肉にかけて炎を立ちあがらせた。いい香りがする。胃が収縮した。

 食卓にそれらを並べ、買っておいたぶどうジュースで乾杯する。おつかれさま、とねぎらいの言葉をかけあう。姉さんの焼いてくれたステーキはミディアムレアだった。調理法がうまいのか、もともとそういう肉だったのか、筋がなく、やわらかかった。自然と笑顔になりそうなくらいだった。

 食事が終わったあと、僕が皿洗いを引き受けた。手伝うよ、という意見は却下させてもらった。姉さんは座っててよ。そうしないと、僕のなかで釣りあいが取れないから。姉さんはそれにうなずいてくれた。

 僕は皿を洗いながら、明日のことを考えていた。ゆなさんにメールをしなければならない。細かいことを決めておかなければ、雑事に気を取られるかもしれない。どこをどうやって歩こうか。どんな服を着ていけばいいのだろう。そんなことが気にかかり、作業の速度が遅くなる。

 ふいに後ろから声が聞こえてくる。

「みぃやは、明日、ひまかな」

 僕の手が止まる。




 Ⅵ


 食器洗いを終えた僕は姉さんの隣に座った。ソファが硬く感じる。姉さんが僕の肩に手をかけた。

「ねえ、みぃや。もしかして、他のひとと約束があるの」

 先の問いに答えられない僕を見れば、そう考えるのも当然のことだと思えた。僕は覚悟を決め、そうだよ、と答えた。

「友達と、ずっと前から約束していたんだ。だから、ごめん」

 そう、と姉さんが呟いた。ため息もいっしょに。手が僕から離れていく。

「ごめんね。次の土日だったら、大丈夫だと思うから」

「うん。お姉ちゃん、ちょっと遅すぎたね」

 姉さんは悲しそうに笑った。僕は重ねてごめんと言った。肩をおとした姉さんは、僕よりも体が大きいはずなのに、胸のなかに収まってしまいそうなほどにちいさく見える。僕がなにか悪いことをやったわけではない。それはわかっているのに、罪悪感を感じてしまう。それほどに、姉さんは弱々しい姿になっている。

 痛みを伴う圧迫感を胸にしまい込み、自室に戻る。携帯電話を取ると、すでにメールを受信している。ゆなさんからだ。明日はどこで待ちあわせをしようか。そういう内容だった。どこでもいいよ、と返信する。考えつかないんだ、と返ってくる。堂々巡りになる気がしたので、書店の名前を挙げた。

 ――そこにしよう。時間はいつがいいかな。なるべくはやい方が、いっぱいいっしょにいられるよね。

 ――そうだね。十時くらいから会おうか。お昼ごはんも食べられるよ。

 ――そうしよう。お小遣い、ちょっと心配だけど。

 ――お弁当持参にしようか。

 ――ううん。わたし、あんまり料理に自信がないの。

 ――僕が作ってあげようか。

 ――それでおいしかったりしたらショックだから、ファミレスにでも入ろうよ。

 ――外は寒いしね。

 ――うん。じゃあ、あとは明日決めよう。

 ――今日決めなくても、大丈夫かな。

 ――あんまり決めちゃうと、なんかそれ通りにしなくちゃと思って、つまんないかもしれないよ。

 ――そっか。なら、思いつきの方がいいか。

 ゆなさんの方がよくわかっている、と思った。僕の考えでデートをしたら、おそらく、堅苦しくてつまらないものになっていただろうと思う。こういうのは女子の方が進んでいるのかもしれない。情けない話だけれど。

 ――それじゃ、また明日ね。おやすみ。

 ――うん。また明日。おやすみ。

 対話は終わる。

 喉の渇きを感じて台所に向かう。まだ寝るにははやい。ぶどうジュースを飲む。室内がやや薄暗く感じる。なんだろう。蛍光灯だった。リビングのそれが切れかかっている。予備を探すが、買っていなかったみたいだ。どうにもできず、光の足らないリビングでしばらく考えごとをした。明日のデートのことだった。それしか考えることができないような状態にあった。どうにか気を逸らそうとするのだけれど、逸らした先に回りこまれてしまう。

 きっと、ゆなさんとたくさんの会話を交わすことができる。期待感が胸のなかで膨らむというのはこのことなのだろう。僕のなかにいるゆなさんと会話を交わしてみる。こんなことができたらいい、という妄想にすぎない。むなしいものだとわかっているのに、それに付随する楽しい気分のせいでやめられない。

 体のうえからしたへと突き抜けるように、大きな音が通り抜ける。それによって空想は断たれた。二階でなにかがあったようだ。なにか重たいものが地面に倒れるような、そんな音だった。本棚かなにかが倒れたのだろうか。状況がわからず、姉さんが心配になる。ふたたび大きな音。しかし、先ほどのものと比べると規模がちいさい。いったいどうしたのだろう。攻撃の対象が無生物になっているのではないかと推測する。僕は階段を駆けあがると、姉さんの部屋のドアをノックした。

 すべての音が消え失せているような錯覚。あるいは、それが現実なのか。木の扉をもう一度だけ叩く。その音が静寂に吸い込まれ完全に消失するまでまたしばらくの時間がある。

 扉を開けた。

 本棚が倒れている。床に散らばった本たちはページのひとつをさらしたり中途半端に折れてしまったりしている。本棚の下敷きになっているものもあれば、誰かに破られてしまったものもある。勉強机のうえにはカッターかなにかでズタズタにされたノートがある。丁寧な文字が乱雑な軌道によって四散している。ベッドのうえは、それらの影響を受けずに平然としている。部屋のあちこちが誰かによって破壊されているにも関わらず、そこだけが戦争に巻き込まれていないような感覚がある。姉さんはそこに座っていた。デフォルメされた猫のぬいぐるみを抱きしめている。しかし両手は硬く握られており、片方にはカッターの姿がある。表情を窺うことはできないが、背中からはほのかに寂しさが漂っている。

 僕は一歩、姉さんの部屋に踏み込んだ。足元にあった本を踏んでしまう。それは本ではなくて数学のノートだった。表紙には切り傷がみっつある。

「みぃや」

 声に反応して顔が持ちあがった。

 ぽろぽろと涙が零れているのが目に映る。大粒の雫。いつかも同じものを見た。思い出が胸から出て行こうとする。痛覚。それ以上は出てこられないようにと意識して胸の奥に押し返す。胸をなでたい衝動を無視し、声をかけようと口を開いた。言葉は出ない。

