番外編

そして、フレンヌは‥‥‥(聖女は、高らかに笑います)

 その日、王太子ルディの元から魔導師の塔に戻ったばかりのフレンヌは、頭上で凄まじい破壊音を聞いた。

 義理の父親が天空に係留された飛行船のなかで、教皇から税金を受け取るのだ、という報告を聞いたばかりだった。


「なにごと?」


 叫んだ彼女の質問に、答える者はいなかった。


 同時に体を揺さぶる凄まじい振動と、それらによって全身が部屋の壁に打ち付けられる。

 フレンヌは咄嗟にその衝撃を魔法で四散させるが、間に合わずにぐっ、と呻いた声を漏らした。


 あいつだ。

 あいつが来たんだ。

 フレンヌは、痛みによって意識を失いそうになるがぐっと耐えてそれを我慢する。


 ‥‥‥カトリーナがきた。

 追い出した側にとって、それは恐怖の幕開けだった。



 ゴゴゴゴゴッとこの世のものとは思えない、叫び声がした。

 それは生き物の物ではなく、無機質なものの断末魔。

 魔導師の塔が、天空から落ちてきたとんでもない質量を持つそれに押しつぶされそうになって、最後の悲鳴をあげたのだった。


 天井が崩れ落ち、壁紙ははがれ、窓枠にあった窓ガラスは最初の衝撃で砕けてしまい、室内に四散する。

 その上に、フレンヌの身体は放り出されてしまい、したたかに全身を打ち付けた。

 顔や背中、むき出しになっている二の腕や、太ももがガラスの破片やバラバラになった木材の破片で切り裂かれる。


「うそ……っ!」


 フレンヌは悲鳴をあげようとしたが、それよりも早く二度目の衝撃がやってきた。

 視界の中にあった様々な道具類や書物があっという間に消えてしまい、残像のようになって自分一人だけが見知らぬ場所に立っていた。


 そして、また地面へと叩きつけられる。


「あぐっ! ぐっ‥‥‥」


 それはまさしく、裏切りにあった聖女のたまりにたまった怨念の塊が、見えない衝撃の壁となってぶつかってきたようだった。

 目の前に、視界の奥に、まぶたの裏側にそれはいきなり来た。


 ゴガっという、筋肉と骨がこすれ合い、ぶつかり合って肉体の中に鳴り響く打撃音。

 耳の奥には内外、二つの音が響き渡る。

 ガリっと聞こえた激しいそれは、まさしくこの世で最低の痛み。


 そんな感じだった。


「くっ、あの‥‥‥女ッ!」


 口の中で呪文を唱える。

 治癒魔法、回復魔法、それに加えて、これからどんな衝撃がやってきても自分の体を守れるように、結界を張り巡らせた。


 それは宮廷魔導師の中でも、一、二位を争う腕を持つ、フレンヌだからこそできた芸当だった。

 意識が明瞭となり、視界の中を覆っていた痛みという名の靄がどこかに消えてしまう。

 ガラスの破片などによって作られた体中の切り傷があっという間に回復し、衝撃によって体のなかから飛び出しそうになっていた内臓が、どうにかまともに動き出した。


 フレンヌは素早く周囲を確認する。

 仲間の魔導師たちが、そこかしこに衝撃に耐えきれず意識を失って倒れていた。


 中には、死んでしまった者もいるかもしれない。

 そう思うと、心が一気に冷え込んで寒くなった。


「ふざけるな! こんなこと許されていいもんかっ、あんな女なんかに!」


 将来の王太子妃補は、自分をこれまで支えてくれた仲間を、一人でも失うことを良しとしなかった。

 自分が持つ魔力が許す限り、防御するための結界を彼らの周囲に展開し、さらに襲ってくるかもしれない衝撃に備える。


 誰一人として殺してたまるものか。

 彼らの命を守ってこそ、自分は将来の王妃になるにふさわしい。

 そう、自分を激励しながら、今度は魔力の消費によって意識が遠のきかける。


 ドドドドドドっと足元が激しく揺れる。

 地震か? と空を見上げたら、魔導師の塔を破壊して地表にめり込んだはずの、巨大な赤い宝石のような輝きを放つ球体が、ブルブルと振動を始めていた。


「今度は何? 魔導師の塔を破壊しただけでは飽き足りないって言うの?」


 悲鳴が口をついて出る。

 一瞬の意識のゆらぎが、防御結界を薄くしてしまった。

 その合間に、事態は最悪の展開を迎えようとしていた。


 ふわりと赤い球体が宙に浮きあがる。


 まるでそこだけ、重力から解放されたような、異様な光景だった。

 そいつは振動を止めると、ゆっくりとそれから凄まじい速さでその場で回転を始めた。

 圧壊した魔導師の塔の残骸をさらに細かく惜し砕く。

 続いて、他にもある八本の塔のうち、王族が居住する塔に進行方向を変えた。


「殿下ーっ!」


 次に赤い球体が何をしたいのかが、フレンヌには分かってしまう。


 復讐だ。

 聖女の名をもつくせに、あの女は醜い復讐をするつもりだ。

 あの赤い球体‥‥‥。

 後になってそれは女神の宝珠だと、ガスモンに聞かされたそれを使い、王国の中枢である王宮を蹂躙し、見えない拳ですべてを殴りつけていくつもりなのだ。

 