 姉さんがゆっくりと立ちあがった。放り出されたぬいぐるみは、すでに首筋を切りつけられて中身である綿を露出させている。それがなぜか赤く見えた。そんな色彩はこの部屋のどこにもないはずなのに――でも、それは違った。意図的に無視していたのかもしれない。姉さんの手首から滴りおちていくものを僕は認めたくなかった。そうであるに違いない。そんな自分のことを確認していても仕方がなかった。姉さんは焦点の定まらぬ目をしながら、ゆっくりと近づいてくる。切り裂かれた手首の血はもうほとんど止まっている。ためらい傷。すこし静脈を切りつけただけらしい。単なる自傷だ。死ぬ気ではない。ただほんのすこし嫌になっただけなんだ。なにかが。そのなにかに思い当たることがある。それが僕の体を停止させている。自己嫌悪。

「みぃやは、お姉ちゃんなんていらないんだ」

 首を振り、否定する。そんなことはないんだ。叫んでやりたかった。だが、その言葉を否定するための材料がたくさん散らばっていることをわかっているがゆえに、立ち尽くすことしかできない。

 カッターの握られていない方の手が拳となって飛んでくる。避けない。頬に直撃。壁の方へと押しやられる。続いたのは蹴り。腹部へとまっすぐに伸びる。蹴り抜くという強い意志を感じる。そして突き刺さる。追撃の肘打ちは体勢を崩した僕の胸へと突き抜けるような衝撃を与える。心臓のことが心配になる。全身から一気に力が抜けた。もはや抵抗しようという意識が生まれてもどうしようもない状況となった。踏み砕こうとするかのごとく姉さんの攻撃は続いた。首筋、足、指、腕、背中、どこにでも。耐えるしかなかった。体の痛みは、それでも、心に与えられるそれよりかはずっと穏やかなものだ。

 うえからキリキリとカッターの刃が入出する音が届いてきた。

「なんでみんな、いなくなっちゃうの。そんなの、もう、嫌だよ――」

 カッターはどこを切り裂くだろうか。傷によっては、死ぬかもしれない。恐怖がある。体が震えそうになる。覚悟を決めるということが僕なんかにできるとは思えなかった。必死に目をつぶり、とにかく時間が過ぎ去ってくれることを祈った。

 いくら待っても、刃はやってこなかった。

 その代わり、ちいさな悲鳴がおちてきた。

 見あげると、姉さんが再び手首を切りつけているのが見えた。どこをどうやって切りつけたのか、判断ができない。乱れる、心が乱れる、さざなみが立つという程度ではない、渦を巻いて冷静さを飲み込んでいく。

「姉さん」

 声が張りあげられた。自分のものだ。体を動かそうとするが、老朽化した機械のように軋むばかりで動作しない。痛みばかりが体の芯へと響きわたる。

「みぃや……」

 呼び声。崩れおちる音。姉さんがその場に座り込んだ。その瞳は自分の手首を見つめている。カッターはどちらの手にも握られていない。どこかにおとしてしまったのだろう。血はあまり流れていない。今度も表皮を裂いただけで終わっているようだ。だからといって安心できるわけではない。血が止まる気配がなかった。あるいは意外と深い傷なのかもしれない。

 なんとか立ちあがり、タオルを探した。すぐには見つからない。姉さんをひとりにするのは不安だったので、なんとか立ってもらい、共に一階へと向かう。姉さんは、ごめんね、としきりに呟いていた。

「なにも謝ることなんてないんだ」

 僕の言葉が姉さんに聞こえたかどうかは、わからなかった。

 傷を心臓より高い位置にあげ、血があまり流れないようにと腕を押さえつける。止血が為されるまで、姉さんはそうしていた。ちゃんと自分がどうすればいいのかは理解している。きっと、いつもの姉さんに戻りつつあるのだ。だから、大丈夫、なんとかなる。タオルで手首よりやや手前を縛りつけ、傷口を消毒する。ガーゼで傷口を覆い、テープで留め、包帯をしっかりと巻く。これで大丈夫なはずだ。本当に大丈夫かどうかは自信がないが、自分にできることは全部やった。

 姉さんはソファに座り込み、静かに包帯を見つめている。瞳には確かな光が宿っている。蛍光灯の光を映しこみ、わずかに白く輝いている。僕はお茶を入れてあげようと思ったが、痛みに負けて果たせない。姉さんの隣に倒れるように座り込む。骨が折れているような気配はない。どこにも異常がないことを確認するために体を捻ろうとしたとき、殴られたときにすら感じなかった激痛が走った。どこが原因なのかわからない。うめき声が出てしまう。

 痛みに耐えて、どこが悪いのかと手探りする。わき腹の辺りだった。肋骨がどうにかしてしまったんじゃないかと不安になる。おそるおそる調べてみるが、痛みの源泉はそこよりも微妙にしたの位置だった。ちょうど姉さんの蹴りが命中したところ。

 ことり、という音が目前でした。湯呑が置かれている。ぐるぐると包帯で巻かれた姉さんの腕が視界から去っていく。

「――ごめんね」

 またひとつ、水底に言葉が沈んでいく。

 僕は湯呑を取りあげ、お茶をすすった。すこし熱い。冷ましながら、ゆっくりと飲んでいく。なにかを忘れているような気がした。お茶がなくなるころ、思い出す。そうか、明日はゆなさんとデートするんだった。ちゃんと行けたらいいな。いや、無理してでも行こう。きっと楽しみにしているだろうし、僕もそうだ。だから、ふいになんてできない。現実逃避かな。湯呑を置く。

「ごめん、姉さん」

 僕は立ちあがる。

「本当にごめん、姉さん」

「みぃや」

「僕、もう寝るね」

「待って」

 お願いだから、そっとしておいてくれよ。いまそれを言ったら、乱暴な口調になってしまう。それがわかっていたから、言わなかった。首を横に振り、拒絶の意志を示す。普段の僕なら、そんなことは絶対にしないし、いまだって、どうしてそんなことをしたのかと後悔している。もう遅い。自分勝手な僕を戒めてくれるのは、歩くたびに走り抜ける痛覚ばかり。泣き叫べば心はおちつくかもしれない。だけど、この痛みは残る。残るはずだ。

 思考が支離滅裂になっている気がする。

 自室。ベッドに自分を放り込む。ゴミを捨てるようにして。

 涙は出ない。それを流すことができるのは、純粋に傷ついた魂だけだと思うがゆえに。




 Ⅶ


 いつ寝たのか覚えていない。時計は確認していなかった。目覚めた時間はわかる。午前九時。僕はあわてて跳ね起きる。待ちあわせの時刻は十時だ。準備に手間取ると遅刻してしまう。シャワーを浴び、あれこれと服を選び、鏡でおかしいところはないかと確認し、喉の渇きを潤すために昨夜の残りであるジュースを飲み干した。マフラーを持っていこうかいくまいかを悩みつつ、支度を進める。身体の痛みは無視だ。どうせ慣れている。

 その途中、机上に書置きを見つける。

 ――昨日はごめんね。楽しんできて。

 手紙の横には一万円札がある。僕は筆記具を探し、手紙に返事を書く。

 ――僕の方こそごめん。ありがとう。

 その言葉に違和感があった。自分自身が本当にそう思っているのか自信がなかった。間違いなく本心からの言葉であるはずなのに。時計を見やる。二十分過ぎ。考えるのをやめ、鞄を提げて駆けていく。

 駅前には待ちあわせの二十分前についた。そのときようやく携帯電話に着信があることに気づく。時間は昨日の夜中。眠れない、という題名のそのメールは、ゆなさんから送られてきたものだった。

 ――もう寝ちゃったかな。わたしは眠れない。どうしよう。遅刻しちゃうかも。でもドキドキしちゃって仕方がないの。どこに行こうか、ってさ。だから、こうやってメールを打ってるの。綾川くんとデート、楽しみだな。

 即座に返信する。昨日は熟睡だったよ、という題名で。

 ――こういうとき、僕はちょっと丈夫みたいだ。もうちょっとで待ちあわせ場所に着くよ。待たせちゃってたらごめん。

 書店まで小走り。空はあいにく曇っていて、風は乾いている。寒さに負けそうだ。

 そこにゆなさんの姿はなかった。時計を確認。五分前。場所を間違えたのかと不安になる。内部を散策。どこにもいないようだ。メールを受信。

 ――ごめん、いまいくよ、ああもう!

 そうかそうか、と僕の口元が緩む。十時七分。

 鼓動を押さえるようにして胸に手を置く。運動をしたせいではなしにはやまっている。深呼吸をしても収まらない。酸素は足りている。足りないのはゆなさんか。いや、足りないわけではないだろう。経験不足のせいで供給過多になっていると考えた方が妥当だ。気分が昂っているのがわかる。

 その裏側で、胸が痛むのも感じている。いまは忘れていたいのに忘れられないこと。この楽しさを得るため、僕は。

 携帯電話の振動。ゆなさんだ。

 ――もうすぐつくごめんね。

 文面からもあわてているのが感じられる。僕はゆなさんらしき人影を探した。人影はまばらだ。平日ゆえの光景。

 その只中に、走ってくるゆなさんの姿を見る。かなりの重装備だ。ダッフルコートにマフラー。でも、したはスカートで、ソックスとの間に露出している肌がちょっと寒そうに思った。

「ご、ごめんなさあい」

 息を切らしつつ、ゆなさんはそう言った。ちょっと声が大きい。

「おちついて、ゆなさん」

「ああ、うん、おちつくからちょっと待って」

 呼吸の乱れはなかなか直らなかった。とにかく、待つしかなかった。顔を真っ赤にしているゆなさんを見ると、勘違いしてしまいそうだ。走ったせいで強く脈打っている鼓動が、触らずとも感じられるような気がしてしまう。それを、恋のドキドキと取り違える――でも、こうしてデートするからには、お互いにそのような身体状況になるようにも思えるし、なら、なにがどうでも構わないような気がしてしまう。

「ゆなさん、もう大丈夫かな」

「うう、ダメみたい。ドキドキが止まらないんだ」

「そうか」

「綾川くんのせいかもね」

 身体がどう反応するべきかを惑ったような感覚があった。

「それって」

「初デートなんだよ、わたし」

 ゆなさんの拳が胸に命中する。

「緊張してるの。だからさ、リードして」

「僕も初デートなんだけど――」

「そっか」

 笑いあう。

「とりあえず、どこかで食事しようよ」

 罪悪を感じる心はしおれた。僕はそれを喜ばしく思っている。時間が意識のなかから消えて、どこでなにをしようかということに対してばかり気が向かっていく。あそこにしようか。そこにしようよ。そんな具合で食事に向かう。

 それからは瞬く間に時間が過ぎていくような気がした。凝縮した時間のひとつひとつは長く感じていたはずなのに、過ぎ去ったあとに考えてみると一瞬の出来事だったように思えてしまう。ファミレスではあれこれとテストのことについて話しあった。ゆなさんがだんだんと暗くなっていくのがわかったのでやめた。紛らわすために頼んだデザートが到着したとき、ゆなさんがスプーンをこちらに差し出してきた。あーん、ってやつ、やってみたい。僕は躊躇したが、押し切られた。本当は自分でもそういうのをやってみたいと思っていたからだ。周囲をちらと見やり、誰も見ていないときを見計らってやってみた。おいしいかおいしくないかなんてわからなかった。それでも、おいしい、と答える自分がいた。たぶんおいしかったはずだ。腹ごしらえをしたあとは、ゆなさんに誘われてプリクラを撮った。撮影のとき、ゆなさんが僕の腕を抱きしめていたので、視線が彷徨ってしまった。最後に行き着いたのは、ゆなさんの顔だった。シャッターはその時点で切られ、結果、ゆなさんはどこか硬い表情で正面を向き、僕はそんなゆなさんを見つめている、というものができあがった。どうも気に食わないので二枚目も撮る。今度は成功した。備えつけのはさみで半分ずつにわける。姉さんに見つかったらただごとではないだろうな、と苦笑しそうになる。ゲーセンを出たあとは書店めぐりとなる。これは僕の趣味。並べられた小説を眺めあれじゃないこれじゃないとぶつぶつ呟く僕を見て、ゆなさんは笑った。ゆなさんはどんなのが好きなんだろう。聞いてみると、少女漫画を紹介される。じゃあ買ってみようかな、と、一巻だけ買ってみる。絵柄はかわいらしくかつ繊細なタッチだと思った。少年漫画には、あまりそういうのはない。書店にはかなり長い時間、いた気がする。次にどこに行こうかという話をしている最中に、ゆなさんが問うた。手を握ってもいいかな、と。僕はうなずいた。右手と左手が結ばれる。寒さが吹き飛ぶほどに暖かい。ただ、じっと握りあっていたら汗ばむ気がする。その思いつきを喋ったりするとロマンがなくなるように感じるので黙っておく。駅周辺を散策するように歩く。服を買ったりするのがいいのかな、と思ったので提案する。受諾。僕は特にこれがいいな、というのはなかった。ゆなさんの方は違ったらしく、試着した姿を客観的に判断する役目を賜る。でも、いまの僕にはそういう判断力は欠けているらしく、なにを見てもかわいいとしか思えなかった。もう、ちゃんと見てよ、と言われて、ごめんとしか言えなかった。見るのは綾川くんだけじゃないんだよ。ゆなさんの怒りはごもっともだった。僕がよければそれでいい、という論理は、個人的なものごとに対してのみ有効なことなのだ。一着も買わずに退出する。喫茶店に入る。ゆなさんは珈琲が飲めないからとココアを頼んでいた。僕はエスプレッソ。僕にしても珈琲の良し悪しがわかるわけではないので、あまり多くは語らず、代わりに趣味のことについて会話を交わす。ゆなさんは少女漫画を読むのが好きらしい。僕は小説を読むのが好きだと伝える。特にSFが好きだと。SFって難しそう。そんなことはないよ。だって、わたし、パソコンもよくわからないもの。確かに、難しいのもあるけど、なんにも考えなくても読めるようなのもあるんだ。そうなんだ。今度、貸して欲しいな。うん、いくらでも貸してあげるよ。僕も、漫画の方は借りればよかったかな。ううん、あれは買った方がいいよ。そんなやりとりで何時間使ったかわからない。何度か水をおかわりして、席を占領し続ける。しかし、ときはやはり流れていく――。