 標的は‥‥‥彼女を裏切った二人。

 王太子ルディと自分の命を奪うまで、その怒りを止めるつもりはないのだろうと、フレンヌは思った。

 バリバリバリバリ、と雷鳴が天空へと響き渡る。


 爆発が起こり轟音が響き渡り王族の塔は、紙や泥で作った置き物のようにあっさりと崩壊した。

 勝負にならない。

 力そのものが比較にならない。

 これではまるで神と地を這う蟻みたいだ。


 あっさりと踏みつけられて、何もかも、灰のようになるまで燃やし尽くされて、消されてしまうのだろう。


「……なによ、これ。こんな力があるんだったら、どうしてもっと早く来なかったのよ! どうしてもっと頑張って王国のために殿下のために尽くそうと思わなかったの、カトリーナ‥‥‥」


 これほどの魔力を操れるのならば、寝たきりにならなくても、結界なんて維持できたはずだ。

 健康を犠牲にしてまで王国に尽くさなくても、もっともっと別の方法を考えて彼の心を失わないようにしても良かったはず。


「どうして。どうしてそうしなかったの。どうして、あの人の心を裏切ったの‥‥‥」


 カトリーナが聞いたら、裏切ったのはあんたたちでしょう! と言いそうなセリフだった。

 自分が一番正しいと思い込み、被害者の顔をするフレンヌらしい言動だった。


 フレンヌは目尻に涙を浮かべる。

 聖女にした仕打ちを悔やむものではなく、仲間を巻き込んでしまった申し訳なさが生んだものだった。


 どうしようかと、フレンヌはあちらとこちらを交互に見る。

 殿下の元にさっさと向かい、彼をカトリーナの報復から守らなければならないのに。

 今はそこまでの余裕がない。


 魔力がそこまで残っていないのだ。

 体力も弱っていて、精神的にも誰かに助けてくれと、叫びそうなほどだった。

 それに‥‥‥ルディはもう生きていないかもしれない。

 あの惨状を目の当たりにしたら、中にいた人間たちが生きているなんて、希望をもつことは無駄なように思えた。


「殿下、殿下‥‥‥私、どうして‥‥‥」


 どうして戻ってきてしまったのだろう。

 あのまま、彼の側にいれば、身側になって守り抜くこともできたのに。

 いまではすべてが無駄になってしまったような気がした。


 このままここにいれば、仲間を守ることはできるだろう。

 あの球体が勢いはそのままにこちらに向かって来なければ。

 だけど、一番大事な人を失ってしまった。

 

 それはどことなく確信めいたものとない、フレンヌの抵抗する心を溶かしていく。


「ルディ‥‥‥」


 茫然自失となり、ふらふらと力のないままにフレンヌは立ち上がる。

 その立派な尾はしなびた野菜のように薄くなってしまって、すすとほこりにまみれていた。

 かつて奴隷であったことを忘れないように、助けてもらった恩を返すまではそのままにしておこうと決めた彼女の獣耳は変わらずズタズタのままで、いまはそれが何よりも悲惨さに彩りを加えている。


 その場にカトリーナがいたら、フレンヌは狼の獣人というよりも、ズタボロになったネズミの死体のように見えたかもしれない。

 結界を維持しながら立ち上がることは困難で、四つん這いのようになっていた。

 地を這って死んだかもしれない王太子の元へと、行こうとしていたからだ。

 周りに伏せたまま身動きを取れない獣人たちは、息も絶え絶えで、すぐにでも死んでしまいそうなほど弱っていて、見捨てていけば必ず死にそうな気がした。


 王太子を取るべきか。

 それとも仲間を取るべきか。

 回復魔法を唱えれば、自分の意識は多分、失われる。 

 でも、仲間たちは救うことができるはず‥‥‥。


「く‥‥‥ッ」


 フレンヌのなかで、一瞬の迷いが生じた。

 それはそのまま、迷いからとまどいへと変わり、新しい疑問を彼女の胸に抱かせていた。

 何かがおかしい。

 あまりにも、被害が‥‥‥少ないのでは?