 気がつけば、空はすっかり暗くなっている。ゆなさんが携帯電話で時刻を確認する。すでに六時を回っていた。ゆなさんの門限のことが心配になる。

「もう、こんな時間だね」

 言わずもがな。名残惜しい。

「残念だけど、そろそろおしまいかな」

 僕はそう言った。ときには逆らえない。

 ひどく寂しい。感情が痛みに変わり、胸を締めつけてくる。しくしくと。楽しい時間の終わりには、いつもそんな感覚が纏わりついている。そう、いつもだ。あのときもそうだった――と、僕はそのことを思い出していた。

「ねえ」

 と、気がつけばゆなさんが僕の胸元にいる。

「わたしたち、好きあってるよね」

「うん」

 僕はうなずく。

「だったら、さ」

 そこから先の言葉を、ゆなさんは言わなかった。だけど、その表情を見ていれば、なにをするべきかくらいはわかった。誰かが見てるかもしれない。そう思うと羞恥で腕が震える。しかし、欲に抗えない――僕も、ゆなさんとキスをしたかった。

 見あげているゆなさんの唇を意識し、そっと顔を近づける。ただ触れるだけだ。それだけなんだ。心をおちつけるためにそんなことを思う。本当はそれ以上のなにかがあるのだと心は言っている。ふたつの意見が胸のなかでぶつかりあうと、焦燥が躊躇する心を呼び覚ます。それらを無視するように、ぐっとゆなさんを抱きしめる。

 そして、触れた。

 主観時間にして一分ほど過ぎた。

 やわらかだったな――それくらいしか覚えていない。身体の心が邪な熱を持っている。もっと先があるだろう、と身体が言っているような気さえする。いいや、まだはやい、そんなのは、もっと仲がよくなってからだ、いくらなんでも。

 自分の浅ましさに唇を噛みそうになった、その刹那。ゆなさんが僕の胸元で呟いた。

「今夜は、帰りたくない」

 そういうのは少女漫画に書いてあるんだろうか。

 茶化すような心の言葉とは裏腹に、僕もまた、うん、と答えを返していた。

 駅前からすこしはずれたところに、その建物はあった。全体がライトアップされており、他の建物とは醸し出す雰囲気がまったく違う。ねえ、本当に行くの。そう言ったのは僕だった。興味はある。ゆなさんとそうなりたいなという感情は、自身の身体が昂っていることからも明らかだった。けれど、不安もある。うまくできるとは思えない。その手の漫画を読んだことがないわけではないけれど、あれはフィクションだからきっと本物とは違う。初体験に対する恐れがある。心なしか、身体の動作が不安定になる。

 けれどゆなさんは、やると言ったらやるのだという態度を崩さなかった。とても強いひとだなと思う。もしかすると、こちらがリードされてしまうかもしれない。それはそれでいいな、と思うが、情けない。がんばらねば、と思う。なんだか莫迦みたいだ。

 不意に身体中に痛みが走った。忘れていたことを後悔させる、強烈な一撃。そうか――と僕はようやく思い至る。いま、僕の体中には青い痣がある。

「あのさ、ゆなさん」

 僕は立ち止まる。どうしたの、という顔でゆなさんが僕のことを見る。そこには緊張の色が見て取れる。宵闇のなかでもはっきりそうとわかるほどに。

「やっぱり、今日はやめにしよう」

「……なんで」

 問われると返答に困る。どうとも言えないことだ。

「綾川くん、わたしとするの、嫌なの……」

「違うよ」

「だったら」

 抱きすくめられる。それが痣に触れて烈しい痛みに繋がる。ゆなさんの好意がそのまま心に突き刺さったかのようだ。

「ねえ、お願い」

 僕はゆなさんの肩に触れた。震えている。その震えは、僕に触れている場所すべてから伝わってくる。ゆなさんもきっと、僕と同質の不安を抱えているみたいだ。それでも逃げずにいる。そうか、僕がやろうとしているのは逃げなんだ。唐突かもしれないが、そう感じた。

「――ごめん。怖かったんだ。行こう」

「わたしも。いっしょだよ」

 星が見え始める。しかし、長く見つめている時間はなかった。僕らは歩き出す。




 Ⅷ


 フロントは無人だった。タッチパネルで空いている部屋を取る。その後、ちいさな窓口で料金を払い、鍵を受け取る。それから部屋に向かったが、道中、誰とも出会うことはなかった。

 部屋に入る。僕とゆなさんは荷物を部屋の端に置くと、ベッドのうえに座った。大きなベッドだ。おそらくダブルベッドだと思う。それがひとつあるきりだ。

「このベッド、回るのかな」

 ゆなさんは笑いながら室内をきょろきょろと見わたした。

「やっぱり、こういうのもあるんだ」

 ゆなさんが手に取ったのは、おそらくはコンドームだろうと思われた。どうやって使うのかはわからない。やはりかぶせるのだろうか。

「まあ、いらないね。大丈夫」

「どうして」

「大丈夫なの」

 なにがどう大丈夫なのかわからない。別の不安も出てきた。

 それはともかく、今日は一日中歩き回ったのだ。身体を洗った方がいいような気がする。

「シャワー、どっちが先になろうか」

「いっしょでいいよ」

「でも、心の準備が」

「そんなの準備してたら時間が来ちゃうよ」

「う、うん」

 僕は言われたとおりに服を脱ぎ始める。シャツのボタンを外しながら、ゆなさんの方に目をやる。やましい気持ちがあった。しかし、背中しか見えなかった。シャツは脱がれていて、ちょうどブラジャーを外すところだった。その視線に気づいたらしく、ゆなさんがこっちを見た。

「あっ――恥ずかしいから向こう見ててよ」

 言うとおりにした。なんだか笑えてきた。とっとと服を脱いでしまい、先に浴室へと入る。どうせそのうち見られてしまう。なら、もういつ見られてもいいじゃないか。僕はそのように開き直り始めていた。湯船は空だ。シャワーで湯船と身を軽く流したあと、蛇口から一気にお湯を流し込んだ。浴槽の底で、湯が弾ける。すぐに水位は上昇を始めた。

 張られた湯に向かってまた湯がおちて、小規模ながら滝のような音を立てている。僕はしばらくその音に耳をかたむけていた。音色は次第に変化していく。立ちのぼる湯気が視界をぼやけさせていく。脈打つ心音が聞こえる。すばやく強く。

 戸の開く音がした。閉まる音はなかなか届いてこなかった。

 やがて、閉じた。

「ねえ、綾川くん」

 それから数秒、時間があった。

「なに、ゆなさん」

 問い返す。

 会話は続かない。

 湯の音。湯煙。

 沈黙の時間は続く。

 いつまでもは、続かない。

「綾川くん。それ、どうしたの」

 どうもしない。さらりと答えられれば楽だ。しかし、そうもいかない。そういうものではないと思う。僕がこうされる理由というのは確かに存在している。それがゆなさんといつまでも交わらずにいられるとは思えない。

「事情があるんだ」

「――それをやったの、誰なの」

「学校のひとじゃないよ」

 湯はだいぶたまってきている。僕は湯を止めた。

「じゃあ、ひとりしかいないじゃない」

「僕の家のこと、知ってるんだ」

 浴室では声がよく響く。

「だって、好きだもん。なんでも知りたいって思うよ」

 僕はシャワーを手に取った。鼓動は不思議と鎮まっている。

「じゃあ、聞いてもらってもいいかな。僕の家のこと」

 僕は振り返る。そこには一糸纏わぬゆなさんの姿がある。スレンダーな体型で、なめらかな曲線を描いている。ちいさな胸は、掌に収まりそうなほどだ。僕はいますぐにゆなさんを抱きしめてしまいたい衝動を感じたが、歯を噛み締めてこらえた。こらえるべき感情ではないかもしれない。だけど、自分の身体に刻まれた姉の事情を話すまでは、そうするべきではないとも思っていた。

「聞きたくなくなったら、言って欲しい。そうじゃないと、いつまで続くかわからないから」

「うん。わかったよ」

 ゆなさんがそう答えてくれたことがありがたかった。僕は身体を洗いながら、まずは両親が死んだところから話し始めた。

 ――まず最初に死んだのは母だった。

 蜘蛛膜下出血が原因で倒れ、そのまま帰ってこなかった。あの日、はじめて父さんが泣くのを見た。そして、それ以来、二度と見る機会はなかった。それが中学一年のころ。

 父さんの方は高速道路で事故を起こして死んでしまった。これが中学二年の夏だ。もう思い出したくないことだから、細部の記憶は捻じ曲がっているかもしれない。けれど、それは確かに夏休み中のことだった。

 姉さんが手首を切ったのが、中二の終わり。

 それからすこしずつ姉さんの様子が変わっていった。僕のことを前よりも気にかけるようになり、むしろ、溺愛するようになった。愛の対象となる僕がそのような認識をするというのもおかしいものかもしれない。しかし、客観的に判断するならば、それはやはり溺愛と表現した方がいいとも感じる。あるいは、盲目の愛。所有欲の暴走。決して離したくない。絶対にいなくならないで欲しい。誰かのように、自分の許からいなくならないように、ずっと傍らに置いておきたい。

 しかしそれが不可能であることは姉さん自身もわかっていて、理性の部分では僕の自由意志を尊重しようとしている。いつまでも依存するわけにはいかない――わかっているはずだ、僕自身、姉さんに依存するのはもうやめたいと何度も思った――それでも、身体の奥深くはもっとも近い他者を求め、動く。それが心に対して体当たりを仕掛け、バランスを崩す。

 その崩れたバランスをもとの状態に戻すために、自分のなかに安心を抱くために、その攻撃は始まった。おそらく、そうだ。そうでなければ、あれがなんであるのか、僕には理解できない。だから、半ばそうであって欲しいとさえ思っている。

 しかし、作用に対しては必ず反作用が生じるように、暴力は加害者と被害者に対して等しく同じダメージを与える。自覚できるかできないかの差はあるが、その絶対量は蓄積されて消えることがない。

 暴力を振るえば振るうほどに、姉さんの足場が揺いでいくことは、いっしょに暮らしていれば否応なくわかる。それゆえ、余計にバランスを崩す。だから僕は、攻撃をする必要がないように――姉さんに心配をかけないように生きようと決めて、彼女を作らないようにした。あるときまでは、それがさほど辛いことだとは思わなかった。でも、身体が成長していくにつれて、異性に対して抗いがたい感情を持つことが多くなった。それは、肉親には決して抱けぬ種類のものだと思う。姉さんは確かに異性だけれど、かといって性的な欲望の対象にはなりえない。そういう気が、僕には起きない。タブーだという意識があるのかもしれない。

 笑われてもなにも言い返せないことだと、僕は思う。つまり、女の子とおつきあいしたいという気持ちに触発され、抑えていた自分自身の感情が抵抗を見せ始めた。

「だから」

 と、僕は言う。

「本当は、ゆなさんとのことも、断ろうと思っていたんだ。それが、どうしてもできなかった。ゆなさんのことを考えると、楽しくて仕方がなかったから。それで、姉さんのことを忘れてしまうことさえあったんだ」