 そう思っていた。


「おかしいわ。どうして―ー」


 どうして、これだけの被害で済んでいるの? と。

 最初に魔導師の塔が倒壊したとき、これだけの被害で済むはずがないのではと、フレンヌは思い始めた。

 あれだけの高さのものが上から下まで瓦礫のクズとなって、崩壊した。


 それは凄まじい量の土砂の巻き上げや、煙や、粉塵といったものまであたり一面に撒き散らしたはずなのに。

 あったのは、人間の体では受け止めきれないかもしれない、衝撃だけ。

 それもたった一度。


 防御結界がなかったとしても、あの赤い巨大な球体が、王族の塔を倒壊させても、こちらには何もやってこなかった。

 地響きすらも生じない。

 あったのは、時間がゆっくりと流れたようにただ崩れていくその光景だった。


「どういうこと? 中にいた人たちはどこに行ったの‥‥‥」


 王宮には、常時、数百人に近い家臣が働いてる。

 こんなとんでもない事態が起こったなら、周りから悲鳴の一つ。

 逃げろ、とか。助けてくれ、とか。悪魔がやってきた、とか。

 そんな言葉はどこからも叫ばれないし聞こえてこない。


 獣人の耳をもってしても、誰の声も聞こえない。

 入ってくるのはただ、自分が守っている仲間たちのうめき声だけだ。

 ついでに、カラン、カランっと乾いた金属の音が無数に響き始めた。

 それは上からやってきて、地面やがれきに跳ね返って湧き上がる、そんな軽快な音。

 

「は‥‥‥? なに?」


 思わず上を見上げる。

 そこには雨が降っていた。

 ゆっくりと、なだらかな傾斜を滑り落ちるようにして、無数の金色のなにかが、落ちてくる。


 上空から燦然ときらめきながら降り注がれる、黄金の雨。

 雨、雨、雨。

 その正体がどこにでもあるような小金貨だと気づいたとき、フレンヌはようやく理解した。


 ―ー多分誰も、死んでいない。


 みんなはこんな目に遭うことはなかったのだ。

 自分の身に起きたこの状況は、本当なら自分だけに起こるはずだったのだ、と。


 どこにいるかわからないあの聖女は、王宮に復讐にやってきて、誰に向けてその拳を振るえばいいのかを、ちゃんと見定めていたのだ、と。


「……みんなを巻き込んでしまったんだ‥‥‥私のせいで」


 仲間たちは最初からこうなる予定ではなかったのだ。

 フレンヌがたまたま彼らの近くにいたから、カトリーナの怒りに巻き込んでしまったのだ。

 それは多分、婚約者も同じような目にあっているのだろう。

 もしかしたら、義理の父親も何か酷い目に遭わされているかもしれない。


 どちらにせよ、カトリーナは多くの犠牲を望んではいないということは確認できた。

 力が全身から抜け落ちていく。

 それは憎らしいけれど、安堵したからだった。


 それから、赤い巨大な球体は王族の住む塔を破壊しつくすと、宙に浮かび上がり、一瞬で姿を消した。


 あっけなく、あまりにもあっさりとしていて、これは悪い夢だ。

 そう思ったとしても、何も、誰にも責められないような。

 無力な自分を受け入れられない状況がそこにはあった。


 彼は生きているだろうか、殿下‥‥‥ルディ、無事でいて。

 心がそう叫んでいる。

 もう一度、大事なあの人に会いたいと、心の底から望んでいた。


「ああ……動いて、お願い‥‥‥」


 しかし、身体は反応しない。

 仲間に施そうとしていた最後の治癒魔法。

 それを使おうとしても、もはやかなわないことにフレンヌは気づいた。

 安堵して、心が安らいて、最後まで振り絞っていた気力が和らいだせいで、それは霧散してしまったのだ。


 動こうとしても、もはや魔力の方がなくなりかけていて、体を動かすことすら苦しい。

 もう何も考えずに、目を閉じて深い眠りの中に逃げ込んでしまいたい。

 それは許されないことだったけれど、一瞬でも心の中でそう思ったことは嘘ではない。

 結局、他人のものを奪おうとして、誰かの好意を利用しながら、自分だけ幸せになるように生きたことそのものが、罪だったのだ。


「……ルディ‥‥‥ルディ‥‥‥」


 遠いどこかから暗闇がゆっくりと這い寄ってくるのを、フレンヌは感じていた。

 それは休息という名前の悪魔で、飲み込まれてしまったら、大事なものを永遠に手放してしまうかもしれない未来が、その先には待っているようで。


 でも、抗うことができず、フレンヌはそれに呑み込まれてしまった。

 そして、耳の奥に聞こえるはずのない幻の声が響いてくる。


「あなたに私の代わりは務まらない。残念だったね」


 それは、自分が裏切った幼馴染の声だった。


「でも、全部奪うなんて馬鹿馬鹿しいから、あなたにあげるわ。あの軽薄な王太子も一緒につけてあげる」


 馬鹿にするな、ふざけるな、お前なんて死んでしまえばいいんだ。


 心でそう叫ぶも、それは相手に届かない。


 一方的に聞こえてきた声は、アハハハっと勝利を確信したように、軽やかな笑い声を伝えて消えていく。


 最後に「結界はあなたが守りなさいよ」とだけ、付け加えられて。


 復讐を果たした聖女は、満足そうにそう言うと、どこかに消え去ってしまった。

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殿下、幼馴染の令嬢を大事にしたい貴方の恋愛ごっこにはもう愛想が尽きました。 和泉鷹央 @merouitadori

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