「うん」

 ゆなさんは傍らでシャワーを浴びている。背中しか見えない。

「もう、なにをどう言えばいいのかよくわからない。けれど、とにかく、この痣はそうやってできたんだ。昨日も、姉さんに蹴られたりしたから」

 僕は笑った。そのつもりだった。

「ねえ、綾川くん」

 ふと気づけば、ゆなさんが僕のことを見ている。

「どうしてそんなふうに寂しそうな顔をするの」

 シャワーの音がする。それは床に直行し、豪雨のような音になる。

「いつもそうだよ。綾川くん、笑うときすごく寂しそうなの。ずっと見ていれば、そんなのすぐ気づく」

 音。続く音。湯煙。白くなる視界。再び音。音は途切れない。いつまでも続いている。唇同士が触れる。ただやさしく、甘く包み込むように。なぜだか涙が出そうだった。腕が背中を抱いている。肩や脇に触れた肌から伝わってくるものはなんだろう。姉さん以外からは得ることのできないぬくもりだった気がした。

 それが、離れていく。

「いつまでも逃げてちゃダメだよ」

 ゆなさんはそう言った。僕の瞳を見つめながら。

「そんなふうにしてバランスを取ったりって、絶対に違うと思う。だって、そうでしょう。暴力じゃ解決しないって、綾川くんだってわかってるんだよね。なら、逃げてちゃダメ。ちゃんとお姉さんと向きあわなきゃダメだよ」

 ゆなさんは弱く首を振った。

「だって、そうしないと、わたし、綾川くんがいなくなっちゃいそうで怖い。わたしだって、綾川くんのこと好きだもん。あんな寂しそうな顔してる綾川くんを見たくない」

「うん……」

「行こう」

 と、ゆなさんはやさしく言った。

「わたしがいるよ。勇気をあげる」

 僕はシャワーを取り、自分の全身を流した。そうしながら、目をつぶって黙想した。頭のなかにはなにも浮かんではいなかった。ただ、湯の流れていく様子を思う。

 しかし、自分の身体が、もっと熱い、抗えぬ、ただひたすらに暴走するだけの、ただひとつの思いに支配されつつあることもわかっていた。もう一度、あの感触を。それが欲しくて、ゆなさんの身体を引き寄せる。やわらかい肌のうえ、指はいたずらをするように動く。もっと、ゆなさんの感触を味わいたい。ゆなさんの全部を知りたい――もはや、そこにあるのは熱情だけである気がした。

 そして僕らは浴室を出た。

 



 Ⅸ


 じろり、と友人が僕のことを睨み続けている。食事が進まない。食欲が失せるからやめてくれと何度も伝えているし、そのときはやめてくれるのだが、十秒もすると元に戻る。

「ねえ、どうして」

「うるさい」

「うるさいって――それは僕の方が言いたいんだけど」

 ふう、と友人はため息を零した。髪をぐしゃぐしゃとかきあげる。

「なあ、綾川」

「なんだよ」

「俺に勇気をくれ」

 僕は弁当に集中した。

 あの日以来、姉さんは比較的安定している。今週末にはいっしょに出かける約束もした。

 僕はいままで、姉さんの攻撃に抵抗しようとは思わなかった。抵抗すればどうなるのかと考えると、怖かったのだ。でも、なにもしなくても、姉さんは手首を切った。その原因が自分にあることはわかってはいる。だけど、僕はゆなさんのことを諦めたくはないし、現状をいつまでも維持することが最善とも思えない。

 だから、次に姉さんが攻撃をしようとしたとき、そのときこそ、僕はいままで通りではなく、もっと別の方法を取ろうと決意していた。とにかく、強くなければならない。負けない強さではない、勝つ強さなのだ、と僕は思う。負けないようにしているだけでは、制限時間が過ぎてしまう。そうなれば、戦いは両者の負けで幕を閉じる。そんな気がするのだ。

「ああ、このままではいかん」

「本当にどうしたんだよ」

 友人の様子は尋常ではなかった。あーだのうーだのと言いながら取り乱すその姿は、まるで演劇でもしているかのようだったが、彼は演劇部ではないし、そうなると本気ということになる。独りでそうやっている姿は哀れでさえある。

「そう、俺はただ勇気がほしいんだよ」

 と、彼は言う。

「お前に相談することではないということだけは瞭然としている。それだけが確実に諒解されている。それゆえこうやって悩んでいるわけだ。それでもあえて助けを乞うとすれば、やはり、勇気をくれとしかいいようがないんだ」

「それはわかったけど、具体的にどうしたかぜんぜんわからないよ」

「頼む。なにも聞かずに勇気だけくれ」

「どうやって」

「知らん」

 もはや会話に継続の余地はない。

「がんばって」

「ああ」

 放課後、いつも通り姉さんを待つ。待ち始めてからいくらもしないうちに姉さんは来た。ただ、その表情はどこかがおかしかった。曇っているわけではないのだが、おちつきがない。どうしたのだろう、と思っていると、姉さんが言った。

「ごめん、みぃや。先に帰ってて」

「えっ」

「こんな手紙をもらったの……」

 姉さんが差し出した手紙は、簡潔な一文のみで構成されている。午後四時、A棟の屋上扉前で待っています。それ以外にはなにも書かれていない。差出人は、あなたを思っている者とある。それらの字はすべて手書きだったが、どれもこれもワープロで印字したかのごとく正確な筆致を持っていた。どこかで見たことがある気がする。だが、ピンと来ない。

 それはともかく、姉さんが呼び出されるなんて。僕は軽いながらもショックを覚えていた。姉さんは、恋愛には興味がありませんよ、という態度を取っているはずであるし、とにかく、そんな莫迦な。

 考えてみれば、姉が校内でどのような振る舞いをしているかということは、たまに廊下ですれ違うときや、姉さんと交わす会話からの推測でしか知ることができないのだった。後者に至っては実像ですらない。

「ごめんね」

 姉さんはもう一度そう言ってから、再び昇降口へと戻っていった。追いかけて相手の正体を確かめようとも思ったが、それは余計なことだと思うし、プライバシーを侵害しすぎている。

 仕方がなく、ひとりで家まで歩いていく。気持ちがそわそわする。姉さんが告白されるだなんて――それで、もしも運命の出会いなんてしてしまったら、今度は僕の方がおかしくなってしまうかもしれない。姉さんが僕のことを見てくれなくなり、家でいっしょにいるときですらぼうっとした表情を浮かべる。

 家につく。鞄をソファに放り投げ、それと共に身をも放り込む。視界をてのひらで覆うと、ため息を零す。

 そのまましばらくそうしていた。

 これが、姉さんの味わった気分なのか。そのことに気づくまで、三十分かそこらはかかったように思われた。嫉妬だな、と僕は自分のことをあざ笑った。その心が強くなれば、確かに、心が乱れてもおかしくはない。

 でも、姉さんに恋人ができるとすれば、それはよろこばしいことのようにも思えた。まだ、そうと決まったわけではない。姉さんの男の趣味は、正直なところ、まったくと言っていいほどわからないのだけれど、姉さん自身がどこか戸惑っている様子だったし、そんなにすぐになにかがどうにかなるわけでもないだろう。それともそれは、僕の希望的観測なのだろうか。

 いけないな、と首を振る。これでは姉さんといっしょではないか。情けない。僕は男だ。ゆなさんだっているのだし、なにを恐れる必要があるんだ。しかし、その思考の流れ自体になにかおかしなものがあるようにも思えた。自分が動揺しているということに疑いの余地はない。

 姉さんが帰ってくるまで、僕は部屋のなかに引きこもっていた。なんとか気分を紛らわせようと音楽を聞いたり、テストの見直しをしようと試みたが、どれもこれもうまくはいかない。カレンダーを眺めてみれば、すでに今学期の授業日数もわずかとなり、一年の終わりが見えてきている。一年。長かったような、短かったような。思い出に焦点をあわせれば、きっと、長くなる。でも、そうしなければ、一気に駆け抜けたような気もしてくる。

 階下から振動。扉が閉まったのだろう。おそらく、姉さんが帰ってきたのだ。僕は場を放棄して駆けおりた。

 姉さんはソファにちょこんと座ると、机上のなにも存在するはずのない一点を見つめ続けていた。頬がなんとなく赤く、しかしそれは体調不良を訴えるものではないように思えた。恐れていたことが現実になったのか。僕はおそるおそる訊ねた。

「どうだったの、姉さん」

 十秒ほど、沈黙があった。それ以降も、続く。じれったくなり、また問う。

「ねえ、どうだったの」

「えっ」

 姉さんは、そこでようやく僕に気づいたようだった。

「幹也」

 と、姉さんは僕のことをしっかりと名前で呼んだ。

「鍛炭(かすみ)くんって、普段どういう子なの」

 姉さんがこちらを見つめてくる。

 相手は、鍛炭慧一か。僕は、今日の友人の様子を思い浮かべて、急に、笑いたくなってしまった。衝動が抑えきれず、声がもれる。勇気が欲しい。そうか、確かに欲しいだろう。僕に相談できないというのも、なるほど、相談なんてできるわけがない。相手が僕の姉では。

「どうしたの」

「いや、なんでもないよ」

「それで、どうなの。この前、いっしょにいたようだったけど」

「別に悪いやつじゃないし、むしろ、まじめでいいやつだと思う」

「そう」

 姉さんは僕の言葉にうなずくと、再び自分の世界のなかに入ってしまった。どうしようか、と僕は思ったが、それ以上どうすることもできなかった。まさか姉さんの思索を打ち砕こうと騒ぐわけにもいかない。仕方がなく、お茶をいれておちつくことにした。本当にそうできるかはわからなかったのだけれど。

 結局、姉さんは自分の世界から抜け出すことができないまま時間が過ぎ、今日は姉さんの当番だったはずの夕食は、僕によって作られた。

 姉さんは僕の誘導に為されるがまま食事をとった。途中でご飯茶碗にジュースを注ごうとしたり、空気を箸で掴み取り口に運んだ。別の意味で重症だ、と僕は頭を抱える。あいつめ――と僕は内心で毒づく。かすみ、などという読み方をするから、どうも女っぽくていけないと思うが、彼はどこにも女らしいところなんてない。心のなかで変な感じがするから、彼のことは、彼、あるいは、友人、としか普段は意識しないようにしているが、ここに来て、そのままではいられないな、と感じるようになった。鍛炭慧一め、と、その名を強く意識する。信用できない相手ではない。むしろ、姉さんのことをよく考えてくれそうな気がするし、任せたぞ、と声をかけてやれる相手だと思う。理性では、そう思っている。

 それでも、どこか複雑な思いはあり、すぐに割り切れそうな気はしなかった。

 しかし、僕はやはり、姉さんが恋をするのならば、その邪魔をしたくない。自分がそうされれば確実に嫌な気分になるし、それは証明済みだった。加えて、姉さんには自分と繋がっている人間が足りないのではないかという疑いもあった――すくなくとも、僕という人間を失うと瓦解してしまうくらいに、心の支えは脆弱だ。

 だからこそ、その支えとなる他者がいまこそ必要なのではないか。僕はそう考える。もっとも、本当にそうであるかなんて、わかりはしないのだけれど。

 あれこれと考えていても仕方がないことか。食器洗いを終えた僕は、風呂の準備に向かった。あとは時間の経過に身を任せるしかない。

 姉さんが日常生活に支障のない状態に復帰したのは、互いに風呂を終えたあとのことだった。僕は姉さんに呼ばれ、机を挟んで相対した。

「幹也、ひとつ話があるの」

 パジャマ姿の姉さんは、僕の瞳をしっかりと見据えた。狂気の混じらない、澄みきった目をしていた。だけどどこか張り詰めており、それゆえに強い決意のようなものがあるのだと思わせる。

「なに」

 と、僕は畏まって問い返す。

「お姉ちゃん、鍛炭くんとつきあってみようと思うの」

「うん」

「だから、幹也には、それをちゃんと言っておきたかったの」

 姉さんの視線が一瞬だけ逸れた。その意味を考える間もなく、再び視線同士は重なる。

「だって、お姉ちゃんと幹也は、もうたったふたりの家族なんだもの。だから、隠しごとはしたくないの。でも、それはお姉ちゃんがそう思ってるだけかもしれないし、お姉ちゃんが誰とどうつきあうとも、幹也はどうとも思わないかもしれないね」

 そんなことない、という言葉が喉から先に行くことはなかった。

「じゃあ、お姉ちゃんはもう寝るね。なんだか、考えすぎて疲れちゃったから」

 姉さんは微笑みを残し、リビングからいなくなった。

 記憶に焼きつくその笑みは、はたして本当に僕に向けられたものだったのか。いままでにない、希望に満ちた光を見た気がする。

 やはり、そうそう腑に落ちるものではない。あんな笑顔をさせてあげることは、僕にはきっとできなかった。そう思うだけで、悔しくて仕方がない。

 ゆなさんとのメールのやりとりにも、身が入らなかった。そんな僕のことを気遣ってくれているのか、最後のメールにはこうあった。

 ――悩みがあるなら、なんでも言ってくれていいんだからね。

 その夜はずっと天井を見つめていた。暗闇に慣れた瞳は、電気の消えた蛍光灯の丸い輪郭を見る。枕元に置かれた目覚まし時計の影を見つめる。カーテンの隙間から零れる夜の雫の色を感じる。この世界で、僕にできることなんてさほどのものではないのだ。たとえばこの闇を人工灯のように打ち払ったりはできない。自分の心を自分で晴らすことはできない。自分のことを抱きしめて、自分の熱を逃がさないようにすることだって、毛布がなければできないかもしれない。そんな無力を、他の誰でもなく自分が笑っており、同時に、嘆く。はやく眠ってしまえばいいのに、それすらもままらない。自己嫌悪の渦の最中に巻き込まれ、僕はひとつ、絶対に言わなければならないことの存在に気づく。それを、どうやって伝えよう。

 なんでこのことがわからなかったのだろう。

 重要なのは、まさに、それだったのだ。

 翌日、僕はあわてて階下におりた。が、すでに姉さんがお弁当を作ってくれていた。おはよう、と姉さんが笑うのに、僕は、おはよう、と返した。

「昨日はごめんね。お姉ちゃんがぼうっとしていたから、夕飯まで作らせちゃって」

「いや、いいよ。そういうことは、誰にだってあると思うし」

「うん。ありがとね」

「僕も、ごめん。寝坊しちゃったよ」

「それだって、誰にでもあるんだよ」

 準備を整え、学校へと発つ。

 廊下で、ゆなさんと会った。おはよう、と挨拶を交わしたあとは、自然に並んで歩いていた。歩調をあわせるように意識して、そうしていると、ゆなさんの方に視線が引っ張られ、いつの間にか目があってしまい、すぐ逸らす。

「ねえ、ゆなさん」

 と、教室も間近に迫った場所で僕は言った。

「どうしたの」

「僕、勇気を出してみることにしたんだ」

「そっか。がんばってね」

 教室に入るや否や、僕は鍛炭の席を見た。ちょうど彼もこちらの様子を窺っているところだった。

「よう、幹也」

 彼は僕を避けることなく見返してくる。僕も同じようにする。

「鍛炭。ひとつ、言っておくことがあるんだ」

「なんだ」

「姉さんのこと、頼むよ」

 すると、彼はすこし顔を赤くした。眉が顰められる。

「言われなくとも、そうするさ。オーケイがもらえたらだがな。――なんで知ってるんだ」

「そういう家柄なんだ」

「そうか――頼むって、お前、先に結果を言っているようなものじゃないか」

「さあな。からかったのかもしれない」

 鍛炭は舌打ちをすると、それから、クックと笑った。

「そういうことにしておく。ああ、不安だ不安だ」

 照れ隠しか、彼は僕とはまったく別の方角に身体を向けて呟いた。男女関係にやや純真すぎるきらいがあるが、僕の言えたことではない。でも、誠実なところがあると思うし、そうでなければ、僕だって任せたなどとは言えない。

 あとは、僕だけだ。ずっと言えなかったことを姉さんに伝える。自分がゆなさんという女性とつきあっていることを、しっかりと告白しなければならない。ゆなさん、僕は、きみにもらった勇気をそのために使う。

 始業のチャイム。




 Ⅹ


 その日の空は澄みわたり、あらゆるものが白い陽射しで輝いて見えた。

 僕と姉さんは駅ビルの渡り廊下にあるベンチに座り、外の風景を眺めていた。地上六階。その先には特になにがあるというわけではないが、しょうしょう歩き疲れた僕たちにとっては、ちょうどいい休息の場所だった。

 約束通りの、週末の外出。しかし、今後はこういうことがなかなかできなくなるかもしれない。そう姉さんは言った。まだ自分が相手のことを好きになれるかはわからない。だけど、話してみた感じでは、きっと大切にしてもらえる。そう思ったのだそうだ。それから、次のようなことを言った。決して僕が姉さんのことをないがしろにしているとは思わないし、むしろ、よくがんばっていると感じている。そういうことではなくて、家族以外のひとが自分に好意を向けてくれるという感覚が、とても新鮮で、あたたかい気がした。そこまで言って、姉さんは笑った。

 家族にしか埋められないものは確かにあるけれど、家族からは得られないものもきっとあるんだよ。

 僕はそれにうなずいた。

 言わなければならないことがある。

 僕は隣にいる姉さんに話しかけた。

「姉さん。僕、姉さんに謝らなきゃいけないことがある」

「なに」

 姉さんがこちらを向いた。僕は恐れを噛み殺し、姉さんの瞳を見つめ返した。

「僕、実は、つきあっているひとがいるんだ」

 室内には風など吹かない。暖房はよく効いており、歩き回った身にはむしろ暑いとすら感じられる。通行人はまばらで、この場所には僕と姉さん以外にはひとつかふたつの影が見られるだけだった。

「だいたい、そんな気はしてたよ」

 姉さんは、フフ、と笑った。

「幹也はね、ひとのことを考えすぎるの。もっと楽になっていいんだよ。確かに、お姉ちゃんは幹也が女の子のおつきあいしたりするのは、ちょっと、嫌なの」

「うん……」

「でもね、お姉ちゃんだって男の子とおつきあいするって決めたんだし、やっぱり、好きだって気持ちを抑えるのは辛いと思う」

 僕はなにも言わず、窓の外、はるか遠い地面を歩くひとの動きを見た。

「もう、わたし、幹也に心配かけたりしないようにがんばるから、幹也も、あんまり気負いしないように、なんでもお姉ちゃんに言ってくれていいんだよ。嫌なら嫌って言っていいの」

「うん」

 姉さんはすべてを言い終えると、僕の頭をなでてくれた。僕は姉さんに身体を預ける。携帯電話が振動し、おそらくはゆなさんからのメールだと思ったが、いまだけはそれに反応する気が起こらなかった。

 静寂がある。ときおり通り過ぎる足音がそれを破る。それもやがては気にならなくなり、ほのかな暖気が僕を包み込んでいるような気がした。たったふたりでは、生きていくことは難しいだろう。それでも、いまはただふたりだけがいればいい。そんな時間もある。窓の外には冷たいビル風が吹き荒れ、空高く枯葉が舞う。それも力強い陽射しのなかに溶けて、一枚の羽のように見える。手を伸ばせば届きそうだ。かざしたてのひらのなかに、白い光を掴み取る。

 僕は、このぬくもりを忘れない。

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